金曜日深夜
恵比寿駅近辺 酔った女性客
「タクシーの運転手さんて大変ね、こうして知らない人と空間を共有してお仕事をするんですもの。怖くないんですか」
「そうですね、時々怖くなりますが、もう慣れました」
「うちの主人がね、いつも言っているのよ、タクシーの運転手さんは究極の営業マンだって。道端で出会った見ず知らずの人といきなりお金の遣り取りをするなんて、ほかの職種では考えられないわ。とても危険な仕事よね」
「ええ、毎年何人かは強盗に殺されています、それに、神経を極度に遣うせいか早死にする人がとても多いです」
「それなのに客の方は見下した態度をとるでしょ、なんだか可哀想」
「別にそんなお客さんばかりじゃありません」
「でも、ドラマなんか観ていても運転手さんたちはいつもただの黒子役じゃない。おかしいってやはり旦那が言っているわ」
「優しい旦那さんですね」りっぱな浄瑠璃人形も黒子がいなければ動きはしない。彼女はそのことを忘れているようだった。
車は権田原を抜けて四谷見附に差し掛かっていた。外苑の木の闇に対向車のまばらなライトがわびしげに浮かぶ。女が携帯をかける。
「あたしよ。今そっちに向かっているの。ねぇ、行ってもいいでしょう、朝には帰るから」
男の声が漏れ聞こえ、女のしおらしげな含み笑いと混じり合う。やがて話が付いたのか、女は携帯を切り、少しばつが悪そうな声で再び話しかけてきた。
「あたし主人を見ていると辛くなるの。大手の広告代理店に勤めているんだけどね、上司にぺこぺこして、毎晩午前様になるまで働いて、いっそ本当にやりたいことをやるべき時期だと思うの」
「なるほど、ご主人も黒子だというわけですね、別な種類の」
「ええ、そうかもしれないわ」
やがて、車は淡く闇に浮かぶ東京ドームの脇をすり抜け、交番の灯が侘びしげにともる白山下へと向かった。寝静まった街に流れる音と言えば、客を探し回る幾台かの空車タクシーのエンジン音だけ。
本郷通りに入ってまもなく、私はとあるマンションの前で車を停めた。「そう、ここよ、このマンションよ」女が弾んだ声を上げ、そそくさと勘定を済ませる。私は振り返りはじめて女の顔を見た。三十代半ばの女盛り、整った顔立ちにしおれかかった清らかさが匂い立つ。
「きょうはありがとうございました、ご縁があったらまた乗ってください」女は軽くうなずくと、黒子の存在など忘れたかのように、愛人宅へと足早に消えていった。
柿人不知 ゲスト | 2009-07-20 00:48
今、サムライさんの作品を読み返している所なのですが、
面白く、読み易いですね。
相当な「読書量」があるんじゃないかと、思っています。
今は、長編小説を書かれているみたいですが、
大いに破滅なさって書ききって下さい。
サムライ ゲスト | 2009-07-21 21:10
コメントありがとうございます。幸か不幸か、既に破滅し尽くしている私ですが、文学の道を通して、より華々しく破滅して散りゆく所存です。どうか、よろしくお願いいたします。