1
鉱山の土砂よりも煤けた色をした曇天がどこまでも広がった摂氏二十八度、一九六三年の十二月のとある日、「カワベが死んだ」という知らせが僕の耳に飛び込んできた。
カワベ……そいつは日々の蛮行の繰り返しが祟ってか、全身の肉という肉が禍々しく削がれているかのような身体つきをしていて、つんと尖った唇、酒に酔うと過剰に刺々しく放たれるルバ語の方言とご自慢の戦争踊り。そして何より、そのブラックマンバのようにひん剥いた瞳孔から鋭く放たれる眼光。そいつに睨みつけられた日には、僕の臆病な心臓などひとたまりもなく、その圧に締めつけられるばかりだった。
もはや研がれたナイフそのものみたいなやつだとカワベはいつも周囲から恐れられていた。そして僕自身がそんな彼をどう思っていたか。当然、僕もあいつのことなら、大嫌いなやつだと思っていた。
汗と粉塵の中で幾度もむせ返り、爪をひび割れさせ、掌から赤いものを滲ませながら、やっとこさ採掘してきた鉱石の欠片を、あいつと来たら「また体の良い賭場のチップが来たじゃあないか」と軽口を叩き、嗾け、僕はいつもやりたくもない闘鶏に参加させられる破目になったものだった。
そしてその度、決まって素寒貧にさせられた。カワベは全身がナイフみたいなギラギラしたやつだったから、ただの木偶の坊にすぎない僕などが、「嫌だ」と主張することなど、出来るはずもなかった。あの痩けきった禍々しい身体つきを見れば、僕の身体は今でも震えが止まらなくなるだろう。
そのはずだから、僕を郵便局の壊れた幌の下に連れて行けば、そこで横たわる顔の潰された屍体がカワベのものだったということが、もっと早くわかったに違いない。
僕らは白人たちのように顔写真の切り抜きを財布の中に携えて持ち歩いたりはしないが、闘鶏によって他の坑夫たちより羽振りの良かったカワベはたいそう見栄坊な男で、本人は前衛と称していたけれども、僕らには珍奇にしか見えない格好を好んでいた。その為、彼の装飾品一つ一つこそが身分証に値する代物になっていた。
だが、虚飾が災いしたか、高価なジャケットや革靴といった類は、カワベの遺体からすべてはぎとられ、唯一残された英国製のパンツによって辛うじて、その亡骸がカワベ本人のものであったことの証となったというのは、なんともお粗末な話ではないか。ついこの間まで不愉快を振りまいていた男のあまりに呆気ない喪失に僕はもしかしたら、少し戸惑っているのかもしれない。
そんな哀れなカワベを襲った犯人が誰であるかは、未だに誰もわからないし、調べようともしない。パンツの中からアイツの大事な「逸物」が、削ぎ落されていたというから、いつも悪辣に馬鹿笑いばかりしている傭兵の連中がもしかしたら、黒人だてら一丁前にええかっこしいのカワベをたまたま見かけて、面白半分に行っての凶行だったのかもしれない。
けれども、懇切丁寧に身元がわからないように、カワベの顔は、泥水を混ぜ込んだ土人形みたいにぐちゃぐちゃにされていたことだけがどうにも腑に落ちなかった。
何故なら、あいつら傭兵どもと来たら、僕らのようなしがない坑夫から天下の参謀総長まで、黒人のことなどみんな大差ない存在だと思い込んでいる節があって、わざわざ身元が判明しないように屍体に手を加えるなんて発想を持ち得ているようには到底思えなかったからだ。
むしろ、「また新しく首相の馘を持ってきたぞ」と豪語しながら、参謀総長の邸宅にカワベの馘を投げ込むくらいの無理をする方が、あいつらにとっては自然のはずだった。事実、カワベと国の英雄になりそこなった悲運の宰相の顔は、僕らから見てもわりかし似通っていると話題になっていた。
「ただ、カワベのやつが眼鏡を掛けることなど、一生涯なかったはずだし、第一、誇り高い首相に影響されたかのような気取った七三分けはまずあいつには似合わない。言うならば、月と鼈、ココナッツと石ころくらい、両者の生き様はかけ離れているからな。たった一つの共通点を挙げるならば、カワベも首相も、何者かによって無惨な姿にされ、その魂はもうこの世にはいないということだけだ」
友人のマタデは、カワベが死んだことにざわめく坑道の中腹で、ハンマーと松明を掲げなら、確かそんなようなことを言っていた。僕はマタデほどの学はないから、機関銃でハチの巣にされた後、酸で溶かされたという壮絶な最期を遂げた首相が、どれだけ崇高な理念を抱いていたかはわからない。
けれども首相も、首相と対立した大統領も、そして首相と袂を分かった参謀総長もそれぞれ皆、崇高な理念とやらを謳っていたし、僕はカワベと首相の似通ったところは実はもう一つあるとひそかに思っていた。それは周りより一際、声が大きいところなのではないだろうか。
ただ、もしそれをカワベに言ったとしても、「お前が特別主張をしなさすぎるんだよ、木偶の坊。ほら、さっさと張った張った」と、一蹴されてしまうことは目に見えていたから、ついにカワベ本人にはそのことを言わずじまいだった。
翌日、僕と友人のマタデは、配達夫が落とす切手を拾いに郵便局へと向かった。
バナナの皮よりも薄い木っ端なその代物には、孔雀よりも派手な紫の服を纏った白人の女や、目がチカチカするような原色に何に使われるのか、呪術師にさえ使用用途がわからない奇妙な出で立ちをした機械が描かれていて、僕の瞳には身近に開かれた別世界の扉のように映った。そして何より、僕らにとって切手は、銅やコバルトを採掘するよりも労することなく手に入れることができる貴重な収入源でもあった。
けれどもその日は、配達夫が届け先で直々に叱られたりでもしたのだろうか。随分と丁寧に手紙を運ぶようになっていたらしく、一フラン分の切手さえも郵便局前の通りには撒かれていなかった。頭を下げながら、彷徨えども、遥か遠方の国の小さな英雄や偉人達と目が合うことはなかった。
顔のないカワベの亡骸は、僕らがそうしてうろうろしている間にも相変わらず、幌の下で横たわり続けていた。警察も、兵隊も、一端の党員と化した酋長の群れも、何者でもない屍にかまっているほど暇ではなかったのだろう。
何より、生きているか死んでいるかもわからない人間の身体が横たわっていることは、この国では特別珍しいことでもなかった。
それだけに僕らの目には、官憲の目にもハイエナの目にも留まらないカワベの亡骸の傍で立ち尽くしている一人の女の方が奇異に映った。
「どこかの国の特派員だろうか」
「いいや、特派員ってやつはどいつも普通、首からカメラを提げているもんだよ」
僕らはひそひそと囁き合いながら、奇妙な場から離れようとした。通りに切手が落ちていなければ、ここには用事もない。鉱山に戻って、銅や白人たちが何故か欲しがる粉を拭く軽石を探している方が金になるし、第一、より腕っぷしの強そうな白人たちに見つかったりでもしたら厄介だ。
そんなことを思って、こそこそと僕らが退散をしようとしたら、もっと奇妙なことが起こった。その腕も、脚も、力を入れて握ったら僕でもぽっきりとへし折ることができそうなほどに華奢な白人の女が、僕らの姿を見つけるなり、つかつかと歩み寄って、こともあろうに、僕らのことを呼び止めたのだ。
「彼はあなたたちの友人かしら。あなたたちだけが彼のことを見えているみたいだから」
女は僕らにも分かるフランス語で確かにそう言った。少し早口だったけれども、僕は少しばかり仲間内でも耳が良いことが自慢だったから、彼女の言っている言葉は、それで一字一句間違いないはずだった。
けれども、僕らのことを自分の家の使用人と勘違いした銀行の支配人か技術士でもなければ、白人が僕らを呼び止めるなんてことはまずありえないことであったし、これだけか細く澄んだ声はそういった状況ではおそらく聞くことは出来ないだろう。それほどの弱弱しい声色だったから、僕とマタデは二人でお互いの顔を見合わせ、同じ言葉で彼女の質問に応じた。
「まさか、カワベは僕たちの友達なんかじゃない。アイツは厭なやつだった。着道楽で、傲慢で、強欲なスカした奴だった」
それは彼女にとって、思いもよらない返答だったらしく、彼女は少したじろいで、片足だけ半歩後ずさりした。どうやら、この白人に対する返答で正解なのは、僕らがカワベの友人と答えることであったようだった。
僕らがカワベを仲間と見做していないことを知ると、女の唇がにわかに震えだしたように見えた。
けれども彼女は、その震えた唇から絞り出すようにしてもう一度、
「その着道楽の彼が何故、まるでサーカスの猿みたいにパンツ一枚のみすぼらしい姿で、道端に投げ出されているのかしら」
と、僕らに質問を重ねた。それにしても、か細い印象を与える割によく耳に通る声だった。
だが、彼女の尋ねることは僕らが預かり知る由もないものであった。いい加減、持ち場に帰りたくなってきた僕は、
「そんなにカワベの屍体のことが気になるなら、あんたが警察に訴えかければいい。白人のあんたが声をあげれば、警察ももう、そのサーカスの猿のことを放っておけなくなる。尤も、僕にはあんな気味悪く痩けた肉のことを猿のような御馳走みたく旨そうには、到底見ることが出来ないのだけれども」
そう厭味の一つでも言い放って、この奇妙な場から早く離れたくなっていたが、僕が口を開く前に、僕よりも頭の回るマタデが、
「カワベの着ていた服がいったいどこへ行ったのかという話なら、僕らにもわからない。僕らを疑っているなら、見当違いも甚だしい。他を当たってくれ」
代わりにそう言って、話を打ち切ってくれた。
彼女がまだ、わなわなと震えながら、「違うの……」と呟いていたのは、少しだけバツが悪かったので、僕らは二人とも伏し目がちで場を去った。目の前の道路さえ横切ってしまえば、白人たちの乗るタクシーの群れが砂埃を巻き起こして、彼女の瞳から僕らの姿を隠してくれる。おまけに僕らは白人たちの目には十把一絡げ。皆な皆、同じように映る風貌と身なりをしている。一度、視界から途切れてしまえば、再び彼女が僕らを探し当てることなど不可能に近い所業のはずであった。伏した瞳から完全に彼女が映らなくなると、僕は少しほっとすると同時に、初めてカワベが好んで身につけていたツバの広い帽子を羨ましく思えた。
そして、同じく顔に安堵を取り戻したマタデは、僕に朗々と説きだした。
「悔しい話だが、カワベの目は本物だったみたいだな。あいつの着ていた衣服はどれも、白人の目から見ても、たいそう高価な代物だったに違いない。あいつが殺された後、丸裸にされたのはいけ好かない奴だったからってだけじゃあなかったんだな。きっとあいつはうまくやって、けれども、うまくやりすぎたんだ。でも、その金の元手はどうだ。僕らから闘鶏で巻き上げた金が殆どだ。僕らにはカワベの服を奪い返す権利がある。僕らもうまくやって、かつうまくやりすぎなければ、もう坑道の中で爪の中に土を詰めるような真似を一生涯せずに暮らしていけるかもしれないんだ」
僕らの人生よりも遥かに値打ちのあったらしい在りし日のカワベの姿がもう一度、僕の脳裏をよぎった。頭の中に映し出されたカワベの存在はもう不思議と僕に圧を与えはしなかったが、思い返しても、そのいけ好かなさは抜けてはいなかった。
マンゴーの果実のような艶やかなグリーンの色をしたパイプに鶏肉のようなピンクのストライプのパンツ、ツバばかりが徒に広がった帽子に、ステッキだけは故郷の部族から持ち出してきた古めかしい代物をあいつは選んでいて、どれをとっても、とても不揃いで不細工でキッチュにしかみえない品々だった。
ただ、僕らには石くれにしかみえないものに大金をはたき、太陽が照り付けているというのに、汗だくになりながらも厚手のジャケットを手放そうとしないのが白人という人種だ。
彼らの目はいつも、僕らの瞳に映らないものばかりを追っている。
そして、あの華奢な彼女の碧い瞳も、僕らからは見ることのできない何かをカワベに見つけたのだろう。それが何なのか、僕らは持ち場に帰って、せいぜい眉唾話しかしない呪術師か、隠退した老い耄れ酋長に尋ねることくらいしかできない。
僕はふと、「一枚くらい切手をココナッツにせずにとっておくべきだっただろうか」と思った。けれども、マタデにそれを言えば、「文字も書けないお前に、どうして切手が必要なんだ」と、一笑に付されるだけであることは、火を見るよりも明らかだったので、口を噤んで、腹の虫を鳴らしながら、倒れた椰子の木とトタン板で足元もおぼつかない隘路をただずんずんと戻った。
2
坑道に帰ると、鉱山夫たちはもう誰もカワベのことなどを気にもかけず、身体から椰子酒も抜けきっていない千鳥足のまま、壁に鑿を打ち付けたり、地べたに屯しながら鶏の面構えの話をしたりしていた。
まるで未だにカワベのことが脳裏にこびり付いている僕たちの方が、悪い精霊に憑かれているかのように思えるほどだった。闘鶏に負けた腹いせにカワベに唾を吐きかけてその後、あいつと取っ組み合いの喧嘩をしたケサベラも、いつもあいつの傍で手もみをして、カワベの威を借って生計を立てていたントゥンバも、もうカワベのことなど忘れ、晩の飯と酒の心配に気を揉んでいた。
「顔がなくなるってことはこういうことなんだな。大統領も、ハイエナも、カワベも、ケサベラの吐いた唾の泡も、白人たちから見た僕らも、みんなゆくゆくは同じさ。ただ、あの変な白人の娘っ子さんの目に映るカワベだけは、それとは違ったみたいだけどな」
マタデが松明を首元に翳しながら、僕に囁きかけた。どうやら、物思いにふけってぼうっとしていた僕を驚かそうとしてのことだったらしい。
「癪だけど、僕にとっても違ったみたいだ。……新入りが入ってこない限りは、まだあいつの寝床はそのままのはずだよな」
僕はむせ返りながら、答えた。シャツの襟で汗ばんだ唇を拭うと、べっとりとシャツは鼠の色になった。
「うん。けど、はやくしないと。連中、カワベのことはすっかり忘れていても目の前に光っているものがあれば、そいつは目ざとく見つけるからな」
カワベの住んでいた家は鉱山の麓を裏手に回ったところの崖を切り崩した集落の中にひっそりと存在する。
崖のあちこちには、土とトタン板で出来た壁があり、路地がある。その路地がハイエナと、傭兵たちの気まぐれな銃撃から、あまりに無防備な鉱山夫の背中を守ってくれるのだ。路地裏の家々の多くは鉱山夫たちの住処、いわゆる社宅の集落であった。
しかし、鉱山夫がいくらその場しのぎの要塞をこしらえても、理不尽の前にはなすすべもない。白人街のホテルにも近い郵便局の幌の下でむざむざと殺されてしまったカワベには、結果として、無用の長物でしかなかったことが何とも皮肉に思えた。
身体を横にして、階段を下りていくと、毛羽だった紐と、まだ干したままで、そしてもう取り込まれることのない真っ赤なポロシャツが僕らを出迎えた。マタデはちゃっかりその真っ赤なポロシャツを自分の腰に巻き付けて、ノックもせずに家の扉をこじ開けた。家主を失った空っぽの部屋は、嫌にすべてが規律正しく、窓もないのに、なんだか薄ら寒かった。
「カワベのやつ、柄にもなく几帳面だったんだな」
「いいや、存外臆病だったんだろう。こりゃあ、しこたま色々と溜めこんでいるんじゃないかな」
程なくして僕らは、口数も減り、抽斗や小箱を開けることに没頭するようになった。カワベの帰らない家の床いっぱいにたちまち、艶やかなだけで何なのかもわからないガラクタが床いっぱいに散らばった。
これは号令がなく、いつまでも不当に規則的だった物どもを自然の形に返してあげる儀礼のようなものなのだ。「ハイエナのたからない屍肉は不幸である」と、老い耄れた僕の酋長も、常々そう言っていたものだ。
そういえば、あの酋長もなかなかの派手好きであった。
象牙の首飾りに、手首には金の腕輪や花綵、羊の毛と過去に交わった女の毛を束ねて編み込んだ輪などを巻き付けていた。もしも、酋長に右足があったのなら、そこにもたくさんの飾り付けが施されていたであろう。
さしたる祭りがない時でも酋長は、「風がそう言っているのだ」、「精霊からの忠告だ」と、言いつつ、必ず頬に黒や赤の線を引いてから、丘の上で祈祷を捧げていた。そして、
「肌の白い連中は、精霊たちの声が聞こえない。それどころか、昨日、抱き合った者の顔さえも覚えていない。彼らはただ、呪われた石を積み上げ、不相応に高くなった椅子の上に座りたいだけなのだ。常に足場はぐらつき落ち着くこともないだろう。満足感など決して得ることは出来やしないさ。しかし、そのせいでやつらは、あべこべな線を大地の上に引き始めるのだから、我々としてはたまったものではない」
と、彼らの言う叡智というものには、耳を貸そうともしなかった。
その為、酋長はピストルや白人たちの忘れたハードカバーを見かけても、目もくれなかった。しかしながら、ぼんやりとその脅威だけには気づいていた僕ら若者たちは、そんな酋長のことを口に出さずとも疎んでいたが、隣の集落出身だったカワベのやつだけは、酋長の飾りをくすねたり、小突いたりして、杖で頭をぽかりとやられていたものだった。
酋長が死ぬと間もなく、彼が埋葬されていたところは、白人たちの文明とやらに必要な鉱物が取れる場所であると発見され、息も付けぬはやさで山は食いかけの羊肉のようになった。そこで僕らは今、僕らの瞳には映らない何かの為に、人生そのものをお供えしているのだ。
「カワベのやつ、しこたま溜め込んでいたのは間違いなかったが……なんだいこりゃ。本当にこいつ等は白人たちに売れば金目のものになるのかね」
死後に発覚したカワベの浪費癖に、僕たちは半ば呆れて微笑み合った。特に傑作なのが、今、マタデが面白半分に被っている「アカンべーをした太陽の仮面」だ。
これはあいつの故郷では、名誉ある装束のひとつではあったはずだが、白人たちには「いかにもな代物だ」とせせら笑われそうな、土のにおいが強くしみ込んだ、カワベの好みの極彩色とは真逆のくたびれた色を持っていた。
「これにあいつのジャケットとシャツを合わせてみろ。とんだお笑い種の出来上がりだぜ」
仮面とジャケットを羽織ったマタデがステッキを振り回しながら、おどけてみせた。雨風をしのげるわけでもない、ギザギザに尖った赤壁から身を護ってくれるわけでもない。ただ己を満足させる為だけの、着るためだけの着物の寄せ集めが、僕の眼前に反復して跳んだ。
「その仮面は一体全体どこに隠してあったんだ」
こみあげる哄笑をひいひいとこぼしながら、僕はマタデに尋ねた。人を小馬鹿にしたような太陽の仮面は、傭兵が打ち棄てたのであろう空薬莢を集めた木箱の底に隠されてあったことを身振り手振りで伝えた。
僕は空薬莢のごった煮の中に手を突っ込んで、まだカワベが何かをその中にしまっていないか、躍起になって探した。
その作業はまったくの徒労に終わると思われたが、仮面に飽きて僕の捜索を隣で眺めていたマタデが、木箱の裏に一通の封筒が鋲で止められていることに気が付いた。それは蓋が閉められるすんでのところでのことだった。
封筒には二枚の切手が貼られていたが、この大きさの封筒ならば、そのうち一枚は完全に余分な代物だった。それだけで差出人は白人か、参謀総長に近しい曹長や議員、結社の党員か、そのまた彼らの取り巻きなのだろうと目星がついた。
消印のインキをなんとか消せやしないかと、じろじろ眺めていたら、その余剰分の切手がこの国のものでないことに気付いた。今はもう存在しない、もっと言うなれば、大統領の脳漿が大きい河の流れの中で藻と絡みあいながら、溶けていったと同時に幻となった国のものの切手だ。だが、そんなことをいちいち気にする人は僕の周りには誰もいないし、郵便局にも当然存在しなかったのだろう。消印はカワベの亡骸が見つかったわずか二日前の日付を記していた。
封筒の口を丸くして、中の便箋を取り出し、文字が読めるマタデにその内容が読めるかどうかを尋ねてみると、マタデは、
「これはフランス語だなあ……でも、カワベのやつが読むことを前提としているからか、回りくどい言い回しを好むやつらが書くにしてはえらく簡素な文章だ。これなら、俺でも読めるよ」
そう言って、便箋に書かれたブロック体の文字の羅列をたどたどしい言葉に変えていった。
マタデ曰く、便箋に書かれた内容は、おそらくカワベに対する果たし状なのだという。
ただし、封筒の裏に肝心の差出人の名前はなく、封書としての宛先には、彼らの故郷の探検家の名がつけられた白人街の路地にある一軒のバーの名前が記されていた。
その住所は、カワベの屍体が横たわっていた郵便局ともほど近く、何よりも軍の駐屯地から道路一本で繋がる繁華街の一角であることをマタデはすぐに察した。
僕もそのあたりならば、ぼんやりとだけれども、知っている。ジープが煙をまき散らしているあの街路だ。僕らもおこぼれをねだりに向かい、その中で察しの悪いやつがしばし、飴をもらうかわりに鞭や自動小銃の台尻での殴打を見舞われ、背中にひどい蚯蚓腫れをもらって帰ってくるあの路地だと。
そうなると、差出人の男は、白人の傭兵なのだろうか。僕はうすぼんやりと、切り立った崖のような鼻筋とぼこぼこした顎と喉仏を持ったカーキ色の男を仮想してみた。そして、どうせならば現実では決して出来ないようなことをしようと思ったので、僕は想像の中でそいつの尻を蹴飛ばし、唾を吐きかけて、少しだけほくそ笑んだ。
しかし、手紙の中には、一度たりとて、カワベの名前は出てこなかった。決闘を申し込まれていた相手は一貫して、「太陽の仮面」であった。「太陽の仮面」は、傭兵たちが屯するバーで昨今、ひどい乱暴を働いているのだという。
飲み代も払っていないのに、客からかっぱらったコニャックを飲み干す。バーのカウンターで客たちと腕相撲をしてはコインを稼ぐ。しまいには流しの若いジャズシンガーの娘に向かって、こともあろうに、腰を振りながら、襲い掛かろうとするなど、蛮行を挙げ出したら、枚挙にいとまがないという。
そして、この正義感の強い手紙の差出人は、馴染みのバーの治安を守るため、この忌々しい「太陽の仮面」を退治しようと決闘を申し込んだのだというのが、マタデの喋る手紙の仔細だった。
「太陽の仮面」がどのような男なのかは知らなかったけれども、彼のしでかしたという蛮行の数々を、そっくり在りし日のカワベのそれに置き換えても、何一つ、不都合な箇所は生まれなかった。手紙の文面からもにじみ出る彼の意地汚さは、贔屓の鶏に向かって「ボンバイエ、ボンバイエ」と唾を飛ばしながら鼓舞する彼の姿と恐ろしいほどにぴったり符合した。
「呪術師の水をかぶり、仮面に身を隠した臆病者め。男ならば堂々と仮面を脱ぎ、素顔で勝負せよ……だとよ。この手紙を出した男もたいがいだなあ。あれほど、僕らの中の言い伝えをせせら笑っているくせに、しっかりそれに怯えているんじゃあないか。おまけに名前すら明かしてないのだから、選りすぐりの臆病者だよ」
「けれども、カワベのやつがひっそりと白人街で、仮面に扮してそんなことをしていたなんて驚いたよ。僕らが闘鶏で溶かした日銭は、あいつの奇妙なプレイになって、白人たちの狂瀾のおつまみになっていたんだから、腹の立つ話さ。おまけにその末路がこれなんだろう。くだらない決闘に敗れて、身ぐるみどころか、顔と命と玉まで奪われたわけだ」
怯えていながらも、陰で嘲っていたカワベの奇癖とすら呼べる派手好きと、つい先ほど発見した間抜けな「太陽の仮面」がたった今、歪んだ線で繋がってしまった以上、もう僕とマタデは、そのそれぞれが持つ頓狂な馬鹿馬鹿しさに笑えなくなっていた。
あいつは、その歪んだ線であやとりをしながら、壁一枚しか隔てていない向こう側でまったくの別世界を描き、そこで得か損かすら分からない、僕らの理解の範疇を超えた行動を夜な夜な取っていて、あいつはあいつなりの形で白人たちと、交わっていた。
僕の瞳の中に残るカワベからはもう、不思議と威圧めいたものは感じられなくなっていた。
かわりに、僕の中にあいつに対してふつふつと湧き上がる嫉妬に近い感情が生じ始めていることに自分でも驚いていた。
「やっぱり、僕らには権利がある。カワベから騙し取られたものを奪い返す権利を、だ。きっとあいつのとっておきはここにはない。裸に引っぺがされる前に着ていたそれのはずなんだ」
マタデが木箱をひっくり返すと、無数の空薬莢が音を立てて床を跳ね、転がった。
僕はマタデの言葉に頷きながら、空になった木箱に仮面を敷き、その上に果実の色をしたスーツを何着か詰め込んだ。木箱はマタデの小脇に抱えられ、くしゃくしゃに丸めた手紙は僕の尻のポケットの中に突っ込まれた。
外に出ると、鉛色だった空は、あいつのスーツの色のように痛々しい群青に、その色を塗り替え始めていた。仕事を終えた鉱山夫たちが広場に集まり、闘鶏をしている。
「ボンバイエ、ボンバイエ」
そう叫びながら、賭場をしきる男はケサベラになっていた。
「お前たちは参加しないのかい」
僕らに参加をけしかけるントゥンバは前よりも、肩の位置が下がったように思えた。僕らは、ントゥンバたちに舌を出しながら、おどけてその誘いを断った。
「いいや、今日はやめておくよ。今日はちょっと白人街の方へ、物乞いへ行くつもりなんだ」
そういえば、闘鶏の誘いを断ったのも、初めてだったかもしれない。けれども今、そのようなことは僕らにとって、取るに足らない些細なことにしか過ぎなかった。
「マタデ、せっかくなら大統領のように眼鏡をかけてみたら、どうかな」
「いいって、邪魔になるから」
3
原住民たちの露天市場から白人街の方を眺めると、上空で鼠色の渦を巻いた「眼」が僕らを見下ろしていた。
市場の女たちは頭に籠を乗せ、そそくさと店を畳みながら、
「あんたらも早く家に帰りな。このスコールは大きいよ。このあたり一帯も黄銅色の河の中になっちまう」
と、忠告を促してくれたが、僕らが「いいや、これから白人街の方に用事があるんだ」と、首を振ると、女たちは、
「物好きだねえ。流れ着いたトタン屋根に頭をぶつけて死ぬことよりも、傭兵たちの気まぐれで頭を打ちぬかれる可能性の方が遥かにそれよりも高いだろうに。あいつら、あたしらのことを人間だなんて思ってないからね」
そう言って、椰子の木々の向う側へ消えていった。ポツリポツリと滴が僕らの腕にぶつかり、砂の輪をつくってたちまち蒸発していく。
僕らは知っている。
この調子ならば、白人街につく頃には、街一体が雨の槍を浴びて、僕らは忽ち下水から締め出された濡れ鼠となる。雨に呼吸を奪われないように、腰をかがめながら、なんとか軒下を探す羽目になるのだ。
酋長ならば、「これは精霊たちの警告だから、お前たち、直ちに白人街からは立ち去れ」と、女たちよりもより強い言葉で僕らのことを諭すだろう。
けれども、当の白人街の白人たちは、傭兵も、銀行員も、特派員も、スチュワーデスもシスターも、それから慰問の道化師やジャズシンガーまで一切合切、天候のあれこれを神々の意思によるものとは見做していない。箱の中から報じられる予報で、ある程度の予測と対処ができるものなのだと、確信しきっていることは、僕らでも知っていた。
事実、白人街で見かけたジープに乗る傭兵たちは、今日、誰一人としてカーキ色をしていなかった。頭まですっぽり白い布に覆われながら、雨粒を弾き、相も変わらず肩で風を切っていた。
雨をしのぐ為に寄ったホテルのロビーでは、虫けらのようにドアボーイに追い払われ、ついにはボーイがバールを持ち出して、殴りかかろうとしてきたので、僕らはたまらず驟雨の中に、シャツ一枚で飛び出す羽目になった。こうなったら、一目散にバーに向かって駆け出すしかなかった。
切手やジープが落とすキャラメルを目当てに、日ごろ、白人街を誰よりも彷徨っているマタデは、バーのある住所に向かって、迷わず正確に、角を曲がり続けた。それでも、マタデはカワベがこの界隈をうろついているところを見たことがないという。
「第一、ここは白人街でも一番、きな臭い通りだぜ。君は本当にはこの場所を知ってはいないよ。カワベのことがなければ、長居をしようとすら思わない。白人街でも札付きのやつらがそろっている場所だからな。シルブプレ、ガトーショコラ……そういうと、チョコレートでなく、マリファナを投げつけられる。そんな場所だよ」
雨の中を駆け抜け続ければ、靴はびとびとに重たくなるのと同じで、そんなバーを出入りしていたカワベがガラの悪い白人たちに目をつけられて、無慈悲に顔を潰され、打ち棄てられたのも、当たり前の帰結なのだとマタデの丸まった背中は語っているかのようだった。
「あそこには市場にロケット弾をぶっ放しても屁でもない狂人しかいない」
幌の下に白人がいないのを確認してから、僕らは店じまいした喫茶店の軒先で信号が変わるのを待った。
信号の目が赤いうちにマタデはシャツの裾をまくり、腹を一条に貫く大きな傷跡を見せて、それを僕に撫でさせた。
ポケットの中の手紙は既に雨に濡れて、僕が触れた際に、掌にひっつき、散り散りになってしまったけれども、バーの方が誘蛾灯をともして、僕らを手招きしていた。看板のネオンの文字は「ルビーの涙」と鼻白むような店名が、過剰なまでに優雅な筆致で煌々と輝いていた。
トランペットの音色が窓の中から聴こえてくる。
僕らは白人たちに気付かれないように一番人気のない排気口裏の出窓から、店の中を覗いた。横転したバケツからこぼれた食いかけの生ハムが足元に纏わりつく。横殴りの雨は隙間から執拗に僕らのことを叩き続ける。本当に溝鼠になったような気分だった。
その溝鼠の目に映る店の中の景色は、鞣したように艶やかで、そして、呆れるくらいに猥雑としていた。
カウンターを叩きながら、向かってくる飛行機を無差別に撃ち落したという武勇伝で意気投合し、哄笑し合う傭兵たちの祖国はそれぞれいがみ合っているらしい。白人同士でもどうやらそういうこともあるようだ。
「これは政治的に極めて機密な話だ。オフレコだぞ」
と言いつつも、その言葉は排気口を伝って、僕とマタデの耳にも飛び込んでくる。
特派員とカメラマンはしきりに、王からたくさんの肩章を頂戴したらしい葉巻を吹かすオールバックにサングラス姿の男に対し、質問をぶつける。
サングラスの男はその質問には真正面から答えず、市場の女に銃を突き付けて無理矢理にまぐわった話を饒舌に話す。そして、
「馬鹿にしたものではないよ、それもまた統治というやつなんだ……しかし、何とも質の悪いカクテルだな。何を混ぜたんだ、コカインか」
と、空いたグラスにペッと痰を吐いた。
誰も耳を傾けない混血特有の目鼻立ちをしたジャズマンのピアノのよろめきに呼応するように、トイレから出てきた野戦服の男のズボンはじっとりと、外にいる僕とマタデのそれよりも濡れている。服のはだけたソバージュ女と迷彩服の男は、舌をお互いの咥内に入れたまま、人目も憚らずまさぐり、悶え続けていて、ジンとウォッカの瓶はたちまち空になり、チョビ髭のバーテンダーは氷を乱暴に砕いて、それをウォッカとジンの中に放り込む。
そして、市場から買い叩いたであろうパイナップルを絞って、無心でシェイクし続けていた。ここでは、何年も熟成されたものが、呆気なく鯨飲されていく。
その上、濫費されたものは、既に泥のようになった男たちの心には、もう何かを働きかけることすら出来ないようだった。
ントゥンバが見たら、指を咥えそうな、椰子酒はどうにも彼らには人気がないらしく、コルクも抜かれぬままずっと飲まれる時を待っているかのようだった。皿の上の料理は食い散らかされ、僕らが鉱山で食べるそれと一見、見分けがつかないまでにみすぼらしい姿になっていた。
僕らが額に汗し、爪の間に土を何年詰め続けても、そして、カワベの鼻をあかすくらいに闘鶏でどんなにうまくやっても届くことのない値がつけられた酒と御馳走だ。
けれども、その宴席には、猿の頭一体すら皿の上に乗せられていない。あるのは、丸焼きにされた鶏ばかり。どんな顔つきだったかは頸から上を切り落とされているので、もう知る由がなかった。
窓の向うに映った景色は、僕の頭の中に極めて自然に溶けて染みていった。それは彼らが聖書や難しい学術書を片手に説く、イデアやイデオロギーといったものよりも遥かに抵抗なく受け入れられるものであるからだった。
調子の外れたジャズマンが立ち上がり、一旦捌けて、「秘密兵器」とばかりに、袖からシンガーを連れてくると、無秩序なエネルギーを各々放散していた傭兵たちがにわかに規律要らずの統率を僕らに見せつけた。
紫のドレスに着せられた感じで、不安げな表情を隠しきれていないシンガーは見るからにひよっこで、さしずめ太陽神に捧げる生贄だ。煙に炙られたピンクを一滴垂らしたような紫の色は、光をまだ吸収しきっていなさそうなブロンドの髪には少々、背伸びが過ぎるのではないだろうか。
それに、彼女の碧い瞳にしたってどうだろう……そこまで、凝視して、やっと彼女のことに、気が付いた僕には、どうやら女性論を一丁前に振りかざす資格はないらしい。
「あれは、カワベのことを僕たちに聞いてきた白人の女なんじゃあないか」
マタデが顎に手をやって呟いた。
しかし、髪を結い上げ、違う紅の色を差している為に、ガラス越しに見るシンガーと、少し前に薄い会話を交わした白人とのシルエットが、僕の中でしっかり重なり合わなかった。
傭兵たちがヒューヒューと彼女のことを囃し立てるせいで、演奏はなかなか始まらない。バーテンダーは、シェイカーを決められたリズムで振り続けている。
囃し立てることで意思が固まった群れを、彼女の歌は溶かすことが出来るのだろうか。シンガーが息を小さく吸うと、僕らは固唾を飲んだ。
その歌声はまさに可もなく不可もなくといった具合だった。
確かに彼女の声は、ブッシュロビンのようで、上品に歌を奏でた。
しかし、詩の途中に、マタデが、「選曲を間違えているんじゃあないか」と、呟いたように、奔放なジャズのフットワークに彼女は翻弄され、歌にあわせて、どうにも僕らは身体を揺することができなかった。僕らは少しばかりリズムには五月蝿い。
カワベならば、「そんな音楽は犯してしまえ」とばかりに、腰を激しく突き動かして、音を自分の身体に合うようにねじりあげたはずだ。そう、例えば、こんな調子で舞台に乱入して――。
僕が遺憾ながら、あいつに思いを馳せて、うっかり目を瞑らなくてよかった。
袖でピアノ奏でていた混血のジャズマンが何者かによって突然、殴打され、床に転げ落ちる音をマイクが拾うと、そのスタンドマイクは雄叫びとともに真っ二つにへし折られた。
僕が瞬きをしている間に消えてしまう、まるで閃光のような暴力が確かにそこで起きた。
「仮面だ。おいおい、今日のも新しい仮面だぞ」
傭兵たちの表情がにわかに緩む。
どいつもこいつも、まるでセックスを哀願している時にも似ただらしのない顔つきをしている。彼らの表情が、仮面のこれから行う役割を余すことなく丁寧に説明していた。
ガゼルの角、孔雀の羽。これはバト・シオコ踊りの仮面だ。
ただ随分、仮面の角が短い。それだけで僕らはあいつがたいしたことのないやつなのだとわかるのだが、傭兵たちはそんなことなど露ほども思わない。目の前に異様な脅威、それも、一際野蛮なやつが現れて、そいつが同郷のレディをたった今、担ぎ上げて、彼女を宙ぶらりんにさせたまま、ご機嫌な部族の歌でジャズを塗り潰している。
「調子に乗って、ブラックマンバに足を絡ませたら、そのまま噛み殺されてしまった馬鹿を思い出すよ」
マタデは窓越しに、好き勝手を行う仮面を見て、せせら笑った。
「ボンバイエ、ボンバイエ」
卑しい傭兵たちは、驚くことにシンガーでなく、仮面の男を応援していた。
かつてカワベが鶏にぶつけていた言葉が、欲の皮がパンパンに張ったお里の知れない痴れ者たちから放たれる。
仮面は耳に手を当てて、その声を集めると、声援にあわせて、小刻みに腰を振った。
傭兵たちは一層、沸き立ち、唾と蒸留酒の飛沫がバーの天井に舞った。シンガーは無残にも、ポイと殴打されたピアニストの横に転がされ、力なく床に倒れた。
仮面がいよいよ腰の蓑を取り外そうと、もぞもぞし出した時、
「そこまでだ、外道め」
カウンターでずっとストレートのバーボンを啜り続けていた一人の男が、すっくと立ちあがり、露悪的な蛮行を見せびらかす仮面の男を指さして、そう言い放った。
それから、ぶつくさと幾つかの文句を言ったが、それは仮面の男に言って聞かせようとする早さでは到底呟かれていなかったので、僕らにはその意味を理解することは出来なかった。
けれども、それがまず間違いなく口汚い罵りの語彙であることは、傭兵たちの下劣なほくそ笑みから見て取ることが出来た。
立ち上がった男は相当に酔っていた。
僕もマタデも、彼がつい先ほどまで、紫のドレスのシンガーにではなく、野蛮な闖入者の方に声援を送っていたことをしっかりこの目で見ていた。
彼の奮い立たせた衝動は義憤ではない。そいつの顔は欲の皮で突っ張っているばかりか、下腹部に野営のテントが張られているままだった。
そして、そのテントの中央だけは野戦を交えたせいか濡れきって、カーキはより深いオリーブの色に変わっていた。
力なく立ち上がろうとするシンガーの目は、そいつを見て一瞬、怯んだように見えた。
けれども、ペストかコレラかのどちらかを受け入れることを観念したのか、目尻に助兵衛な皺がよった野戦服の足元に縋り、澄んだ声でか弱く「助けて」と囁いた。
ヒロインを得たマッチョのそれからときたら、べらぼうに強大だった。
仮面のチョップをひらりと交わすと、鶏の羽を折り、頸を締め上げるようなポーズで仮面を力強く捻りあげた。
まるでブラックマンバだ。
仮面の男は、マタデの危惧通りに、毒牙にかかったのだ。命からがら、逃げようとする仮面の足を引っかけて転ばせると、野戦服のマッチョは仮面の両足を持ち上げて引きずり回し、ピアノの足に向かって仮面の股間を何度も打ち据えた。
仮面はひいひいと情けなく泣きじゃくった声をあげて、バンバンと両手で床を叩いて、降参のポーズをとっていた。
赤子の手を捻るとは、まさにこのことだった。
僕の目には仮面の男は哀れな道化、やられ役に徹しているのが、歴然だった。仮面が股間を抑えながら、床にうずくまるのをよそに、マッチョはヒロインを抱きかかえ、褒美のキスをせがんでいた。調子の良い傭兵たちは、指笛を鳴らして、事が行われるのを囃し立て続けている。
ふうと一息ついてから、シンガーが野戦服の頬に撫でるようなキスをすると、傭兵たちは殆ど空っぽのグラスの縁を鳴らし合って、腕を互いに絡めたり、バロバロと意味の分からない言葉を大声で喚き散らしたりした。
そして、野戦服の男の左手は、ドレスの胸元を猥らにまさぐり続けていた。
「……宴もたけなわのようだな」
マタデが僕にそう囁いた。
スコールはいつの間にか、止んでいた。そろそろ、傭兵たちがキャンプに帰る頃合いなのだ。酒が血の中まで巡りきったやつらにばったり出くわしてしまったら、気まぐれに嬲り殺されるのが関の山だ。
僕らは、鼠のように背中を丸めながら、生ゴミの中を掻き分けて、厨房の裏手の方へと移動した。
4
「あなたたち、いつから見ていたの」
傭兵の連中全員が帰るまで、とりあえずじっとしていようと、僕とマタデは厨房の勝手口の脇で膝を抱えて、その時を待っていた。
だから、そんな僕たちに対して、明らかに放たれた言葉が耳に入った時、背筋が凍り付いたのも致し方ないことだった。
きいと扉が開くと、ブロンドのシンガーが顔だけ覗かせながら、訝しげにそう呟いた。
「あんたが出てくる前から、つい今しがたまでさ。死んだカワベの家から、ここの住所が記された封筒が出てきた。頓狂な太陽の仮面と一緒にね。カワベと一緒にそっくりそのままこの世から消えちまった物があってね。俺たちの金さ。形はどうであれ、それの行く末が気にかかるのはおかしいことじゃあないだろう」
マタデはブロンドのシンガーから一縷、伸びているものを目ざとく見つけたようだった。
太陽の仮面。記されたこのバーの名前。そして、極彩色の消えたジャケットの手がかり。それらが綯われた一縷をだ。
もしくは、そんな確証はどこにもなかったのかもしれないが、身振り手振りで鎌をかけてみなければ、何も始まらないとでも思ったのかもしれない。彼女の質問には、申し訳程度だけ触れて、その後はひたすらに、僕ら鉱山夫の窮状を、マタデは一方的に訴えかけ続けた。
「……入ってちょうだい。今はもうマスターしかいないわ」
ブロンドの娘は、僕らをじっと見つめて、扉を半開きにしたまま、店の奥へと引いて行った。僕は初めて踏み入れるバーという空間に首と目を掻き回され、彼女のことは直視出来なかった。
コルクとトウモロコシのにおい。どこか忙しない静謐に満たされた内装。傭兵たちの脂で縁がぎらりと黒光りしたグラスはもう全て、一人で店を切り盛りしているらしいマスターによってかたされていた。
「マスターから。こんなものしかやれないが……ですって」
カウンターには、スライスされたライムの刺さったカクテル・グラスが二杯、白濁した液を半分くらい湛えながら、僕らのことを待っていた。
「椰子酒だ。ントゥンバのやつには、このことは内緒にしておかないとな」
「傭兵のやつらがこいつの価値をわからなかったのは、まったくの幸福だった。そう思わないか、マタデ」
おかしなくらいのすまし顔で僕らを出迎えた椰子酒に、僕らの心がにわかに躍ったのは言うまでもない。これだけでも、危険を冒して、ここまで来た甲斐がある。そう思えるほどには、こいつには魔性が宿っている。
「あなたたちはみんな、この濁ったお酒に目がないのね」
シンガーは碧い瞳を伏せながら、ずれたドレスの肩リボンを鎖骨の上のあるべき場所にかけなおしていた。彼女の二の腕には、おそらく野戦服の男が気負って爪を立てすぎたのだろう、それこそブラックマンバに噛まれたような小さな傷痕からひとしずく、彼女の唇に注した紅と同じ色をした血が滴っていた。
そして、僕はというと、彼女に咳払いで諭されるまで、今にもドレスの胸元から零れ落ちそうな物に目を奪われ続けていた。
「カワベのやつも、この椰子酒には、もともと目がなかったな。猿の脳みそと一緒にそりゃあ恨めしいくらい旨そうに啜っていたよなあ」
早くも椰子酒によって、酔いが回ってきたらしいマタデが饒舌に過去の想い出を喋り出すと、僕もつられて、部族同士の小競り合いの話や、おかしな酋長の言い伝えと祭りの馬鹿騒ぎ、渡しの市場でカワベが引き起こしたひと悶着なんかが口から零れてくるから不思議だった。
どいつもこいつも銃で侵され、殺されていく前の話だ。そんなことはもうすっかり忘れていたと思っていた。
「あなたたちは、あの人のことを嫌っているの。それとも、そうではないの」
あまりに自分の境遇とかけ離れた話が続いたせいか、シンガーが所在なさそうに、僕らの会話をさり気なく裂いて、出会った時と同じような質問をもう一度、投げかけた。
「大嫌いだね。あいつはとんでもなく悪いやつだ」
当然、僕らの答えは歌うように符合した。
「彼はそんなに悪い人なの。例えば、いたずらに銃口を人に突き付けて、気まぐれに殺してしまう残酷さ持つ人。何なら、革命を促して先の大戦のような惨い虐殺を煽動する……そんな人なのかしら」
「あいつにそんな蜥蜴にみたいな冷めた眼差しはないさ。ただ、もっとこう……あいつは兎に角強引だった。賭場の胴元でもあったからなあ。押しがとにかく強いんだ。胴元は舐められたらおしまいだからだろうな。僕らが汗水流して、手にした鉱石やら原石やらはみんなあいつの椰子酒に変わってしまった。そりゃあ、陰であいつを恨んでいないやつはいないよ。そしたら、今度はとんだ着道楽ときた。椰子酒を飲みすぎて、僕らは皆、あいつの頭がとうとうおかしくなったものだと思ったものさ」
僕が必死に、カワベのやつがいったいどれだけ、いけ好かないやつなのかを熱心に訴えると、ブロンドのシンガーは、どういうわけか、
「確かに、そういうところはあるかもしれないわね」
と、さもおかしいですとばかりにくすくすと笑いだすから、面白くなかった。けれども、彼女は意外なことを僕たちに囁いた。
「私もあなたたちと同じみたいね。さしずめ、強引な彼の被害者」
そう言うと、彼女は己にジョセフィーヌという名があることを僕らに明かした。
ジョセフィーヌは、「今度は私の番」とでも、言うかの如く、自分とカワベが如何にして出会い、どんなことを言い、そして、言われたのかを静かに語り始めた。
ジョセフィーヌは敬虔なカトリックの家に生まれた一人娘であるけれど、ジャズに魅了され、シンガーになる為、家を飛び出した不良娘であるのだと、自嘲した。
「けれども、芽が出なくって、流れに流れた挙句、こんなに恐ろしい場所に流れ着いてしまったの」
ジョセフィーヌのもとに来るのは、傭兵たちの為の慰問歌手のオファーばかりだったという。
歌こそはその身一つでどこでだって歌えるが、戦地慰問に付いて回る、いわゆる「つきもの」を嫌って、まともに食べていけるジャズシンガーならば、僕らの故郷で歌うことなど、まず考えないものなのだと、彼女は言った。
「彼らは飢えているのよ、英雄譚に」
無知蒙昧な黒人たちが赤い誘惑を覚えて、心まで虜にされ、さながら南から襲ってくるロボット兵同然になる前に、この荒れた地でそいつを食い止める。
その為に統治するのだという大義名分を与えられて、あの傭兵のやつらは動いているのだと彼女は僕らに教えてくれた。
道理であいつらには、誇り高い首相の顔とカワベの顔の区別もつかなければ、大統領に近づいたと思ったら、その足で翌日、参謀総長の肩を叩きに行く面の皮の厚さを隠しもしないわけである。はじめから、あいつらの瞳には、僕たちの眼差しは映っていないのだから。
それでも、彼女の話は、まるで鉱石のように易々とは、その全体が露にはならなかった。どう掘り当てていいかわからない部分が、僕たちにはあまりにも多すぎた。
まず、赤い誘惑というものが何なのかはわからないし、彼女が信じている神様を僕らは見たことがない。それを白人たちから聞き、信じている人は知っているけれども。そもそも、真っ赤な宝石の誘惑に心を奪われているのは彼らの方であるとさえ、僕らは思っている。老い耄れた酋長たちの心に可燃性のある感情が微かにでも残っていたら、僕ら黒人は今頃、鍬や鑿や松明を手にして、白人街へと押し寄せていることだろう。
まったくもって僕らにはわからない。
どうやら今度は、僕らの方が縁の遠い話に傾聴しなければならない番になったらしかった。
「本当はあの人たちもあなたたちのように無邪気で……ごめんなさいね、その……ある意味で幼稚な顔をしたいはずなの。学者や政治家の頭の中で生まれた小難しい大義名分なんて私たちにもわからないのだから。あの人たちはもっと単純に、敵から愛しのヒロインを救うヒーローになりたい。けれども、それが許されていないから、屈折して、荒んで、とても禍々しい目つきになっていくの」
ジョセフィーヌはそう言うと、カウンターに頬杖をついて、兵士の慰問の為にこさえられた不格好な歌を口ずさんだ。簡単なフランス語だけで紡がれた月夜を歌う唄のようだった。
「どうにも、のれない曲だなあ」
目下、椰子酒に心を奪われている真っ最中のマタデは、ジョセフィーヌの方も見ずにぼやく。僕も彼の言葉には同感だった。
「あの人も言っていたわ。それは本当に月夜を歌っているのかい。靄がかかってまるで何も見えない。まるで君のようじゃあないかって」
歯の浮くようなセリフを吐くカワベを思い浮かべた僕とマタデは、同時に大切な椰子酒を鼻から噴き溢してしまった。
あいつの僕らには絶対見せないであろう顔。それは着道楽で見栄坊なあいつにないはずもないものであったが、改めて第三者の口から聞くと、その珍妙さに腹が捩れた。
ジョセフィーヌの歌声をも抱合したチンケな酒場の余興は、彼女が二束三文のギャランティで酒場に出入りするようになったころには既にぼんやり形として存在していたものであったそうだ。名もない流しのシンガーを雇って、歌わせる場を提供しているのだから、ちょっとアチャラカな軽演劇でもしてほしい。そういうことなのだという。
「それでも、うちのマスターはまだ理解のある方よ。この白人街には、ノンの言葉も持てないコンパニオンも兼務させられるシンガーがあまたいるの。その中で、下心ばかり肥大した傭兵たちをうまくくすぐることのできる妥協点として生まれたのが、あなたたちがさっき見たものなのよ」
混血のジャズマンの伝手で、暴漢を演ずる黒人には困らなかった。
だいたいこの国で定職に就いている者など殆どいないのだ。日銭の稼ぐために徒労に齷齪していて、いつ姿を消したり、肉の塊になってしまうかもわからない人と雑魚寝したり、離れたりしているのが、僕たちを取り巻いている世界であり、現に鉱山夫の中にも妻を娶り、河沿いの市場に生活の場を移したりする者も珍しくはなく存在するが、「いやあ、みんなジープに轢かれてやられちまった」などと言いながら、何事もなかったかのようにひょっこり鉱山に戻ってくることだって、たびたびあった。また、それこそカワベのように、ある日突然、道路をどす黒い血と脂で汚す澱と化す者もいる。
「ブロンド娘に襲い掛かるふりをして、傭兵たちに退治され、情けなく命乞いをしてほしい」
それで日当を得られる話が舞い込んできたならば、僕らだって、容易く手を挙げたことだろう。
カワベはある日の夜更け、客のすっかり引き上げたバーに、ジョセフィーヌが今まで人生で目にしてきた男の誰よりもめかしこんだ服装で、その道化の役を演じたいのだと、アプローチしてきたのだそうだ。
「私のドレスよりも派手な迷いのないショッキングピンクのジャケットを羽織って、長い足をさらに映えさせるストライプのスーツを誇示するように、私とマスターのもとに練り歩いてきたわ。この場末のバーがあの人にはランウェイにでも見えたのかしら。あまりの調子の良さに、面白がって、ジャズマンが即興でピアノの上で両手を躍らせたりするのよ。そしたら、あの人はまた呼応して、そのきめ込んだファッションの中で一際、異彩を放っているステッキを振り回して、腰を突き出し、練り歩きまわるの。ステッキの先には鈴がついていて、その音色と彼の歌声によって、私の歌っていた唄はみるみる零れるような星空と満月の夜に様変わりして……面白そうなやつだからということでマスターも即決よ」
ジョセフィーヌはそう言うと、カクテル・グラスを唇に傾けた。
そして、グラスの縁に紅を残すと、
「あれだけ音と腐れ縁ですって感じなの、ちょっと羨ましかったわ」
と、力なく微笑んだ。
カワベは今までの誰よりも、やられ役を演ずることに執心していた。
故郷の酋長から、大切な祈祷に使う仮面を譲り受けてきたのだと言いながら、大仰な太陽の仮面を持ち出した時には、流石にジョセフィーヌもバーのマスターも面食らったというが、大仰なことをして、先制パンチを食らわせるのはカワベのいつもの戦法であることは僕もマタデも十分に知っているつもりだったので、そのことに対してさしたる驚きはなかった。
「一度、彼に尋ねたことがあるわ。どうしてそんなに惨めな役割を演じるのに熱心なのって。私自身も歌うために、惨めな仕事を耐えてもいたのだけれども、彼の場合は殆どそれだけのためにこのバーに来るわけでしょう。彼の着る物の中には、ヨーロッパで名が轟き始めている気鋭のデザイナーが手掛けた物もあったのよ。あれらを集めるのには情報も資金も生半可な意気込みでは到底成すことが出来ないはずなの。彼のモチベーションが何に由来しているものなのか、不思議に思うのも自然なことでしょう」
ジョセフィーヌの投げかけた質問に対し、カワベは拙い、幼稚な語彙で紡がれた代物ながら、彼らしいはったりに満ちた大仰な野望で答えた。
「あんたは俺みたいなやつと一緒にしてほしくないと思っているかもしれないが、俺はあんたと殆ど同じことをして世界を変えようとしているんだ。このハイエナの糞みたいな世界をだ。今はまだギャンブル以上、お国の福祉未満の出来損ないみたいなものにしか思われていないが、俺が、あんたが、手掛けたものを一つでも多く孫の代まで残すことは大きな力になる。世界を変える為のだ。あんたたちが学校で小難しい授業を受けていた時に、俺らは同じように土に塗れた長老たちの臭い口から、唾を浴びて、精霊から授かった言葉として、そいつを学んだ。俺はその髄をこの中に押し込めたつもりだ。その力が確かなものになるには惨めだろうが、くだらなかろうが、細部はどこまでも精巧でないといけないんだ」
喋り終えるとカワベは、ジャケットまくり上げ、歯をむき出して威嚇とも破顔ともとれる表情を湛えながら、鉱山の労働で鍛えた上腕二頭筋の筋肉を誇示してみせたそうだ。
ジョセフィーヌの目にその姿は、「真正面から取っ組み合ったら、そんじょそこらの連中には負けない風格を俺は持っているのだ」というアピールとして映ったのだと、彼女は笑って話した。
カワベの熱心な役への入れ込みのおかげなのか、バーの寸劇は従来とは比較にならないほどの注目を浴びるようになった。
ジョセフィーヌが歌う唄のレパートリーを変えてみると、カウンターに突っ伏し酩酊していた傭兵連中でさえ、顔を上げ、その歌詞と歌声に耳を傾けるようになった。
「そのようなこと、今まではあり得なかったのよ」
ジョセフィーヌはまたカクテル・グラスの中の琥珀を喉の奥に注ぎ込んだ。
そして、空になったグラスに映る歪んだ自分自身の顔に語り掛けるように、
「あり得なかったの」
もう一度、そう独り言ちた。
スコールも止み、もう月さえ沈んでいる頃。雑然とした白人街にも一切の無が支配しているそんな一瞬の独り言だった。
バーでの寸劇がにわかに人気を博すようになると、コンパニオンのそれとは一線を画したまた別種のしどけなさを肴に酒が飲める場所だと傭兵たちの間でも「ルビーの涙」は話題となり始めた。
蛮族に囚われ、今まさに折檻を受けんとしている可憐な歌姫を自らの手で救い出せる場所。ここでは、どんなに無粋な破落戸でもスーパーマンになれるのだ。
そして同時に、狼藉たる酒場の特権として、乱暴を働くならず者に「ボンバイエ」と彼の理解できる言葉で口汚く乱暴を嗾けることさえも出来る。銀行員の夫人や、スチュワーデスのお高く留まった目はこのバーには存在しないのだから、白眼視されることもない。
ユスリカたちには濁った河の水が必要なのである。
「人気が出始めた証だったのかもしれないけれども、私、初めてパパラッチに遭ったの。白人街を抜けて、土着の人たちが生活を営む市場で二人、得体のしれないハンバーグみたいなものを食べているところをね。ちょうど、彼が何を捏ねているのかをしつこく話そうとするのを退けて、お互いの未来についてを話し合おうとしている時だったわ。それからというもの、お客の野次や要求はより一層、過激になっていったの。ここでまぐわえとか、そんな罵声をね。それで私の方が耐えられなくなって、役を下りてほしいと彼に頼んだの」
僕らには粗暴な印象しかないカワベであったが、その哀願に素直に応じ、つい先日に自身の千秋楽を迎え、バーを去ったのだそうだ。
「偶然だけれども、彼がバーに来た最後の日に手紙が届いたの。バーで好き放題、暴れて、歌って、ジャズをより奔放にする太陽の仮面に対する果たし状みたいなものがね。彼はファンレターみたいなものだと喜んでいたけれども、今思えば、虫の知らせかしら。私には禍々しいものに思えたわ。だから、今でも彼に何か一言、声をかけていればよかったと悔いているのよ」
ジョセフィーヌはずっと空のグラスを見つめ続けていた。
僕の目にはそれは、空のグラスではなく、もうそこにない琥珀の雫を瞳に焼き付けようとしている姿として映った。
彼女が不穏を嗅ぎ取った差出人不明の手紙は、僕の尻のポケットの中でぐしゃぐしゃに濡れて、もう何の力を与えることもなくなっている。
僕はポケットから濡れた紙屑をそっとカウンターの上に置いて、その禍々しい封筒が僕とマタデをこの場に導いたのだと説明した。
「実はまだ、その太陽の仮面も死んだカワベの家に残っているんだ。そいつはあんたにやる。あんたには一番良い形見になるだろう。でも、代わりと言っちゃあなんだけど、その手紙に関して、本当に何の心当たりもないか教えてくれよ」
ぶうと椰子酒をげっぷに変えた後、マタデはジョセフィーヌに言葉を叩きつけた。
けれども、ジョセフィーヌは毅然と首を横に振った。どうやら彼女の察した不吉は本当に「女の勘」とやらから来るものらしかった。
「本当にそれに関しては心当たりないの。けれども、バーに出入りしている人間がそれを出しているのは間違いない。当たり前のことなのだけれども……」
ジョセフィーヌは溜め息交じりに答えた。
「そうだ。それならば、話がはやいじゃあないか。僕が一度、太陽の仮面に扮して、バーに現れてみたらいい。もちろん、仮面はあとで君に渡すさ。手紙を出した人間なら、死んだやつがそこに甦ってきたと一瞬、思うだろうから、身体のどこかしらに動揺の色を滲ませるはずさ。尤も、カワベを殺した人間と、決闘を申し込んだ人間が同一人物だったならばの話だけれどもね」
僕の提案はほんの思いつきだった。僕自身にもそう深い考えはなかった。
けれども、マタデにはその発言は大きな冒険の持ちかけに映ったようだった。
「随分、賭けに出たなあ。向こう見ずさはもう既に先代の太陽の仮面といい勝負だよ。だって危険だぜ、お前もカワベの屍体を見ただろう。あんな惨いことをしておいて、無邪気に英雄になることを夢見続けられる大の大人なんて、とんだ狂人に違いないぞ。何をしでかしてくるかわかったものじゃあない」
「危険なのは、鉱山にいるのだって変わらないじゃあないか。第一、この国に安全な場所なんて本当にあるのか、マタデ、君もさっき思ったはずだろう。こんな都合の良い話、僕らでも乗ったはずだなあって。それを僕は今も感じ続けている、それだけさ」
僕とマタデのやり取りは、たとえフランス語で喋ったところでジョセフィーヌにはその綾までは理解できなかっただろう。
彼女は土着の言葉で応じ合う僕たちを介して、在りし日のカワベの姿を見つめようとしているのだし、それ以上のことをしようとはしない。
僕にはそれがあまり面白くないことのように思えた。その上、マタデにも今回、やんわりと己の提案を反対されたことに、ノンポリシーであると揶揄され続けてきた僕の心はかえってくすぐられたのかもしれなかった。
それは僕にはあまり覚えのない感触であった。
「何を依怙地になっているのかと言われるかもしれないけれど、僕は決めた。うん、そうだ。この道だ、これしかないはずだよ」
5
バーカウンターの裏手は、お客たちの目からは常に隠されたところに存在する。
だから、寸劇を行おうとする時、この場所は舞台袖として、うってつけの場所になる。その場所で僕は生まれて初めてジャケットに袖を通した。細身で四肢がガゼルのように伸びたカワベのものだから、身の丈にはちょっぴり合わないけれども、それでも満更でもない気持ちにさせられた。
「やあ、仮面。今の気分はどうだい」
仮面越しに僕を覗き込むマタデの顔が、僕の視界として唯一許された小さな丸の先に映った。
「悪くないね。カワベのやつが傲慢に振舞えた理由がわかったような気もするよ」
僕がそう答えると、マタデは、
「それは気のせいだと助かるな」
と、苦笑交じりに僕の肩をポンポンと叩いた。
カウンターの暗がりの向うから、少し上擦ってキーが数か所半音外れたジョセフィーヌの歌うメロディーが聞こえてくる。
マタデの報告によれば、今日は新しい敵役が現れるということで以前、僕らが目にした時の二割増しくらいの傭兵たちが「ルビーの涙」に溢れているのだという。
ジョセフィーヌの歌声から感じ取れる緊張はこれから起こることに対してだけでなく、そういった点に対してのこともあるのかもしれなかった。
カウンター脇の柱から、酒場の光景を覗き込もうとしたら、スコッチウイスキーの薫りとともにスキャットよりも意味のない雑多な猥談が僕の五感を襲いかかった。危うく気圧されそうになりかけたが、すんでのところで、それに耐える。
今日は壁にもたれかかった立ち見のお客も何人かいるようだった。立ち見の客はたいてい僕らの目から見てもみすぼらしく、
「娘っ子の衣装、かなりはだけやすそうだな」
などと、軽口を叩きながら、安酒を無心に啜っていた。
曲を披露し終え、ジョセフィーヌがドレススカートの裾を摘まみ上げて持ち場を去ろうとする。
僕はこの場末の決まりきった当たり障りのなさをウォッカの瓶をカウンターの角で叩き割ることによって、破壊する。物の崩れる音には人一倍敏感な傭兵たちが、餌を見つけたジャッカルのように昂揚するのを、小さな穴からも見て取れることが出来た。
「少しやりすぎではないかしら」
ジョセフィーヌは僕の耳元で囁いたが、聞こえないふりをして、彼女のことを力任せに担ぎ上げ、投げ飛ばした。面食らった顔のまま、ジョセフィーヌは肩を椅子にぶつけてうずくまった。
興奮して手を叩く賤しい傭兵たちは、視線を這うように落とし、彼女のドレスの襞から見えそうなものを懸命に覗き込もうとしていた。
僕はジョセフィーヌの肩を鷲掴みにして、その肩に歯型をつけてから、彼女に囁き返した。
努めてブラックマンバのように執拗に、彼女の肌をまさぐることも忘れないようにした。
「カワベのやつより、幾分小さい僕が本当に本物の太陽の仮面なのかと疑われないためには、過激さの煙幕が必要なんだ。僕はそれを纏わなければならない」
彼女は顔を背けて、しぶしぶと従順な態度を示した。
けれども、僕の目は、顔を掌と小枝のような腕で隠す彼女の瞳を映すことは結局出来ずじまいでいた。
「太陽の仮面だあ。あいつが帰ってきたぞ」
観衆たちは面白いほどに、僕に操られたかのような反応を見せた。
安酒のちゃんぽんをあおりながらも、右手は片時も己の逸物から離そうとしなかった迷彩服も、マスターと話し込み三文芝居には興味のない素振りを見せていた胸章の男も、野次の内容を巡って今にも取っ組み合いの喧嘩を起こしそうになっていたあいつとそいつも、皆同じように、僕のことを囃し立てて、指笛を鳴らした。
僕は目を凝らし、その人だかりの中に、必ずいるはずのわなわなと小刻みに震えている男を探しそうとしたが、その必要はあまりないらしかった。疑わしき者は、椅子を倒さんばかりの勢いで自ら立ち上がり、
「まだゴキブリの如く懲りずに、白人街に湧いて出てきたか、クロンボめ。あれで死にぞこなっていたとはなあ。衆目の前で仮面を引っぺがして、醜い姿を引き摺り出してやる。そして、今度こそくたばらせてやるぞ、玉無しが」
と、大立ち回りを勝手に演じ始めた。
演じているのではなく、本心からこの芝居めいた文句を言い放っているのかもしれない。ごつごつした男の両の薬指には、この地を発見してしまった白人の探検家の名が刻まれた指輪が嵌められていて、宝石はルビーとおそらくダイヤモンド。カットされた二つの指輪の宝石が僕らを嘲笑うかのように、これ見よがしにギラギラと煌めいていた。
お客の中から、新たなチャレンジャーが現れると、バーを包み込む野次は一層湧き上がった。
野次は、
「いいぞ、ぶっ殺せ」
という声と、
「仮面が女をひっぺがしてからにしろ」
という声、いずれにしても前に土砂降りの中、のぞき込んだ窓の向うで飛び交っていたそれよりも、もっと下劣で過激な声たちによって、殆ど二分されていた。
「あいつ、この前に特派員からインタビューを受けていた偉そうな男じゃあないか。サングラスは外しているが、髪をアップにして、肩章も胸章も変わらず見せびらかして……幼稚な権勢を見せびらかすのは、酔っていようが、素面だろうが、止められないみたいだ」
ジャズマンに扮して、フロアに立っていたマタデが僕に伝えた。そう告げるマタデの方がどういうわけかサングラスでその瞳を隠していた。
「なんだよ、その恰好。かえってジャズマンらしいけど」
「ントゥンバたちが怪しがってか、俺たちの後をつけてきたみたいだ。馬鹿みたいに何人も顔を覗かせて、俺たちのことを見ている」
僕は観衆たちの目に悟られないように、流し目で窓の外を見た。
あいつらと来たら、皆が皆、見たこともないくらいにいきり立っていた。僕らのことを十把一絡げで「クロンボ」呼ばわりした白人の男を今にも食い殺さんばかりだった。
それぞれの酋長も老い耄れて、その上、村を焼け出されて、泥に塗れ、価値の分からない石を掘り当てるしか生きる術が残されていなかった連中だ。
そう考えると、カワベは傲慢不遜だが、賢明なやつだったのかもしれない。彼は野放図なエネルギーを珍妙なものながら、何かしらの形に変えようとしていた。そうではない僕らはただそれが爆発するのを堪えるばかりの身。それが何の為になのかも分からない。まったくもってふざけた話だった。
「誰が玉無しだって。なんなら、この場でそれを確認してみるか」
仮面で素性を隠した今はどんなに尾籠なこともまるで躊躇わずに行えた。僕は太陽の仮面とカワベの二重の膜で身を保護されているのだ。
それは酒場でぶるりと放り出された黒光りした逸物に関しても同じことであった。
ジョセフィーヌは掌で両目を覆い、野卑な傭兵たちはゲラゲラと哄笑し、そのうち何人かは張り合うようにファスナーを下ろし、度数の高い酒にその先端を浸して、のたうち回っていた。
グラスの中の琥珀、その湖面に不出来に右曲がりした僕のそいつがキラキラと映し出されているのが僕の目に入った。けれども、肩章の男は野次馬たちから囃し立てられても、頑なに怒張したものを見せようとはしなかった。
「私も、私のそれもどれほど、鉈で切り刻まれようとも、鞭で甚振られようとも、何度でも甦ってくるのだ。……マイムレレ、マイムレレ」
傭兵ならば、ゲリラと化した僕の故郷の若い衆とも一戦交えたことがあるだろうと思い、咄嗟に僕は、故郷にまつわる呪文を唱え、太陽の仮面はそいつらの残党であるのだというふりをした。
大まかに言えば、それもあながち間違っていることでもなかった。
ただ武器をとって傭兵に向かっていったか、村を畳んで根無し草として放浪したのか、それだけの差しかなかったし、傭兵たちの目にはゲリラと難民の区別はつけられなかった。
所詮、十把一絡げなのだ。
切り刻まれた亡骸はみんな纏めてショベルカーで掬い上げられ、そして、谷合に打ち棄てられたのだから。僕らは偉大な首相が何を考えようとして、酋長たちに変わってどんな共同体を作ろうとしていたのかはさっぱり分からない。
けれども、その光景は僕の中にも、マタデの中にも、ケサベラの中にも、ントゥンバの中にも、河の市場の女たちにも、そして、死んだカワベのやつの中にも、記録されている。僕はジョセフィーヌに尋ねたかった。
「カワベのやつは、その時の光景について、何か君に話していなかったかい」
といった具合に——。
僕のはったりに肩章の男は少し怯んで半歩後退りした。
「やっぱりこいつは黒だ」
そう直感した。
僕はファスナーから逸物をしっぽのように丸出しにしたまま、男に飛び掛かり、そのまま馬乗りになって、掌底を二、三発食らわせた。殴打を続けて、僕はそいつが腹の中にこそこそ隠しこんでいる醜いものを吐き出させようとした。
「私の命よりも大切にしていた衣装はどこへやった。答えによってはお前を今ここで呪い殺す」
僕はジョセフィーヌの同郷であるのか、ごつごつと骨張って、顎まで割れた顔の中で、唯一、奥まっていて慇懃で、それだけにかえって目立っていた碧いの瞳のすぐ前で爪を立てながら、男に通告した。
僕はいつでもそのコバルトを掘り出せる。その絶対的優位の中で、カワベの姿かたちを借りている以上、それだけはこの男から聞き出さなければならないと思った。
「衣装だって?! クロンボのくせに糞生意気に派手なスーツなんざ、着ているからさ。けど、かわりにあれを着られる奴もここにはいねえ。だから今は、キャンプで兵士どもの精液を拭いとる雑巾になっているさ。お前はこのバーで目立ちすぎたんだ。ここにいる連中も気が付けば、ボンバイエ、ボンバイエ……お前みたいな危険因子を野放しにしておくのは危険だったんだよ。お前に顔は与えられない。当然のことだ。これは統治……そう統治なんだ。顔を必要としない野良犬のお前らには一生涯わからないことさ」
肩章の男は僕の手首をむんずと掴んで、そう言った。
僕との力比べで惨めに小刻みに震えながらも、男は悪辣に僕に唾を吐きかけることを忘れなかった。
僕は岩に突き立てたスコップに力を籠めるような感じで、男の力を押し返し、蛙の腹より柔らかな球をそのまま引き破いた。僕にこんな力が秘められているとは思いもしなかった。鑿を鎚で打ち続ける徒労が、闘う為に訓練されたトサカ頭たちよりも強靭な身体を与えていたのだと知った。
カワベのやつの残された一張羅がルビーよりも赤く染まり、男はもんどりうって断末魔の叫び声を轟かせた。そのテノール・ボイスに呼応するように、ジョセフィーヌがソプラノ・ボイスとすら呼べないほどの金切り声で悲鳴をあげた。
哀れな敗北を喫し続けた太陽の仮面は今、マンネリズムを打破し、乾いた喉を潤す為に、ラックの椰子酒のコルクを抜き、そのままトランペットを吹かすようにしながら美酒に酔っている。野次馬たちは、突然の出来事に震えている者もいれば、呆気に取られて努めて平静を装おうとする者もいる。
いずれにしても、不自然な静寂が夜の酒場を包んだ。
終わった。僕に出来ることはこれで全て終わったのだと感じた。
カワベのやつが呪術師にでもやられたかのような変屍体に成り果てたのは、しいて言うならば、男の醜い嫉妬がもたらした物であり、僕らのなけなしの金もこれもまたその嫉妬によって、もう値打ちのつかない襤褸の雑巾と化したのだ。ジョセフィーヌはカワベが誰に殺されたのかを知り、「ルビーの涙」はこの街に来てから一番の売り上げをあげたのだ。
「おい、逃げろ」
静寂を破る突然の怒号は傭兵たちのものではなく、マタデのそれであった。
僕が振り向くと、ジョセフィーヌを庇いながら、扉を開けて逃走しようとするマタデが丸の向うに小さく映り、それよりも遥かに大きく、瞳の光を何処かに置いてきてしまったとしか思えないほど目の据わった一人の傭兵がコバルトやルビー、ダイヤモンドよりもキラキラ綺麗に輝く割れた酒瓶を手にして僕に振りかぶっていく姿が僕の瞳に飛び込んできた。
次の瞬間にはもう視界が歪み、絞るように細くなっていった。そのか細い視界さえ、無慈悲に霞んでいく。逃げるといっても、もうこれではどうしようもなかった。
「やられ役のピエロがいい気になっているんじゃあねえよ。勘違いするな、俺らは娘っ子の肌を見て、旨い酒が飲みたいだけなんだ。何が正義だ、何が世界の秩序だよ。ここにそんなものの欠片でもあるかい、なあ、答えてくれよ」
傭兵の男は僕を殴打しながらも、その瞳の奥には何も映せていなかった。
もう目の前が朧げになっているだけにそのことを僕は砂の染み付いた黒い肌で感じ取った。ただそれを知ったところでいったい何になるのだというのだろう。もうこの場所では歌われることのないジョセフィーヌのスキャットよりも、負けっぱなしの闘鶏よりも、儚く無力な自己。それを僕はそっと顧みた。
微かに残る力を搾るようにして、仮面の僕は叫んだ。
「私の真の名は、パトリス・マファルメ・ワ・ジュア・カワベ。誰よりも傲慢で贅沢な名を冠する男だ」
あいつにはもったいない本名は、確かそのような名前のはずだった。
けれども、顔をぐちゃぐちゃに潰されたあいつには、その名前を名乗る権利くらいはあるだろう。僕にはそれすらもない。
「ボンバイエ、ボンバイエ」
薄っすら色を無くしていく僕の瞳に黒い人だかりがハンマーと松明をもって近づいていくのが映る。床に撒かれたバーボン。男たちの野太い悲鳴。降り注ぐ生温かい滴。火薬のつんとした臭い。僕にとって、そのすべてが飲み干されたカクテルみたいな虚ろでしかなかった。
僕だけが誰の瞳にも映らない。
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