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「なるほどな。つまりお前は『裸の心を表現するためにこんな服を着てる』って言いたいわけか。まあいい。答えはないのなら答えはないというその答えもないはずであり、何かに目覚めるときは多くのケースで何かを眠らせるのとひきかえだからな。で、眠ってるとこわるいんだが亜男、そのラッパーのマネージャーはいつクビになる予定なんだ?」
北斗が僕をそう揶揄したのは、華奢な女の子が「前歯のない子のクリスマス」をクリスチャン(おそらくね)に歌わせようと彼らに向かってパンチをくり出した十二月のある夜のこと、つまりワタキミちゃんが米兵たちの前でライブした日の夜のことさ。
その日は姉の飼い犬ボストン・テリアのチャッキー(♂)の七歳の誕生日だった。そういうわけでタコライス屋〈パーラー百里〉を貸し切って誕生日会を開いていて、そこにレギュラーキャスト全員が集まっていた。そういえばチャッキー、彼はパーラー百里にくる前なぜか外出を拒んでいたっけ。僕が思うにそれは「誕生日くらい一匹にさせてくれ!」ってこと、あるいは「町へ出て書を拾いたくない!」ってことだったのかも。しゃべれないチャッキーの代弁するつもりはないけどさ、率直に言ってこんな誕生日会なんて催す必要ないと思う。でもね、不必要な事物そのすべてがこの世界に必要なんだからしかたないのさ。必要なものの価値をもっと引き上げるために不必要なものはうんと必要なんだ。何が言いたいのかというとね、絶対的に不必要なチャッキーの誕生日会は絶対的に必要になっちゃうってこと。こんな馬鹿犬でも命は尊いんだなんてそんな馬鹿げた話をしたいわけじゃないよ僕は。「命は尊い」って語句に冠することのできる修飾語は「人間の」って語句のみ。あれ? 違ったっけ?
僕はワタキミちゃんのライブの成功で酒がすすみ彼女の曲をみんなに聴かせずにいられなくなった。それはまるで自身を否定することにきわめて肯定的な姿勢をとってその自己否定を語りつくす誰かさんたちとおなじような精神状態だったってわけ。じつを言うとさ、僕はワタキミちゃんのマネージャーの仕事をしてることをみんなに隠してたんだ。でも、もう隠すのが限界にきていた。どんな物事にも限界がある。「世界がきな臭いのは地球の体臭ではない。アメリカ合衆国の体臭だ」ってワタキミちゃんがアメリカの体臭を指摘したように、いかなる香水をふってもいやなにおいを隠すのには限界があるんだ。まあ何にせよ、僕はワタキミちゃんというものすごい才能を見つけたのだとみんなに自慢したくてうずうずしていたのさ、ずっと。うん、それは胸の奥がむずがゆくってしかたのないハリウッド女優みたいなものだね。素肌はつるつるだけど心臓は毛むくじゃらだからね彼女たちは。おそらく「居場所がない、という静かな居場所」に安住することが許されなくて、「愛もお金も万能ではない。だから欲しい」という世の多くの女性の望みを彼女たちは託されてしまったんだろうね。
僕がパーラー百里の店主田古田さんにお願いしてワタキミちゃんのCDを店内に流してもらうと案の定、彼らは一曲目ですぐ食いついた。宇座あいが「語りなさい。そして沈黙しなさい」と言ってくれたから、僕はワタキミちゃんとの出会いから今日のライブのことまでぜーんぶみんなに話してやった。みんなおもしろがって僕の話を聞いてたよ。不協和音を聴くのが癖になるように、彼らは認知的不協和のもたらす不快感が癖になってるんだと思う。
「基地反対ラッパーの資金援助をするとはな」姉の亜利紗が笑いながら言った。「そのラッパーに対する皮肉のつもりならそうとう悪質だな、亜男。さすが我が弟! 分かってるじゃないか。世界に認められるためには何かに挟まれなければならない。ハンバーグがハンバーガーになるためにはバンズに挟撃されなきゃいけないわけであり、そしてそのハンバーガーは人間の口に挟まれてようやく世界に挟まれる権利を与えられる」
「亜男くんが何者かそれを知ってて援助を受けているのなら」夏太朗兄さんが言った。「その娘はアーティストとして本物だね。むだに薄い紙にどれだけむだに筆圧をかけて書けるか、歌詞はそのむだな勝負を愚直にしてる感じだし。とはいえ戦争のことに触れたら世間にそっぽを向かれる。それこそが戦争のおぞましいところだね。それはそうと亜男くん、君はまた『相手を理解したい病』をわずらっているのでは? 雨が好きだと言う人は雨に打たれるのが好きだってわけではないから気をつけなきゃ。相手を理解するために苦しんだ夜の数とその相手のこちらに対する理解度は反比例するから」
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