「私」構築

猫が眠る

エセー

3,594文字

高校生の頃に書いた作品です。

1 初めに

この記録を始めるきっかけになったのはルソーの「孤独な散歩者の夢想」と云う本だ。といっても、その本を読んだから書こうと思ったのではなく、ただそのような種類の本が世に出回っているという事実を知ったために書くことを思い立ったのだ。冒頭を読んだだけなので、もしかするとルソーの書いたものは全く異なるものであるかもしれない。しかし、その時はその時で良しとしよう。ただあの本の存在が(実際に存在しているかと云うことは別にして)これを書くきっかけになったというだけで、私には十分である。
この文章は私というものの全体の地図を自ら把握するために自らのために書いたものであり、日々の日常哲学から私の哲学というものを構築しようという人生に於いて大きな位置を閉める作業である。そしてその内容は、私の記録からはじまる。しかし、ただ私の記録といっても私の身長がいくつ延びたかというような体の記録とかでは大変詰まらないし、まったく題意に沿わないから記録は記録でもその主眼は心の動きということに置くとしよう。そして、心の動きというものは日常から抽出していってそれを思考に於いて発展させていくとしよう。そういうわけだから、未だこの書きはじめに於いては具体的な内容はまだ決まっていず(といっても添削するときにはわかっているだろうが)、その都度その都度書き方や物事を見る視点、焦点は変わってくるかもしれないから、そのつもりで貴方達には読んでほしい。
私は「貴方達には読んでほしい」などとあたかも誰か話し相手がいるかのように書き進めていたが、これだけの長文と稚拙な文章では自分以外の読者は期待できそうにないが、しかし書き手としては未来の自分が自分の書いたことを忘れていることを期待して、彼に向かって手紙を書くようなつもりで書き進めていくとしよう。

2 美と死Ⅰ

手当たり次第に掴めるものを掴んでいっても、きっと混沌としてどれを選ぶべきか全く分からないから一番手近なものから始めようと思う。きっと、どこから糸を辿っていってもそれが私から飛躍して行かない限り私というものを描くのに役立つに違いない(このような不親切な書き出しで行き先が見えて来ない読者もいると思うが、一応添削をして思考の流れは掴めるように書いていくつもりだから心配はされなくて良い)。
そういうわけで、日常から自らの哲学を見出だしていく作業の記念すべき第一回目は、今朝、朝食を食べてから二階のベランダに出たあたりで始めるとしよう。
さて、今日の朝といえば非常によく晴れていて、風は強く、気温は程よく涼しく、正に、「天高く馬肥ゆる秋」であった。2階のベランダにわざわざ遠回りして吹き込む風は秋の香がした。私はこの風を風鈴の音で体感したく思い、夏が終わってからしまってあった風鈴を取り出してきて、ベランダの物干しざおに括りつけた。思いの外風は強く、少々ぅ喧しかったが、毎日人込みのなかで聞く音と比べれば、ずいぶんと清々しく耳に流れて行く音であった。
家の前の車道と歩道の境には、それほど車が通る道ではないので、1メートルの幅をとってつつじと木々が植えられていた。つつじは満遍なく1メートルの幅に生い茂り、木々は一定間隔を開けて植えられていた。木々が一定間隔で植えられているのは人工的でありあまり好きではなかったが、このコンクリートの世界ではそれがあるだけでも救いといえた。木々は紅葉し、風が吹くたびに葉が落ちて風と共に流れた。私はこの現象に大きな美を感じてしばしその現象の残影を映してその光景を眺めていた。
かつての私はこのような現象を見て、自然の私の心をゲミュートする現象はそれをもって私の心にそれのもつ本質、或は魂を表しているものだとかんがえていた。否、今もそのように考えているのかもしれない。真偽は別としても、自然とはそれだけ人間の心を触発するだけの美を持ち合わせているといえる。本居宣長はこれを「もののあはれ」と表した。私達はコンクリートに対してそのような美を感じることはほぼ無いといって善いだろう。何故だろうか。木々に対しては感じるが、コンクリートに対しては感じない、この美は何故このような区別をするのだろうか。今はまだ明らかではないが(これから確かめる道筋をそのまま辿って行くのである)、それは生と死というところにあるのだと思う。コンクリートは、なるべく、変わらない、滅びない、少しでも長く存在しつづける、ということを追究するために用いられたものであり、その点が、変わりつづけ、滅びつづける自然との最も大きな違いであろうと今私はそのように考えている。
コンクリートなど、なるべく「変わらない」もののなかで生きる私達にとって、それと対する自然の生死の移り変わりは際立っているように私は感じる。他の人間はそうではないかもしれない。彼等はコンクリートに生死を、光り輝く蛍光灯やネオン、LEDに太陽や月、星の生きた輝きを、エアコンに生きた空気を、季節を、、、忘れてしまって、変わらない「居心地の良さ」という型に嵌まった世界に埋もれてしまったのかもしれない。それは十分に考えられる。その他のかつては考えられなかったようなことに心を奪われているということも、、例えば明日の提出物だとか、繰り返される日常への憂鬱だとか、様々なことでそれは現在考えられる。
しかしながら、人間とはそれ自体で生と死とはどちらとも引き離すことのできない存在である。忘れようとしている、もしくは一時的に忘れている人間はそれを見た瞬間に言いも知れぬ嫌悪感に襲われてそれから逃避したくなるのである。それを忘れようとすることは締切の迫った小説家が、小説はかけないので、現実から逃避して算数の簡単な足し算に没頭しようとするようなものである。しかし、先ほどもいったように締切は必ず自分の元へ訪れる。しかもそれが死である場合はその期限が明日かもしれないということである。従って、死を忘れようとすることは生き方についての誤った結論である。人間は死を離れて存在しようとすべきでなく、また、それは達成し得ないことである。
捉えかたを変えれば、コンクリートでできた建物なども死への恐怖から、それを忘れようとして生まれたものであると言えるだろう。しかし、コンクリートはそれを隠そうとするだけで、その存在を人間の心から消し去ることは決してできない。だから、人間は死を忘れようとしても、死への不安を持ち続けてしか生きることはできない。その不安は隠そうとして、若しくは隠したと思い込もうとして、それでも尚目の隅にそれがちらつくから生じるものである。現代人の問題は中途半端に避けようとすることに問題がある。それを正面から受け止めようとすればそこには不安というものは存在し得ず、死とはそれ相応の重みを持って人間の心に存在するようになるのである(その時、先ほどの例でいえば未だに算数をする気になるかどうかはさだかでない)。
このように生死を直視した時、初めて死の本当の重みを感じ、自然の滅びや生命の始まりもまた初めて人間の心を強く触発するようになる。(11/4)

3 美と死Ⅱ
このように考えていたのだが、朝の冷たい空気にあたったらコンクリートトガラスで造られた世界や人間によって造られたルールのなかで生きることも素晴らしく美しいことだということに気がついた。この時僕はまったく自然に美しさを感じなかった。それどころか、自分の想像通り、自然を忌ま忌ましく感じたものであった。このような自己撞着は誰にでもあるものだが、同時に考えて見れば非常に不可解なことである。
何故このような相反する美が私の心に存在するのか。この二つの美の性質についての考察を深めていくとともにその問いへの答えを見出だしていくとしよう。
まず、昨日の「紅葉が風に吹かれて木から舞落ちた時に感じた美」について考えてみよう。この美を感じた心を分析してみるとその根底には無常感のようなものが汲み取れた。つまり、今まで生きていた葉が風に吹かれることではかなくも散ってしまう、死んでしまう、、しかも、それが特別なことではなくて、自然の力によって無造作に、日常的に行われるということに対する無常感であろう。この種の美は芸術に反映されて、科学技術などとは別に現在まで発展してきた。
そして次に自然界の性質からの独立をしているように見える美、つまり前述の例でいえばルールなどの枠組み、又それにしたがう人間自体、建築などの、永続性や完全性を持った美について考える。それは高度な文明が発達するためには必要不可欠なものといえるだろう。何故ならば、文明の発達というものは芸術などで測られるのではなく、科学技術の発展などではかられるものであり、この美は自然から独立した科学技術への憧れを助長するものであるからである。

2020年12月5日公開

© 2020 猫が眠る

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