松浦理英子さんの「犬身」を読んだ。

主人公がこの人に尽くしたいというたった一人に出会い、たった一つの跳躍を経て、主人公から主犬公になる、そんなお話だ。

大好きなご主人に尽くしじゃれつく主犬公(雑種犬フサ)は華麗に楽しいファンタジスタ。全身全霊の願いが叶い、魂が毬のように弾んでいる。何と眩しいこと。

キャロル・キングをウォークマンで聞いていたある日たまたま『ナチュラル・ウーマン』を手にとって、以来、松浦ファンとなってはや十年。そして、久しぶりの新作。などといった感慨のために少々冷静さを欠いているが、『ナチュラル・ウーマン』(1987)と『犬身』(2007)の20年の時を経た二作品の共通点が気になった。

『ナチュラル・ウーマン』においては、たった一人と出会う喜びとその儚さを描いていた。しかし、ファンタジーというよりは青春小説と括れるリアリティのある内容だった。一方、『犬身』はファンタジーの要素が濃厚で、たった一人と出会う喜びとその永遠を描いている。

リアルに描けば喜びは一瞬、ファンタジーで描けば喜びは永遠、とアホみたいに単純に言えばそうなるのだが、果たして、両者ともに表層の設定を超えたリアリティがあるのは確かなのだ。

そして両者の題名。ともに自己同一形を指す言葉だ。自分が自分であった瞬間を「ナチュラル・ウーマン」と、自分が自分である永遠を「犬身」と、命名している。

いずれにせよ、またデビュー作『葬儀の日』からまた一通り読んでみたい。

手嶋淳

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