「カレーつくろっと」
彼女がそう言ったとき、おれは動揺をかくせなかった。
その理由はなぜかというと、彼女の言った「カレー」のアクセントが標準アクセントだったからだ。
「カレー?」
「カレー」
聞きかえしてみても彼女の「カレー」はなんのスパイスもきいてない。よくいえば家庭的な味の「カレー」だ。
おれは悲しくなった。
お気に入りのお笑い芸人がお決まりのギャグをしてくれなかったときのようなかんじ。なんだかガッカリするあのかんじ。
おれの知ってる彼女は「カレー」のことを「カレー」と発音しない。
彼女は「カレー」と発するときアクセントを頭につける。つまり魚の「カレイ」の発音で「カレー」と発語する。
だから付き合いはじめの頃は、
「カレーつくろ」
「カレイをつくる?」
というコミカル且つ哲学的なやりとりが展開された。
そういったやりとりをすることがもうできなくなってしまったのかと思うと、おれは時間という概念に対し勝手な敵意をおぼえる。
「ひだりヒラメにみぎカレイ」という言葉があるが、カレイのアクセントでカレーを表現する彼女はおれにとって「ひだりカレイ的な何か」であり、ゆえに特別な存在であり続けていた。
いや、カレーのアクセントが標準になっただけで彼女がおれにとっての「ひだりカレイ的な何か」でなくなるわけではないのだが、しかし彼女のこの小さな変化は、これから起こる大変化の序章にすぎないのではないかと妙にそう勘ぐってしまいハラハラする。
いやいや、とおれは首を横にふる。
「カレイ」のアクセントは「カレー」に変換されたのかもしれない。うん、そうだ。そう信じたい。
カレイのことをカレーのアクセントで言ってほしい、逆に。
そう思ったおれは彼女に「カレイ」という単語を言わせたくてその機会をうかがう。
が、ほどなくしておれはそんな機会をうかがう必要がなくなる。
おれは彼女が今までどおりの「ひだりカレイ的な何か」だと確信し、安心する。
それはなぜかというと、彼女はカレーをつくると明言しておきながらその日、カレーをつくらなかったのだ!
うん。いつもの彼女だ。
よかったよかった。
"暴徒の二人男女、もちろん猫も。その9"へのコメント 0件