辰野は怒りにまかせて厚さ十センチはあろうかというばかでかファイルをテーブルに叩きつけた。だがあまりの重さに辰野の握力は耐えきれず、ファイルは無情にもその一番尖った角を下にして滑り落ちた。落ちた先には辰野の右足があった。
「いってぇ!」
辰野は右足を抱えてマンガみたいにびょんぴょん跳びはねる。
「しかし政務官、これは日本最高の頭脳を集めて分析した集大成でありますから」
秘書は眉ひとつ動かさずに言った。
「わかってるよ。ふざけんなと言ったのは学者どもに対してじゃない。この……何だっけ」
「忖度ジラ」
「そう……まったくふざけた名前だ。ソンタクジラって誰が考えたんだ」
「総理です」
山名首相は前総理の佐竹が閣僚のスキャンダルで支持率を落として選挙で大敗し、引責辞任した後に与党内派閥同士の押し付け合いで誕生した。「戦後処理」という貧乏くじを引かされた山名政権は当初から短命が約束されていたといっていい。
その内閣で防衛政務官のポストを貰ったところでちっとも嬉しくない辰野は、リムパックから帰国した直後に巨大怪獣が現れてもまるでやる気を刺激されなかった。海自による国民向けの勇ましい広報を見れば「アメリカ軍いらなくね?」という間違った認識が芽生えそうであるが、残念ながら日本は軍事的には完全にアメリカの属国である。あんなばかでかい原子力空母を十一隻も運用できる奴ら、控えめに言って頭おかしい。
げんに巨大怪獣が出現しても自衛隊は偵察以外に何もできなかった。
政府の対応が後手後手に回るなか、巨大怪獣は東京湾から浦安に上陸して東京ディズニーリゾートを一瞬で灰にした。「ディズニー高杉日本氏ね」がSNSで大いにバズって社会現象となり、ついには国会で取り上げられるに至ってやめときゃいいのに内閣官房副長官が「是正の余地がある」なんて答弁したものだから「一私企業の価格設定に公正取引委員会の所管官庁である内閣府の官房が予断を与えるとは何事か」と野党の一斉攻撃を受けていた矢先の出来事だったので、図らずも巨大怪獣はこの議論をも灰にしてしまった。
その後巨大怪獣は日本橋に向かい、首都高の高架だけを破壊して東京湾へと戻っていった。首都高都心環状線の地下化についてはかねてから高架橋撤去を行う工事業者と国土交通大臣の癒着が取り沙汰されており、指名の白紙撤回、再入札まで検討されるようになっていた。前述の佐竹前総理が支持率を落とした理由というのがこれで、東京地検特捜部が元国交相の逮捕まで視野に入れて捜査を進めているという噂もあったところ、当の高架橋がなくなってしまったので疑惑の追及は尻すぼみになりつつある。
こうして政権与党に有利な破壊行動を繰り返す巨大怪獣はいつしか忖度ジラというネットミームを生み出し、山名首相が本会議で口を滑らせこの怪獣を忖度ジラと呼んだことからそれが正式名称となってしまった。
「この報告書によれば、忖度ジラの体色がだんだん薄くなってると?」
「そうです」
秘書はまるで今見てきたかのように言った。辰野はファイルの中でもひときわ大きな付箋の貼ってあるページをめくった。忖度ジラの写真が何枚か印刷されている。初上陸時、ディズニーリゾート破壊後、日本橋高架破壊後。確かに、時を追う毎にメタリックグレーのゴツゴツした表皮が透明感を増しているように見える。
「光の当たり具合じゃないのか?」
それは純粋な疑問というより、辰野の願望に聞こえたかも知れない。
「政務官」秘書はそれを聞き流して、タブレットを操作した。「予算委員会のお時間です。ご承知の通り今日は……」
「わかってる。もう法律は施行されてんだぞ。今さら何を議論するってんだ」
辰野は面倒くさそうに、それでも立ち上がると、スーツのボタンを閉めた。
「答弁書を用意してくれ」
関係閣僚との読み合わせはもう終わっている。答弁の中身も頭に入っている。原稿を用意するのは念のためだ。
「国旗毀損罪の適用事例と今後の運用方針について」
そう題された原稿を手に辰野は議場へと向かった。途中、法務副大臣の滝沢と一緒になる。
「よう、忖度ジラはまだ動きなし?」
辰野と同期当選の滝沢は気安い。
「静かだね。もっと暴れてくれないと、今日みたいな面倒な審議が増えて困る」
滝沢は高笑いする。
「ははは、忖度ジラとはよく言ったもんだ」
国旗毀損罪は与党と連立を組む保守政党が連立の条件としてねじ込んできたもので、佐竹首相のときに連立与党で強行採決して成立させた法律だ。辰野はこの法案にはどちらかといえば反対の立場だったが、その当時は連立を維持しなければ衆参両院で過半数割れという寒い状況だったのでやむを得ず、という感じだった。
もっともその後の選挙で大敗し、連立の議席でも過半数に届かなくなったので、結果的には通さなくてもいい法律だった。誠にばかばかしい。
ばかばかしいと言えば野党の質問で、やれお子様ランチに立ててある日の丸をケチャップで汚したら犯罪なのかとか、日の丸交通のタクシーが雨ざらしなのは違法なのかとか、どうでもいいことばかり突っ込んできやがる。
滝沢はこの法律の厳格適用を主張するグループの急先鋒で、なんならお子様ランチの国旗毀損を本気で摘発しそうな勢いであった。
「……で、ありますから本法はできうる限り抑制的に運用するべきであるというのが我が党の主張でして、法制審議会におきましても……」
歯切れの悪い質問と答弁が続き、辰野は欠伸を噛み殺しながら時間が経つのを待った。休憩を挟み、辰野の答弁の時間が近づいた頃、懐の中でスマホが震え始めた。 委員会中に緊急以外の電話をしてくるなんてなってない奴だ、と無視しようとしていたら、近くに座る滝沢の携帯も鳴り始めた。続いて農水大臣も経産政務官も、副首相も懐のガジェットに怪訝な顔を向け、戸惑っている。野党の連中もスマホを手に持ち、発信者を確認している様子である。
議場の扉が開き、官邸の秘書官が小走りで入ってきた。まっすぐに山名総理のもとへ向かい、耳打ちする。総理の目が大きく見開かれた。議長へも伝令が走り、議長は緊張した面持ちでマイクをオンにした。
「先ほど忖度ジラが新木場に再上陸したという情報が入りました。委員会はここで中断し、総理以下関係閣僚はただちに官邸特別対策室へ入って対応にあたります」
委員会室にいた全委員が立ち上がり、ばらばらに動き始めた。辰野は背後から肩を叩かれた。滝沢だ。
「行こう」
滝沢は対策室メンバーには入っていなかったはずだ。辰野の当惑顔を見て取った滝沢は意味ありげに微笑んだ。
「超法規的な判断を要する事態も想定されるというのでね。法務大臣不在の時は俺が入れと言われてるんだ」
「そうか」
官邸の対策室へ移動すると、ほぼ全員が正面の大型モニターを見ていた。自衛隊のレンジャー部隊による地上からの映像と、OH-1のガンカメラと思われる映像がリアルタイムで表示されていた。
「状況は?」
先に到着していた防衛大臣の横について囁く。
「まだ姿は見えん。住民の避難を急がせているところだ」
山名総理はモニターの正面に座り、画面を食い入るように見つめている。幕僚長が防衛大臣に耳打ちをすると、大臣は対策室の全員に聞こえるように言った。
「総理、いま木更津のアパッチを向かわせています。住民の避難完了が確認され次第、攻撃を開始します。よろしいですね」
総理は頷いた。その時、モニターの映像が煙の中から現れる巨大怪獣の姿を捉えた。辰野は息を飲んだ。
「白いぞ」
誰かが叫んだ。前回上陸した忖度ジラは、言われてみないと判らないほど微妙に色が薄くなっていたが、今映し出されているその姿はまるで違う。白っぽい、半透明の巨躯を引きずり、歩いている。
辰野は報告書にあったふざけた文言を思い出した。
「忖度ジラは他人に忖度するあまり、自分というものの存在を失いかけている。体色が薄くなっているのもそのせいで、このまま忖度を続けていけば忖度ジラは限りなく透明になってゆき、最後には消滅してしまうだろう」
「住民避難完了!」
東京都庁および消防庁との連絡を担当している総務大臣が高らかに宣言した。モニターの中の忖度ジラがよりはっきりと見えてくる。
「うわ、なんだあれ」
誰かが素っ頓狂な声を出した。画面内の忖度ジラを指差す者もいる。
忖度ジラの白っぽい身体の真ん中に、赤い円があった。その姿、まさに。
「日の丸じゃないか?」
誰かが口走った。
「総理、攻撃命令を」
防衛大臣が山名首相を促す。しかし首相は助けを求めるように滝沢の方を見る。
「法務副大臣、あれは日の丸じゃないのかね。攻撃しても大丈夫か」
滝沢はモニターを見つめ、言った。
「忖度ジラの体高と全幅はほぼ三対二、あの赤丸が体表面の色なのか内部組織が透けて見えているのかは判りませんが……ほぼ真円で直径は全幅の五分の三」
何を言ってるんだこいつは。辰野は滝沢の横顔を睨みつけた。
「日の丸と認めます。国旗毀損罪の対象です」
「ばかな、相手は巨大怪獣だぞ」辰野は思わず言い募った。「この緊急事態にそんなこと気にしてる場合じゃないだろ」
「そんなこと?」
滝沢は冷たい視線を向けてくる。
「例外はない。国旗を損壊した者は二年以下の懲役または二十万円以下の罰金刑だ」
横で聞いていた防衛大臣が訊ねた。
「それは、アパッチの操縦をしている自衛官に適用されるのかね? それとも命令した総理大臣か?」
「だからそんなこと言ってる場合じゃないでしょう」辰野は山名総理に詰め寄った。「総理、攻撃命令を」
「しかし、ううむ」
総理は目を白黒させる。なんなんだこいつら。
「いや大丈夫だ」
今まで黙っていた外務大臣が言った。
「こんなこともあろうかと在日米軍に出動を要請した。今B-2爆撃機が沖縄から向かっている」
「だって」
そう言いかけて辰野はやめた。確かに、アメリカ軍ならば公務中の犯罪について裁判権は日本にない。
モニターの中で、忖度ジラが天を仰いで吼えた。その絶叫は全世界にこだました。
佐藤 相平 投稿者 | 2025-11-12 14:07
発想が最高。はじめから終わりまで楽しく読みました。しかも、現代日本政治を見事に批評している。怪獣なのに忖度しながら生きている忖度ジラが愛らしい?し、「ディズニー高杉日本氏ね」など小ネタも面白いです。国旗毀損罪ネタからの、在日米軍を使ったオチもおもしろい上に皮肉が効いていて良いです。ただ、「絶叫」要素が薄く、最後の忖度ジラの絶叫にとってつけた感がある点だけが少し気になりました。
河野沢雉 投稿者 | 2025-11-12 17:51
コメントありがとうございます。
痛いところを突かれました。そうなんです。最初は忖度ジラから逃げ惑う人々の絶叫を描こうと思っていたのですが、政治側の描写だけに終わってしまったのですっぽり抜けてしまいました。それが元ネタ「シン・ゴジラ」と全く同じ構図になってしまったのは偶然です。
眞山大知 投稿者 | 2025-11-14 13:53
忖度したのに殺されてしまう忖度ジラくんかわいそう()。シン・ゴジラと同じく結構政治的な描写が多かったのですがこれはこれで好きです
曾根崎十三 投稿者 | 2025-11-16 11:58
ソンタクジラ! 語感良いですね。でも、クジラが出てくるのを期待してしまいました。透けてきてると思ったら日の丸に! 考えたらおもしろい絵面で良かったです。絶叫というより咆哮のような気もしますが、この疲れたハチャメチャ感に破滅派を感じる。
大猫 投稿者 | 2025-11-20 21:35
忖度ジラって……大笑いしました。
国旗毀損罪のバカバカしさの風刺としても最高です。
せっかくだからもう少し仕事をしてほしかったです。どうせなら尖閣列島や竹島を破壊するとか、原発を食べてくれるとか。横田基地や嘉手納基地を破壊したら日米同盟がヤバいですね。
良いことをしたのに殺されるのは可哀想すぎます。絶叫が超音波になって国会議事堂がぶっ壊れるみたいな最後が良かったかもです。それじゃJuanさんになってしまうかな。
諏訪真 投稿者 | 2025-11-22 15:57
トンチキ小説のように見えて、実はディテールが結構作り込まれてて素晴らしい。
最近のネタだと台湾有事とか書かれていたでしょうか?
因みにですが「国旗の処分の仕方はどうすれば良いか」というのが昔ちょっと気になって調べたんですが、神社に持って行くとかではなく、「各ご家庭で”厳かに”焼く」んだそうです。
本作中でも儀式として攻撃すればきっと合法だったのでしょう。
あるいは搦手として一時的に国旗を変えるとか。