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ババババ

小林TKG

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タグ: #古賀コン #古賀コン10非参加応援品

小説

4,220文字

バスの中で子供、幼い子供、幼女がはしゃいでいた。

「うあああ、きゃあきゃあ」

と言ってはしゃいでいた。コクバ、国際興業バスの中でである。ぼくはコクバ歴、バス歴も長く、コクバについての感謝も深い。例えば、

「五分遅れているけども、いつもありがとうございます」

とか、

「十分遅れていますけども、でもあれですよね。あの道ですよね、あそこ一車線ですもんね」

とか、

「秋ヶ瀬橋渡るんですもんね。あそこ混みますよね。そら、時間によってはニ十分くらい遅れますよねえ」

とか、

そういう意識がある。出来ている。ぼくの中に、完全に出来ている。意識が家屋となって建っている。そういう意識という家屋が建っている。仮屋とかではなく、もう出来ている。長年、コクバ、国際興業バスに御世話になっている。その中で、長年かけて、コクバ、バスに対しての意識を作った。感謝を。地作りから始まって、骨組みを立て、屋根つくって壁作って、外装も内装も作った。だから、子供、幼い子供、幼女がはしゃいでいたって、別に何とも思わない。元気だなあ。って思う。いい事だねえ。って。それは長年のバス生活で培った心の余裕である。こういうものだよね。という事である。コクバ、バスというものに何度となく乗って下りて、御世話になって。そうして色々なパターンを見て、聞いて、感じた結果である。それが余裕になる。心の余裕になる。

しかし、一方で、それを疎ましく思う、罵倒する人の気持ちも分からない事はない。正直言ってわからなくはない。それがわからなくなくなったのは、最近の事である。バス以外の部分で、メンタルが削られていると、うまくいかないと、自分の思った通りの事にならない。と、心の余裕が無くなっていく。そうすると、罵倒したくなったりする。余裕がある時は何とも思わなかったのに、余裕が無いとそれが目についたり、耳についたり、鼻についたりする。だから罵倒したくなったり、疎ましく思う。だから、そういう人達の気持ちも分かる。気がする。最近。日常生活ですら、日常ですらままならない。十全にはうまくいかない。余裕がなくなる。だから攻撃する人もいる。勿論それはダメな事だ。いけない事だと思う。疎ましく思うまでならまだいい。実際に攻撃、口撃をする人もいる。疎ましく思うまでなら、頭の中での事。それを顔に出す、からは攻撃になる。口撃なんて攻撃以外のなにものでもない。

それをやるのは良くないと思う。自分だって子供の頃そうだったんだろう。と思う。ぼくだってそうだったのだし、そうじゃなかった人なんて居ないだろう。一方で、そんな事は無いという人もいる。過去を忘れてしまって、完全に無くなってしまった人もいる。そういう人達は容赦なく、自分の過去も顧みずに他者に攻撃が出来る。それはやべえな。と思う反面、憧れもする。ぼくは自分の過去に後悔がある。だから、いつまでも過去を引きずっている。忘れられない事も沢山ある。無くしてしまえば、完全に忘れてしまえば、それは前向きだと思う。反省も無いが、反省なんて無駄だという人もいる。過去を無くした人は他人を攻撃できる。自分の過去を顧みないから。自分の過去を消して前向きで、うじうじと反省もしない人には憧れる。いいなって思う。

「うああ、ああああ」

子供、幼い子供、幼女がぐずりだした。多分、長い事バスに乗っているからだろう。長くはない。ぼくには長くない時間。でも、子供とぼくの時間の流れは違う。一つの所に長い事留まっていられない子供はわりかしすぐにぐずりだす。

その子供は、父親とバスに乗っていた。父親と一つの座席に座っていた。二人掛けのシートではなく、父親が一人がけのシートに座って、その膝の上に乗っていた。幼い子供だからそういう措置を取ったんだろうと思う。まだ一人で座席に座らせておくのは危ないと、走行中に立ち上がったり、立ち歩いたり、可能性があるから危ないと、そういう判断の上での事なんだろうと思う。その父親はちゃんとその子供の事、特性というか、正確をみているんだろう。知っているんだろう。

「うああ、なあああ」

そんなぐずりだした子供をその父親は座席に座ったまま持ち上げて、自分の肩の上に乗せた。ぼくは何をしているんだろうと思って、後ろの座席から見ていた。子供が持ち上げられて父親の方の上に、左肩の上に乗ったと思った。子供、幼い子供、まだ大人の膝ぐらいまでの背丈しかない。子供。幼子。そして父親は体を少し揺らしだした。

「きゃっきゃっきゃ」

アルゼンチンバックブリーカー。子供がはしゃいだ声を出した。背中の真ん中位の所を支点、父の肩に乗せて、左肩の上に乗せて、体を逸らせて、それで、子供が、幼い子供が、幼子が、幼女が、

「きゃっきゃっきゃ」

とはしゃいだ。背中が気持ちいのだろうか。背中のある部分を支点として、体がそれて、父親は足を持っていた。多分落ちないように、頭は後ろ側にそれて、やじろべえみたいになって。

「きゃっきゃっきゃ」

と子供がはしゃいでいる。笑っている。それは少しの時間だった。ほんの少しの。ぼくが長いと思わないばすの乗車時間よりも、子供が長いと感じるバスの乗車時間よりも、更に短い、三分も経っていない。カップ麺の待ち時間よりも短い。ほんの少しの時間。子供が、父の肩の上でアルゼンチンバックブリーカーみたいになって。やじろべえみたいになって。

「きゃっきゃっきゃ」

とはしゃいで。笑っている。子供って言うのはみんなああなんだろうか。ぼくは思った。確かにぼくも子供の頃は肩車をしてもらったり、抱っこをしてもったり、おんぶをしてもらったり、していた。それは楽しかった。確かに。でも、アルゼンチンバックブリーカーでもいいんだ。気持ちいんだろうか。背中がそれて。腰が痛い人とか、背中を逸らせると気持ちいいらしい。ぼくもずっとパソコンの前に座って作業した後、背中を逸らせると気持ちいい。

「きゃっきゃっきゃ」

子供ははしゃいでいた。笑っていた。アルゼンチンバックブリーカーみたいになって。やじろべえみたいになって。アルゼンチンバックブリーカーの時間はすぐに終わった。その後、それまで、

「うああ、なあああ」

とぐずっていた子供、幼子、幼女の機嫌がよくなった。父が、

「じゃあ、もう静かにしようね」

と言うと、その子供、幼子、幼女はちゃんと言いつけを守って父の膝の上で静かになった。その顔からは満足感がにじみ出ていた。オーラさえ出ていたくらい。満足感というオーラさえ、その子供、幼子、幼女からは出ていた気がする。

家に帰ってから、しばらくしてその事を思い出した。それからすぐにぼくは思った。

「ぼくもやりたい。アレ」

と思った。ぼくには子供も居ない。結婚もしていない。彼女さえ居ない。でも、やりたいと思った。あれをやりたいと思った。

ポイズン、反町隆史のポイズンを聞いたらぐずっていた、泣いていた子供も泣き止む。それに似た感覚、子供の事を肩に乗せてアルゼンチンバックブリーカーとか、やじろべえみたいにすると、ぐずりが治まる。機嫌が直る。

やってみたい。それ。ぼくもやってみたい。

ぼくは子供が苦手なタイプだった。子供が元気で、無邪気で、はしゃぎまわっているのを見ると、辛くなるのだ。自分も子供の頃、そうだったなあと思って。辛くなる。子供の頃、世界の中心は自分だと思っていた。なんだって出来ると思っていた。自分はひとかどの人間ではなく、出来る人間だと思っていた。一山いくらの有象無象ではなく、貴重な存在だと思っていた。でも、そうじゃない。そうじゃないのだ。大体の人間はそうじゃない。大体の子供はそうじゃない。九割九分九厘の可能性でそうじゃない。大抵が一山いくら。有象無象だ。ぼくだって勿論そうじゃなかった。だから、辛くなるのだ。子供がはしゃいだり、走り回ったり、元気でいるのを見ると、辛くなる。きっとこの子供は今、この世の春なんだろうなと思って。子供の頃の自分がフラッシュバックして、包丁やカッターを振り回したくなる。誰彼かまわず腹や首を切ってしまいたくなる。

だから、なるべく子供には近づかなかった。そんな思考、思想の持ち主だから、当然結婚にだって不適合だろう。結婚不適合者だろう。そう思って、彼女も結婚も、あきらめた。幸せが何なのかは知らない。でも幸せになんてできないだろう。そう思った。そんなんだから当然子供の機嫌の取り方なんて知らない。女性の機嫌の取り方も知らない。相手と目線を合わせて、相手の気持ちを思いやって、そんなの知らない。仕方ない。そういう取捨選択をしたのだから。

でも、あれで子供の機嫌が取れるなら。

どうだろうか。子供の。幼子の。期限が取れるなら。アルゼンチンバックブリーカーで。やじろべえみたいにすることで子供の機嫌が取れるなら。

どうだろうか。

そして子供の機嫌が取れるなら、逆説的に他者、女性の機嫌の取り方も、わかるかもしれない。自分以外の他者の機嫌が取れるなら、他人とか上司の機嫌だって取れるかもしれない。ゴルフやパチンコ、女性だったら、部屋のラグマットの柄、カーテンの柄、装飾品、ドラム式洗濯機、冷蔵庫のサイズ。テレビのインチ数。そういう話にも合わせられるかもしれない。

誰かの他者の機嫌が取れるなら。子供の機嫌が取れるなら。アルゼンチンバックブリーカーで機嫌が取れるなら。やじろべえみたいにすることで機嫌が取れるなら。

ぼくにも他人の機嫌が取れたら、もしかしたら結婚不適合者じゃなくなるかもしれない。諦めなくてもいいかもしれない。

子供、幼子がアルゼンチンバックブリーカーで御機嫌になるなら。それなら、ぼくにもできそう。

家を出てバスに乗った。偶然にもさっき乗って下りた時と同じ運転手だった。サインに思えた。これは啓示。神の啓示。良い前兆。前触れ。

池袋まで行って、雑司ヶ谷霊園に行った。雑司ヶ谷霊園の外周の一か所に幼稚園がある。雑司ヶ谷幼稚園。そこまで行って子供、幼子が出てこないかを待った。雑司ヶ谷霊園の墓に紛れて待った。物わかりの良い子供がいいなあ。ぼくは思った。危害は加えない。ただ試させてほしいんだ。アルゼンチンバックブリーカーさせてほしいんだ。子供。幼子。それで機嫌が良くなるのか。試させてほしい。決して二つ折りにしたりはしない。気を付けなくてはいけない。ぼくは待った墓の中で、墓に紛れて待った。子供が出てくるのを待った。

© 2025 小林TKG ( 2025年12月7日公開

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