洪水と日常という単語を並べることに未だ躊躇がある。
だから、ディスプレイに文字列を映してはCtrlとZのキーでそれを脳の中に押し戻していく。無かったことにする。思っていることは、口や表情に出したり、文字にしなければ、存在しないものとなっている。摩擦がないから、傷つくことも傷つけることもない。そうした方が都合が良いものだ、基本的には。
それはそうと、雑踏というものは、公と私の、ホンネとタテマエが入り混じる渚だとつくづく思わされる。もっともタテマエにも欲があり、ホンネにも打算があるが。
番が来れば、財布から今日日あまり使わなくなった五円玉を取り出して、アンダースローで丁寧に、向う側にトスをする。割り切れないご縁、だいたい3セント。公私が混濁したお願い事、世迷い事、ぶつぶつと呟こうとして、それを呑み込む。後ろの人が訝しむから——本音はそれだけではないが。
寄せる波もあれば、帰る波もある。そして、目的を終えた雑踏の口や頬は、ほんのりとほどけていたりする、あくまでも、相対的にだけど。
誰かにとってはかけがえのない、多分あなたにとっては赤の他人が、顔を紅潮させながら、スマートフォンを片手に「真実」を説いていて、ふと、私は思い出した。
「耳の聞こえない人がSNSのタイムラインを見て、これが人混みの感覚なのかと感動した」
そんないつどこでどんな素性の人が言っていたのかも思い出せない呟きを。
熱を帯びた喉からアツアツの「真実」が木霊しては、雑音の中に溶けていく。そう言えば、私がつい先ほどまで、寄せる波の一泡だった時、前を行く人は頻りに「懐かしい」と呟いていた。
懐かしいは今が続いているから、存在する。アルバムがある間は、写真の切り抜きはいつまでも想い出であり続ける。きっと、写真が色褪せるより、アルバムが何かにとって代わられることをあだち充さんが筆を折ること以上に恐れている。懐かしがる口と熱く語る口が、共鳴しているのかは推し量れないが。
そして、その恐怖とやらは、想い出を拠り所に出来ない人にとっては、甘すぎて虫唾が走っているように勘違いする味なのかもしれない。渚に実る酸っぱい葡萄を食べれない人が、方舟を編んで、ユートピアを夢想していることに虫の居所を悪くしている人というのも、また何処かにいるのかもしれない。
誰かにとってはとりとめのなさすぎる赤の他人で、私にとって代わりのいない人がその雑な談義をどう受け止めていたか、そもそも聞いていたのかは、知る由もない。
次にこの道があまねく夢幻泡影で埋まるのは、おおよそ一月後。
もう一つの春の訪れを祝い、梅のほころびを喜び、煎り豆をあやかる為にやって来る。泡の儚さに心を震わされる人は、同時に押し寄せる潮を恐れる。潮が分かれることはもっと怖がる。二倍、二倍、divide、divide……響きは似ているけれど、意味は喧嘩とfightくらいに違うらしい。渚、渚にまつわるエトセトラ。エトセトラ、なんて心地の良い言葉だろうか、私も誰かにとってのエトセトラでありたい……。
何だかだんだん、私も頭の中の洪水が飛沫を立て、やみくもに泡立ってきている気がした。だから、何かを考えるのはよして、気分転換に鰻を食べに行こう、そう思い直すことにした。
——鰻の旬は夏ではないのだから。
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