鼻をかんだ黄色いティッシュ、両刃の金色のカッター、リサイクル寸前のミニチュアサイズの白いタイヤ……。そして、萎んでくたくたになった睾丸が入れられている透明なプラスチックの容器が、紫色の階段を勢い良く下って二階にたどり着く……。さらに蟻の大群の死骸や、山羊の舌の欠片がプラスチック容器に侵入し、百足の王様が次の階段まで運んでくれる……。人々の営みの中を上手く掻い潜り、一階へと続く階段を転げ落ちる……。
ガタン、という音が連続して流れる。部長とその部下たちが階段を上がっている。しかし容器は下っている。転げ落ちている。やがてビシャリと一階の床に到達して中身が散乱する。行き交う人々の足が中身にのしかかる。ティッシュはちぎれ、カッターは粉砕され、タイヤは細かくぐちゃぐちゃになる。睾丸は破裂してちょうど通りかかった女社員の頬にべちょりと付着する。
「いやっ。何……?」
女社員は頬に付いた睾丸の破片を素手で掬い取る。
「舐めてみれば?」隣の友人社員が問いかけてくる……。
「え、ええ……」
女社員は不器用ながらも素手を口に運ぶ。すると睾丸の生臭い香りが味として舌に触れ、痺れる鋭さが襲った。「なんだか苦いわ」
「それが君の今後の課題だよ……」
友人社員はそう伝えながら床の容器だけを取り上げて階段を登り始める。
「どこに向かうの?」
「ここではないどこか」
なぜここで彼女が優遇されたのか。おそらくそれは、前世の行いのためだろう……。彼女は優雅に階段を登る。まるでそれが自分に課せられた使命であるかのように……。彼女は一度に五階まで上がった。途中で課長に出会い、階段を上がる理由を訪ねられたが、彼女は容器をそれらしく震わせるだけで何も言わなかった。
最低限のリュック・サックにヤギ・パウダーを振りかけ、中のダウンロード機構に深層心理を詰め込む……。すると西の空から夕陽の化身がやっていて、彼女の右肩に食べかけのガムを擦り付けてくれる……。
「まったく。汚いわね……」
彼女は肩のガムを指で挟んで取り外し、容器の底に擦り付けて解決する。そして容器をこの六階床に放り投げる。彼女にとってはそれこそが自分の使命であり、大王の百足君主に対する礼儀だった。
どこからともなく百足が這い出てくる。それは自身をゴキブリだと思い込んでいる百足で、彼は(彼女の目線では百足はオスだった)容器を無数の脚で押し込んで床を滑らせる。さらにいくつかの百足たちが集合し、容器を全力で押す。
それをじっと眺めていた彼女は床に手をつき、顔を容器に近づけて応援を始めた。「ガンバレ! ガンバレ!」
百足たちは総勢二十の力を込めて容器を押した。向かう先は階段だった。しかしそれは今で社員の彼女が上ってきた階段とは違い、非常用の古びた鉄臭い階段だった。百足たちは小さな声を演出しながら容器を押した。えんやこら、えんやこら、という活性化した百足たちの声援が聞こえてくる……。
百足はついに到達した。そして容器を階段に落とした。ガムだけが貼り付いている容器はガタン、ガタン、と音を響かせながら落下していった。非常用階段に人間は一匹たりとも存在しておらず、スムーズに下っていくことができた。やがて容器は二十の飛び跳ねを駆使して非常用出口の前まで到達した。そこは鉄臭さが充満した灰色の区画だった。
「おい! おーいっ!」
それは彼女の声だった。百足たちはあっという間に解散していた。
容器は光も無い虚空の中で佇んでいた。ガムが弾け、そこらに広がっていた。夕陽の化身の口から吐き出されたガムには夕焼けの温かさが凝縮されていた。それは灰色だらけの非常用玄関前の区画を照らし、温もりを与えた。広がって行く光源に灰色の区画はいつしか白と成り、そこから第二の人生のような発展が始まった……。
「そこで生きるのか?」
それは彼女の声だった。すると階段のふちで佇んでいた百足たちが一斉に階段を下った。容器のようにガタン、ガタン、と音を立てながら落ちていき、ガムを目印にした光源が広がる区画に侵入して適応していった。
「そこで生きるのか」
上で観測している彼女が納得したように呟いた。
百足たちはそれぞれガムで作った住処に閉じこもり、その中で新たな生命を産み出し、温かい家庭を築いていった……。
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