強烈で、鮮やかな、一瞬の輝き

Raymond

小説

11,620文字

ニール・ヤングの「だんだん消えてゆくより燃え尽きたほうがいい」からタイトルを付けました。
病院という閉鎖的な共同体の中での小説だが、終盤にシュールレアリスム的な方向に進む前衛小説。

こうやって振り返ってみると、初めにその男を見たのは一月の終わり頃の凍えるような夜のこと、それはまるで、カメラを構えてからその瞬間を時間から切り取った時に、予期せずに写ってしまったもの、シャッタースピードによって引き延ばされた存在。有機的な物が見せる一瞬の姿。そう言った、ぼくがそれを一瞬人間だと認識するのさえ難しいものだっただろう。旧館の215の病室には四つの寝台が淡い水色のカーテンを挟んで設置されていて──病室は奥まった短い長方形で、左右に二つずつ寝台は置かれ、奥の西向きの窓からは午後の光が優しく、おっとりと差し込んでいたのをぼくは覚えている。──、窓の際の寝台の上で一種の心臓病が原因で、僕は一年以上横になっている事を余儀なくされていた。

病室には一人の同室者がいた。僕と差し向かいの、扉に近い寝台に坐っている男子大学生だった。彼はつい一週間前にこの病室に移された。彼の大学では棒高跳びをやっているその無駄なものは全て無くなった脚、そのしなやかな、より高く飛ぶために使う筋肉がついた脚の片方には、大きな包帯が巻かれて間接のない一本の白い棒のようになっていた。練習中にあやまって着地の場所を外れ、地面の上に直に落ちてしまったことによる骨折だった。

「君は運動をしないのかい?」大学生は移ってきた初め僕に尋ねた。

「しないね」と僕は言った。

「きっとしたほうがいいよ。スポーツは人を健康にさせる。その健康さは身体だけじゃなくて、心にだって現れるんだ。僕はここに来てからまだ一週間も経ってないが、これから何日間か身体を動かすことなく過ごすなんて、考えただけで気が沈んでくる。僕はどうして棒高跳びをやっているのか今まで深く考えたことはなかった。それは僕の生活の一部だったし、それにあの踏み込んで空に浮かんで、バーを越えた瞬間の気持ちよさだけしか感じて無かったんだよ。それが今はこんなベットから動く事が出来ないなんてね、まるで地上の上だけに縛られているようだな」差し向かいの寝台にいる彼──その片足は白く大きくなっていて、それだけが宙に浮かぶことを諦めていないかのように、中途半端な、まるでそこには力かかっていないふうに二本の紐で宙に浮かんでいる。──はこの少し離れた距離を物ともせずに声を張り上げていた。

彼の話に興味が無かった訳ではなかったが、それは僕にとって別世界の光景、ここから確実に届かない風景をただ眺めるだけのようで、まるで友人が送ってくれた海外からの絵はがきを眺めるような感覚であった。僕の心臓は生まれつき弱かった。だから今まで心臓に負荷をかけてしまうような運動はしたことがなかった。

日曜日の午後、週に一度ぼくらは日光浴の時間がある。それはこの旧館の患者達は各階のベランダに寝台ごと並べられ、まるで弱った芋虫のように、昼下がりの陽光を浴びるのだった。ここの病院は空から見ると、大きな長方形の敷地の中に、それよりもう少しちいさな長方形の建物が囲われているように見える。病院の外苑は駐車場となっていて、そこから西側の森のなかに入るとそのままバラ園に続き、その先には真っ白な精神病院がひっそりと佇んでいるはずだ。日が落ちると病院の四方を囲った駐車場は暗闇で覆われるが、すこし広い間隔で並ぶ強烈な白い光を放出する背の低い電灯は自分たちの決められた範囲だけを義務的に照らしていて、その光の間を縫うように黒く冷たい空気は辺りに充満していた。

ぼくらの寝台が並ぶ二階のベランダには、僕と大学生以外に身体のどこかに欠陥を抱えた五六人の若者がいた。その中の一人の女の子はいつもベランダの隅っこのほうの寝台に寝かされ、サガンやカポーティなどを読みながら、二月の陽差しだけは春に近づいて来ているその光に遮られてまぶしそうに目を細くしていた。ベランダからは高台の上に立てられている病院だから、右側にはバラ園に繋がる森が続き、その森が崖となって終わるところには浄土真宗かなにかの寺があり、その横には数え切れないほどの墓地がびっしりと生えているのが見える。

病院の道路を挟んで正面に見えるガラス張りの介護センターは、認知症と認められて初めて入居の許可が下りる場所で、日曜の昼下がりには毎週お茶会が開かれているが、暗証番号を押さない限り、出ることも入ることも出来ない──昼間の施設内は夜のあの独特の緊迫感と違った穏やかな空気が留まっているのだろう。

そして森や墓地、介護施設の奥にはバス通りが横たわっていて、週の終わりには眩しいライトが暗い室内に入ってきてまぶしかった。バラ園の奥の真っ白な精神病棟だけは月光を浴びてうっすらと夜空に半透明だった。

 

大学生はくだらない男だと言っていいだろう。まずそのスポーツからくる活発さなのか、今までぼくは同じ階の人間とは、病気についてのこと詮索しない代わりに、自分のも詮索しないでくれというルールが存在していたのだが、そういったことを一気に取っ払ってテラスで横に並んだ芋虫みたいな人達に話しかけていた。

「僕はここに来る前に棒高跳びをやっていたんだ。きみ一度、神宮外苑の国立競技場に言ったことがあるかい? あそこに行ってみると、僕はいろんな歴史を感じるんだ。それは大戦中の学徒出陣やその後にオリンピックなどがあげられるけど。ぼくは去年の世界陸上を観に行ったんだ。あの熱気を思い出すとなんだか熱い物を感じるよ」

ぼくはそんなふうに大学生が話しかけて、それを、まるで東方に旅行に出かけた十九世紀の冒険家が話す脚色と嘘に満ちた話を熱心に聞くヨーロッパの民のように、自分の知らない輝かしい経験を珍しそうに聞く彼より若い高校生やや中学生が無言ながら熱心に話をきくのを、片耳で聞き取り、やはりくだらないなと思いながら、二月の陽光を浴びて眠りの海へベットごと沈んでいった。

その夜も、二月の変わらない夜であった。二階の病室の窓からは遠く駅と繁華街が並ぶ光の眩しいバス通りが森を切り裂いていた。その前には、バス通りとこちら側を乖離させているかのように暗い森が茂り、その中腹にはぽかんと森が裂け、真言宗の寺と物言わぬ墓石が闇の中に蹲っている。賑わう大通りからの乖離、ぼくらの病院とその間にある森と墓地、それはぼくの中に一つの怠惰な獣のような、感情を肯定する手助けとなった。

 

街のネオンが森や墓地を越えてここまで届く、これは森の先にあるあのバラに囲まれた白く清潔な精神病棟でもそうなのだろうか。バラ園の奥にある真っ白な施設、施錠された連絡通路、そこには町の光が届くのだろうか。僕が病室でそう考えていると、ふと一つのイメージが浮き上がってきた。それは一つの病室で、寝台の横の窓は光を遮断するために木材を貼り合わせてある。その角材の大きさと窓の大きさが微妙に違い、そこから縦一筋の微かな光が入ってくる。そのわずかな光を、遮光から逃れた町の光を何もかも遮断されたその病室に住む、得たいの知れないものがのぞき込もうとする瞬間……。ふと、そこでイメージは途切れて、僕は眼下の駐車場を走る人影を見つけた。

遠い間隔で置かれた街頭の下では、青白い光は発光する木々のように自分達の周りだけを照らし出す。その光が届かぬ所では暗闇がとぐろをまいている。人影は直進しているようだった。ただ間隔の遠いライトの下にやってきた時に姿を現し、その反動で闇のなかへ潜った時には姿が見えなくなるが、だがまたぽっと現れては消えてを繰り返していた。紺色のウィンドブレーカーを着ていた。どうやら男のようだ。彼は結核病棟を過ぎて、こちらに向かってくるようだ。

闇の中を走る男を眺めていると、ふと昼間のベランダでの大学生の顔を思い出した。そしてあのいつも隅のほうで本を読んでいる彼女が興味深げに彼のことを見つめていたのも思い出し、窓の外を眺めるのをやめた。あいつはもう寝ているようだった。

ぼくはまたさっきのイメージの続きを想像しようと試みたが、それは中途半端な所で製作を止めてしまった絵画のように、どこから手を付けて良いのかがまったく判断がつかない状況になってしまった。

僕は夢をみた。

……病院の内縁を走っている。紺のウィンドブレーカーを着た大学生が、明かりの下では浮き出るように現れ、また闇に消えてゆく。その消えたり現れたりはまるでストロボで撮影を繰り返したかのようで、ぽっ、ぽっと同じ間隔で現れては消えを繰り返す。彼はそのままバラ園の中へ入ってゆく、手入れがちゃんとなされている二月のバラ園では冬の寒さとは何のことかと言うように、色とりどりのたくさんのバラが咲き乱れて、その甘い匂いは噎せ返るかのごとく、その空間に充満していた。彼はその中を走ってゆく。現れては消え、現れては消えを繰り返すその動作の連続はまるで呼吸をしているかのようで、二月の凍える月がかかる静かな森には心臓の音だけが広がっている。それはあの施設に近づけば近づくほど大きくなっているかのようで、ゆっくりとゆっくりとかれは近づいてゆく。施設の前にある噴水には、ローマの女神の像かなにかが建っていて、彼女は冷たく凍えるような月の光で濡れていた。噴水の縁には誰かが座っていた。それは紛れもなく僕であった。心臓が弱く走ることすらままならない、うつろな目をした少年の姿。それは紺色のウィンドブレーカー来て、現れては消えを繰り返しながらこちらにやってくる大学生にはどうみえただろうか? そしてかれが僕の目の前にやって来たときに、「やあ」と普段の患者服を着た彼がのぞき込んでいた。

「今日は午前中みんな検診で、午後は何の予定もないはずだろ? そのときここの病棟の人たちを誘ってゲートボールをしようと思うんだが、君も一緒にどうだい?」

「いや、やめておく」と僕は目をこすりながら言った。

「そうか、わかった。なら僕はこれから人を勧誘してくるとするよ」かれはそう言って、白い包帯で巻かれた片方だけ大きな足を浮かせながら、松葉杖をついて病室から出て行った。そのぎこちない動作には生気にみちていて、彼なりにここでの生活を自分のものにしようと努めているのだ。僕は廊下から聞こえてくる彼の松葉杖をつく、コツコツという音と昨日の、あのバラ園の中を走る彼のイメージの、ストロボのような動きの時に聞こえた鼓動の音を重ねてみた。その二つが紛れもなく彼自身のものであると確信は沸かなかった。あの鼓動の音は僕の弱い心臓のものだったのか。夢の中、バラ園の中に坐っていた僕は精神病棟の患者だった。そしてあの大学生は健全な身体を持つ「走る男」であり、街の喧騒の中から、森や浄土真宗の寺や墓場を越えてここまで走ってきて、僕は彼が紺のウィンドブレーカーを着てやってくるのを待っていたのだ。ふと、そんな考えが上ってきた。

その日の午後、あの大学生がこの病棟の若者達を集めて、病院の裏にあるゲートボール場に向かうのを僕は自分の病室の窓から見かけた。集まった連中のなかには僕が日曜日の日光浴の時間に顔を見たことをある者が三、四人混じっていた。僕は彼らの姿を鼻で笑い、寝台に横になった。あいつはこの病棟の雰囲気を変えようとしている。それがいいことか悪いことか判断は付けられないが、おそらく初めのうちはあいつが考えた通りに物事は進んでゆくだろう。だが、それから先あの連中が奴への酔いが醒めた時、そのあとはどうなるのか誰にも分からないはずだ。

僕は夜のあの「走る男」について考えている。一定間隔のストロボ走法、僕か彼の心臓の音、彼はあのまま僕の眼下を通り過ぎて、窓を右から左へと消えていった。右のあるのは、森だ。彼は森の中へ入ったのか、それとも迂回して、病院の敷地内を回っていったのだろうか……。いずれにしても、それから僕は毎晩この「走る男」の姿を窓から見る事になるのだが。

 

日が暮れて、二月の空が赤さびのような色をしてきた頃、廊下から彼の松葉杖のぎこちない音が聞こえてきた。

「やあ」と彼は言った。

「ゲートボールはどうだったかい?」寝台の上で本を読んでいた僕は、顔を上げて彼を見た。

「楽しそうにやっていたよ。ゲートボールというのはもともと若者のために作られたスポーツだからね。最初は転換のゆっくりしたゲームだと思っていたけども、なかなか熱くなれるものだ」

「そうかい」と僕は言った。

「僕は初めてここにやって来たとき、ここの病棟の人達が全員病人の顔、街に住む人々とは違った顔つきであることを感じたんだ。これは確かに病院にいる者達が病人の顔をしているのは当たり前のことなんだけど、僕が言いたいのは、彼らは自分が病人であることを自分で認めていて、また街の人間と自分たちは違った人間だと勝手線引きをしてしまっているように感じるね。

たしかに街の人達に比べると、僕らには出来ないことがいろいろある。だが反対に彼らと同じ風に考える事だって出来るし、彼らを同じようにものを言うことだって出来る。僕らは街の人々と同じなんだってことをぼくはこのゲートボールを通して実感させたかったんだ」

と彼はなにか崇高なものを眺めるかのように語った。その時彼の瞳の奥に街のネオンの光や喧噪が存在しているのを僕は見逃さなかった。ただ僕はその事について今は何も言うつもりはなかった。

その夜も、僕はあの「走る男」が紺色のウィンドブレーカーを着込んで駐車場へ入ってくるのではないかと、何気なく窓の外を眺めていた。大学生は身体が不自由な状態なのに昼間に運動をしたせいか、今日はいつもより早く寝息を立てている、これは、彼について行ったこの病棟の患者達も今日は僕より早く眠っているのだろうか、という疑問を僕の中に浮きあげた。照明を消した病室には昼間久しぶりに運動をした患者達が、心地よい気怠さを抱きながら眠りに落ちてゆく。ベランダの隅にいた彼女はもう寝ているだろうか。だが僕は彼女の名前すら知らなかった。病院の正門から人影が入ってきたのはその時で、かれは昨日と同じく駐車場を直進し、こちらへ向かってくる。街からこちらへやって来たランナー、彼は僕の病室の真下を通って、精神病棟のバラ園か病院の外縁かを通って、街に戻ってゆくのだろう……。

大学生が徐々にこの病棟の雰囲気を変えてきている事はここを担当している看護師や医師にはすぐ分かっただろう。なせなら、いまや彼のゲートボール仲間には若者だけでなく、もう少し歳の行った患者達も参加していた。また身体を動かすことの出来ない老人達は自分たちの寝台やサンルームから彼らの試合を眺めていた。彼の率いるゲートボール集団の若い連中は彼がヘッドであり、日曜日にはベランダでの日光浴がおわった後、病院の向かいにある監獄のような介護施設のティーパーティーに参加するようになっていた。彼らが病院の向かいの施設に入ってゆくのも、彼が松葉杖をつきながらぎこちない動作で正門を出て行くのも僕は病室から冷めた目で見ていた。

サンルームで見かけた彼女は、今日はモームを読んでいた。そして日が暮れた頃に彼は帰ってきて、僕はそれを廊下から聞こえるあのぎこちない杖の音で、その生気に満ちあふれたこつこつという音を聞いた。

「やあ」彼はいつもの生気に満ちた笑顔でそう言ったがその表情は病院にいる人間の表情ではなかった。遊び疲れて帰ってきて、僕に今日遊んだ内容を母親に伝えたい、そう言った小学生の子供のようだった。

「ずいぶんと楽しそうじゃないか」と子供にねだられていたお菓子をあげるような気分で僕は言った。西の窓からは二月の赤い鋭くなった光をさしかける太陽が扉の前に立つ大学生の体を血を浴びたように真っ赤にした。彼から見ると窓際の寝台に坐っている僕の姿は、真っ黒の影だけになっているだろう。

「たしかに」彼はそう言って松葉杖を使いながら自分の寝台に転がり込んだ。「今日僕はいろいろなことを改めて感じたよ。僕は昨日きみに僕たち病人は世間一般の人間とは別のものであって、彼らと同じ楽しみはおくれないと自分で決めつけていると話しただろ? 僕は今日機会があってそのことをみんなの前でいってみたんだよ。そうしたさ、どうなったとおもう? みんながそれは確かその通りだって僕の意見におおいに賛成してくれたんだ! 彼らが僕のこの意見に賛成してくれるのなら僕はよりこの雰囲気を広めていこうと思う。そしてこの病院全体がより開放的で人間として生きてゆける場所にしてゆきたいと思うんだ」

「そうかい」ぼくはまた冷淡な口調でそう言った。「そりゃ、良かったな」

「なあ、君。実を言うと、僕は君にもこうした運動に参加してほしいと思っているんだ。僕から見たら、君はいつも窓際に坐って外を見ているか、本を読んでいるかして、自分の中に閉じこもっているようだ。たしかに僕らの運動に参加しない権利だってある、だがもし君が意固地になって僕らの中に入ってこないのであれば、僕はそれをとても悲しく思う。なあ、君はそうやっていつも一人でいるが、なんのためにここにいるのかが、分からなくなっているんじゃないか?」彼の表情は堅く、その真剣さは一種の誠実さを感じられたが、その瞳の奥にかすかな街の明かりが見えた。彼から見ると真っ黒な影でしかない僕がいった。

「あんたは勘違いしてるよ。

「おれは君らのやっていることに混じりたいなんて一度も思った事も無いし、意固地になっているわけでもない。だいたいあんたは、そのゲートボール連中が、あんたが重度の骨折だがあと少ししたらここから出て行けることに気づいていると思っているのか? やつらは今、あんたの情熱に酔っているだけで、自分達の感情にしか目を向けていないんだ。どうせあと数日経って、あんたが退院する間近か、退院したあとになってやっと、あんたが元々病院の人間ではなかったのだと気づくんだ。ここにいる連中は、あんたと違って外的な一時の外傷ではなく、内的な身体の中の部品の欠落によるものだ。そう簡単に直るものじゃない。だがその中で場違いにも出しゃばったあんたは、ここの共同体に一種の希望を、それも偽りに満ちた希望を与えたんだ。というのは、あんたがこうして人を先導出来るのも自分が彼らとは違うという潜在的な意識があるから成り立っているんだ。そんな偽善者のやっている運動に参加するほど、暇じゃないんだよ、おれは」

太陽が西の南よりに落ちていった空は、徐々に紅から紫に染まってゆく。風のゴーっといったうなり声が室内を埋めていた。闇が寝台の下や部屋の隅に生まれてきて、僕らの周りを漂い始めて、いまや彼の顔も闇の中で紺色の中で少しぼやけて見える。彼は沈黙のまま寝台に入っていった。……これで僕はかれから完全に見放された訳だ。

 

その夜も「走る男」は正門から入り、窓の下を抜けてゆくのを暗闇の中で僕は見守っていた。

次の日からだ、大学生の病院の改革に拍車が掛かり始めたのは。彼は今まで病院側が行っていたがあまり人気の無かったイベントなどの参加を、ゲートボールの連中に促した。例えばそれは、自分達の病状について話し合う懇談会といったもので、主に違う病室の患者同士のつながりを厚くするためのものだった。ゲートボールの連中はこうしたイベントに、自分の知り合いや同室の者を誘い結果的にその数は増えていった。日曜ベランダは一種の知り合いの集まりとなり、前までの寝台に横たわる衰弱した芋虫のイメージはなくなり、週に一度同階の患者達との談話の時間となっていった。僕は誰とも話すことなく、遠くに見える週末の繁華街の人混みやそのまえに静かに横たわる緑地帯を眺めていた。晴れ渡った青碧の空には真冬の乾燥した大気が流れ、まだ南に登り切っていない太陽のさわやかな陽差しを差し掛けているが、ベランダの庇に切り取られて後ろの方にいる僕には、ちょうど膝辺りまでしか日を浴びることは出来なかった。

ベランダの前の方の寝台にはあの大学生が寝転んでいて、その周りには彼を尊敬する若者達が四方の寝台を占めていた。驚いたことに、その彼を周りの寝転ぶ者達の中には、いつも隅っこで本を読んでいたあの彼女の姿があったのだ。彼女は例のゲートボール集団と楽しそうに談笑をしているのを見ると、僕は本当に一人になってしまった気がした。彼女はもう本を読むのをやめてしまったのだ、という言葉が僕の中で響きわたっていた。

いよいよ病院側も彼について認め始めた。彼の活躍によって確かに病棟の雰囲気は昔とは変わって、開放的であり今まで内向的であった患者達は彼が来てからは、自分のデリケートな問題をも人に話すようになった。みんなに広がっている、その希望に満ちた開放的なものは実は大学生に根付く物であったのは確実である。そしてその彼も持つ独自の希望のような志は、彼女から本を取り上げ、その反対に彼との距離は縮まってゆうようであって、それを僕はいつも自分の寝台から彼らを眺めていた。そして彼がこの病院の院長から賞状を貰った夜に、ついにそれは起こった。

消灯後の病室で僕はいつものように外を走る男を眺めていた。相変わらず紺色のウィンドブレーカーを着込んでライトの下を走っている、彼の一定のはやさでの移動を僕は街の人間の動きと感じていた。それは病院の中では決して見る事の出来ない人間の動きであり、心臓の弱い僕にはとうてい出来ない行為であった。だが、いまやこの病院内にも大学生が持ち込んだ偽りに満ちた、街の光を患者たちは追い求め、自分達の情熱に酔っているだけのことだ。そのうえ彼は館長から感謝状を貰っていた。それは彼の情熱によって病棟の患者たちが自分達の事を前向きに考えるようになったことへの感謝の印であった。彼はそれを受け取ったあと、いろいろ謙遜をしながら自分がこの病院の役にたつことが出来て本当にうれしいといった趣旨の事を述べたのだ。

病室のドアが開く音が聞こえた。入り口の方見てみると、そこには、廊下のライトを背に逆行で真っ黒になっている小さな人影が見えた。

「やあ」と僕は大学生が落ち着いた小さな声で人影に答えた。

そして人影は扉を閉め、室内の闇の中に没し、彼の寝台の方へ近づく足跡が聞こえた。「あなたが今日、院長から感謝状を貰ったときいて、私、いても立ってもいられなくなってここまで来てしまったの」と、その声を聞いて僕は彼女だという確信を持った。「今夜はここで眠らせてくれないかしら?」と彼女は言った。それに答えて、「いいとも」と彼がささやくのが聞こえた。窓の外には晴れ渡った夜が黒い翼をめい一杯伸ばしていて、西の空のすぐ上に鋭い黄金の三日月がかかっていた。僕は彼らが粘着質のある音をたてるなか、その刃のかけらような月の欠けた中心をずっと眺めていた。「走る男」は窓の下を走って行った。

 

だが、彼の情熱はあっけなく終わった。それは今まで勢いよく出ていた谷間のわき水がある日を境に一滴も出さなくなったようで、見ている僕らにはどうしたのかが全く分からなかったのだ。そしてよくよく考えてゆくと、水が止まった原因は地震やなにかで水路が変わってしまったかのような、根本的な所に根ざしているのだと知った。原因は全くの本人の不注意であり、また必然の事故とも言える物であったし、それによって僕らには彼が今まで取ってきた態度の基本となる姿勢までもが露呈してきたのである。

大学生の松葉杖の使い方はとてもぎこちないものがあった。それはまるで精神は足で歩こうと意志を持っているのに身体がその指示についてこれない、この身体と心の差が彼の歩き方に表れていたのだろう。また彼はここに来るまでは運動選手であったので、ここに来てから鈍りきった身体と過去の身体の性能を同一の感じていたのだろうか。いずれにしても、これは彼の街での生活とここでの生活の異差から生まれた物で、彼は自分を病人というレッテルを貼っていなかったということになるのではないか? 彼が松葉杖の操作を誤って階段から落ちたのは、仲間達と共にゲートボールに向かう途中で、彼が二階の階段の一番上から転がり落ちたのを見たん仲間達はあわてて彼を助け起こし、看護師を呼びに行ったのだ。その中でも彼と一夜を共にした彼女の顔は蒼白そのものだったという。彼はすぐに手術室へ運び込まれ、仲間達は彼を心配し、一日でも早く彼が新しい生活を開始できるようことを望んでいた。

手術はその日に終わったが彼は背中を強くぶつけていて、両側の足が全く動かなくなっているのをその日に知った。僕の病室には本当に多くの人が彼の見舞いにやって来た。その多くはこの病棟の患者達で、彼らのモーセであった大学生が事故により悲劇的な結末を得て、また彼らの酔いがましたからだろう。

 

「やあ」今回もかれは優しい声で僕に挨拶をした。「僕はようやく君が言っていた意味が分かったよ。これで僕も本当に君らの仲間入りってわけだね。そう思うと、今までの僕はやはり君たちと自分を区別していたんだ。それがいあまになって分かったよ。背骨を強くったせいか、僕の両足はもう動かないんだってさ。笑っちゃうよな、何にもならない邪魔な物が二本も付いてるだけになっちまったさ」

「そういったことはあまり考えないほうがいい」

「その通りだな。全くその通りだ。そのことについては何も考えず、何も話ない。これがいちばん良い薬だ。やっと分かったよ。僕はいままで自分を彼らと違う者だと思っていたんだ。そしていまになって彼らと一緒になったわけだ」彼は言った。そして続けて話す。

「希望ってものは、かんたんに誤魔化して作ることが出来る物なんだな。おれは今までそう言ったもの作り続けていた訳だ。哀れな子羊たちを導いてしまったんだ。ああ、ぼくは今まで彼らと自分を区別していたんだ……」

 

その夜、僕はいつものように「走る男」が病院の正門から入ってくるのが見えた。風の強い夜で、真っ黒い森はざわめきその上には静かに星が眠って居る。窓ガラスはがたがたと揺れて、「走る男」は紺色のウィンドブレーカーをなびかせながら、ライト下をこちらに向かって風になびかれながらも直進していっている。いまやそれが僕に与えてくれる唯一の街のイメージだ。彼はこちらに向かってやってくる。背中には街の明かりを乗せて……。

気がついたら、僕は自分の寝台から抜け出て廊下に飛び出した。そのまま大学生が転げ落ちた階段を勢いよく降り、そのままエントランスを抜けて外に出た。僕は走っていた。心臓が早くなるのを感じて、ふと自分の心臓が爆発するイメージが浮かび上がった。しかしその恐怖と男の走るイメージが頭に重なり僕の足は彼と一体になるように、止めることはなかった。またそれは大学生の足とも重ねていたのだろう。

久しぶりの夜風は想像よりかなり冷たいものであった。黒い風は閉じた玄関にぶち当たりそこに溜まっている。森は、それはまるで僕を病室に追い返すかのように、狂ったように吠えていた。やっと自分の病室の下にたどり着いた時、「走る男」の人影は先のほうに見えた。心臓はかなり鋭く痛み感じていて、それは胸の中心にからだ全体が縮んで行くようで、「走る男」を追いかけている間、僕の身体は地面の感覚と胸の痛みだけになっていた。そして僕は今は病室で寝ている大学生のランニングフォームを想像し、自分と重ね合わせた。「走る男」の紺色のウィンドブレーカーが森の中へ入ってゆくのが見えた。その先にはバラの花壇が広がりその奥にはあの真っ白な精神病棟がある。そして「走る男」は真っ白な施設の前を通り越して裏門から出て行く。

二月のバラ園は何もない荒れ地であった。夢に見た、バラが咲き狂い噎せ返るほどの甘い匂いが充満している訳でなく、そこには二月の残酷な乾いた空気が漂っていた。僕にはもう限界であった。噴水の水は涸れていたが、中心にたつローマ石膏のような女神像は無慈悲に君臨している。その奥にある真っ白な施設は今や闇の中に蹲っていて窓から漏れる鈍い光が張り巡らされた白のフェンスの奥に見えた。

「走る男」の後ろ姿は森の奥に消えてゆく。僕は胸の痛みと、驚きで頭がぐちゃぐちゃになり、まるで身体が心臓を中心に吸い込まれていくかのような感覚に襲われた。足は止めなかった。体がどんどん縮んでいくようだ。まずは末梢がどんどん心臓の中心点に向かってゆく。いまの僕はさながらアメーバーのように形態を保つことの出来ない生物になっているだろう。すでに腕はもう存在しなかった。首がなくなり、頭は体に埋まっていく。ようやく体がビー玉ぐらいの大きさになった頃、パアアンという音と共にそれは爆ぜた。それは一瞬の輝きであった。

2016年1月14日公開

© 2016 Raymond

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