アイルランドのことわざに、猫を嫌う人には気をつけろ、という言葉がある。常澄くんはまさしくそういう人間だった。しかし彼は私の友達だったし、その猫嫌いを知ったのは知り合ってから随分経ったのちのことでもあった。
以前、どうして猫が嫌いなのかと尋ねたことがある。すると常澄くんはその名前を耳にするのも嫌だというように顔をしかめながら煙草をもみ消した。
「どうしてあいつが嫌いかだって?そんなことわかりきっているだろう。君はどうしてチョコレートが嫌いなんだい?」
私はチョコレートが似合いそうな可愛らしい女の子だった。常澄くんはそのことで私をからかうのが好きなのだ。
「どうしてって、嫌いだから嫌いなのよ」
「まさしく真理だ。そういうことだよ」
そういうことらしい。しかし食べ物の好き嫌いと同じように語るのは間違っているのではないかと私は言った。
「そうかな。同じようなもんだと思うけど。食べ物にアレルギーがあるように、猫にもアレルギーがあるからね」
「あなたは猫アレルギーなの?」
いや、と常澄くんは顔をそむけて新しい煙草に火をつけた。
「逆だったらいいのに、とは思うけどね」
「嫌いというのと苦手というのとは少し違うものだと思うんだけど、あなたは猫が嫌いなのね?」
「ああ、嫌いだ。苦手なもんか、あんなやつ」
「本当かしら」
常澄くんが黙って吐き出した煙が天井に吸い込まれていくのを見守りながら、私もチョコレートは苦手ではない、と思った。そして細いストローでアイスコーヒーをチューチュー吸う女々しい男を憎んだ。
大学を中退してから三年間、その日暮らしのフリーター生活を続けていた。たまに不安になることもあるけれど、まだ若くて可愛い私にはそれほど困ったことはなかった。友達はあまりいないけれど、ご飯を奢ってくれる男はたくさんいた。同性の友達が欲しいと思うこともあるが、結局ひとりでいる方が気楽でいい。この先のことなんて、そこまでたどり着いた時に考えればいいと思っていた。それが甘かったんだと思う。だから私は彼とこの会話をしたときに決心を固めた。
常澄くんはチェーン展開する喫茶店の雇われ店長だった。私とは高校の頃からの付き合いで、といっても付き合ったりしたことはないのだけれど、アイルランド人が心配するようなことにはなったことがない。
けれど常澄くんは昔から私に甘い。私は彼の好意を知りながら、適度な距離感で友達付き合いを続けていた。そういう男は珍しかった。だいたいの男は私を欲しがり、夢中になり、失敗した。そして私は男の元を去る。その繰り返し。高校時代の常澄くんはそれほど勉強ができるわけではなかったけど、他の男達よりはある意味賢かったのだろう。私を長く傍に置いておきたいのであれば、私に夢中になりすぎてはいけないということを知っていたのだから。
バイトが休みだったその日、私は喫茶店のラストオーダーの時間に裏口から入り、店長室で頬杖をついて眠っている常澄くんの肩を叩いた。彼はびくっと肩を震わせ、目をこすりながら「終わったか?」と尋ねた。
「ううん、私」
「なんだ、今日休みだろ?」
「うん、ちょっと話があるの。困ったことになって」
常澄くんはしばらく私を見つめてから顔をしかめ、困ったことになったやつはそんなふうに笑わない、と言って煙草を探した。この男は私に見惚れていたな、と自信を深めてから私は彼の胸ポケットに入っている煙草とライターを抜き取った。常澄くんが何か言う前に私は背中を向けた。
「喫煙席で待ってるから、終わったら来て」
「……わかったよ。コーヒーでも飲むかい?」
「ぬるめのホットミルクがいいな」
これくらいのわがままを言うことで常澄くんが気を良くするのを私は知っていた。
それからホールの締め作業をしている乾くんに笑顔で手を振って喫煙席の扉を開いた。彼は最近雇われた大学生で、抱かれてもいいなと思える容姿をしている。医療系の大学に通っているらしいので前に一度私からご飯に誘ってみたのだが、彼の車で連れて行ってもらった焼肉屋で話を聞くと、医者ではなく理学療法士とかいうのを目指していて、将来的にはリハビリなどを担当するらしい。なんだ、と思って私はそれからタダの焼肉に集中することにした。理学療法士見習いの彼は私の食べる姿を見るのが好きだと言っていたので対価としては十分だろう。それだけでは足りないという男ならば足を崩してパンツでもなんでも見せてやればいい。しかし焼肉を食べながらいろんな筋肉の名前を聞かされるのにはうんざりだった。だから今度のバイト代が入った時には回らないお寿司屋さんに連れて行ってもらう約束をした。医者見習いではないとしても乾くんは抱かれてもいいと思える容姿をしているのだ。きっとリハビリセンターに勤めればおばあちゃんたちのアイドルになれるだろう。
隅っこの席で煙草に火をつけて一息つくと常澄くんがぬるめのホットミルクを持ってきた。私のことをよく知っている彼はスプーン一杯分の砂糖をちゃんと入れたことを誇らしそうに告げた。私は笑みを返し、ほんの少しだけ悲しくなった。私はどこにでも行けるのに、どうしてこんなところにいるのだろう。彼らはどこにでも行けるのに、どうしてそこにいるのだろう。時々、唐突に、そうやって何もかもが可哀想になる。けれど、みんなそこにいるということに安心しているのだ。居場所なんて自分で決めればいいのにと私は思うのだが、世の中はそれほど単純でもないみたい。シンプルに生きていたい、と歌う歌手が中学生の頃好きだった。携帯小説全盛期の頃だ。しかしシンプルな世界は、何かを失っただけで一瞬のうちに空っぽになる。人はそんなに無防備には生きられない。幸せってなんだろう、なんて考えるようになったのは、私も歳をとったということなのだろうか。
常澄くんがかまってくれずすぐ店長業務に戻ったので私は乾くんと喫煙席のガラス越しに時折笑みを交わし合いながらちびちびとホットミルクをすすった。ハンドバッグの中の払込書のことを考えると胃が少し重くなる。クレジットカードというのは怖い。私のような気まぐれで無計画な女には過ぎた代物なのだろう。
閉店時間まであと数分だったので、気まぐれにモーニングメニューを各テーブルに配ってあげた。喫煙席の扉を開けて入ってきた乾くんはありがとうと言って「今度お寿司奢るからね」と微笑んだ。可愛らしく指切りしてあげる私を、レジカウンターごしに常澄くんが見ていることにはちゃんと気が付いていた。
閉店作業が終わり、アルバイトがみんな帰ったあと、常澄くんはレジ締めを終えてからようやく私の前に腰掛けた。私の傍にあった煙草を引き寄せるので、甲斐甲斐しくライターで火をつけてあげた。
「それで、話っていうのはなんだい?」
私がとっても素敵な微笑みを浮かべている間に煙を吐き出した常澄くんは、今日の煙草はポップコーンの後味みたいな味がする、と言った。ポップコーンを食べる男は嫌いだ。
それからのことは、ただの人間であるあなたたちに語っても信じてもらえないだろう。この世界はあなたたちが思っているよりも不思議で歪で残酷なのだ。人間がどれだけ高度な社会を形成しようと、生存競争は失くならない。あらゆる形で、私たちは常に何らかのパイを争っている。実に醜く愚かなことだ。幸せになればいいのに、と思ってしまう。
食事を終えた私はコンビニでクレジットカードの督促状を片付け、ハンドバッグを買ってくれた男の家で眠り、翌朝マクドナルドでフィレオフィッシュを食べていた。電話が鳴り、男の目を見つめたまま出る。
「あ、猫谷さん?ちょっと大変なことになって」
「どうしたんですか?」
「それがね、朝来たら金庫のお金が失くなってたの。店長にも連絡がつかないし、それでとにかく警察を呼んだんだけど」
私は唇をひと舐めしたついでに大きなあくびをした。
「それって、店長が金庫のお金持ち逃げしたってことですか?」
「ううん、ああ、警察はそう思ってるみたいだけど、私にはとても信じられなくて」
電話をかけてきたパートの主婦さんは随分と興奮した様子でそれからも何やら話していたが、私はそんな事件には興味がなかった。なんだか面倒になってきて、ちょうど電話も繋がっていることだし、今日のバイトを休ませてもらうことを告げて話を終えた。
「店長が金庫の金を持ち逃げした?」
「らしいわね」
「バイト先の?」
「バイト先の」
「マジ?」
「マジ」
「やべーなお前のバイト先。てか逃げ切れるもんなの?」
「きっと逃げ切れるわよ」
男は口に運ぼうとしたベーコンエッグマフィンを置いて不思議そうに私を見る。
「どうしてそう思う?」
「だって」
私が食べちゃったんだもん、と胸の内で呟き、パックの牛乳をストローですする。それから細いストローを見て、ふふっと笑ってしまった。チューチュー叫ぶ常澄くんは、ほんのちょっとかわいかったな。
「だって、なに?」
「だって、今日はあなたと一緒にいられて気分がいいから」
なんだそれ、と顔をしかめ男はつまらなさそうにベーコンエッグマフィンにかぶりつく。私は照れ屋な彼に微笑み、唇を舐めた。今日は腕時計を買ってもらおうかな。
猫を嫌う人には気をつけろ、とアイルランドの人は言った。彼らは猫にのぼせ上がっているのだろう。恋は盲目とはよく言ったものだ。私は彼らに、猫にこそ気をつけろ、と言ってあげたい。
Blur Matsuo 編集者 | 2019-07-27 13:07
店長と医療系大学生と男友達と登場人物の描写が少し雑で、途中で誰がだれかが分からなくなり、物語を追えなくなったので、登場人物を絞るか主人公との接点を無くすか、視点をずらすかすると良いかと思いました。少しずつ女性が猫っぽくなるところは良かったです。
大猫 投稿者 | 2019-07-27 13:47
猫が本気を出したらこのくらい朝飯前だろうなあ、猫が野心を持たぬ平和主義者で本当によかった、と胸を撫で下ろしました。
猫にとっては、いえ、彼女にとっては、あらゆる男は「奢ってくれる」「金をくれる」「好きなものを買ってくれる」という点で全部同じで、みんな彼女の下僕です。猫性が本当によく書けています。男性版だったらどうなるでしょうね。それも面白そうですね。https://hametuha.com/novel/37696/#comments-wrapper
多宇加世 投稿者 | 2019-07-27 14:43
自分も、読んでいて少しわかりにくいところがありました。悪女のタイプが安易な感じのするところもありましたが、猫っぽい悪女とはそういうものなのかもしれないな、とも思いました。大猫さんのおっしゃるように確かに男性版も気になります。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-07-27 14:56
自分のことを「若くて可愛い」と思ってる女とかかわるのは嫌だなあと思いながら読み進めました。物語の展開、地の文と会話文との繋がりにオヤっとするところが幾つか見受けられました。
波野發作 投稿者 | 2019-07-28 07:54
話の建て付けはとても面白かった。ただ、時間軸の示し方がのっぺりしていて、過去のレイヤーが重なりすぎていて前段が長すぎる。進行している現在と過去をストライプ構造にしてウェイトバランスを整えてみたらもっと没入感が得られるのではないかという感想を持った。
沖灘貴 投稿者 | 2019-07-28 20:01
主人公の女が猫っぽい。それに尽きます。店長が二人出てきた??ので混乱しましたが、金は主人公がネコババしたのでしょうか。
いろいろな点でこちら側に考えさせる、想像させる点が多く、理解するのが難しいですね。
佐々木崇 投稿者 | 2019-07-28 23:40
猫好きが多そうな中で、猫にこそ気をつけろという部分に挑発的でいいと思いました。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-07-29 13:22
女性の猫感をおもしろく読んだ。ただ、会話が多く、背景(情景)描写が少なく、登場人物の動きもなく、平坦ではあった。この魅力的な女性がもっと生々しく動いているものを読みたい。
Juan.B 編集者 | 2019-07-29 13:38
猫にまつわるステレオタイプを扱い、興味を惹かれる部分もあるが、やはり平坦なように思えた。もう少し構造がわかりやすくなればもっと面白くなるのではないか。
Fujiki 投稿者 | 2019-07-29 19:17
会話文がオシャレ。主人公はたぶん彼女自身が認識しているよりもはるかに困窮した生活を送っていると思うので、年下の学生に奢らせる点やクレジットカードの請求書といった具体的なディテールがさりげなく描きこまれている点にリアリティを感じる。自分は「若くて可愛い」と強がる一人称の語りと彼女の実際の生活のずれをもっと見たいと思った。あと私は、主人公のバイト先が常澄が店長を務めるカフェだと気づくのに時間がかかった。もう少し設定の説明が親切でもいいかも。「猫谷さん」と名前が明かされて以降の終わり方がちょっとチープ。