二 新大久保
看板のくせにこの街の看板は何を謳っているのか分からないものが多すぎる。一度行った香港の街を思い出す。漢字にまみれているからではなく、嗅覚が記憶と一致するからだ。街の匂いとは食べ物の匂いで出来ているのだろう。彼と私は二人で度々訪れている裏ぶれた多国籍料理の食堂に入る。折り畳み式の机が無造作に配置され、その上には埃だらけの造花が飾ってある。椅子に至っては、破れたビニールの部分をガムテープで補強しているので、座る場所によっては太腿に破れたビニールが刺さり、鈍い痛みを感じる。彼はマレーシアと香港と台湾の料理を一種類ずつ注文し、二人で一本の青島ビールを飲む。
今日も熱帯夜になるだろう。薄い膜を張り巡らせた様な空気だ。
「二十歳おめでとう」
「ありがとうって言ってもさ、僕は生まれてなんとなくここまできただけだからな」
「まあそうねぇ、お誕生日は両親に感謝する日ね。でもおめでとう」
「ありがとう」
彼はこの一ヶ月でみるみるとお酒を飲む量が増えた。神田で買い求めたケルアックの『路上の旅人』に感化され読み終えた日以来、毎晩ウイスキーの小瓶を一本、無理して飲んでいたらしい。大学一年生の春にはビールを一口で吐いては「だから飲めないって言ったんだ」を連呼し、次の朝まで回復しなかった彼の胃袋は相当頑丈になりつつあるらしい。キャンパスライフをどれだけ謳歌しているかの確認、その一つの判断材料は飲酒量だろう。飲酒量を競って会話に持ち出す事ができるのは、学生の特権であるかの様に、週初めの会話はもっぱら週末の飲酒量の話から始まった。ワイン二杯で止まっているのはもはや私だけだ。
「お父さんもお母さんも元気なの?」
「それなんだけどさ、俺、家を出ようかなと思ってるんだよね」
ナシゴレンをスプーンで口に運びながら彼は言う。
「何で? この前実家に戻ったばかりなのに」
「母さんどうやら俺の部屋に勝手に入って、色々漁ってるみたいなんだよ。俺元々物の置き位置とか気にする方じゃないんだけどさ、何て言ったらいいのかな、空気がさ、綺麗すぎるんだよ」
「空気が?」
「そう。ほとんど換気なんてしないから、部屋の中はいつでもやたらと匂いが籠ってるはずなのにここ一週間位かな、匂いがないんだよな。それに、昔からある物の位置がね、変わってるんだよ」
「昔からあるもの?」
「そう、幼稚園の卒業祝いの木彫りのカエルだったり、小学生の頃から持ってる目覚まし時計とか」
「あぁ、あの黄色いやつ? ベッドの上にあった」
「そう、あれもベッドの上にあるはずなのに、昨日帰ったら机の上にあった」
「昭君それ、お母さんに聞いたの?」
「聞いてないよ。聞いて俺の思い込みだったら、母さんえらく落ち込むだろうしさ、もしも本当だとしてもさ、私ですとは言わないでしょ」
「でもさ、何でそんな事始めたのかしら」
言葉と言葉の隙間を縫っては、箸を動かす。彼が話している間に咀嚼し、会話と食事の調和は保たれる。私はえらくお腹が空いていたのだ。
「考えてみるとさ、多分真理子が来た日辺りからなんだよね」
「えっ?」
「だからさ、あの日から何かおかしくて」
「まずい発言でもしたんじゃない?」
「言ってないと思うけどなぁ」
「でもまずい事を言ったとしても、部屋の中を漁るのはおかしいもんね」
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