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死と税務署とラッキースケベと悟りは突然やってきます。2025年9月合評会参加作品

タグ: #ユーモア #合評会2025年9月

小説

4,274文字

ニュータウンは同じ形の家がどこまでもどこまでも並んでいて走るにはあまり風情がない。だがこの中山なかやまは別で、だからここに家を買った。

仕事帰りの夜、長い坂をフリードで下る。山の上にあるニュータウンなので坂を下ると昼間なら仙台平野と太平洋が一望でき、夜闇のうえを街の電気の灯がアメーバのように四方八方に伸びていた。その灯たちの光に照らされ、平野の縁にある、仙台市中心部の林立する高層ビルはぼんやりと輪郭を現し、その輪郭の縁につく航空障害灯の赤い光はぱちぱちと点滅していた。

社会人二年目あたりのころはこの坂をシビックに乗ってサウダージかアゲハ蝶をかけながら猛スピードで駆け下りた。だがいまはそんなことをするような年じゃない。だいいち、後部座席の娘から怒られる。

バックミラー越しに見る、中学三年生の娘はつーんとした顔で無言のままスマホをタップしていた。中総体が終わってテニス部は引退したのに娘はなぜか部活のジャージをずっと着ている。そんな年頃の娘が父親のことを好きになるわけがなかった。ポルノグラフィティなんてかけてもボカロ曲しか聞かない娘とは音楽の趣味も合わない。

塾への送り迎えは妻から押しつけられていた。娘は特進クラスで授業もみっちり詰めこまれ、帰宅するときはもう夜の十時だった。昔の自分は残業月二百時間なんて働き方もしていたがいま若手に平日毎日夜十時まで働かせたらすぐ辞められる。

だが経験上、人間は人生のどこかで限界まで努力させないといけない。娘はいま頑張るべき時だった。

「お父さん」

「なんだ?」

「なんでこんなに勉強しなきゃいけないんだろ」

あえてここは俗物的な本音を言おうと思った。

「人生ってのはな、たとえどんなに才能があったとしても落ちぶれるときは落ちぶれるし、アホンダラが出世街道を突き進んで部長や役員になることもざらにある。ただな、お父さんの経験上、人は絶対に裏切るけどね、経験と学びは裏切らない。裏切らない武器が欲しいだろ? だから学ぶんだよ」

娘は無言のまま、スマホをいじった。

下り坂の途中の交差点を左折。真っ暗な住宅街をうねうねと曲がった。

家に到着し、ガレージにバックで車を入れている最中に娘が声をかけてきた。

「お父さん」

なにかを期待した。

「どうした?」

「この車、やっぱり臭い」

なぜか裏切られた気がした。

 

 

娘は宵っ張りだから、風呂はいつも娘より先に入る。脱衣所で服を脱ぎながら考える。娘は妻に勉強がつらいと愚痴をこぼしているらしい。だが申し訳ないが学校や塾のカリキュラムや受験と就活、パワハラが横行する会社員生活よりも、寺での修行よりは遥かに楽だ。

宮城の県北、曹洞宗の寺の三男坊として生まれた。家は長男が継いだが、親がよせというのを聞かず二十一歳の一年間、大学を休学して無理やり修行に行ったことがある。曹洞宗は総本山で修行を受けるが総本山は福井の有名な永平寺のほかに、横浜の鶴見の総持寺がある。当然総持寺を選んだ。理由は簡単で、嫌になったら寺の目の前の鶴見駅から脱走できるからだ。永平寺は脱走しても近くの駅から一時間に一本しか電車が来ず、追っ手にすぐ捕まる。

修行は坐禅三昧。身心脱落しんじんだつらく――体も心も全ての束縛、執着から解き放たれること――、すなわち悟りにいたることを目的とする。

起床は朝三時半。大きな鈴の音で起こされる。跳ね上がるように動いてすぐに身なりを整え、桶一杯の水だけで顔から頭までを丁寧に清める。起床後十五分から僧堂で朝の坐禅、暁天坐禅きょうてんざぜんを始める。

四時半からの朝のお勤め、朝課諷経ちょうかふぎんが終わるころには太陽が昇り、七時になってようやく粥・ごま塩・漬物の朝食、小食しょうじきをいただく。午前中は作務をこなし、中食ちゅうじきを食べ、午後は講義、坐禅、夕方のおつとめの晩課諷経ばんかふぎんをこなして、五時に夕食、麦飯、味噌汁、沢庵と少しのおかずの薬石やくせきを食べたら、再び講義。夜の坐禅の夜坐やざを終えたら九時には、一枚の畳のうえで寝かせられる。

それらのすべてに作法があり、間違えると容赦なく喝が飛ぶ。どうしても覚えられずに最初は苦労した。

先輩の修行僧たちからいろいろ教えてもらったりしてたどり着いた結論は単純で、作法をすべて丸暗記することだった。

最近読んだ佐川恭一の、美少女のおしっこを飲みたいがために科挙をガチる作品の主人公ではないが頭のなかに想像上の図書館を作り、修行のすべての作法を本に書き出しその図書館の棚へ納めた。その図書館は修行を終えても役立った。ただの平凡な能力しかない自分が社会人として働けて二人の子を養えるのはずば抜けた記憶力があるからで、それを支えているのはこの脳内図書館だった。大伽藍のごとく広大な図書館にはいまでは修行僧の作法や仏教の知識以外にも数多の棚が並んでいる。仕事のために覚えた半導体技術の知識を詰めこんだ棚。趣味のソロキャンの知識を入れた棚。娘のために少しずつ覚えはじめたボカロ曲の知識の棚。ボカロPのハチが米津玄師で、有機酸が神山羊だとは最近知った。

修行の終わりが近づくころ、寺の作法をそのまま丸暗記し怒鳴られはしなくなり、悟りを得るのはあともう少しだとあの頃の自分は舐めていた。

総持寺の大僧堂は音も何もしなかった。堂の中央に祀られる僧形文殊菩薩像が見つめるなか、ひしめきあうほかの修行僧たちと同じく、壁を向いて坐禅を組む。精神を極限まで集中させる。大宇宙の煌めきが目の前に現れた。その宇宙は手に届きそうなほど近くにあり、宇宙と自己が一体になりそうだった。

だが、悟りを得るには執着がまだ残っていて、警策きょうさくで喝を入れられる。悟りは開けなかった。

結局、修行期間を終えて下山し、大学に復学後、院試に向けて真面目に勉強しだすようになった。

 

 

服を全部脱ぎ、洗濯機のそばのかごに入れる。春に「わたしの洗濯物をお父さんのと一緒に洗わないで」だなんてテンプレみたいなことを言われてここ最近とても傷ついている。

ふと、スマホが車に置きっぱなしなのに気づいた。

一度脱いだ服をわざわざ着るのも面倒だ。寺では風呂に入ることすら修行だ。浴室には跋陀婆羅菩薩ばっだばらぼさつという仏が祀られて会話することすら誡められる。だがしかしここは娑婆だ。少しぐらい横着してもいいだろう。えい、面倒くさい。全裸で出よう。

脱衣所を出る。廊下には誰もおらず、すぐ右が玄関だった。靴箱の上に置いてあるキーを持ち、廊下のライトのスイッチの上、ガレージのセンサーライトのスイッチがオフになっているのを確認してから玄関を開ける。

目の前のニュータウンの街並みはほぼ暗闇で、坂の下の夜景から放たれるかすかな光が遠くからぼんやりと照らしていた。計算通り。そっと玄関を閉めてすばやくガレージへ駆けこんだ。

運転席のドアを開ける。スマホはセンタートレイに置きっぱなしだった。スマホを回収し、ドアをゆっくり音を立てないように閉めてふっと一息つく。ここは夜、車がめったに通らない。あとはガレージから出て玄関へ入ればいい。――そう思って立ち上がろうとした瞬間ありえないことが起こった。センサーライトが点灯したのである。

「うわああああ!?」

すぐさま車の陰に隠れる。心臓がありえないほどのテンポで鼓動する。どうしてだ? 考えられる原因として、あの一呼吸していた間に家の中の誰かがライトのスイッチを入れた可能性がある。犯人は誰だ。娘か、妻か。息子はそんなことをするわけがない。そんな照明のスイッチを入れる暇があったらSwitch 2で遊んでいるはずだ。

ライトが消えた。もう一度足を動かす。センサーライトが反応して点灯するとたちまち、全裸の、だらしない中年男性である自分の肉体がオレンジの光に煌々こうこうと照らされる。

すぐに車の陰に隠れた。――こうなったのは全部、自分が横着したせいだ。一刻も早くこのビルドインガレージから出なければならない。

誰か助けてくれ! いや、誰も助けに来るな! 全裸の姿を見られたら、俺は明日からどうやって生きていけばいいんだ。とりあえず深呼吸をする。再びライトが消えた。

闇をじっと見つめていると、急に頭が冴えて感覚が鋭敏になる。自己と闇との境界はだんだんと曖昧になっていった。

こういうときは経典を読んでアイディアをひねりだすのがよい。脳内に図書館を想起。豪華絢爛な図書館がたちまち現れた。そのなかを脳内で一人歩く。普段使っている棚たちを通り過ぎ、しばらく奥へ進むと、ほとんど読まなくなった仏教の棚があった。その棚に手をつっこんで本を取りだす。スッタニパータ、初期仏教の経典だ。本を開くといまの状況にぴったりの言葉があった――『犀の角のようにただ独り歩め』。

そうだ、助けなどいらない。犀の角のようにただ独り歩もう。学びは裏切らない。そーっと歩く。センサーは反応しない。ぺたりぺたりと、ゆっくりガレージを歩く。コンクリートの床の、しっとりとした感触が足の裏から伝わっている。汗がしたたり落ちた。

突然、どこか遠くからクラクションの音が鳴った。

――急にすべてがわかった。そういうことだったのか!

もう一度図書館を想起。仏教の棚から本を取り出すと道元禅師の『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』だった。ページをめくる。「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」。ああ、わかる。わかるぞ。

興奮に震えていると、棚のひとつがきしみ、あっという間に崩れた。次にもうひとつが崩れた。本が鳥のように飛び出て、棚たちは一気に崩壊するやいなや、図書館の天井に穴が開き、向こうには漆黒の大宇宙が見えた。宇宙は冷たく光った。その光は自己であり、その色は真理そのものだった。

――悟りを開いた。

(これが身心脱落か!)

体が熱くなる。熱が、骨にまでまわった感覚がした。するとありえないことに自分の肉体から強烈な閃光が放たれ、ガレージのなかを燦々さんさんと照らした。悟りを開いた者が放つ、後光である。

(俺が光ってどうするんじゃい!)

セルフツッコミを入れた瞬間、玄関の方からガチャリとした音が鳴った。「いけない、いけない。バッグを車のなかに置いてきちゃった……」と娘の声がした。

万事休す。だが慌てない。悟りを開いた者はじたばたせず自分の運命を受け入れるのだ。

ガレージで仁王立ちする。娘はパタパタと足音をたててガレージにやってきて、光り輝く全裸を見るなり、「きゃー!」と叫んだ。こちらも負けじと「かーつ!!」と雄叫びをあげた。

© 2025 眞山大知 ( 2025年8月11日公開

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"身心脱落"へのコメント 14

  • 投稿者 | 2025-08-16 08:45

    真面目な話もありつつユーモアが爆発していて面白かったです。
    会話が妙にリアルで父に少し哀愁を感じたり、でもきっとそんなに気にしていないんだろうなとも思ったり。
    しかしラスト、これは……救えませんねぇ笑
    ちょっとだけが命取りと言うかなんというか。

  • 投稿者 | 2025-08-16 09:02

    感想ありがとうございます!
    やっぱり横着するのはいけませんね……

    著者
  • 投稿者 | 2025-09-19 12:38

    語り手であるお父さんの凡庸さにリアリティがある前半から、寺での修行という非日常世界への場面の転換、そして現実に戻っての笑えるオチという流れが見事でした。序盤の「街の電気の灯がアメーバのように四方八方に伸びていた」や「航空障害灯の赤い光」などの光の描写が、語り手が最後に放つ後光への伏線になっていたのかもしれません。「誰か助けて下さい」へのアプローチも勉強になりました。

    • 投稿者 | 2025-09-25 16:21

      ありがとうございます😊
      物語の構成はいつもヒーヒー言いながら考えてます(:3_ヽ)_

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-20 12:41

    いやもう悟りを開いたのなら全裸だろうが何だろうが構いませんよね?
    毎度ながら、ユーモアを交えながら〈了〉まで駆け抜けていく清々しさが全開で素晴らしいです。
    個人的には「照明のスイッチを入れる暇があったらSwitch 2で遊んでいるはずだ」というベタでしょうもない一節が好きでした。

  • 投稿者 | 2025-09-20 16:07

    ありがとうございます😊
    もしこのお父さんみたく悟りを開けば全裸でも恥ずかしくないのでしょう。ちなみに「照明のスイッチを入れる暇があったらSwitch 2で遊んでいるはずだ」って一節はあまりにベタすぎるかなと思って削ろうかって考えてました(:3_ヽ)_

    著者
  • 投稿者 | 2025-09-21 15:22

    面白かったです。
    身体脱落、悟りを開いて宇宙と一体化する壮大さと、娘に嫌われてしまうお父さんの悲哀との対象とか、悟りを開くための修行僧の厳しい生活、でも覚えちゃえばなんてことないしみたいな精神性の欠落とかが、くっきりした縞しま模様になっていてさすがの構想力筆力です。

    道元の教えを丸暗記しているわりには自己の内面の血肉としていなかった主人公ですが、こうして悟りを開いた以上、不審者として通報されようが、変態オヤジとして離婚されようが、泰然として人生を歩んで行くことでしょう、と深い感慨を覚えました。

  • 投稿者 | 2025-09-21 17:44

    ありがとうございます😊
    色んな要素を詰め込みすぎてわかりにくくなってしまったかなと思ってたのですが面白いといっていただけてよかったです。
    主人公はこの後どんなことがあっても平気な面して生きていくんでしょうね。正岡子規の「悟りとは、如何なる場合にも平気で生きている事である」って言葉もありますし

    著者
  • 投稿者 | 2025-09-22 23:38

    先日、永平寺の修行僧が修行体験の女子にセクハラというニュースを見たばっかりなので、大いに笑わせていただきました。
    質問なのですが、曹洞宗の僧侶って永平寺か総持寺でしか修行できないのですか? 水沢の正法寺とかデカいから修行しているのかなと思ったのですが。

    • 投稿者 | 2025-09-23 07:05

      たしか永平寺か総持寺でしか修行できなかったはずです。学生時代の先輩に曹洞宗の寺の息子がいたのですが、修行に行くときに永平寺か総持寺のどちらかを選べと言われたそうです

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-23 12:16

    以前書いたコメントがなかなか承認されないのでもう一度コメントをします。

    凡庸な語り手の共感できる描写から、過去の寺での修行風景、そして笑えるオチと展開が予想できずに最後まで楽しく読めました。序盤の「街の電気の灯がアメーバのように四方八方に伸びていた」や「航空障害灯の赤い光」、後半の「センサーライト」などの光の描写が、語り手が後光を放つラストへの伏線になっているような気がしました。
    この作品を読んだ後、久しぶりに「サウダージ」を聞きました。

    • 投稿者 | 2025-09-23 12:27

      ありがとうございます😊
      「街の電気の灯がアメーバのように四方八方に伸びていた」や「航空障害灯の赤い光」は舞台にした仙台のニュータウンの夜景がこんな感じだったので書いてみました。たしかに無意識的に伏線を張っていたのかもしれません‎🤔

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-24 01:01

    せっかく送り迎えしてあげてるのにツンとしている娘さんリアル…なんて思っているうちにすごく遠くまで(ガレージだけど)飛ばされちゃいました。人生のなかでいちばん大変だった修行時代も覚えちゃえばもう怒られないし♪の人が長じて、全裸で自他の境界が…って
    解脱。これはもう娘さんに徹底的に嫌われるしかないです。
    (でもなんでおじさんて全裸でいるの平気なんだろう?うちの父も脱衣所のドアを閉めてくれなくて困ってます。あとお風呂の窓をあけたまま入ろうとしたり。通報されても仕方がないことだよ???と言ってもまるで聞かない)

    • 投稿者 | 2025-09-24 06:30

      自分もだんだん歳をとってわかってきたのですが、悲しいことおじさんは恥じらいを感じる感性が鈍くなっているのです……。10代20代の鋭敏な感性を保てるほど強い男は滅多にいないのかなと(:3_ヽ)_

      著者
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