二つに一つ

燐銀豆|リンギンズ

小説

15,972文字

整体師の叔父に姿勢の歪みを直してもらったその日から、気味の悪い世界の幻覚が見えるようになってしまったぼく。
もとに戻してもらうために叔父の整体店を訪れるのだが・・・・・・。

気味の悪い世界が見えるようになった。

その世界は、現実の建物や道が部分的に置き換わるようにして現れることもあれば、半透明の幽霊のように現実の世界に重なり合って現れることもあった。2.4GHz帯の電子レンジによる干渉に似ているといえば、イメージしやすいかもしれない。正常な通信に挟まれるノイズのように、断続的にその世界は現れてきたのだ。

これがいわゆる「異世界」というもので、青年隊の夢の国ハーレム としての片鱗でも見せてくれていたら、ぼくは間違っても気味が悪いなどと考えたりはしなかっただろう。ぼくの周りに可愛らしい(そして恐ろしく処女的な)架空の少女たちが群れ集うようなことがあれば、美人局やからかいを疑うこともせずに、おそらくは自らのとてつもない幸運に感謝するのみだっただろう。

しかしながら今感じている気味の悪さというのは、はるかに即物的なものだった。あるべきでないものがそこにある、しかも、そのあるべきでないものというのはぼく以外の人には見えていないらしい。変な喩えだが、ぼくは意図せず任命されたかくれんぼの鬼で、誰かを探している。その誰かというのは挑発的なほど隠れるのが下手なのですぐ見つけることができるのだが(たった今目が合ってさえいるのだが)、すん、とした表情を崩さず、あたかも自分は見つかっていないといった態度を取り続けている、そんな感じなのだ。

あるときは国道沿いのコンビニが、いかにも固そうな表面のテカテカした素材で作られた灰色の女の像__それは偶像崇拝の対象として作られた宗教性を帯びたオブジェに見えた。しかし、ぼくの知っているどんな宗教とも似ていなかった__に置き換わっていたのだが、店員も客もそのことを全く意に介していなかった。ぼくの目には、彼らはその女の像の腹の中で、品出しをしたり、弁当を温めたり、雑誌を立ち読みをしたり、トイレを無駄に汚したりしているのだが、彼らはまだ自分たちが相変わらずのコンビニに居続けていることを、一度たりとも疑っていない様子なのだ。

こういう幻覚が続くと、ぼくのほうが正しくて世の中のほうがおかしい、と保ってきた強気も徐々に萎れていった。

きっと、こんな変な景色が見えるようになってしまったぼくの方がおかしいのだろう。であれば、ぼくはおかしくなってしまったのが自分の目だけであることを願った。頭がおかしくなってしまったと思うよりは、目だけがおかしくなったのだと思ったほうがまだ軽症である気がする。

目だけだといっても不便であることに変わりはない。ぼくは幻覚を見るようになった目を治すために、すぐにでも眼科医に行くべきだったのだが、卒業研究が佳境で、なかなかまとまった時間を作ることができなかった。幸い、幻覚は建物や道、森といった風景を見ているときに現れ(遠くのものを見て目を休ませれば自然回復するかもしれないという淡い期待は叶わなかった)、ポリマー合成の反応を凝視している間は現れなかった。だが、本当に現れていなかったのだろうか?

泊まり込みの実験に明け暮れる中、常に一抹の不安を抱いていた。つまり、気味の悪い世界に視界を侵食されている人間の提出するレポートに、科学的な妥当性があるのかという疑惑である。構内に持ち込んでいる寝袋の中で眠りにつくまでの数分間、この不安について考えを巡らせてみることもあった。

その数分間が積み重なって、合わせて1時間弱の思考のまとまりになったとき、ふと思い出すことがった。そういえば、幻覚が見えるようになったのは、ちょうどあの時からかもしれない、と。

だからぼくは今、寝袋から抜け出してある人物の元に向かっている。

 

 

もともと周囲に森と畑しかないキャンパスは、夜になると耳が痛くなるほどの静けさに覆われる。ぼくは冷静になって、先に行くべきは科学的根拠の厚い眼科や脳外科であって、今向かっている場所は最後でよかったのではないか、と思い始めていたが、この時間では救急くらいしか受け入れてくれないだろう。ぼくの心情としては救急に値すると思ったけれど、きっと診察室でおそろしく詩的な注文をすることになるだろうという予測によってその思いは憚られた。

「気味の悪い世界が見えるようになったんです この目に映る気の悪い世界を取り除いてください」

詩的、あるいはどことなく電波的なぼくの言葉に夜勤の医師は呆れるか腹を立て、聴診器をフレイルのように振り回してぼくをいたぶるだろう(はたして眼科医は聴診器を持ち歩くだろうか?)。親族であれば融通がきく。

狂人たちの暗い夜会の会場となっている4号棟から、ひそめる気のない怪しげな笑い声が流れ出していた。

実験中の高分子反応は止めてあるし、オイルバスの電源も確認済み、事故が起こるような心配はないだろう。大丈夫、別日に頑張れば遅れは取り戻せる、と思いながら門の前で振り返ると、大学の敷地に今まで見たこともない高層ビルが一瞬ではえてきた。

そのビルは新宿に林立するようなビルとは全く似ていなかった。さらにデカかった。数百階はありそうな高さで、ビルの頭の方は夜の空に消えていた。本来なら窓が嵌っていなければならない場所はバルコニーのような突き出しとなっていて、それぞれが小さな店のような風情だった。水上のマーケットの空中版みたいなデザインである。ただし、水の上なら船があるが、空中には小回りの効く船はない。仮にヘリコプターで近づこうにも、おそらく目当ての店の上階の店がプロペラでズタズタになってしまうだろう。店員と瓦礫のミンチに需要はない。

あるいは、あるのだろうか。思いもよらない空中浮遊の方法が?

ぼくは考えを中断する。こんなことを考えても意味ないじゃないか。現実にありえないような空中浮遊の方法はつまり、現実にありえない無意味なものなのだ。ぼくは先を急ぐことにした。

突然の告白になるが、今までのぼくの姿勢というのは他の人たちと違っていたため、歩くのがとても下手だった。ここでいう姿勢というのは、脊柱とか椎骨、筋肉や靭帯に関わる体の格好のことだ。態度とか心構えのことではない。ぼくの姿勢は歪んでいた。

これには、ぼくがまだ割れた言語のかけらをかろうじて並べてみることしかできなかった年頃の、両親の文字通りの「手違い」が影響していた。ぼくのことをうっかり地面に落としたのだ。記憶にはないが、記録には残っていた。そのせいで僕は入院させられていたらしいのだ。これは本当にうっかりと呼ぶしかないものだったらしく、ぼくも追及したことは一度もない。したところでぼくの姿勢は元には戻らない、そう思った。

座っているときはあまり目立たないが、歩き出すとその歪みがわかる。どうしても、左に寄ってしまうのだ。これまでの人生で、隣りに歩く人を何度となく道の端の塀や壁、段差などに押し付けたり、今よりは歩きづらい何処かへ押し出したりするようにしてしまう。
「えっなんで幅寄せしてくんの?」
「もっと右側を歩いてよ! そっちのほうがスペースあいてるじゃん!」

何度となく非難および避難されたが、彼らが狭量だったわけではない。ぼくのこの姿勢は注意深く見ないと目立たないから、悪ふざけだと思われがちなのだ。植え込みに押し込んでしまって申し訳ないと思っている。でも、そういうふうに歩くことが今のぼくの体にとっては自然なのであって、悪気はない。

この姿勢の歪みは、最近見えるようになった幻覚と同じくらいか、あるいはそれよりは少し軽い持病、というのがぼくの中での位置づけだった。基準は日常生活への支障度合い。整形外科で診てもらったこともあったけれど、手術費用とか後遺症(以前相談した医師は「一回では完治しないかもしれません あわせて何回になるかもいまのところはまだ・・・・・・」と宣った)のことを考えると、まあ、今はこのままでいいか、と落ち着いた。

そんな折、今から3週間前、この歪みとともに人生を歩み始めてから22年の歳月を経て、唐突にぼくはこの歪みから開放されることになったのである。

ふらり実家に戻ってきた叔父の手によって。

 

 

今のぼくは姿勢がいい。真っ直ぐ歩き続けるうちに、目的地である叔父の整体店「正位置整体」にたどり着いていた。が、店の電気が消えている。看板に併記されている営業時間はまだ過ぎていないし、定休日を踏んでしまったわけでもない。それなのに、すべての窓にはブラインドが降ろされていて中の様子はうかがえない。

周辺の明かりが少ないこともあって、昼間であれば植物に囲まれた小さくて可愛らしい小屋という印象を受けたかもしれないその店は、薄暗い闇の中で荒れ果てた廃墟に見えた。

ダメ元でドアを叩いてみても反応はない。

このままドアの前でいつやってくるかもわからない(もしかすると居留守を使っている可能性だってある)叔父を待つよりは、出直すほうが良い気がした。ちょうどその時、ぼくの耳元にささやき声が聞こえた。
「どうしてそんなところで時間を無駄にしているの?」

ぼくはわざわざ振り向くことはせずに「いずれ研究に役立つことだよ 目に関わるんだ」と言った。

イヤホンからの音声は、ぼくの回答を良く思わなかったらしい。もしくは、最初からぼくに警告を与えるつもりで話しかけてきたかもしれない。声が更に刺々しくなった。
「今必要なことなの? 早く研究室に戻ってきてよ!」
「自分の見ているものに確信が持てないような状態じゃ、実験だってうまくいかないに決まってるんだ どんなに現実が正確で厳密でも、それを眺めるレンズが歪んでたら全て台無しだよ 観測結果が正しいのか、それとも無意識に歪められているのか、判断することができなくなってしまう ・・・・・・まあ、気にしすぎかもしれないけど」
「ごめんなさい、何言っているのかわからない!」
「何度も話したじゃない この数週間、現実がダブって見えるんだ 視界に、自分が見たこともないような変な世界がオーバーラップして見えるようになってるんだよ! まともな状態じゃない」

ぼくは一呼吸置いて続けた。
「たぶん目が悪くなったんだ 頭はまともだよ 変な世界が見えるようになったきっかけはたぶん、叔父の施術だと思う あのときから始まったんだ だから、あのときの施術がどういうものだったのかを突き止めればきっと、元通りに戻すこともできると思う」

彼女は静かに、一つ提案があるの、と言った。
「現実が歪んでいるなら、その歪みを計算して修正すればいいと思うの そのほうが現実だわ きみは今、私には到底納得できない因果関係にこだわりすぎてる」
「・・・・・・そうかもね」

ぼくは彼女を説得したいという気持ちをこらえて黙った。彼女のほうが合理的だと自分でもわかっていた。それでも説得しようとするなら、あとは感情に訴えるしか方法はない。でもそんなことをすれば彼女はぼくに失望するだろう。あなたの感情を私に押し付けないでもらえる? と。
「明日には戻ってきて」

彼女はきっぱりと言ったが、それは彼女なりの譲歩と思えた。
「そうしたいけど、叔父が留守みたいなんだ お店の電気がついてなくて・・・・・・」

と言った途端、叔父の店の電灯が光り始めた。

看板の下に仕込まれたLEDが看板を光らせ、入口に続く短い小道にも道しるべのように明かりが灯った。花壇の中で静止していた陶器の小人たちの目にも光が宿った。樹木に巻きつけられたツタのような電気ケーブルに芽生えた電球はカラフルに点滅している。相変わらず無音だったが視界の賑やかさが急に増した。

入口の開く音がして、一人の大柄な女性が小道を通ってぼくの方に歩いてきた。

ぼくは「あとでまた連絡する」と言って、一旦通話を切った。
「お客さまですか?」

白衣を着た女性がぼくに言った。
「ぼくの叔父がここで整体師をやってると訊いて来たんです」

と言うと女性はその表情をカラフルに点滅する電灯によって赤や青に変化させながら、含みのある笑みを浮かべた。
「甥御さんですか? 先生はただいま訪問営業に出ています 小一時間もすれば戻られると思いますが、中でお待ちになります?」

ほんとうはすぐに会いたかったけれど、会えないよりはマシだと思うことにした。
「ぜひお願いします ええと、あなたは?」
「・・・・・・私は助手です ついてきてください、中で問診票を記入しましょう」

問診票? 疑問に思う間もなく、助手は白衣を翻して__といってもほとんど体にピッタリ張り付いていたが__入口の方へ戻っていき、ぼくは後ろからついていった。助手の体にまとわりつく白い布地の上にも、赤や青の光の斑点がまぶされていた。

待合室のパステル調の無害な内装は、子どもやお年寄りに好まれそうだった。助手は「奥に先生の居室がありますので、そちらにご案内しますね」と言った。
「その部屋ってぼくが入っても大丈夫なんですか?」

助手は不思議そうな顔で振り返って聞き返してきた。
「どうして? あなた病原菌かなにかを持ち込んできたの?」

ぼくはその急な質問に驚きつつ否定すると、
「じゃあ、入ってはいけない理由なんてありませんよね」

と助手は言って、不気味なほど透き通っている目がまぶたで細まり、マスク越しに微笑んでいるということがわかった。助手はぼくよりは年上のようだったが、叔父よりは一回り以上若そうだった。

待合室の先の廊下を進んでいくと、両脇に一つずつ施術室があり、突き当りの扉にCCO ROOMという札が貼り付けられていた。CCOは何の略だろうか?

女はポケットからいまどき珍しいくらい、鍵らしい見た目の鍵を取り出して、鍵穴にさして半回転させた。

まず目に飛び込んできたのは、院長が座るための革張りの椅子と、オーク材のテーブルだった。目が慣れてくると、明らかに安物とわかる訪問者用の椅子が手前に置いてあることに気づいた。それ以外にはなにもない、ほとんど物置と言って良いような空間で窓もなかった。部屋の隅に固定されたはしごがある。

ぼくは訪問者用の椅子に座った。助手はぼくにバインダー付きの問診票と空気のように軽いボールペンを渡すと、そのまま院長用の席にどかっと腰掛けた。なぜかぼくは彼女がそこに座るとは思っていなかったので少し驚いた。誰も座っていないのなら、別に座ってはいけない理由はないはずなのだが。

問診票で聞かれていることは体の凝りや関節に関するものなどばかりで、視界の異常に関するものは無かった。だが考えてみれば、もともとぼくは施術を期待して来たわけではなかった。叔父に、あの日の施術の内容と意味を聞くために来たのだ。施術の前にまずはそこをはっきりさせなくてはならない。ぼくのペンが動いていないことに気づいた助手は、テーブルの上に肘をつき、上半身を乗り出すようにして「なにかわからないところがある?」と訊いてきた。
「いえ、よく考えたら、問診票に書くようなことじゃなかったんです ・・・・・・あるいは、足つぼとかで、直接には関係のなさそうなところを押すと便秘が治るみたいな、そういうリモート感のある効果にみたいに、たとえば目に効くツボみたいなのが骨盤まわりにあったりします?」
「あみだくじみたいな?」
「え?」

「途中の道は複雑な迷路で、辿り着く先は最後までわからない」

「整体っていうのは、そういう一か八かのギャンブルみたいな感じなんです?」

助手は一瞬ぎょっとするような大きさの笑い声を上げたあと、静かに言った。

「いいえ、ちゃんと理論がありますよ 先生が戻ってきたらおうかがいしてみましょうね」

急な子供扱いだった。助手はテーブルに肘をついたまま、ぼくに視線を注いでくる。ぼくは初対面の女性を即時的に誘惑できるような色気を持つような人間ではないから、その視線は別の意図があるはずだった。しかしその企みがまだはっきりとしない以上、ぼくは微量の期待が混じった緊張を強いられることになった。助手が口を開いた。
「・・・・・・さっき入口の前で話しているのをうっかり聞いちゃったんだけど、オーバラップして見える変な世界っていうのはいったい、どういうものなの?」

 

 

最初に見えるようになったのは、叔父の施術を受けた翌日だった。

叔父はふらりとやってきた。もともとは叔父の実家だった場所だから、おかしなことではない。ぼくの実家は、叔父の実家でもあるわけだ。叔父は普段はぼくの母しか飲まない冷蔵庫の缶酎ハイを勝手に取り出して、台所のシンクの前に立って黙って飲んでいた。台所の窓から完全に熟し切る前の薄い色の夕日が差し込んでいた。

その日ぼくはもうほとんど使うことのなくなった大学の参考書を、一人暮らしの家から実家に移動させてきていた。実家の部屋を書庫代わりに使うためで、すぐに帰るつもりだったが昔の自分の部屋に高校生の頃集めていた漫画を見つけて、何気なく開いたりして時間を浪費していると(多幸感あふれる時間だった)、階下で物音がしたのだった。

階段を降りるぼくの足音に気づいたのだろう、叔父が振り返って少し自信なさそうにぼくの名前を呼んだ。二十年近く会っていなかったのだから仕方ない。ぼくも最初、目の前の中年の男が誰なのかわからなかったが、顔が似ているからだろうか、おそらくは生物学的な意味で他人とは思えないという印象を抱いた。

初対面の人間同士がよくやるようにまず仕事の話をしたのだ。実のない、シンクに放り捨てられるべきぺらぺらのじゃがいもの皮のような会話だった。そのあとどういう経緯だったか覚えていないが、叔父はどうだ、施術してあげようか、とぼくに言ってきた。ぼくからそれをせがむならまだ自然のような気がしたが、逆だったからちょっと変な気がした。でもせっかくの申し出を断る理由もないし、長い研究生活(といって、たかが1年弱なのだが)で体は石のように硬直しつつあったから、何度か遠慮したあとに、ぜひ、と言って施術してもらうことにしたのだった。

実際にはそれだけのことなのだ。でも、それがなぜか、ぼくと叔父だけの秘密だったのではという気がして、うまく助手に説明できなかった。助手は上半身を少しくねらせた。きっと、テーブルの下で組んでいた脚を組み替えたのだろう。

ごく平凡な、ありふれたマッサージだった。と、ぼくは説明した。歪んだ骨盤がぐきっと正しい位置にずらされた、みたいな衝撃はまったくなかったし、その間、とくべつに気持ちいいとも思わなかった。

叔父がぼくの骨盤の歪みに気づいていたのかどうか、それすら怪しい。交流の絶えていた両親から聞いていたとは思えないし、ぼくの歪みはぱっと見では分かりづらい。だからこそ、高いお金を払って手術をしてまで治すほどの動機がうまれなかったということもあるのだ。一緒に隣り合って並木道を歩けば、徐々に左方向の茂みへと押し込んでしまうような歩行の偏りによって歪みに気づくことができるだろうけど、それでも単に他人との距離感がおかしい、と思われるだけで、骨格上の問題に気づかれないことも多かった。
「・・・・・・話すのが難しい? でも、それによって、あなたは目を覚ましたのでしょう? それはあなたにとってとくべつな体験だったのじゃない?」
「目を覚ました? ・・・・・・ぼくは、眠ってなんかいなかったですよ」

助手が首を横に振ると、艶のあるボブカットの髪にまぶされているのか、もしくわずかに揺れた白衣に吹き込まれているのか、酸味の強いさくらんぼのようの香りの香水がにおった。
「いいえ、あなたは向こう側の世界が見えるようになったんでしょう? それは目を覚ましたってことでしょう? この現実のまどろみを振り払ったのよね?」

助手の目が、一瞬だけぎらりと、炎天下のガソリンのような輝きを放った気がした。
「その世界っていうのは、きっと催眠と漂流のための音楽をかき鳴らす女子高生がいたり、ゴミ捨て場から生まれる悪魔のカラスが子供を唆したり、人生に絶望した人々は望んで四肢を切断し、機械によって脳に快楽物質を送られ続けながら眠りの中を生き、人生に熱意を持つ人々は身体を改造して、自我の崩壊をもろともせず人類最速の壁にアタックしたりしているんでしょう? 怪しげな術を使う二人組の女は地下の移民を虐殺するし、肉体という牢獄から抜け出すために自分を愛する肉親を騙して爆死する運命を選ぶ女の肉片が辺りに飛び散っていて、太陽の真下にある白紙の広場では目的を見失った人々が共通の低俗な幻想の中で正気を失うという最も正気な対策を講じていのよね その大人たちの様子を、高校生の男女二人組が、あたかも火事の物見のように少し高い場所から見下ろしている」
「・・・・・・は?」
「今も見えるの? たとえばこの私のことも、向こうの世界の誰かと被って、幻のように見えているの? 二つの世界は重複している?」
「・・・・・・何を言っているんですか?」
「普段、見えているものを教えて 何かが見えているんでしょう?」
「・・・・・・大した話じゃないですよ 近くのものを見るときは今まで通りで、遠くのものを見ていると、急に別のものに置き換わったりするんです この前はコンビニが、コンクリートでできたへんてこな巨大な女の像になったりして とにかく不便でしょうがない」
「その像っていうのは、どんな形だった?」
「だから、巨大な女ですよ 胸に膨らみがあったし、髪が長かったから女だと思いました 変な、気味の悪いポーズをしてて、右手の人差し指を自分の右目に突き刺しているんです 左腕は肩のあたりから砕かれてました」
「きっとそれは女神様の像だと思う ちゃんと見えたんだね・・・・・・ ねえ、外に出てみましょうよ 実際に何が見えるのかもう少し細かく、先生が来る前に確認しておいたほうが良い気がするの」

鼻息を荒くしている助手にぼくは疑惑の視線を向けつつあった。何に関する疑惑なのかはまだはっきりしていなかったが、反応や挙動が明らかにあやしい。犯人はわかっているのに、その犯罪がわからないという感じだった。
「問診のためなの これは大事なことだよ」
「実際に見なくても、これまでに見たもののことなら言葉で説明できますけど」
「だめ ついてきて 当院にはバルコニーがあるんです 先生は時間ができるとそこに上がって、星を眺めたりするんですよ」

助手はすばやく立ち上がると、部屋に入ったときから気になっていたはしごに向かった。助手の尻の形に小さくへこんだ革張りの椅子が、音を立てずにゆっくり回転していた。

はしごは天井を突き抜けてさらに上に続いている。
「どうしてはしごなんです? 普通に階段を取り付ければよかったのに」
「どうしてだと思う? ロマンか、実利か、性癖か」
「性癖? ぼくの叔父ははしごに欲情する人なんですか?」

助手は一瞬目を丸くして、そのあとくすくす笑った。
「もしかしたらきみも、その癖(へき)を受け継いでるかもしれないよ 自覚がないだけでね」

そう言いながら、助手ははしごを登り始めた。ぼくはなるべく上を見上げないようにしたが、ちらちらと、助手のワンピース型のコスチュームが目に入ってしまう。サイズが合っていないせいでミニスカートのようになっている、その奥の薄いストッキングに包まれた太ももが見えてしまうのはしかし、不可抗力だった。
「性癖は文化的なものですよ ぼくはそれが遺伝的に受け継がれるとは思えませんね」

と言ってみたが、助手の耳には届いていないようだった。

それにしても、いまどきこんな服装が制服として使われることがあるのだろうか? 動きやすいパンツスタイルが今の主流ではないのか。実際、コスプレ感がある。生地は安っぽく、ネット通販で数千円で買えそうな代物だ。

煙突の内側のように暗い垂直な空間をはしごを頼りに登っていくと、だんだんと夜の暗さが煙突内の暗さに混ざってくるのがわかった。金属質のはしごは手に冷たかった。星の光を含んだやわらかな暗闇のなかで、助手が最期の一段をこえ、地面に脚をつけようとするときの腰のまるい屈曲をぼくは下から目に焼き付けた。

バルコニー、と呼ばれていた空間には天蓋と蚊帳付きのベッドと、深々と沈み込むようなクッションのソファー、冷蔵庫と一体化した直方体のダイニングテーブルが置いてあった。空には透明な屋根がついていて、急な雨や日中の紫外線をしのぐと言う意味では屋上屋を架すとは言い切れないだろう。透かして星空を見ることもできた。

地上二階だったが、建物自体が崖の上にあることもあって、見晴らしが良かった。大学のキャンパスも遠くに視認できたが、煙のような塔が重なって見えた。

近隣に高い建物はないため、空を飛ばれない限りこのバルコニーを覗き込まれる心配はなさそうだった。入口側には目隠し用の衝立が、その表に電飾を施すことでそれとわからないように設置されていた。
「それじゃ、座って リラックスして 見える景色を私に教えて」

ぼくは助手と隣り合ってソファーに座り、崖の下にはてしなく広がっている町並みに目を凝らした。住宅街の家々やマンションの光が、徐々に変質していく。幻覚の生成が始まる。ふと、パイプを持ったとある画家の顔が頭に思い浮かんだが、あるいは持っていたのはパイプではなかったかもしれない。
「見えてきました ・・・・・・なんだろう、鳥のようなものが上空を飛び回ってます いや、あれは人間かもしれない 半透明の直立した人間たちが、その姿勢のまま左右にスムーズに移動してます はは、空を飛んでいるというよりは滑っている感じですかね、すごく変な感じです 直立したまま水平に移動しているんです あ、駅が見えていた場所が変わり始めました 電車、じゃないですね、あれはなんだろう、細長い粘土みたいな質感の曲線の多い・・・・・・」
「生き物が空を飛んでいるの? 空はまだ美しい? 汚染されてはいない?」
「夜ですからね、きれいかどうかはちょっとわからないです 曇っているだけかも 星は消えてしまいました」
「工場はどう? 数百年は稼働し続けている工場があるはずなの 毒を撒き散らし続けているけど、生活のために必要な機械部品を生み出し続けているのよ」
「工場? そんな物は見当たりませんけどね あれ、湾岸のあの大きな建物は、発電所ですか? 現実の」

ぼくはカクテルを作るときに使うメジャーカップのような形をした原子炉を指差す。4基の原子炉は、夜の闇の中でもくもくと灰色の煙を吐き出している。
「そうね、あれは私が見たい景色じゃない」助手はぼくの肩に手を置いて言った。「あなたの叔父さんが思い描いた景色でもない」

叔父の思い描いた景色? と疑問に感じるよりも、ぼくのTシャツのえりと皮膚の境界を侵略するように置かれた助手の手が気になって仕方なかった。丸っこい爪は血液のような赤色だった。侵攻される前にその手を取って、つまりお互いに手を取り合って、密な友好条約を結ぶことはやぶさかでなく・・・・・・。
「あなたの叔父さんは昔小説を書いていたんだよ 私は学生の頃に読ませてもらったことがあってね、でも、そのときはまだ完結してなくて、いつか完成させるって言ってた だけど、先生は急に書くのを止めたの あなたが見ている気味の悪い世界っていうのは、先生が昔小説に書いていた世界にそっくり」

ぼくには助手が何を言っているのさっぱりわからなかった。

叔父が昔小説を書くのを止めたことと、ぼくが気味の悪い世界が見えるようになってしまったことに、何の因果関係もない。こじつけであり、根拠のない妄想と言っていい。でも、助手は話しながら少しずつ興奮して感動的になっていて、ぼくは白衣の下の現実の肉体にただならぬ好奇心を抱いている。
「・・・・・・私はそう確信しているの 純粋で透き通った幻の世界はつねに私たちの世界に接しているんだわ あるのよ たしかにあるのよ!」

ぼくは純粋で透き通った幻の世界など、一度も見たことはなかったけれど、自らの正気を疑うような気味の悪い世界の話を細かいディティールを含めて話すと、助手は無邪気に喜び、ぼくの感覚ではたいして意味のない風景にも、なにかしらの幻想的な意味を見出すのだった。

助手はぼくの膝に手を置いて、喋っているぼくの目をじっと上目遣いで見つめてくる。ぼくは助手のぴったりと服の張り付いた背中に手をあててさすってみた。服の下のホックの明確な突起が手のひらに伝わってきた。助手はまったく嫌がる素振りを見せないが、ぼくが喋るのをやめようとすると「やめないで 向こう側の世界を教えて」と言って、ぼくの太ももを撫でながら続きを促してきた。

それから数分しか経っていなかったと思う。助手はびくっとなにかに気づいたかのように反応すると、立ち上がって無言ではしごを降りていってしまった。それがあまりに突然だったので、ぼくは何が起こったのかわからず、すぐに追いかけることもできなかった。嫌がるようなことをしてしまったのだろうか。それとも、不意に冷静になって、ぼくに対する評価を下方修正したのだろうか。

いずれにしても、追いかけたほうがいい気がした。このまま放置されたままさよならは心の問題としてあとに響きそうだ。

ぼくはソファから立ち上がろうとしたが、そのタイミングではしごを登ってくるカツカツという足音が聞こえてきた。ぼくは助手の気が再び変わって、戻ってきてくれているのだと思って内心喜びながらその場で待った。精神的に不安定なところのある女性なのだろう、それは決して悪いことではない。感受性が豊かだということの証明だし、そういう人がその性質のせいで苦しむことがあるのだとすれば、悪いのはその性質ではなく抑圧する世の中の方なのだ・・・・・・、可愛らしいじゃないか・・・・・・。

しかし、床にあいた穴から顔を出したのは可愛げのかけらもない一人の中年の男だった。ぼくの愚鈍な親戚である。

 

 

叔父は最初、ぼくのことを院内に忍び込んだ強盗かなにかだと思ったらしい。薄暗い星あかりの下、目が合って数秒間ぼくらは無言でお互いに見つめ合う時間があった。

ぼくのことを認識した叔父の第一声は「鍵、どうやって開けた?」だった。その声はまだ警戒が解け切ってはいなかった。叔父はなにか少しでも踏み荒らされてはいないかと調べるような視線を、ぼくを通り越してバルコニー全体に巡らせている。

「助手のひとが開けてくれたよ」
「助手? 今日は休みを取ってるはずだがね」
「でも、さっきまで一緒にいたんだよ ・・・・・・いや、そんなことより、今日は叔父さんに聞きたいことがあって来たんだ」
「ああ、そう? ・・・・・・まあ、とりあえず下に降りようか ここはちょっと、な」

はしごを降りて院長室を出て、パステルカラーの待合室にまで戻って正方形の椅子に座った。

叔父が「ビールでも飲むかい? ちょうど最後の訪問診療から帰ってきたところなんだよ」と言った。

ぼくはこのあと研究室に戻ることを考え、その強い誘惑を絶った。研究生活において最も大事なことは知性ではなく、修験的な節制だと思う。

叔父はとくに残念がるわけでもなく、自分の分のビールを片手にぼくの隣に座った。

ぼくは叔父に視界の異常について、それが数週間前の叔父の施術のあとから始まったことを訴えた。叔父さんのせいで変な世界が見えるようになってしまったかもしれない、と。すると叔父は、こともなげに、
「そりゃ、骨盤の歪みを正しい位置に戻したんだ いままででの人生で慣れ親しんできた体とは別物といっても良い でも、副作用は一時的なものだよ しばらくすればきっと治るさ」

と言った。
「きっと? そんな不確かじゃ困るんだよ しばらくってどれくらい?」
「人によるな」
「体の歪みはぼくの悩みの一つだったけどさ、なにがなんでも今すぐ治したい、ってものじゃなかったんだ それに、歪みを治す代わりに目の調子が悪くなるなんていうのは論外なんだ いままで普通にできていたことができなくなるわけだから」
「ふうん じゃあ、どうしたい? もとに戻すか?」
「なんだよ 副作用があるようなことを、なんの説明もなしにやるなよな いつ治るかわからない目を抱え込むくらいなら、もとに戻してほしい」

叔父は少し不服げな顔をしながら、
「体の歪みは、可能なら取り除いておいたほうが良いんだぞ 世の中には、直したくてももう直せないくらい歪んでしまっている人もいるんだ」

と言った。
「こっちにもいろいろ事情があるんだ 意味のわからない世界を横目に見ながら、自然科学の研究なんてできるわけないじゃないか たとえば猫に言語を理解する可能性があるとして、そういう世界でアシスタントAIの研究を続けることができると思う? AIより猫を研究するべきだろ?」

叔父は、「その理屈はよくわからないが」と言いながらも、立ち上がって施術の準備を始めた。

施術室の明かりがついた。余計なものは何もなく、施術用の固そうなマットレスと、タオルケットくらいしかない。しかし、殺風景というわけではなかった。というのも内壁と天井にペイントが施されていたからだ。

天井のペイントは子供が喜びそうな星空で、暗闇で光る蓄光シールが描かれた星に重なるように貼り付けられていた。今は明かりがついているので、光っていない状態の白いシールがよく見える。

四方の壁は、抽象的、というよりはメガネを掛けていない近視の目に映るような風景画が描かれていた。天井の夜空に合わせているのか、夜景が描かれているらしいことはわかるが、どこの風景なのかははっきりとはわからない。目を凝らせば見えてくるような気持ちになるが、最初から曖昧に描かれているのだから実際にはどんなに頑張ってもぼんやりとした壁しか見えてこないのだろう。眺めていると、だんだん眠くなってくる。

ぼくは叔父が用意してきたぺらぺらの施術用の服に着替えると、固いマットレスの上にうつ伏せになった。

鼻がマットレスに潰れて呼吸ができなくなるを防ぐために、顔が来る位置には丸い穴があいていて、そこに顔をはめることができた。いざ顔をはめてみると、視界がすべて床で埋め尽くされた。タイル張りの寒々しい景色だった。変化のない視界の楽しみは、部屋の隅を移動する小さな蜘蛛を目で追いかけるくらいしかない。ぼくは目を閉じることにした。

叔父の技術は、ぼくにはさっぱり評価の付けようがなかった。正直、気持ちいいのかどうかよくわからない。前回も同じだった。なにも手応えがない。施術されながら、叔父は本当は何の資格も持たないインチキなのではないか、とうっすら疑ったくらいだ。
「人の歪みを直すことはあっても、改めて歪ませるのは初めてだよ」

と叔父はぼくの背中に向かって言った。ぼくは、
「失敗して歪ませすぎないでね」

と冗談のつもりで言ったのだが、叔父は何も言わなかった。

時間にして10分くらいだったと思う。
「これでほとんど元通りだ あとは、視界の方がどうなってるかだな」

と叔父が言った。

ぼくらは再びバルコニーに出て、遠くの景色を眺めて、目の調子を確認した。

驚くべきことに、どれだけ待っても奇妙な世界は視界に現れなくなっていた。よかった、とぼくは思った。やっぱり体の歪み、そして目そのものの問題だったんだ。決して、ぼくの脳みその方に問題が発生していたわけじゃない。

これで研究もこれまで通り続けられる。現実離れした奇妙な世界を見ている目から現実に則した目に戻った以上は、実験の観測結果にも根拠が戻ってくる。
「視界のほうは良好そうだな」

と叔父は言った。叔父にダイニングテーブルと一体化した冷蔵庫からビールを出してもらい(下で叔父が飲んでいたビールよりも高価なビールだった)、夜風を浴びながら気持ちよくあおった。

しかし、普段ほとんど会うことのない叔父と二人になったところで、あまり話すこともなかった。叔父はぼくに興味があるのかないのか、よくわからなかった。なにか遠慮しているようでもあり、単に言葉を思いついていないようでもあった。数週間前にぼくを施術したのもほんの気まぐれだったのだろう。ぼくとしても、叔父のことをもっと知りたいとか、仲良くなりたいとか、そういう気持ちはまるで無かった。

唯一気になることといえば急に消えてしまったあの助手のことくらいだった。
「そうだ、さっき話した助手の女性だけど、急にいなくなってしまったんだ もし次に出勤したら叔父さんからぼくのことを ・・・・・・いや、なんでもない」
「助手の女性? うちに女性の職員はいないよ」
「え? おじさんが来る直前まではいたんだよ その人にバルコニーに案内してもらったんだし」
「それこそ、例の幻じゃないか?」
「叔父さんのことを知っているみたいだったよ 幻のことも、叔父さんが思い描いたものだって言ってた」
「おれが何を思い描いたって?」
「さあ? なにか言っていたけど、あまり覚えてないな」

「きっと幽霊だな」

「幽霊なんて存在しないよ」

とぼくが言うと、叔父は何も言わなかった。ぼくは続けて、
「幽霊はいつだって観測者側のエラーなんだよ 幽霊が異常なんじゃなく、幽霊を見ている側に異常が生じてるってこと」

と主張した。すると叔父は、どこか素っ気ない口調で、
「そうかもな 現実か自分か、まともなのは二つに一つだ」

と言った。

いやいや、そうじゃなくて、現実は常にまともで、おかしくなる可能性があるのは自分だけだよ、とぼくは言おうとしたが、なんとなくムキになっているように聞こえてしまうような気がして口には出さなかった。

助手には実際に触ることができた。あれは明らかに現実の手触りだった。叔父がしらを切るのは不可解だったが、別に叔父に取り次いでもらわなければならないわけではない。鍵を持っていた以上、職員に決まっているのだから、日を改めて会いに来れば良い。

 

 

気味の悪い世界は見えなくなった。

ぼくの体は元の動かしづらい不格好なものに戻ってしまったが、研究の懸念事項は解消された。

研究室のぼくのPCに入っている疑似人格*は、ぼくの回復を喜んでくれた。
「昨日の実験データ、整理しといた!」
「ありがとう メトリクスを表示できる?」
「できるにきまってるじゃん!」

モニターの中で2Dアニメ調の、控えめに言っても美しすぎる少女のモデルが、言葉に合わせて表情を変えたり、ツインテールを超自然的な力でぱたぱたと動かしたりしている。マグダ、とぼくはその自作のモデルを呼んでいる。同じ趣味を持つ友人も、例外なく自分の疑似人格に名前をつけている。やはり名前があったほうが感情移入できるし、愛情も湧く。
「あたし、気がかりが一つあるの そのせいで、心がもやもやしてるの」
「ほう」
「あの日、きみはあとで連絡するっていったくせに、連絡くれなかったね!」
「ばたばたしてたんだよ」
「視界も共有してくれなかったし 怪しいぞ!」
「怪しいって、なにがさ?」
「本当はあたしに隠れてこっそりいかがわしいお店に行ってたんじゃないかって・・・・・・ それか、女の子と密会とか・・・・・・」

モニターの中でマグダが困り眉で頬を膨らませた。嫉妬係数を上げると、こういう反応をしてくれるようになる。

ぼくはあれ以来何度も叔父のお店に行こうと試みている。あの助手の女性に会うためだ。

しかし、どうしてもたどりつくことができない。

歩きだすと、いつものように、体の歪みに起因する左方向への緩やかな旋回が始まって、気づくとスタート地点へとぐるっと一周してまた戻ってきてしまうのだ。この言い訳がいつまで通用するか、自分でもわからない。でも、現実と戯れることに不満を感じていない以上は、まだもう少し、このままでいける気がする。

姿勢は悪いが、それ以外はいたって正常なのだ。

2024年10月19日公開

© 2024 燐銀豆|リンギンズ

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