破滅礼賛

エセー

2,605文字

破滅派の方々の興味や共感を誘って閲覧数を伸ばそう等というような狡猾な損得勘定はこれっぽっちしかなく、本心からただただ破滅を礼賛するだけである。

 先日、新潟県佐渡島の北沢浮遊選鉱場跡という、近くの鉱山から採掘された鉱石から、不要な部分を油や起泡剤と水を混ぜた溶液を利用して取り除く「浮遊選鉱法」という方法を用いて処理するために使われていたらしい施設の跡地へ訪れた。石造りの大きな段差場の構造に、ところどころ真四角の空洞ができており、その奥は暗くて殆ど見えなかったが、みずみずしい、しかし安らぎのある深い緑の苔や草木が生い茂って、巷では「佐渡のラピュタ」と呼ばれているそうで、なるほど確かにそれに似て自然と人工物のなんとも美しい対照を見せてくれる。

 私は今は都心の方に住んでいるのだが、こういう風景は東京では殆ど見られない。街に緑が無いのは勿論なのだが、街が薄気味悪いほどに歪な整然さを持っているからである。周りを見渡してみても広がるのは直線が織りなす単一な構造物ばかりであり、それはまるで意図しない形を排除しようとするような、所謂脳化社会的な、「ああすればこうなる」で形作られているという意志を感じさせる。それがなんとも不気味に感じられるのである。だが、この選鉱場の持つ異様な美は、ただの人工物と自然との調和でもなく、また、都心の構造物の持つような歪な対称性ではない。

 ある時、鎌倉の浄智寺という古寺に訪れたことがある。赤や黄のこぼれ落ちた葉が埋め尽くす坂道を少しばかり登り境内に着くと、鐘楼門や曇華殿といった木造に石灰の白、それにネズミ色の瓦屋根といった実に日本風の格式高い建築物を見た。それは確かに心が洗われるようであったが、私は寧ろその下のひび割れて苔の生えている石造りの道や階段の方に、変に意識が吸い寄せられるのだ。それは例の選鉱場の持つ雰囲気に酷似していた。確かに寺の本堂や仏像は中々面白く、また辺りの木々や池等の自然のもたらす情景に調和する主張の抑えられた色使いや形をしているのだが、どうにもそれとあの「ラピュタ」ははっきりと違う美的感覚を訴えてくるのである。

 最近、ある大学生の死亡記事を目にした。なんでも死因は自殺で、将来や人間関係への不安が動機だそうだ。調べてみると、我が国では年間およそ3万人もの人が、将来の不安や人間関係、受験や就職などを原因として自ら命を絶つのだそうだ。なんとも痛ましいことであり、少なくとも世界と比較するとかなりの物質的豊かさを、我々日本人は享受している筈であろうに、どうしてこのようなことが起こるのだろうと甚だ疑問である。しかし、この記事を目にした時、まず頭にふっと浮かんだのは、あの選鉱場であった。ユングの言うように私の中の無意識が私に何かを訴えかけたのだろうか。その時は気にも留めなかったが、今となってはそこに変な因果があったのではないかとつい疑ってしまう。

 では、何が私をここまであの選鉱場に惹きつけるのだろうか。それはあの選鉱場の持つ「破滅の美」である。物や事が廃れ滅びゆく姿、あるいは既に崩れた状態を目の当たりにした時、我々はそこに大いなる美を感じるのだ。思えば、我々の知る世界の名作や絶景、それらの中に破滅の美を持つものは多い。私の敬愛するロシアの偉大なる作家ドストエフスキーの「罪と罰」や、「カラマーゾフの兄弟」にもそれが見受けられないだろうか。あるいは「人間失格」等もそれが比較的顕著に現れていると思う。これらは人間の滅びゆく姿を実に巧みに描いている。もっと身近な例で言えば、晩秋の落葉や、平泉のあの無常観といったものもそれを含んでいるだろう。ものの破滅にはなんともいえない美しさがあるのだ。

 しかし、それだけではない。それだけではあの選鉱場の持つ美を語り尽くすことは決してできない。そのもう一つの重要な部分こそが「自然の受容」である。我々は常に孤独を抱え込んでいる。そこからは決して逃れることはできない。我々は他人の思考を決して知ることができないからである。故に我々は常に孤独なのである。愛だとか友情だとかはある種の思い込みでしかなく、完全に信じるということは不可能なのである。勿論、日常生活を送る上で支障はなく、我々はそもそも物や事自体にそれの存在を信じることすら不可能なのだが、ともかく我々はそういう孤独を根本に抱えているのである。昨今よく話題になっているある宗教団体の問題にしろ、自殺においての人間関係のもつれにしろ、そういう孤独が顕在化してしまったことが原因なのではないか。資本主義の発展に伴って、それはあらゆる共同体を破壊しつくした。階級や集落といった従来の集団から、いずれは人種、性別、国籍といった全ての共同体を地上から葬り去ってしまうことだろう。もちろん、それは決して悪いことだけでないのは確かであり、その恩恵を我々は享受している。けれども、そういう共同体の喪失は、我々の安堵感といったものをなくしてしまった。その結果、先のように孤独がより一層表面化してしまったのだ。また、資本主義がもたらしたのは共同体の破壊だけではない。それは競争というシステムの過剰な促進をも与えたのだ。そうなると、いよいよ我々は我々を信用することができなくなる。競争に負ければ得るものはなにもないという「ゼロサムゲーム」では、負けることは許されない。すると、どんな手を使ってでも、勝とうとしてしまう。それこそが、我々の人間不信、ひいては孤独を、先の共同体の件も合わさって更に強いものにしてしまうのだ。だからこそ我々は無意識のうちに受容を求めるのだ。それは孤独からの逃走である。唯一残された受容のフロンティア、それこそが自然であるのだ。

 とすると、あの選鉱場の強い印象感は我々の無意識下の強い不安を受容する自然と、あの巨大な、大いに発展していたであろう人工物の破滅を絶妙な間隔で持つ、コントラストなのだ。そして、それこそが美なのであろう。

 では、若々しい人間や自然の美はどうだろうか。私はその若々しさにも、いやより若ければそうであるほどにそこには衰退の影が潜在しているのだと思う。生まれたばかりの赤ん坊を見た時、その中に無意識に我々は死を思い浮かべているのではないだろうか。未来は明るくされど暗い。だからこそ、その破滅の不安を強く感じるのではなかろうか。

 我々は破滅なしには自然に受容されることはない。生きている限り我々は自然を破壊し、蹂躙し、略奪するからである。それ故に自然と破滅のなす美が、我々の心に強く訴えかけるのだ。

2022年10月24日公開

© 2022

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