上海赴任した翌日、早速伝説の王女・川島芳子の取材に出向こうと意気込んでいたら、娼婦惨殺現場の取材をする羽目になった。
殺人の類など上海では珍しくもない。昨年一九三〇年に中華民国の直轄市の指定を受けて、警察や軍隊を置いてはいるものの、街の中心部はほぼ外国租界で、外国人人口は何十万だし、中国人世界は暗黒結社青幇が取り仕切っているしで、実情は無法地帯であった。それなのになぜ娼婦の殺害くらいで騒ぎになるのかと言えば、客ごと殺されていたからだ。それも上海財界の名士で、娼婦はそこいらでは名の知れたコールガールだった。キャセイホテルの裏路地で、二人は交わった状態のまま発見された。
私が現場に到着した頃はすでに遺体は運び出されており、野次馬も三々五々散り始めていた。ゴミ箱と思われる木箱が血に染まり、歩道にもべっとり血糊が残っており、掃除夫がそれにバケツの水をぶっかけている。近くの屋台で饅頭を食っていた連中に聞き込みをしたら、揃ってニヤニヤしている。
「ホテルでやりゃあいいものを、わざわざ外でやるからさ」
「首がねえのにXXはビンビンで、引き剥がすのに苦労したってよ」
「いやさ、女のあれが締まりすぎて抜けなかったんだとよ」
「女のXXで死ねりゃあ、XX成仏ってなもんだ」
上海語は不得手だが、何を言っているかは想像がつく。
警察署に行って記者証を見せたら、現場のスケッチを見せてくれた。木箱の上で重なっている男女。男の首は地面に落ちて、女の顔はぐしゃぐしゃに潰されていた。
聞けば一月ほど前にも同じような事件があったらしい。場所はブロードウェイマンション。ここから目と鼻の先だ。娼婦は中国人で客は西洋人。二人の首が歩道に並べて置いてあり、花壇の植え込みの中に上下に重なった身体が発見された。二つの事件は関連があるのかとの問いに、担当刑事は肩を竦めた。
「調査中だよ」
煙草をふかしつつ刑事は私をじろりと見て、
「なかなかの凄腕だ。あれの最中の男の首を後ろから一刀両断して、ついでに女の顔も真っ二つだ。凶器は日本刀で間違いない。人間の首を一発で斬れる刀など他にないからな。お知り合いの軍人さんに心当たりはありませんかね?」
えっ、と驚く私を見て刑事はニヤニヤ笑った。
「いやはや、お互い面倒なことで。偉い人が死んじまったもんだから知らん顔するわけにもいかんし」
そう、ここは上海なのだ。警察の仕事と言えば、煙草を吸って茶を飲んで無駄話をして、時々パトロールに出ては、出稼ぎの屋台から小遣いをせしめ、青幇の親分に挨拶をして帰ってくるくらいなものだ。
一番のとばっちりを受けたのはこの外灘付近で稼いでいた娼婦たちだろう。連続殺人事件で商売あがったりだと言う。他所へ移ろうにも青幇組織の縄張りが厳密に決まっていて、勝手に移動ができない仕組みらしい。
憂鬱な取材を終えて遅い昼飯を食った後、しばらく外灘をうろうろした。なんと多くの人々が行き交うことか。上海の玄関口、黄浦江の船着き場は艀やジャンクがびっしりで、すぐそばに汽船や商船、軍艦が空まで燻る勢いで煙を上げている。大荷物をかかえた人々が桟橋から蟻の群れのように黙々と上陸してくる。他の桟橋には我先にと船に突進する人々が河に転がり落ちんばかり。客引きの人力車が争い合う声、宿屋の呼び込み、歌うような物売りの声、沖合の汽笛。
人酔いしてちょっと気分が悪くなり、南京路に出てキャセイホテルの前で一服した。そろそろ夕方だ。街並みが黄色い残照に染まり始めると、弾けるように次々と照明やネオンが点いてゆく。バンドから見える南京路が極彩色にピカピカ輝いて、眠らぬ街が目を覚ます時間だ。
と、けたたましいエンジン音が聞こえた。ガーデンブリッジ方面から渋滞の自動車を蹴散らすように黒い車が爆走してくる。キャセイホテルのエントランスに大きな図体をするりと滑らせ無造作に止まったのは、ロールスロイス・ファントムのリムジン。その運転席から降りてきた人を見て、周りの人々が叫ぶ。
「川島芳子だ!」
言われるまでもなくあれが川島芳子だと一目で分かった。陸軍将校の軍装のその人は、あまりにも小さかったからだ。日本国内でも有名な「男装の麗人」だったが、小学生が大人の服を無理に着ている風情だった。
そんなことはどうでもいい。なんたる幸運。どうにかして取材を申し込もうと思っていた相手が向こうから現れたのだ。その人は何人もの供を従えながら颯爽とホテルへ入って行った。私も慌てて後を追った。行き先は二階のダンスホールのようだ。
芳子がホールのドアを開けると、わーっと人々の歓声が上がった。ドレスアップした女たちがわらわら寄ってきて、そのまま踊りの輪の中に呑み込まれていった。ダンスパーティーの寵児という話は本当だった。
芳子は男役で踊る。頭一つ分も大きい西洋の女をエスコートして、混雑したフロアで自在にステップを踏む。踊りっぷりは実に見事で、ワルツでもタンゴでも何でもござれのようだ。
これでは当分近づけそうもないと思い、芳子のお供の女を狙うことにした。紺色の旗袍を着た色白のすらりとした女が、バーのカウンターに凭れている。英語か上海語か、どの言葉がよかろうかと迷ったが、
「カクテルはいかがですか?」
北京官話で話しかけると、
「不好意思。我不会喝酒。回来還要開車的(ごめんなさい。私、お酒が飲めませんの。帰りの運転もしなくてはなりませんし)」
と返事をした。そこで名刺を差し出した。
「新聞記者さんですか。旦那様に御用ですね。そろそろ戻られると思います」
今度は完璧な日本語で言った。
その通りだった。曲が終わると芳子が悠々と戻ってきて、ビールを頼んで一気飲みした。本当に小柄な人だ。横顔の頬がピンクに染まっていて、軍服の背中が汗まみれなのが分かる。
お供の女が芳子に何事か囁くと、芳子はちらりと私を横目で見た。
「新聞記者? 僕はそんな人は知らないねえ」
そう言われるだろうと思って用意してあった紹介状を手渡した。上海支局の編集長が関東軍参謀の板垣征四郎と友人なのだ。関東軍とつながりが深い芳子には拒めないだろうと踏んでいる。
「コネを使われたか。参ったな」
正面切って私を見つめた顔は、「麗人」と言うよりはやんちゃな少年のようで、瞳がキラキラしている。
「悪いが今夜は勘弁してくれ。ご覧の通り忙しくてね。明後日の昼なら少しは時間が取れるから、日本人倶楽部に来てくれたまえ。虹口だよ。阿蘭、場所を教えてやれ」
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