私は所謂、一人っきりの生活を想えば、したことがない。
無論、東京に居る時、高円寺、赤羽や御徒町で賃貸契約にて住んでいたが、ドアは開けっ放しで所謂、同じ様なヒッピー、ロック好き(洋楽限定)、文芸好き(リアルタイムを省く古典)が、ほぼでは非ず毎日、誰かしろ部屋へと勝手に来ていて底辺の梁山泊なる暮らしをしていた。未だに夢で馬鹿達の夢をみる。多分、他界が多数であろう。あの生き方では。
そこから北千住で出合った親友との生活を挟み、女性との暮らしが長かった私は一等「即日、他界するタイプだね」と云われながら自身でも何故か? 罰か? いいのによ? で、その馬鹿仲間より延命している。そうしてハナシは長くなるから省くが(旧いエセーを読んで呉れれば判る)私は流れ流れて、疎開地で一人暮らしを始めた。
掃除、洗濯やら、その他。
セルフ・ネグレクトなる私は、同居していた女性やら、その、招いていたルンペンやら友人に全て、おんぶにだっこであった。家具とかも、そふ、である。
一人暮らしの時は所謂、その闖入者達が「この部屋はアルコール以外、何も無いから家具、持ってきたよ」にて「俺に生活をさせるな!」で痴話喧嘩したし、無論、女性と同居の時は全てが揃っていて、上げ膳据え膳。私は、自身を卑下するタイプで有るが、この生きている定めを鑑みて劉邦かと思うた時もあった。
さてプチ劉邦、何時もの様似で二日酔いにて適当にスマホをタップ。纏める。
梅崎春生などの所謂「隣三件の小説」が現代、全くない。先日、西村賢太の遺作を図書館で借り、その文中にて「私小説は死んでいる」を面倒臭い程、記述していたが、そうでもない。結句、カタチは変われどもユーチューバー、ブロガーはチンケな私小説でだろ? と。
隣三件の雑文も、そうであろふ。だが然し私が伸べたいのはリアリティである。私小説的、隣三件のユーチューバーは「こんなのをやりました、こんなのします」で結句、エピゴーネンだと思うた。ちゃんと観た事はないから、变化ならば謝る。
昨日。
新居の部屋はフローリングで朝は寒い故、最早、誰も家政して呉れぬ私はamazonでマットやらソファを購入した。amazonを使うのは初めてであった。登録に難渋をばした。勝手に月々の会費が掛るプライム会員になっているし。
更に本日中に届くとの事で私以外、誰も存在しない部屋にはemptyであり、窓の外から観える世界遺産を眺めながら、アルコールが無くなる! にて待機中、この隣三件の馬鹿らしく、だが然し私には本質なエセーを適当に羅列した。
引用して改ざん。
「一人暮らしするにはな、アンチャン。毎日、amazonをよ、amazonを何時もでも好きな時にamazon〜出来る人になれよ!」
生き残っている私は、これも隣三件のユーモアとして受け入れて、生活をしている。
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