あした、アベマの番組の収録でカナがマン笛を披露する。マン笛とは、あらかじめ膣の中に入れておいた空気をすこしずつ放出することでリコーダーを演奏する技術を指す。十六歳でアイドル活動をはじめて早四年、容姿は十人並で歌もダンスもとくに秀でたところのないカナだけれど、業界のあまたの男にまわされるなかで習得したその特技でようやくその才能を世に放つはこびとなった。
カナのマネージャーであるぼくは、しかし、マン笛なるものを一度も目にしたことがない。予定が合わず、カナのオーディションに同行できなかったのだ。マン笛という言葉も、カナに「できる」と言われてはじめて耳にしたくらいで、その特技がどれほどめずらしいものなのか、見当もつかない。ともすれば、ちょくちょくテレビに出るくらいのアイドルであればみな嗜んでいるていどの技なのかもしれない。プロデューサーやディレクターたちが主催するあやしげなあつまりにおいて、アイドルや女優のたまごをずらりとならべてマン笛のアンサンブルをたのしむという催しが頻繁に実施されていないとは言い切れない。
「眠れないの?」
妻がとなりのベッドからうかがう。妻はぼくがひどい不眠症をわずらっていることを嫌がっている。
「眠れない」
「もう仕事やめたら?」
「そうだな」
これはただ言っているだけだ。だが、カナのマン笛に立ち会えばその決意もかたまる気がする。純粋無垢に芸能界に夢を見ていたあの女子高生が暗いところへと四年かけて一段ずつ階段を降りてゆき、アイドル適齢期をすこし過ぎてから、ネットの三流番組で下の口からしずかに息を吐いてそれが童謡の『チューリップ』の旋律を奏でるとすれば、これほどバカらしく、この業界に絶望する機会もないだろう。あるいはそれで絶望できる感覚を自分が持っていることに期待したいのかもしれない。
「ちょっとそとの空気を吸ってくる」
厚手のパーカーに着替えて家を出た。午前二時を過ぎていた。下北川南口商店街を往き、まだひらいている飲み屋に入った。客はなかった。カウンターでビールを飲んでいると、後から入店してきた若者にからまれた。お笑い芸人を名乗るその若者に「死んだ目してますよ」と言われ、てきとうにうなずいていると、
「お前みたいなヌルい奴が一番ムカつくんだよ」
と激高された。それは眠れない夜に自戒したことばによく似ていた。腹立たしくもなく、ひやりとすることもなかった。ふしぎなほど冷静にこの状況を俯瞰して見ている自分がいた。
「悪い、悪い。この場はぼくにおごらせてくれ」
そう言うと、芸人は、「あたりめえだ」と吐き捨て、よだれを垂らして気絶した。
「すみませんね。コイツうちの常連で」
とマスターがきまり悪気に言った。「最近コンビを解散しちゃって、ムシの居所が悪かったんです」
「……ぼくがヌルいのはまちがってませんから」
「この街にヌルい人間なんかいませんよ」
むしろこの言葉こそがぼくには鳥肌が立つほどにてきめんに効いた。愛想笑いをして金を置いて店を出ると、腹の奥からどす黒い感情がせりあがってきた。マスターは、この街の呪縛霊だ。夢を搾取するこの街で、死んだ奴が、体温をうしなった奴が、熱について吾知り顔でかたっている。地獄に落ちきることもなく、太陽が沈んでから店をひらき、夢に蹂躙された若者の生き血を吸って死臭を隠している奴が!
凍えるほど風が冷たかったのでタイムスの自販機で缶コーヒーを買った。ジョージアの微糖。眠りに障るのが嫌なので普段は朝一で事務所に出勤する車の中で飲む。だいたいは半分ほど残して捨てる。だが、どれだけカフェインをひかえたとしても眠れない夜は眠れない。きょうはもう眠らないことに決めた。
その場にしゃがみこんで、月のように白く冷たい光を放つ自動販売機に寄り添った。新卒で芸能事務所に入った当初、酔いつぶれてこの自動販売機に背中を預けたことがある。ラップバトルをしたいという三人組の若者に囲まれて、「どけ!」と蹴りを入れられた。
――芸能界では、「どけ!」という気持が重要だよ。
ぼくはことあるごとにカナたちのグループのみんなにそう言った。思えばそれは、あのラッパーもどきに屈服したことへの無意識の意趣返しだったのではないか。その呪いのカルマの清算として今回のマン笛があるのではないか。
ともあれ、カナは「どけ!」という気概にとぼしかった。業界の誰それに呼ばれれば、パーティ会場であろうとホテルであろうと飛んで行くが、同じ日同じ場所に呼ばれた何名かのアイドルのうち、テレビ画面へと浮上したひとりに残ることはなかった。
――わたしはもうババアだから。
カナは成人して以降、オーディションに落ちるたびにそう自嘲するようになった。「ババア」だからなんだというのか。おまえはババアだからマン笛でもやっておけと命じられでもしたのだろうか。
ぼくはゆっくり三十分ほどもかけて缶コーヒーを飲み、マンションに帰った。三時間ほど眠ることができた。
それから一ヶ月ほどして、カナがマン笛を披露したアベマの番組が放送された。出演時間は一分ほどで、自己紹介もそこそこに、「咲いた咲いた、チューリップの花が」のワンフレーズをよどみなく奏でて笑いを取った。SNSでもとくに大きな反応はなく、その切り抜きがショート動画で一度だけ回ってきた。不意打ちで目にしたカナのマン笛にぼくは吹き出してしまった。ほどなくしてカナは芸能界を引退した。最後の言葉は「もうババアだから」。これからどうするのかは何も教えてくれなかった。
カナの引退に前後して妻が妊娠した。ぼくたちは妻の田舎に帰ることにした。運よく教員採用試験に受かって春から社会科の教員として高校の教壇に立つことになった。前職のことは伏せていたが、ぼくが芸能事務所ではたらいていたこと生徒たちには周知の事実であるらしく、「わたしもアイドルになりたいんですけど……」という相談を何件かうけた。
「芸能界は煉獄だよ」
「レンゴクってなんですか」
「地獄と天国の中間」
「じゃあ、今と同じですね」
つまらなそうに女子生徒は言った。地獄と言われるよりも堪えたらしく、二度とかのじょの口から「アイドル」という言葉を聞くことはなかった。ここにはヌルい人間しかいない。
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