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ガラム

合評会2026年3月応募作品

小林TKG

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タグ: #合評会2026年3月

小説

4,400文字

池袋での健康診断の帰り道、男は医師に言われたことを考えながら歩いていた。

「あの、これ、精密検査を受けるための紹介状ですから」

健康診断はいつもの場所で行った。池袋の、いつもの場所で。熱帯魚のアクアリウムのある。いつもの場所。最後の問診。あとは医師との問診だけという段になって、もの凄く待たされた。何度も行った健康診断。何度も。問診前にそんなに時間がかかったのは、待たされたのは初めてのことだった。その間、男はずっとアクアリウムの前に居た。アクアリウムに中を泳ぐ魚を見ていた。以前は、前回は青かったような気がする水槽。でも、その日男が見たアクアリウムは青くなかった。透明だった。水も、水槽も。以前とは、前回とは水槽の形も変わっている気がした。業者が居るんだろうかなあ。メンテナンスというか、何かそんな事なんだろうかなあ。アクアクララの機械を一年に一回メンテナンスと称して丸ごと交換するみたいに。こういうの、アクアリウムもそうなんだろうかなあ。ファインディング・ニモに出てきたような魚と、あと青いのと、黄色いのと、茶色いのと。ニモと青いのがやたら追いかけっこしている。青いのがちょっかいをかける。ニモに。だから二匹だけが水槽の中で泳ぎ回っている様に見える。岩の間を通り抜けたり、水草の周りを泳ぎ回ったり。他の魚はそんな感じじゃない。ただそこに浮かんでいるだけに見える。

「これ、わかりますか。影があって、周りよりも色が濃くなっています」

健康診断前、男は一週間、酒を断った。毎日飲んでいた。雨の日も風の日も雪の日も。酒を断った。酒を断った代わりに、豆乳やらトマトジュースを飲んだ。黒酢ドリンクも飲んだ。断食もした。いつもそうだった。それまでそうすることで何とかなっていた。

「まあ、これくらいの異常なら、まあ」

健康診断の最後の問診、医師からちょっとだけ小言を言われる。でもそれで済んだ。診断前一週間の自助努力で。それならばいいじゃないか。そう思って。何も言われないのも、意識が無さ過ぎる。ちょっと位小言を言われる程度なら。毎日会う間柄じゃない。一年に一回。ちょっと小言を言われるだけなら。

池袋。健康診断。熱帯魚。アクアリウム。医師からの小言。

一年に一回だけ。それならばいいじゃないか。それで。それがずっと続くなら、それで。

しかし、

「だから一刻も早く。設備のある病院で精密検査を受けてください」

問診が終わっても、なかなか帰してもらえなかった。また長い時間が待たされた。その間もずっと、男は熱帯魚のアクアリウムを見ていた。看護師が持ってきた封筒を受け取ると、帰ってもいいと言われた。ロッカールームで検査着から私服に着替えた。渡された封筒はカバンの中に入れた。健診センターを出ると南池袋一丁目の交差点の方に歩き出した。駅とは、帰り道とは違う方向。南池袋一丁目の交差点まで行くと東通りという通りに入る。東通りを抜けると雑司ヶ谷霊園に出る。沢山の墓、墓石の群れ。雑司ヶ谷霊園の外周を半周して、高架下の横断歩道を渡る。緩やかな坂を下って、石材店の前を曲がる。そうするとやがて護国寺の仁王門の前に出る。仁王門をくぐる前に一度頭を下げる。護国寺に来る度にいつもそうしている。男が最初に護国寺に訪れた時、そうしている人を見たから。思えば、あの人は神様だったのかもしれない。そんな事を思った。

「あれは、」

まだ陽がのぼる前だったと思う。朝方。冬。護国寺の鐘が鳴っていた。薄暗くて。だから顔やどういう人かは、見えなかった。でも、男はその人に倣った。それからずっと。そうしている。

仁王門を抜けて参道を歩く。時間はもうすぐ午後になろうとしていた。早朝、薄暗い頃とは違ってもう沢山の人が居る。行きかう人が居る。護国寺だもんなあ。第二土曜日はここで骨董市が開かれる。だから第二土曜日は来ない。人が沢山いるから。護国寺だもんなあ。手水舎の脇を通って階段を上がる。するとまた門がある。不老門。不老門も一礼をしてくぐる。門を抜けると、一旦参道を右に曲がる。その先に太子堂、旧薬師堂というのがある。賽銭箱に小銭を入れ、目を瞑って手を合わせる。その後、本堂に行ってそこの賽銭箱に小銭を入れる。そしてまた手を合わせた。頭を傾いで目を瞑って手を合わせた。護国寺の中から何かの、線香だろうか、不思議な匂いが漂ってきた。

「いやでも、これ、いつもと違う気が、なんか香辛料みたいな、ガラム……」

目を開けると、男は、再びカバンから財布を出し、そこからもう何枚かの小銭を出して、それを賽銭箱に投げた。それからもう一度目を瞑って手を合わせた。

 

一礼をして仁王門を出た所で男は声をかけられた。トイレと交番の間に立っている人、方から声をかけられた。見覚えのないその方から、

「海、見に行こうか」

そう言われた。

「どこの海ですか?」

男がそう尋ねると、辰巳だと答えた。辰巳駅から歩いてちょっとの所の埠頭だと。辰巳埠頭だと言われた。

「どこですかそれ?」

東京メトロ有楽町線。ここからなら、護国寺からなら三十分くらいだと、そう言われた。少し考えた後、男はそれに応じた。

「有楽町線っていうのに乗るのは初めてです」

男が言うと、その方は、

「なんで毎回池袋から歩いてくるの?」

と言った。それはなんというか、男にとってそれは、なんというか、システムの一つなのだけども、でも、それは言っても仕方ないと思ったので言わなかった。

「いやまあ、はい」

言葉を濁しながら、護国寺のすぐ脇にある有楽町線護国寺駅の階段を降りていると、

「そういうシステムでやってるんだって言えばいいのに」

と、そう言われた。

護国寺に来るなら、池袋駅から東通り、雑司ヶ谷霊園を経由しなくてはいけない。帰りも同じ。雑司ヶ谷霊園の残りの半周を回り、また東通りを抜けて、池袋駅に至らなくてはいけない。そういうシステム。決め事。そういう決まり。男の中だけでの決まり。誰にも言っていない。言えない。言っても理解されないだろう。そんな事は。でも決まりなのだ。そういう決まり。東通りの途中で脇に逸れてはいけない。法明寺参道口に入りたくなる。しかしそれはしてはならない。雑司ヶ谷霊園もそう。大鳥神社や鬼子母神堂の方に行ってはいけない。逸れてはいけない。東通りに入る以上は、雑司ヶ谷霊園の外周を回る以上は、護国寺に行く以上は、道を逸れてはいけない。東通りの頭から、雑司ヶ谷霊園の経て、護国寺に至る。帰りも同じ、毎回同じ。同じ工程を踏む。それを徹底する。厳守する。それで何を得たいわけでもない。ただ、それを徹底さえしていればいい。厳守さえしていればいい。それだけでいい。

東京メトロ有楽町線では、男も、その方も、ほとんど何も話さなかった。電車にはそれなりに人が乗っていたが、護国寺で二人が乗ると、丁度目の前の人達が揃って降りた。だから並んで座った。やがて飯田橋の駅でほとんどの人が降りた。だからそこからは向かいあって座った。男もその方も、端の席に座って。ほとんどは、黙って辰巳に向かった。有楽町線はトラブルも遅れもなく、ただ、暗いトンネルの中を走り続けた。

男はふと、

「おしいれのぼうけんみたいだなあ」

と思った。すると、向かいの席から、

「下の子だっけ、上の子だっけ?」と尋ねられた。どっちだったろうか。ああ、どっちだったろう。もう思い出せない。実家に絵本があったんだよなあ。あれどうしたんだったか。捨ててしまったんだったろうか。あるいは、どうしたんだったろうな。

 

辰巳駅から出ると、すぐ目の前に、何かの頭部、を模したようなオブジェがあった。

「これは、なんだろう」

男が独り言のようにつぶやいた言葉に、龍じゃないかな。とその方は応じた。龍ですか。へえ。こんな所に。駅から出て、すぐの、こんな所に。

「まあ、辰巳だからね」

ああ、なるほどなあ。辰巳だからかあ。

「龍を見た人が作ったんじゃない?」

「龍が出てるんですか?」

まあ、辰巳だからねえ。

「辰巳だからかあ」

時間を確認すると午後を回っていた。空は晴れていた。あともう少しだけ暖かくなってくれたらなあ。

「埠頭はあっちだよ」

辰巳埠頭と書かれていた所まで行ってはみたものの海は見えず、港湾施設内への立ち入りを禁じますという看板があって、

「海見えないですね」

「海見えないねえ」

二人は、フェンスの前でそういう会話をした。

「東雲駅の方に末広橋、新末広橋がある。そこから海が見える」

大きなトラックやら何やらがバンバン走り回る道沿いの歩道を二人で黙々と歩いた。新末広橋という名前、名前に惹かれて行ったものの、そこから見える海はまだ海というか、河の感じというか、運河っていうか。運河の終わりっていうか、なんか、

「なんかなあ、海かなあ」

「海っぽくないか」

その後、反対方向に、新木場駅の方にも歩いて行って、そっちには新曙橋があるというので、そっちにも行ってみたが、

「やっぱりまだねえ」

「海っぽくないかあ」

海っぽくないなあ。まだ。

「ゆで太郎いく?」

「ゆで太郎ですか」

新曙橋の近くに、ゆで太郎があったのを見た。そこを通り越して、新曙橋を見に行ったのだ。

しかし結局は、ゆで太郎にも行かなかった。混んでいた。昼すぎだから。まだ。

二人は黙々と辰巳駅まで戻った。駅の近く、辰巳の森緑道公園のベンチに座った。

「それで、願いっていうのは何?」

それを待っていた。男は。この間。ここまでの間。ずっと待っていた。その方が、そうやって尋ねてくることを。男は待っていた。カバンから検診センターで渡された、中身は紹介状だという、その封筒を出して、それをその方に見せた。

「自分は癌です。肺がんです」

「それは、まだわからない」

だってそれはまだ、肺気腫とか、ブラとかそういうのかもしれないし。そもそも、調べてみたら何ともなかったって事もあるかもしれないし。

「違うんです。待ってたんです」

これを。自分は。紹介状を。きっかけを。

父が死んで、そのあと母が死に、数年前に姉も死んで、自分にはもう家族もいない。田舎の実家も取り壊した。

「それからずっと」

自分は。もう。ずっと。

死にたかったんです。自分は癌です。もういいかなって。もういいと思うんです。死にたいんです。

「死にたい。もう死にたい。死ぬ」

だから、それだから、その前に、

「カラオケにハンバートハンバートさんの曲、もっと充実させてくれませんか?」

全然無いんですよ。

まだ。

僕、

私のマサラ。

歌いたいんです。

どうか。

お願いします。

そのあと二人は、豊洲駅に移動した。調べたらカラオケ屋があるらしかったから。しかし、豊洲のカラオケ屋は知らないカラオケ屋さんで、だから更に銀座一丁目駅に移動して銀座のカラオケ館に入った。

男はそこでハンバートハンバートの私のマサラを歌った。

そんでそれからハンバートハンバートを上から下まで歌った。

© 2026 小林TKG ( 2026年3月19日公開

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