記録一、一八八七年十月十四日。
午後三時十分、来客。アポイントメントなし。
名前、モンタン。住所の申告なし。依頼内容、パリ近郊における土地売買契約の公正証書作成。
書類一式を受け取り、確認した。土地台帳の参照番号は「セーヌ県第七区画・補遺十四番」とある。当事務所所蔵の台帳を照合したところ、該当区画に「補遺」の分類が存在しない。番地そのものが、台帳上に存在しないということになる。
依頼人にその旨を伝えた。依頼人は書類を受け取り、「確認して参ります」と言った。異論なし。退室。
所要時間、二十分。
アルベールに台帳の再確認を指示した。翌日の報告によれば、やはり該当番地は存在しない。古い版の台帳も同様。
依頼人の外見について、記録しておくべきことがあるかどうか、今は判断できない。
記録二、一八八七年十一月三日。
午後二時五十分、来客。アポイントメントなし。
名前、モンテ。前回、記録一の依頼人と同一人物であるかどうか、確認しなかった。確認する手続きが存在しないため。
依頼内容、前回と同一の土地売買契約。書類は修正されていた。番地は今回、実在するものに差し替えられている。ヴァンセンヌ近郊、セーヌ河畔の小区画。
登記簿を確認した。該当地はシャルル=アンリ・フォワという人物の所有になっている。所有権の移転を伴う契約を作成するためには、現所有者からの譲渡契約書が必要だ。その旨を伝えた。
依頼人は「では所有者から譲渡を受けて参ります」と言った。
私は「譲渡契約書もあわせてご持参ください。なければ本契約の公証はできません」と言った。
「承知しました」と依頼人は言い、退室した。
今回も外見を記録しようとしたが、書くべき特徴が出てこなかった。年齢については五十代から七十代の間としか言えない。服装は黒に近い濃紺、時代遅れの裁断。臭いがなかった。煙草も、外の空気も、何も。これは記録すべきことではないかもしれない。ただ、ない、ということが、少し気になった。
所要時間、二十五分。
記録三、一八八七年十一月二十九日。
午後四時、来客。アポイントメントなし。
名前、モントワール。
譲渡契約書を持参した。形式は整っている。用紙の規格、製本、証人欄の配置、いずれも現行の様式に従っている。日付も正しい。私は一読して、署名欄を確認した。
署名が、読めなかった。
文字ではある。しかしどの言語の文字でもない。筆圧は均一で、書き慣れた手によるものだとわかる。ただ、それがフランス語でも、ラテン語でも、私が知るいかなる文字でもなかった。
依頼人に伝えた。「署名は本人の正式な署名でなければなりません。判読可能な、本人を特定できる形式のものが必要です」
依頼人は書類を受け取った。「では署名を改めて参ります」
「お願いします」と私は言った。
帰り際、依頼人が振り返った。「あなたは優秀な公証人ですね」
「手続きに従っているだけです」と私は言った。
依頼人は何かを言いかけて、言わなかった。扉が閉まった。
所要時間、三十分。
アルベールが帰宅した後、私は事務所に残って台帳の整理をした。特に必要な作業ではなかった。
マドレーヌの命日まであと二週間。今年も花を持っていく。何を持っていくべきか、毎年決められない。
記録四、一八八八年二月七日。
午後三時、来客。アポイントメントなし。
名前、モンス。前回の訪問から約二ヶ月が経過している。
依頼内容、「記憶の譲渡契約」。
書類を受け取った。用紙の規格は正しい。製本も正しい。私は内容を一読した。契約の甲は依頼人、乙は空欄になっている。譲渡の対象として「一八五一年十一月から一八六三年四月までの間に甲が保持していた一切の記憶」と記載されていた。対価の欄は空欄だった。
書類を返した。「このような法的概念は存在しません。記憶は財産ではなく、譲渡の対象となりません」
依頼人は書類を受け取り、しばらく黙っていた。それから言った。「では、どのような形式であれば受理されますか」
答えが存在しなかった。私は何も言わなかった。
依頼人は「承知しました」とも言わずに退室した。初めてのことだった。
所要時間、十五分。
アルベールが午後から来ていない。昨日も来なかった。使いをやったが、返事がない。
記録五、一八八八年四月十九日。
午後一時四十分、来客。アポイントメントなし。
名前、モンクール。
依頼内容、「影の所有権譲渡」。契約書の形式は前回より整っていた。甲欄、乙欄ともに記載がある。乙の名前は判読できたが、ここに記録しない。譲渡対象、「甲の影、その全体および部分」。対価、「相当の誠意」。
返した。「影は法的に財産として定義されていません。所有権の概念が適用されません」
依頼人は受け取った。しばらく間があった。
「あなたは何を最終的に望んでいるのですか」と私は聞いた。自分でも、なぜそう聞いたのかわからない。手続き上、必要な質問ではない。
依頼人は少し考えた。「署名です」と言った。
「誰の署名ですか」
「あなたの」
私は書類を返した。「公証人は当事者にはなれません。私は証人です。契約の外側にいなければなりません」
「存じています」と依頼人は言った。「ですから書式を整えて参ります」
扉が閉まった後、私はしばらく窓の外を見ていた。四月の光だった。マドレーヌが好きな季節だった。好きだった、と書くべきだろう。
所要時間、二十分。
アルベールから手紙が来た。故郷に帰ると書いてあった。理由は書いていなかった。
記録六、一八八八年九月二日。
午後、来客。時刻の記録を忘れた。
名前、モンフォール。
依頼内容、「名前の使用権譲渡」。書類を受け取り、返した。「名前は財産ではありません」
依頼人は「承知しました」と言って退室した。
所要時間、十分。
デュボワが事務所を畳んだと聞いた。理由は聞いていない。通りを挟んだ向かいの窓に、もう明かりがついていない。
記録七、一八八九年三月。
来客。日付を記録しなかった。三月であることは確かだ。
名前、モンヴァル。
依頼内容、書類を受け取り、読もうとした。文字は並んでいる。しかし内容が頭に入らない。視線が滑る。文字の上を通過して、次の行に移ってしまう。何度繰り返しても同じだった。
不備を探した。証人欄が空白だった。
返した。「証人の署名が必要です」
依頼人は「証人を連れて参ります」と言った。
私は「証人は当事者と利害関係のない第三者でなければなりません」と言った。
「存じています」
退室。
所要時間、不明。窓の外がいつの間にか暗くなっていた。来客が午後だったとすれば、相当の時間が経過していることになる。しかし何をしていたのか、思い出せない。台帳を見ると、日付のない走り書きが数行ある。私の筆跡だが、内容が読めない。
記録八、一八九〇年。
来客。日付なし。
名前、モンタール。書類を持参した。証人を連れていた。
証人の名前を聞いた。アルベール、と言った。
私はその顔を見た。見た。
「この者は私の知人です」と言った。「第三者の要件を満たしません」
アルベールは私を見なかった。依頼人の少し後ろに立って、床を見ていた。何か言おうとしたかどうか、わからない。
依頼人は「では別の証人を手配して参ります」と言い、アルベールを連れて退室した。
扉が閉まった。
私はしばらく、アルベールが立っていた場所を見ていた。何かを確かめようとしていたが、何を確かめようとしていたのかわからなかった。
その夜、日誌に何も書けなかった。翌日、一行だけ追記した。
記録八。不備あり。突き返した。
記録九、季節不明。
来客。
名前、モンルージュ。証人を連れていた。名前を名乗った。聞き覚えがあった。かつてこの日誌に書いた名前だと思った。誰だったか、思い出せなかった。
書類を確認した。日付が未来の日付になっていた。
返した。「日付は作成当日のものでなければなりません」
依頼人が聞いた。「いつの日付であれば正しいのですか」
「今日の日付です」と私は言った。
「今日とはいつですか」と依頼人は聞いた。
私は答えなかった。日誌にも書かなかった。
依頼人は「では改めて参ります」と言って退室した。証人も続いた。
事務所に一人になってから、私は卓上の暦を確認した。暦は一八九二年を示していた。しかし記録八を一八九〇年と記したのは正しかったのか、今となってはわからない。暦が正しいとも限らない。
マドレーヌと出会ったのは何年だったか。計算すればわかるはずだが、今夜は計算する気になれない。
記録十、冬。
来客。
名前、聞いた。書き留めなかった。
書類を受け取った。文字が並んでいる。読もうとした。滑る。何度試みても、視線が紙の上を通過するだけで、何も残らない。内容が頭に入らないのではなく、内容がそこにないような感触だった。
不備を探した。
余白を測った。左余白が規定より三ミリ狭かった。
返した。「余白の寸法が規定を満たしていません。左余白は最低二センチ必要です」
依頼人は書類を受け取った。「承知しました」
退室。
所要時間、四十分。内容の確認に時間がかかった。いや、確認できなかったのだから、時間がかかったとは言えない。余白を測るのに四十分かかった、ということになる。
夜、マドレーヌが夢に出た。何を言っていたか、覚えていない。言葉を使っていなかったかもしれない。ただそこにいた。どこにいたのかも、覚えていない。
記録十一、冬、続き。
来客。
余白を修正した書類を持参した。測った。正確に二センチあった。
他の箇所を確認した。インクの色。規定では青インクを使用しなければならない。持参された書類のインクは黒に近かった。黒ではない。しかし青でもない。規定が想定している色の範囲から、わずかに外れている。
返した。「インクの色が規定と一致しません。青インクを使用してください」
依頼人は書類を受け取った。しばらく沈黙があった。
「あなたはいつまでここにいるつもりですか」と依頼人は言った。
「仕事がある限りここにいます」と私は言った。
「仕事がなくなったら」
「そのときに考えます」と私は言った。
依頼人は何も言わずに退室した。
所要時間、二十分。
事務所の外が静かだった。馬車の音も、話し声も、何も聞こえなかった。窓を開けると冷たい空気が入ってきた。外はあった。通りもあった。ただ、誰もいなかった。夜だったのかもしれない。昼だったのかもしれない。空の色を確認しなかった。
記録十二、春か。
来客。
インクの色を修正した書類を持参した。青インクだった。余白も正しかった。日付も今日の日付。今日がいつかは確認しなかったが、依頼人が今日と言うならそうなのだろう。
製本を確認した。現行の規定では、契約書の製本は麻糸による綴じを要する。持参された書類は絹糸で綴じられていた。絹糸による製本は、一八七〇年以前の様式に従っている。現行では認められない。
返した。「製本が旧様式に従っています。麻糸による綴じに改めてください」
依頼人は受け取った。「承知しました」
退室。
窓の外を馬車が通った。どこへ行く馬車かわからなかった。何年の馬車かもわからなかった。馬の息が白かった。冬かもしれない。春か、と記録の見出しに書いたが、確信はない。
この事務所に来て何年になるか、計算しようとした。計算できなかった。マドレーヌと所帯を持ったのが先で、この事務所を開いたのが後だったか、それとも逆だったか。順序は覚えている。どちらが先だったかを、忘れた。
記録十三、不明。
来客。書類を持っていなかった。
名前を名乗った。聞いた。書き留めなかった。
依頼人は椅子に座らなかった。立ったまま言った。「今日は確認だけに参りました」
「何の確認ですか」と私は聞いた。
「あなたがまだここにいるかどうかの確認です」
「いますが」と私は言った。
依頼人はしばらく私を見た。見ていた、と思う。顔の向きがこちらを向いていた。
「では次回、書類を持参します」と言って退室した。
所要時間、五分。
依頼人が去った後、私は事務所の鍵を確認した。表の錠、裏口の閂、窓の掛け金。すべて正常だった。なぜ確認したのか、自分でもわからない。手続き上、必要な確認ではない。
ただ、確かめたかった。
何を確かめたかったのかは、書かない。
記録十四、不明。
来客。書類を持参した。
読もうとした。滑る。今回は特にひどかった。文字が紙の上にあることはわかる。しかし視線がその上を通るたびに、何も残らない。水の上を指で撫でるようだった。
不備を探した。
余白、正しい。インク、青。日付、今日の日付。証人署名、二名、判読可能。製本、麻糸。用紙の規格、正しい。
すべて正しかった。
書類を裏返した。裏面に何かあった。細い文字で、一行。鏡文字だった。左右が反転している。読もうとすると、やはり視線が滑った。
依頼人に告げた。「裏面に判読不能の記載があります。契約書の裏面に記載がある場合、その内容も公証の対象となります。判読できないものは受理できません」
依頼人は書類を受け取りながら言った。「それはあなたへの献辞です」
私は何も言わなかった。
依頼人は続けなかった。退室した。
所要時間、五十分。不備の確認に時間がかかった。
献辞、という言葉が、しばらく事務所の中に残っていた。残っていた、というのは比喩だ。音は消えた。しかし私の中に留まっていた。献辞とは誰かに捧げるものだ。捧げられる側は、受け取るかどうかを選べない。
マドレーヌの顔を思い出そうとした。思い出せた。思い出せたと思う。しかし思い出した顔が本当にマドレーヌだったかどうか、確かめる方法がない。
記録十五、不明。
来客。書類を持参した。
裏面はなかった。
確認した。余白、正しい。インク、青。日付、正しい。証人、二名。製本、麻糸。用紙、正しい。鏡文字、なし。
一時間かけて確認した。
署名欄の枠線を測った。規定では細線、線幅〇・二ミリ以下でなければならない。持参された書類の枠線は〇・三ミリだった。
返した。「署名欄の枠線が規定を超えています。細線に改めてください」
依頼人は書類を受け取った。長い沈黙があった。これまでで最も長い沈黙だった。
「承知しました」と、依頼人はようやく言った。
退室。
この記録はここで終わる。他に書くことがない。というより、他に何があったか思い出せない。来客の前に何をしていたか。来客の後に何をしたか。この一行を書いている今が昼なのか夜なのか。
窓がある。外がある。それだけはわかる。
記録十六、不明。
来客がなかった。
午前中から事務所にいた。台帳を開いた。何を調べようとしていたのか、開いてから忘れた。閉じた。
窓の外を見た。通りに人がいた。何人かいた。顔は見えなかった。遠かったからかもしれない。そういう日だったからかもしれない。
依頼人を待っていたわけではない。待つという行為は、次の訪問がいつかを知っていなければ成立しない。私はいつ来るか知らない。だから待っていない。
ただ、事務所を閉めなかった。
夜になった。誰も来なかった。
日誌を開いた。何か書こうとした。書けるものが、本日の来客なし、という一行だけだった。
本日の来客なし。
ペンを置いた。
記録十七、一九〇一年冬。
午後三時、来客。アポイントメントなし。
名前、モンタン。
書類を受け取った。
読もうとした。
今夜は、滑らなかった。視線が紙の上に留まった。文字が目に入った。入った文字が、頭の中に残った。何が書いてあったかは、ここに記録しない。
不備を探した。
余白、正しい。インク、青。日付、一九〇一年、冬の日付。証人、二名、署名判読可能、利害関係なし。製本、麻糸。用紙、正しい。裏面、なし。枠線、細線。
すべて、正しかった。
私はペンを持った。手が震えた。震えていることに気づいたのは今夜が初めてではない。いつから震えていたのかは、わからない。
署名欄を見た。
甲の署名欄には、依頼人の署名があった。判読できた。
乙の署名欄は、空白だった。
証人欄の下に、もう一つ欄があった。これまでの書類にはなかった欄だ。見出しには「公証人」とある。公証人の署名欄は、どの契約書にも存在しない。公証人は証人ではなく、証書の作成者だ。署名ではなく、記名と職印を押す。署名欄があること自体、書式の誤りだ。
依頼人に告げた。「書式に問題なし。ただし署名欄に記載すべき名前を、本人が持参していなかった。突き返します」
依頼人は書類を受け取った。
「では名前を調達して参ります」と言った。
「承知しました」と私は言った。
扉が閉まった。
ペンを置いた。手の震えが、止まっていた。なぜ止まったのかは書かない。
窓の外に冬の通りがあった。人が歩いていた。顔が見えた。見知らぬ顔だった。見知らぬ顔が見えるということは、見知った顔というものが存在するということだ。そのことを、少し確認した。
マドレーヌ、と書いた。
それだけ書いた。それ以上は書かなかった。書けないのではない。今夜は、それだけでよかった。
明日も仕事がある。
筆跡が違う。エドゥアールのものではないかもしれない。あるいは、同じ人間の、別の時間の筆跡かもしれない。
一行だけ。
「書式、問題なし」
(了)
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