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整体師の叔父に姿勢の歪みを直してもらったその日から、気味の悪い世界の幻覚が見えるようになってしまったぼく。
もとに戻してもらうために叔父の整体店を訪れるのだが。

タグ: #SF #ファンタジー #ユーモア #官能 #純文学

小説

14,874文字

気味の悪い世界が視界に現れるようになった。

置換と重ね合わせ、それが気味の悪い世界がとるぼくの現実に対するアプローチの二種類だった。現実の建物や道を部分的に置き換えてみたり、半透明の幽霊のように現実の世界に重なり合ってみたりしていた。静かに、唐突に、僕の現実は一方的に侵略され続けていたのだった。

異世界転生、そのような夢想の片鱗でも見せてくれたならば、ぼくの現実は喜びにあふれたはずだ。それなら気味が悪いとは考えなかっただろう。偶然に感謝した。あるいはこれは当然の報いだと、本来とは逆の意味でかすかに思ったりした。辛い現実に耐えたご褒美をもらったんだ。異世界、すなわちぼくの周りにうさぎのような可愛らしいアナベル・リー(複数)が群れ集う異世界というご褒美。うさぎたちの全羽がぼくを愛し、さりげない性交渉を提案してくる世界。ぼくが提案を断ることはない。

しかし実際には気味が悪かった。幸せなうさぎ小屋によって僕の現実は置換されればよかったのに、そうはならなかった。二次元の閨房へと続く豪奢な扉は重く閉ざされたまま、その背後で繰り広げられているだろう饗宴の期待を煽るだけだった。その門は、僕一人のためだけの門ではなかった。

あるべきでないもの、望まれないもの、望まれたことのないものがそこに現れた。そこ、すなわちあらゆる場所。

変な喩えだけれど、ぼくは意図せず任命されたかくれんぼの鬼で、無理やり誰かを探させられていると感じていた(と同時にぼくは神話的なパワハラを感じている)。その誰かというのはしかし、挑発的なほど隠れるのが下手なのですぐ見つけられる。たった今この瞬間にも目が合ってさえいる。でも、すん、とした表情を崩さない態度は自分はまだ一度も見つかっていないと確信しているのだ。

ある日のことだ。国道沿いのコンビニが、ラテックスのように表面のテカテカした素材の硬直した灰色の女の像に変貌したことがあった。置換の一例。それは偶像崇拝の象徴のような魔力のこもっていた。女の表情には怒りと怒りと怒りという3つの感情が刻まれていた。それは気味の悪い世界の芸術なのだろうか。誰も知らない。それはぼくの知っているどんな宗教とも似ていなかった。当然のことだろう。気味の悪い世界はどこにある? 誰も知らない。

コンビニの店員と客はその女の像の腹の中にいた。どうせ捨てることになる物を店に並べ、タバコの銘柄を覚えることを諦めた。読めもしない雑誌を立ち読みし、トイレを無駄に汚した。自分たちが相変わらずのコンビニに居続けていると、一度たりとも疑っていないようすで。

ぼくのほうが正しくて世の中のほうがおかしい、と強気を保つのはいまや難しい。こんな変な景色が見えるようになってしまったぼくがおかしい。ぼくはおかしくなってしまったのが自分の目だけであることを願っている。頭がおかしくなってしまったよりは、目だけのほうがまだ軽症だから。両方の場合なら絶望だ。いや、諦めがつくぶん希望だろうか。気休めだ。

異なる現実が始まったに過ぎないのだと思うと少しだけ気が紛れた。

卒業研究が佳境で、なかなかまとまった時間を作ることができずに眼科へは行けていない。気味の悪い世界は建物や道や空間(道の集合としての空間)といった風景を見ているときに現れ、ポリマー合成の反応を凝視している間は現れなかった。視界が狭すぎたのだろう。

泊まり込みの実験が続いた。常に一抹の不安が胸につかえた。気味の悪い世界に脳か視界かその両方が侵食されている人間の提出するレポートに科学的な妥当性はあるのか? 真っ当な疑いだった。大学構内に持ち込まれた寝袋で眠りにつくまでの数分、この不安について考えを巡らせることもあった。

答えは出なかった。代わりに思い出すことがあった。気味の悪い世界が見えるようになったきっかけ。今まで思い至らなかったことが恥ずかしい。だが、誰にもばれていないのにどうして恥ずかしいのか。

ぼくは寝袋から抜け出してある人物の元に向かっている。

 

 

キャンパスの周囲には森と畑しかない。未知のウイルスが漏洩したとき速やかに隠滅できるよう隔離されている。

狂人たちの暗い夜会の会場となっている4号棟から、ひそめる気のない怪しげな笑い声が聞こえてきた。ポストモダン文学とモダニズム文学の違いについて考えようとするから理性を無くしてしまう。どちらにも関わろうとしないべきだ。ラブクラフトが飛び越えた大地の裂け目へと墜落していく。

実験中の高分子反応は止めてある。オイルバスの電源も確認済み。事故が起こるような心配はないだろう。後日眠らなければ遅れは取り戻せる。

門の前まで来ていた。追いかけられている気がして(いつものことだ)振り返ると、大学の敷地に今まで見たこともない半透明の超高層のビルが一瞬ではえてきた。重ね合わせの一例。

西新宿に林立するようなビルとは全く似ていなかった。よりデカかった。数百階はありそうな高さ。上層階は夜を取り囲む宇宙の底へ飲み込まれていた。窓が嵌っていなければならない場所はバルコニーのような突き出しで、それぞれが小さな屋台のような風情だった。水上マーケットなら船がある。でも空中に小回りの効く船はない。ヘリコプターで近づこうにも、おそらく目当ての店の上階の店は高速回転するプロペラによってミンチにされてしまう。絡みついた内臓がプロペラに振り回されて遠心力を獲得する。

あるいはあるのだろうか。思いもよらない空中浮遊の方法が? 魔女の乗りこなす箒飛行術が。気味の悪い世界には?

考えを中断する。ぼくは先を急いでいる。ぼくは歩き出した、素早く。

突然の告白になるが今までのぼくの姿勢というのは他の人たちと違っていた。そのせいで歩くのがとても下手だった。ここでいう姿勢というのは脊柱とか椎骨、筋肉や靭帯に関わる体の格好のことで、態度とか心構えのことではない。ぼくの姿勢は歪んでいた。

これにはぼくがまだ割れた言語のかけらをかろうじて並べてみることしかできなかった年頃の、両親の文字通りの「手違い」が影響していた。彼らは仲睦まじかったがその代わり、ぼくのことをうっかり地面に落とした。記憶にはない。記録に残っていた。そのせいで僕は入院させられていたらしい。このことを追及したことは一度もない。

座っているときはあまり気にならない、歩き出すとその歪みを実感する。どうしても左に寄ってしまうのだ。これまでの人生で隣りを歩く人を何度となく道の端の塀や壁や段差に押し付けたり、歩道の外側の危険地帯に押し出したりしてしまう。
「なんで幅寄せしてくんの?」
「もっと右側を歩いてよ! そっちスペースあいてるじゃん!」

何度となく非難および避難された。彼らが狭量だったわけではない。ぼくのこの姿勢は注意深く見ないと目立たないから、悪ふざけだと思われがちだった。繰り返し植え込みに押し込んでしまって申し訳ないと思っている。頻繁に車道に突き飛ばしても無事でいてくれたあなたの幸運に感謝している。でもぼくの体にとってこれが自然なのだ。悪気はなかった。

そして今から3週間前、この歪みとともに人生を歩み始めてから22年の月日を待って、ぼくはこの歪みから開放されることになった。

実家にふらりと戻ってきた叔父の手によって。

 

 

姿勢が良い。真っ直ぐ歩き続けることができる。そのうち目的地である叔父の整体店「正位置整体」にたどり着いた。が、店の電気が消えている。看板に併記されている営業時間はまだ過ぎていない、定休日を踏んでしまったわけでもない。それなのにすべての窓にブラインドが降ろされていた。

昼間であれば植物に囲まれた小さくて可愛らしい小屋という印象を受けたかもしれないその店は、薄暗い闇の中では冷たい廃墟に見えた。灰色に汚れた外壁は自然のぬくもりというより荒廃だった。ねじくれた赤紫色の植物は攻撃的だった。日陰にはぬめぬめ光る小さな石がびっしり敷き詰められていた。それらが眼球のような石たちが、今にも一斉に目を見開きそうだった。

チャイムが見当たらないので、ドアを叩いてみても反応はがない。当然、鍵がかかっている。

出直すべきだと感じ始めた時、ぼくの耳元でささやきく声があった。
「どうしてそんなところで時間を無駄にしているの?」

わざわざ振り向くことはせずに「無駄じゃないよ、いずれ研究に役立つことだ 目に関わるんだから」と言った。

イヤホンからの音声はぼくの回答を良く思わなかったに違いない。もしくは、最初からぼくに警告を与えるつもりで話しかけてきたかもしれない。声が刺々しくなった。
「本当に今必要なことなの?」
「自分の見ているものに確信が持てないような状態では、実験だってうまくいかないに決まってるんだ どんなに現実が正確で厳密でも、それを眺めるレンズが歪んでたら全て台無しってこと・・・・・・ 観測結果が正しいのか、それとも無意識に歪められているのか、判断することができなくなってしまう 気味の悪い世界のせいで」
「ごめんなさい、何言っているのかわからない。もう一度言って」

ぼくは一呼吸置いてから言った。
「たぶん目が悪くなったんだよ 頭はまとも」

彼女は静かに「一つ提案があるの」と言った。「現実が歪んでいるなら、その歪みを計算して修正すればいいのよ そのほうが現実的 私には到底納得できない因果関係に君はこだわりすぎてる」
「・・・・・・そうかもね」

彼女のほうが合理的だと自分でもわかっていた。それでも彼女を説得しようとするなら、あとは感情に訴えるしか方法はない。でもそんなことをすれば彼女はぼくに失望するだろう。あなたの感情を私に押し付けないで。あなたはそういう人間だったのね?
「明日には戻ってきて」

彼女はきっぱりと言ったが、それは彼女なりの譲歩だと思えた。
「そうしたいけど叔父が留守みたいなんだ 真っ暗で電気もついてない」

それが合図だったかのように、叔父の店が光を放ち始めた。

看板の下に仕込まれたLEDが看板を光らせ、入口に続く短い小道にも道しるべのように明かりが灯った。花壇の中で静止していた陶器の小人たちの目にも光が宿った。樹木に巻きつけられたツタのような電気ケーブルに芽生えた電球はカラフルに点滅している。ジー、という虫の鳴き声のような電気の音が聞こえた。

入口が開いた。中から出てきた大柄な女性が、小道を通ってぼくの方に歩いてくる。

ぼくは一旦通話を切った。隣りにいた彼女が消滅し、看護婦に置き換わった。(実際には看護婦ではなかったが、見た目は看護婦だった。)
「お客さまですか?」

いわゆるナース服を着た大柄な女性がぼくに言った。
「ぼくの叔父がここで整体師をやってると訊いて来たんです」

女性の表情がカラフルに点滅する電灯によって赤や青に変化していた。含みのある笑みを浮かんだ。
「甥御さんですか? 先生はただいま訪問営業に出ています 小一時間もすれば戻られると思いますよ、中でお待ちになります?」

待つのは面倒だったけれど仕方ない。

「ぜひお願いします ええと、あなたは?」
「・・・・・・私は助手です ついてきてください、中で問診票に記入しましょう」

問診票? と疑問に思う間もなく助手はいわゆるナース服を翻して__といってもほとんど体にピッタリ張り付いていた__扉の方へ戻っていき、ぼくは後ろから追いかけた。助手の体にまとわりつく白い布地の上にも赤や青の光の斑点がまぶされた。その色は白い布地に染み込んでいた。

待合室はパステル調の無害な内装。子どもやお年寄りに好まれそうだった。

助手は「奥に先生の居室がありますので、そちらにご案内しますね」と言った。
「入って大丈夫なんですか?」

助手は不思議そうな顔で振り返って聞き返してきた。
「どうして? あなた病原菌かなにかを持っているの?」

ぼくはその急な質問に驚きつつ否定すると、
「じゃあ、入ってはいけない理由なんてありませんよね」

と助手は言って、不気味なほど透き通っている目をまぶたで細めた。マスク越しに微笑んでいるようだった。助手はぼくよりは年上に見えた。叔父より一回り以上若そうだった。

待合室の先の廊下を進んでいくと、両脇に一つずつ施術室があり、突き当りの扉にCCO ROOMという札が貼り付けられていた。(CCOは何の略だろうか?)

女はポケットから一目で鍵とわかる見た目の鍵を取り出し、鍵穴にさした。

院長が座るための革張りの椅子、オーク材のテーブル。目が慣れてきて、明らかに安物とわかる訪問者用の椅子が手前に置いてあることに気づく。それ以外にはなにもない、ほとんど物置と言って良いような空間だった。窓もない。部屋の隅に固定されたはしごがある。

ぼくは訪問者用の椅子に座った。助手はぼくにバインダー付きの問診票と空気のように軽いボールペンを渡して、そのまま院長用の席にどかっと腰掛けた。ぼくは彼女がそこに座るとは思っていなかったので少し驚いた。誰も座っていないのなら、別に座ってはいけない理由はないはずなのだが。

問診票で聞かれていることは体の凝りや関節に関するものなどばかりだった。視界の異常に関するものは無い。

ぼくのペンが動いていないことに気づいた助手は、テーブルの上に肘をつき上半身を乗り出すようにして「なにかわからないところがある?」と訊いてきた。
「よく考えたら、問診票に書くようなことじゃなかったんです ・・・・・・目に効くツボみたいなのが骨盤まわりにあったりします?」
「あみだくじみたいな?」
「え?」

「途中の道は複雑な迷路で、辿り着く先は最後までわからない ハズレを引くこともあるかも」

「整体っていうのは、そういう一か八かの運試しみたいな感じなんですか?」

助手は一瞬ぎょっとするような大きさの笑い声を上げたあと、静かに言った。

「いいえ、ちゃんと理論がありますよ あらゆるものに理論がある 先生が戻ってきたら聞いてみましょうね」

急な子供扱いだった。助手はテーブルに肘をついたまま、ぼくを眺め回す。ぼくに初対面の女性を即時的に誘惑できるような色気は無い。その視線には企みがあるはずだった。あるいは企みを隠すための警戒の視線・・・・・・。

だがその企みがはっきりとしない以上、ぼくは微量の期待が混じった緊張を強いられることになる。

助手が口を開いた。
「・・・・・・さっき入口の前で話しているのをうっかり聞いちゃったんだけど、気味の悪い世界っていうのはいったい、どういうものなの?」

 

 

最初に見えるようになったのは、叔父の施術を受けた翌日だった。

叔父はふらりとやってきた。もともとは叔父の実家でもあった場所だから奇妙なことではない。叔父は、母しか飲まない冷蔵庫の缶酎ハイを勝手に取り出し、台所のシンクの前に立って黙って飲んでいた。台所の窓から完全に熟し切る前の薄い色の夕日が差し込んでいた。

その日ぼくは犬に会いに来たのだった。痩せ犬で、咳をするように吠えた。甘えん坊だった。狂ったようにぼくの手のひらを舐めた。やがて唾液が乾燥し、ザラザラした舌の表面でこすられた。膝の上で眠ってしまった。

雑種なのは確かだったが、両親も雑種だったらしく、おそらく祖父母も雑種だった。ぼくは、ゴールデンレトリバーとパグが含まれていると確信している。母はヨークシャテリアと言ったが、きっと思い違いだ。

散々撫で回したあと、階下の物音が気になり始めた。

階段を降りるぼくの足音に気づいたのだろう、叔父が振り返って少し自信なさそうにぼくの名前を呼んだ。二十年近く会っていなかったのだから仕方ない。ぼくも最初、目の前の中年が誰なのかわからなかった。しかし他人とは思わなかった。顔が自分と似ていたからだろう。

初対面の人間同士がよくやるように仕事の話をした。実のない剥かれたじゃがいもの皮のような会話だった。茹でられたあとのすぐちぎれる皮だ。そのあとどういう経緯だったか覚えていない。どうだ、施術してあげようか、とぼくに言ってきた。

ぼくからせがむならまだ自然のような気がしたが、逆だったからどことなく不気味だった。でもせっかくの申し出を断る理由もない。長い研究生活(といって、たかが1年弱なのだが)で体は凝っている。何度か遠慮したあと、じゃあと施術してもらうことにしたのだった。

実際にはそれだけのことなのだ。でも、それがなぜか、ぼくと叔父だけの秘密だったのではという気がしてうまく助手に説明できなかった。助手は上半身を少しくねらせた。きっとテーブルの下で組んでいた脚を組み替えたのだ。ごく平凡な、ありふれたマッサージだった。歪んだ骨盤がぐきっと正しい位置にずらされた、みたいな衝撃はまったくなかったし、その間、とくべつに気持ちいいとも思わなかった。叔父がぼくの骨盤の歪みに気づいていたのかどうか、それすら怪しい。交流の絶えていた両親から聞いていたとは思えないし、ぼくの歪みはぱっと見では分かりづらい。一緒に隣り合って並木道を歩けば、徐々に左方向の茂みへと押し込んでしまうような歩行の偏りによって歪みに気づくことができるだろうけど、それでも単に他人との距離感がおかしい、と思われるだけで、姿勢の問題に気づかれないことも多いんです。
「・・・・・・説明が難しい? でもあなたは目を覚ましたのでしょう? それはあなたにとってとくべつな体験だったのじゃない?」
「目を覚ました? ・・・・・・ぼくは、眠ってなんかいなかったですよ」

助手が首を横に振ると、艶のあるボブカットの髪にまぶされているのか、もしくわずかに揺れた白衣に吹き込まれているのか、酸味の強い果物のような香水がにおった。
「いいえ、あなたは向こう側の世界が見えるようになったんでしょう? 先生の手によって 目を覚ましたってことでしょう? この現実のまどろみを振り払ったのよね?」

助手の目が一瞬だけぎらりと、炎天下のガソリンのような輝きを放った。
「その世界っていうのは、きっと催眠と漂流のための音楽をかき鳴らす女子高生がいたり、ゴミ捨て場から生まれる悪魔のカラスが子供を唆したり、人生に絶望した人々は望んで四肢を切断し、機械によって脳に快楽物質を送られ続けながら眠りの中を生き、人生に熱意を持つ人々は身体を改造して、自我の崩壊をもろともせず人類最速の壁にアタックしたりしているんでしょう? 怪しげな術を使う二人組の女は地下の移民を虐殺するし、肉体という牢獄から抜け出すために自分を愛する肉親を騙して爆死する運命を選ぶ女の肉片が辺りに飛び散っていて、太陽の真下にある白紙の広場では目的を見失った人々が共通の低俗な幻想の中で正気を失うという最も正気な対策を講じていのよね その大人たちの様子を、高校生の男女二人組が、あたかも火事の物見のように少し高い場所から見下ろしている」

ぼくは言葉を失った。
「今も見えるの? たとえばこの私のことも、向こうの世界の誰かと被って、幻のように見えているの? 二つの世界は重複している?」

助手は手のひらを僕に向けて垂直に立てた二枚の手を重ねて合わせてみせた。
「普段、見えているものを教えて 見えているんでしょう?」
「・・・・・・重複するだけじゃなく、急に別のものに置き換わったりします この前はコンビニが巨大な女の像になったりしました」
「その像はどんな形だった?」
「巨大な女ですよ 体系的にもそうでしたし、髪も長かったです 右手の人差し指を自分の右目に突き刺して、左腕は肩のあたりから砕かれてました」
「女神様なのかしら でも、その世界に神がいるのかどうか ・・・・・・ねえ、外に出てみましょうよ 実際に何が見えるのかもう少し細かく、先生が来る前に確認しておいたほうが良い気がするの」

信じてほしいのだが、ぼくは鼻息を荒くしている助手に疑惑の視線を向けつつあった。疑惑の正体ははっきりしていなかったけれど、反応や使う言葉があやしいかった。
「問診のためなの 正しい問診が、正しい施術につながるのよ どんなに腕の良い施術者でも、問診がなければ見当違いな施術をしてしまうものなの ついてきて 当院にはバルコニーがあるんです 先生は時間ができるとそこに上がって、星を眺めたりしてるんですよ 外からは見えなかったでしょう?」

助手はすばやく立ち上がった。部屋に入ったときから気になっていたはしごに向っていく。助手の尻の形に小さくへこんだ革張りの椅子が、音を立てずにゆっくり回転していた。

はしごは天井を突き抜けてさらに上へと続いている。
「どうしてはしごなんです? 普通に階段を取り付ければよかったのに」
「なぜだと思う? ロマンか、実利か、性癖か 三択ね」
「性癖? ぼくの叔父ははしごに欲情する人なんですか?」

助手は一瞬目を丸くして、そのあとくすくす笑った。
「今はそうやってバカにしてるけど、もしかしたらきみもその趣味を受け継いでるかもしれないよ 自覚がないだけでね」

そう言ってから助手ははしごを登り始めた。ぼくはなるべく上を見上げないようにしたが、ちらちら助手のワンピース型のコスチュームが目に入ってしまう。サイズが合っていないせいでミニスカートのようになっている、その布地の薄いストッキングに包まれた太ももが見えてしまうのはしかし、不可抗力だった。
「性癖は文化的なものですよ それが遺伝的に受け継がれるとは思えませんね」

と下から言ってみたが、助手の耳には届いていないようだった。

それにしても、いまどきこんな服装が制服として使われることがあるのだろうか? 動きやすいパンツスタイルが今の主流ではないのか。実際コスプレ感がある。生地は安っぽく、ネット通販で数千円で買えそうに見える。

煙突の内側のように暗い垂直な空間をはしごを頼りに登っていくと、徐々に夜の暗さが煙突内の暗さに混ざってくるのがわかった。金属質のはしごで手が冷えていた。星の光を含んだやわらかな暗闇のなか、助手が最期の一段をこえ、地面に脚をつけようとしている。そのときの腰のまるい屈曲をぼくは下から目に焼き付けた。

バルコニーと呼ばれていた空間には天蓋と蚊帳付きのベッドと、深々と沈み込むようなクッションのソファー、冷蔵庫と一体化した直方体のダイニングテーブルが置いてあった。空には透明な屋根がついていて、透かして星空を見ることもできた。もちろん星から見下されてもいた。

地上二階、建物自体が崖の上にあることもあって、見晴らしが良かった。大学のキャンパスが遠くに視認できた。いまだに煙のような塔が重なって見えていた。

空を飛ばれない限り、このバルコニーを覗き込まれる心配はなさそうだった。入口側には目隠し用の衝立が並び、その表に電飾を施すことでそれとわからないようになっていた。
「それじゃ、座って リラックスして 見える景色を私に教えて」

ぼくは助手と隣り合ってソファーに座り、崖の下にはてしなく広がっている町並みに目を凝らした。住宅街の家々やマンションの光が、徐々に変質していく。幻覚の生成が始まる。ふと、パイプを持ったとある老いた画家の顔が頭に思い浮かんだが、あるいは持っていたのはパイプではなかったかもしれない。
「見えてきました ・・・・・・なんだろう、鳥のようなものが上空を飛び回ってます いや、あれは人間か 半透明の直立した人間たちが、その姿勢のまま左右にスムーズに移動してます はは、空を飛んでいるというよりは滑っている感じですかね、すごく変な感じ、気味が悪い 直立したまま水平に移動しているんです あ、駅が見えていた場所が変わり始めました 電車、じゃないですね、あれはなんだろう、細長い粘土みたいな質感の、曲線の多い・・・・・・」
「生き物が空を飛んでいるの? 空はまだ美しい? 汚染されてはいない?」
「夜ですからね、きれいかどうかはちょっとわからないです 曇っているだけかも 星は消えてしまいました」
「工場はどう? 数百年は稼働し続けている工場があるはずなの 毒を撒き散らし続けているけど、生活のために必要な機械部品を生み出し続けているのよ」
「工場? そんな物は見当たりませんけどね あれ、湾岸のあの大きな建物は、発電所ですか? 現実の」

ぼくはカクテルを作るときに使うメジャーカップのような形をした原子炉を指差す。4基の原子炉は、夜の闇の中でもくもくと灰色の煙を吐き出している。
「そうね、あれは私が見たい景色じゃない」助手はぼくの肩に手を置いて言った。「あなたの叔父さんが思い描いた景色でもない」

叔父の思い描いた景色? と疑問に感じるよりも、ぼくのTシャツのえりと皮膚の境界を侵略するように置かれた助手の手が気になって仕方なかった。丸っこい爪は血液のような赤色だった。侵攻される前にその手を取って、つまりお互いに手を取り合って、密な友好条約を結ぶことはやぶさかでないのだが・・・・・・。
「あなたの叔父さんは昔小説を書いていたんだよ 私は学生の頃に読ませてもらったことがあってね、でも、そのときはまだ完結してなくて、いつか完成させるって言ってた でも先生は急に書くのを止めたの あなたが見ている気味の悪い世界っていうのは、先生が昔小説に書いていた世界にそっくりなの」

助手が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。

叔父が昔小説を書くのを止めたこととぼくが気味の悪い世界が見えるようになってしまったことに、因果関係はない。こじつけでしかない。根拠のない妄想だ。でも助手は話しながら少しずつ興奮し感動的になっていて、ぼくはいまだに白衣の下の現実の肉体にただならぬ好奇心を抱いている。
「・・・・・・私はそう確信しているの 純粋で透き通った幻の世界はつねに私たちの世界に接しているんだわ あるのよ たしかにあるのよ」

ぼくは純粋で透き通った幻の世界など、一度も見たことはなかったけれど、自らの正気を疑うような気味の悪い世界の話を細かいディティールを含めて話すと、助手は無邪気に喜び、ぼくの感覚ではたいして意味のない風景にも、なにかしらの幻想的な意味を見出すのだった。

助手はぼくの膝に手を置いて、喋っているぼくの目をじっと上目遣いで見つめてきた。お返しに助手のぴったりと服の張り付いた背中に手をあててさすってみた。服の下のホックの明確な突起が手のひらに伝わってきた。助手はまったく嫌がる素振りを見せないが、ぼくが喋るのをやめようとすると「やめないで 向こう側の世界を教えて」と言って、ぼくの太ももに触れながら続きを促してきた。

それから数分しか経っていなかったと思う。助手はなにかに気づいたかのようにびくっと反応すると、立ち上がって無言ではしごを降りていってしまった。それがあまりに突然だったので、ぼくは何が起こったのかわからず、すぐに追いかけることもできなかった。嫌がるようなことをしてしまっただろうか。それとも、不意に冷静になって、ぼくに対する評価を下方修正したのか。

いずれにしても追いかけたほうがいい気がした。このまま放置されたままさよならは、心の問題としてあとに響きそうだった。

ソファから立ち上がろうとしたとき、はしごを登ってくるカツカツという足音が聞こえてきた。革靴の底が金属の棒を踏む音。ぼくは助手の気が再び変わって戻ってきてくれた思って、内心喜びながらその場で待った。きっと精神的に不安定なところのある女性なのだろう、それは決して悪いことではない。感受性が豊かだということの証明だし、そういう人がその性質のせいで苦しむことがあるのだとすれば、悪いのはその性質ではなく抑圧する世の中の方なのだから・・・・・・。

しかし、床にあいた穴から顔を出したのは可愛げのかけらもない一人の中年の男だった。ぼくの叔父である。

 

 

叔父は最初、ぼくのことを院内に忍び込んだ強盗かと思ったらしい。薄暗い星あかりの下、目が合ってから数秒間ぼくらは無言でお互いに見つめ合う時間があった。

ぼくのことを認識した叔父の第一声は「鍵は、どうやって開けた?」だった。その声にはまだ警戒心が残っていた。叔父はなにか一つでも踏み荒らされたものがないか調べるような視線を、ぼくを通り越してバルコニー全体に巡らせている。

「助手のひとが開けてくれたよ」
「助手? 今日は休みを取ってるはずだがね」
「でも、さっきまで一緒にいたんだよ ・・・・・・いや、そんなことより、今日は叔父さんに聞きたいことがあって来たんだ」
「ああ? ・・・・・・とりあえず下に降りようか ここはちょっとな」

はしごを降りて院長室を出て、パステルカラーの待合室にまで戻って立方体の椅子に座った。

叔父が「ビールでも飲むかい? ちょうど最後の訪問診療から帰ってきたところなんだよ」と言った。

ぼくはこのあと研究室に戻ることを考え、その強い誘惑を絶った。研究生活において最も大事なことは知性ではなく、修験的な節制だと思う。

叔父はとくに残念がるわけでもなく、自分が飲む用のビールを片手にぼくの隣に座った。

ぼくは叔父に視界の異常について、それが数週間前の叔父の施術のあとから始まったことを訴えた。叔父さんのせいで変な世界が見えるようになってしまったかもしれない、と。すると叔父は、こともなげに、
「そりゃ、骨盤の歪みを正しい位置に戻したんだ いままででの人生で慣れ親しんできた体とは別物といっても良い でも副作用は一時的なもののはずだよ しばらくすればよくなるさ」

と言った。
「しばらくってどれくらい?」
「人による」
「体の歪みはぼくの悩みの一つだったけど、なにがなんでも今すぐ治したい、ってものじゃなかったんだ それに、歪みを治す代わりに目の調子が悪くなるなんていうのは論外だよ いままで普通にできていたことができなくなるわけだから」

叔父は見るからに不満げだった。
「じゃあ、どうしたい? もとに戻すか?」
「いつ治るかわからない目を抱え込むくらいなら、早いとこもとに戻してほしい」

叔父は少し不服げな顔をしながら、
「体の歪みは、可能なら取り除いておいたほうが良いんだぞ 世の中には、直したくてももう直せないくらい歪んでしまっている人もいるんだ」

と言った。
「こっちにもいろいろ事情があるんだ 意味のわからない世界を横目に見ながら、自然科学の研究なんてできるわけないじゃないか たとえば猫に言語を理解する可能性があるとして、そういう世界でAIエージェントの研究を続けることができると思う? AIより猫を研究するべきだろ?」

叔父は、「その理屈はよくわからないが」と言いながらも、立ち上がって施術の準備を始めた。

施術室の明かりがついた。余計なものは何もなく、施術用の固そうなマットレスと、タオルケットくらいしかない。しかし、殺風景というわけではなかった。というのも内壁と天井にペイントが施されていたからだ。

天井のペイントは星空で、暗闇で光る蓄光シールが描かれた星に重なるように貼り付けられていた。今は部屋の明かりがついているので、光っていない状態の白いシールが見える。

四方の壁は、抽象的、というよりはメガネを掛けていない近視の目に映るような風景画が描かれていた。天井の夜空に合わせているのか、夜景が描かれているらしいことはわかるが、どこの風景なのかははっきりとはわからない。目を凝らせば見えてくるような気持ちになるが、最初から曖昧に描かれているのだから実際にはどんなに頑張ってもぼんやりとした壁しか見えてこないのだろう。眺めていると、だんだん眠くなってくる。

ぼくは叔父が用意してきたぺらぺらの施術用の服に着替えると、固いマットレスの上にうつ伏せになった。

鼻がマットレスに潰れて呼吸ができなくなるを防ぐために、顔が来る位置には丸い穴があいていて、そこに顔をはめることができた。いざ顔をはめてみると、視界がすべて床で埋め尽くされた。グレーのタイル張りの寒々しい景色だった。変化のない視界の楽しみは、部屋の隅を移動する小さな蜘蛛を目で追いかけるくらいしかない。ぼくは目を閉じることにした。

叔父の施術は、ぼくにはさっぱり評価の付けようがなかった。正直、気持ちいいのかどうかよくわからない。前回も同じだった。なにも手応えがない。

「人の歪みを直すことはあっても、改めて歪ませるのは初めてだよ」

と叔父はぼくの背中に向かって言った。ぼくは、
「失敗して歪ませすぎないでね」

と冗談のつもりで言ったのだが、叔父は何も言わなかった。

時間にして10分くらいだったと思う。
「これでほとんど元通りだ あとは、視界の方がどうなってるかだな」

と叔父が言った。

ぼくらは再びバルコニーに出て、遠くの景色を眺めて、目の調子を確認した。

驚くべきことに、どれだけ待っても奇妙な世界は視界に現れなくなっていた。よかった、とぼくは思った。やっぱり体の歪み、そして目そのものの問題だったんだ。決して、ぼくの脳みその方に問題が発生していたわけじゃない。

これで研究もこれまで通り続けられる。現実離れした奇妙な世界を見ている目から現実に則した目に戻った以上は、実験の観測結果にも根拠が戻ってくる。
「視界のほうは良好そうだな」

と叔父は言った。叔父にダイニングテーブルと一体化した冷蔵庫からビールを出してもらい(下で叔父が飲んでいたビールよりも高価なビールだった)、夜風を浴びながら気持ちよくあおった。

しかし、普段ほとんど会うことのない叔父と二人になったところで、あまり話すこともなかった。叔父はぼくに興味があるのかないのか、よくわからなかった。なにか遠慮しているようでもあり、単に言葉を思いついていないようでもあった。数週間前にぼくを施術したのもほんの気まぐれだったのだろう。ぼくとしても、叔父のことをもっと知りたいとか、仲良くなりたいとか、そういう気持ちはまるで無かった。

唯一気になることといえば急に消えてしまったあの助手のことくらいだった。
「そうだ、さっき話した助手の女性だけど、急にいなくなってしまったんだ もし次に出勤したら叔父さんからぼくのことを ・・・・・・いや、なんでもない」
「助手の女性? うちに女性の職員はいないよ」
「え? おじさんが来る直前まではいたんだよ その人にバルコニーに案内してもらったんだし」
「それこそ、例の幻じゃないか?」
「叔父さんのことを知っているみたいだったよ 幻のことも、叔父さんが思い描いたものだって言ってた」
「おれが何を思い描いたって?」
「さあ なにか言っていたけど、あまり覚えてないな」

「きっと幽霊だな」

「幽霊なんて存在しないよ」

とぼくが言うと、叔父は何も言わなかった。ぼくは続けて、
「幽霊はいつだって観測者側のエラーなんだよ 幽霊が異常なんじゃなく、幽霊を見ている側に異常が生じてるってこと」

と主張した。すると叔父は、どこか素っ気ない口調で、
「かもな 現実か自分か、まともなのは二つに一つだ」

と言った。

いやいや、そうじゃなくて、現実は常にまともで、おかしくなる可能性があるのは自分だけだよ、とぼくは言おうとしたが、なんとなくムキになっているように聞こえてしまうような気がして口には出さなかった。

助手には実際に触ることができた。あれは明らかに現実の手触りだった。叔父がしらを切るのは不可解だったが、別に叔父に取り次いでもらわなければならないわけではない。鍵を持っていた以上、職員に決まっているのだから、日を改めて会いに来れば良い。

 

 

気味の悪い世界は見えなくなった。

ぼくの体は元の動かしづらい不格好なものに戻ってしまったが、研究の懸念事項は解消された。

研究室のぼくのPCに入っている疑似人格*は、ぼくの回復を喜んでくれた。
「昨日の実験データ、整理しといた!」
「ありがとう メトリクスを表示できる?」
「できるにきまってるじゃん!」

モニターの中で2Dアニメ調の、控えめに言って美しすぎる少女のモデルが、言葉に合わせて表情を変えたり、ツインテールを超自然的な力でぱたぱたと動かしたりしている。
「あたし、気がかりが一つあるの そのせいで心がもやもやしてるの」
「ほう」
「あの日、きみはあとで連絡するっていったくせに、連絡くれなかったね!」
「ばたばたしてたんだよ」
「視界も共有してくれなかったし 怪しい」
「怪しいって、なにがさ?」
「本当はあたしに隠れてこっそりいかがわしいお店に行ってたんじゃないかって・・・・・・ それか、女の子と密会」

モニターの中でマグダが困り眉で頬を膨らませた。嫉妬係数を上げると、こういう反応をしてくれるようになる。

ぼくはあれ以来何度も叔父のお店に行こうと試みている。あの助手の女性に会うためだ。

しかし、どうしてもたどりつくことができない。

歩きだすと、いつものように、体の歪みに起因する左方向への緩やかな旋回が始まって、気づくとスタート地点へとぐるっと一周してまた戻ってきてしまうのだ。

姿勢は悪いのだが、それ以外はいたって正常だった。ぼくも、現実も。

© 2024 燐銀豆|リンギンズ ( 2024年10月19日公開

作品集『Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト』最新話 (全8話)

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