一
――そんな中、就職だけが決まっていないのだった。
とにかく面接で落ちるのである。
マニュアル本のたぐいは腐るほど読んだ。シミュレーションもし尽くした。
コツを知悉した投稿者たちの動画も見倒した。そういうところに潜む落とし穴に精通した記事も読み漁った。
先祖代々のお墓参りにも行き、道にゴミがあれば拾い、水回りをピカピカにした。
然るべき神社仏閣に片っ端から詣で、落とし物があれば届け、横断歩道のご老体を負ぶって渡ること二桁に達した。
それでも落ちるのであった。
とうとう父は、仲の悪かったお兄さんに頭を下げた。
かくして私は、伯父の紹介で、《インファンティ・コーポレーション》を受けることになったのである。
何気にそれは友人たちの誰よりも太い進路であった。
人脈というものの偉大さ。人生の雌雄をしれっと決する、決してズルというのではなく、非効率な宝の持ち腐れを防ぐための、適材適所で全員ウィンウィンで社会を円滑に回すための、あくまで尋常な情報の有効活用としての。
――諸々の相談のために一瞬帰った実家での、母の落胆した後ろ姿や、父のどこか寂しげなほほ笑み、それらいつまでも網膜に貼り付いて取れない残像は、見えぬことにして過ごした。
そうしていざ、当日の朝を迎えて私は、ぬるぬると直撃を避け続け得ていた「最後のチャンス」の重さに、急に押し潰されそうであった。
それは目覚めた瞬間の寝床の上に、土石流のごとく襲いかかって来た。
これも駄目だったら?……(たとえ受かっても、どうせコネだの何だの言われようが――いいや! 受かったら何の問題もない。もしも、駄目だったら?……)父からは勘当され、顔に泥を塗られた伯父からも見捨てられて、一生フリーターか。
あれだけ勉強して、同級生たちが浮かれ騒いで享受・謳歌していた青春を黒々と塗り潰して勉強して、残ったものは「ハイ残念でした」か。
何を食べたのかわからない。サプリだけはシッカリ飲んだ。
ネクタイを結ぶ手が面白いほど震えていた。そのまま電動歯ブラシ顔負けのトルクで歯を磨く。
いつもドライヤーからセットする髪だったけれど、頭が真っ白で順序がわからず、ただただガッチリと固める。
なぜか靴ベラが抜けなかった。(こういう時にふざけて来る輩はロクなものではない。あとで処分し、買い換えること。)鍵が鍵穴を避けん避けんとして踊っていた。
ふわふわと、周囲の人の流れに我が身を預けるようにして歩き、改札をくぐる。立派に適応した文明人ほど家畜のごとくすし詰めで猛スピードで運ばれる高度文明の馬鹿々々しさ。
気づけば目的の駅に降りていて、相変わらず頭は真っ白だった。
こんなに長時間真っ白で大丈夫かしらと危ぶまれたけれど、変に冷静でもあるのであって、もっと真っ白なままでも大丈夫だろうと考えている自分がいた。
駅から会社までの道順はちゃんと頭に入っている。ストリートビューで事前に調べておいたので。夕べもおさらいをしたので。
――嗚呼、それなのに、この景色は確かに見覚えがあるのに、どう行くのか急にわからない。ヘアセットの時と同様、一瞬でごっちゃになって。
脳味噌の、こういう作業をする時にはここが動くというような、こことここが提携して、ここの管轄となるというような、そういうものが事故っているかのようで。
あとで完全に復元出来るのだが、今はどこを探してもファイルが見当たらないというような。なまじ今、見当たってしまうと破損するので、いっそ見当たらないほうがいいとでもいうような。
――何を言ってるのか。頭が狂ったのであろうか? そうだとしても、遅刻だけは出来ないので、タクシーに乗り込んだ。
「《インファンティ・コーポレーション》までお願いします」
中年のドライバーはとくに返事もせず、カーナビに入力して、何やらちょっと首を傾げたのち、けっきょく何も言わずに発車した。
一見丁寧なハンドルさばき・アクセル使いだったけれども、滑らかな中にGが凄く、右折のたびに体は浮き上がり、左折のたびに押し潰されて、吐きそうだった。
何を食べたのか、吐けばわかるのだろうけれども、それが判然とする時には、もはや吐いたあとなのであって、吐かないほうがいいわけか。
この運転手さんも、こうしてシッカリ就職しているのだ、そこへ至るまでに、どんな過程があったか知らないけれども、もはや「勝ち取っている」状態なのだ、ベテランの労働者として、ずうっと先輩な、押しも押されもせぬ社会の一員なのだと思いながら、浮き上がり押し潰されしていた。
かなり長い時間運ばれた気がするけれども、精神状態の問題で長く感じただけかもしれぬ。
料金もまた、かなり高い気がしたけれども、精神状態の問題で高く感じただけかもしれぬ。
何しろボンヤリして、ちゃんと支払えたのかどうかもわからず、降り立って見上げると、金文字の社名が光るビルはこちらへ倒れて来そうであった。
さあ、ここまで来ればやるだけだ。ネクタイを締め直し、回転ドアに早速まごつきつつも勇ましく足を踏み入れて、中の空気の人工的な清涼さに少し気分も晴れたりなんぞしながら、受付へ直進し、面接を受けに来た旨伝える。
すると、何ぞ図らん「はあ……」と生返事を返されて、不思議そうに見上げられつつ、小首を傾げられたのであった。
そういう反応をされている場合ではないのだが。大いなる勝負所・正念場、「練習は本番のように、本番は練習のように」で、もうあとはリラックスして、緊張して失敗するなら大いに失敗すればいい、行きゃ何とかなるという弾丸が既に撃たれている私なのだが。
この話、もしかして伝わっていないのだろうかとよぎるころ、誰やらと電話でやり取りしていた受付嬢のお姉さんは、急に得心したような顔して受話器を置くと、打って変わって親切な口調で以て、面接会場の場所を教えてくれた。
何だったんだと思いつつ、ともあれガラス張りのエレベーターで、身も心も地上からすっぽ抜ける心地。
降り立ってからも、やたら分厚い床材がふかふかして、カステラの上を歩いているような心地でたどり着いてノックして、どうぞと言われてドアを開け、思いのほか重くて開かなかった狭い隙間から中へずるりと滑り入った。
面接官が三人、座ってこちらを見ていた。全部オジサンで、造作やフォルムはまちまちながら、微動だにせず薄っすらとほほ笑む表情が同じであった。
嗚呼もう始まっている! 何かしゃべった振動の余韻が喉に残っているけれど、我ながら何と言ったのか、ちゃんと挨拶は出来たのだろうか?
一つだけのパイプ椅子に既に座っているけれど、ここに至るまで手と足は交互に出ていたか?
何か聞かれた。何を? 何であれ、本音で行くしかない。もう小細工はナシだ。飾らない等身大の自分をぶつけるまでだ。それで駄目なら仕方ないのだし、何よりそもそも伯父の紹介で、もう決まってるようなものなのだし(ここがイチバン重要。)……
――……いや、ほんとうに、何て言った? 変なことを聞かれたような気がするが。
「すみません、もう一度お願いします」
これに対して、面接官たちは、何やら、わかってますよというような顔で、鷹揚にうなずいた。そして、真ん中の面接官が、質問をくり返してくれた。
「もしも戻ることが出来るなら、あなたは人生のいつに戻りたいですか?」
……ああ、そう言ったのか。ェえ、無駄な時間はかけられぬ。もしも戻ることが出来るなら――意図のわからない質問だが、とにかく本音で行くしかない。
そう思って、口に出す前に吟味するゆとりもあらばこそ、
「はい、私は、もしも戻ることが出来るなら、生まれる前に戻ります」
と答えていた。
「ほほお」
と、右の面接官が眼鏡をキラリ反射させ、
「生まれる前に戻る。それから、どうしましょう」
と言った。
私は、それからどうする――急げ急げ、本音だ本音だ、
「それから、もしも選択出来るのなら、次は生まれて来ません」
「なるほど。そうしますと、どうなりましょう」
と、左の面接官。私は答えて、
「そうしますと、一人また一人と生まれてゆく同級生たちが、不思議そうに見て来ますから、一人々々に、『がんばれよ』と言います……」
ビルを出た瞬間、憑き物が落ちるというのか、何か麻痺性の毒素がざあっと流れ落ちでもしたかのように、もういらなくなった瞬間に、理性やら平常心やらが、戻って来た。
怒涛のごとく打ち寄せる常識感覚にびしょびしょになりながら、嗚呼、自分は何を口走ってしまったのか……。
駄目だろうなと思った。
翌朝。今日は昼まで寝ようと思っていたのだったけれども、変に目が冴えて、何となく郵便受けを見に行った。
さすがにまだ結果は出なかろうが、何でもいい、何か入っていないかしらと思って。
いかがわしい店のチラシでもあれば、行ってやろうというような気持ちで。ポスティングしている店員が帰るよりも早く、行ってやろうというような気持ちで。
すると、白い封筒が投函されていて、裏を見れば、《インファンティ・コーポレーション》と印刷されているのであった。
もう来た! ばたばたと部屋へ帰り、鋏で慎重に封を切って、のぞけば一枚の紙が入っていた。
嗚呼、恐るべき紙だ。逮捕状や、召集令状のごとき、たった一枚のぴらぴらしたもので人間一人を生かすも殺すも自由自在な――おろおろする気持ちを落ち着けるすべもなく、震える指を差し入れて、ゆっくりと取り出そうとするや速攻で「合格」の二文字がまず見えた。
ヤッ(タ!)――……と思いかけて下段の細々した文字を読み切れば、それはけっきょく、第二面接試験の案内なのだった。
日付を見れば、もう今日の十六時から、昨日と同じ場所でとのことであった。
何から何まで早いことで。もし私が夕方まで郵便受けを見に行かなかったら、何もかもを逃していたところだ。
その場合、それでもうアウトだったのであろうか。――そういうことをするかしら。
――……トンデモナイ会社なのではなかろうな……?
髪もぼさぼさのまま、一人でモヤモヤしていると、伯父から電話があった。まあとりあえずは面目も守れたわけで、何とか第一関門突破の吉報を告げた。
ところが、伯父から返って来たのは、第二面接? 何じゃそれは。
しばらくどうにも噛み合わない会話であったが、早い話が、《インファンティ・コーポレーション》? わしが紹介したのは、《インフィニティ・コーポレーション》だぞ!……
すぐに連絡せよと言われて、検索し直し、やっぱり合っているのを慎重に確認し、《インフィニティ・コーポレーション》へ電話すれば、秘書の女性がお待ちくださいと言って保留の音楽が流れ、数分ののちガラリと冷淡な声で申さく、
「さくじつお待ち申し上げておりましたのですが、とうとうお見えになられませんでしたので――えェはい、今回はご縁がなかったということで、はい、失礼致します」ガチャ……。
気づけばお湯で石鹸をひたすら磨いている自分がいた。とにかく手を洗いたかったらしいが、肌というものはここまでふやけるものかと思うくらいふやけて、白くて、爪という爪が浮き上がり、軽くめくれば簡単に取れそうであった。
さぞ自嘲的な笑みであろうと思って鏡を見れば、ぎょっとするほど見知らぬ顔で、泥酔している時のように、どうしても焦点がうまく合わなかった。
しかしやっぱり、《インファンティ・コーポレーション》がイカレているではないか。どう考えても。
馬鹿みたいに迷い込んで来た夢遊病者のごとき私を――……あそこで常識的に追い返してくれていたら私は間違いに気づき、遅れてでも《インフィニティ・コーポレーション》へ行ったろうものを。
いっそ、不審者、出て行けと、野良犬か何かのように箒でバシバシ叩き出してでもくれていたらよかったのに。
そういうわけで、第二面接は行かなかった。連絡さえ入れなかった。
過緊張で一日過ごした疲れもさることながら、何よりこれまで尋常に回っていた色んなものが根底からグラついたような感覚による消耗が意想外に激しくて、常識的な思考の麻痺させられるものがあって。
伯父への謝罪も後回しにして、不貞寝した。
夕方に目が覚めて、時計を見れば十七時過ぎ――……あのニヤニヤした面接官たちがまだ三人そろって座っているような気がして気持ち悪かった。
こちらの電話番号も何も先方は把握しているが、何の連絡もなく。まあ、どうせもう抹消されたであろう。《インフィニティ・コーポレーション》における迅速な抹消が、《インファンティ・コーポレーション》においても為されたであろう。
カップ麺をもそもそ食って、風呂に入り、何もかも激しく洗って、ふたたび横になれば、こびりついたものは思いのほか根深く、そのまま全然寝れたので、引き続き眠った。
翌朝、郵便受けを見に行くと、白い封筒が投函されていた。裏を見れば《インファンティ・コーポレーション》からで、一枚の紙が入っていて、合格と書かれてあった。
――行かなかったのに。
……行かなかったから?
そして第三面接の案内が続いていた。本日十六時より、例の場所でお待ち申し上げておりますとのこと。
誰が行くかと思いつつ、しかし伯父のことを考え、まだ何の報告もしていない父のことを考えれば、そうだ、ふと今、父から連絡が来たら何と言えばいいのか。
どう説明すればいい。それに《インファンティ・コーポレーション》においては、まだシッカリ落ちたわけでもない(?)のであるし……?
思考停止するほかに、どうにも仕様がなくなって、気の紛らわしようもなさに、気づけばネクタイを締めていた。
お待ち申し上げているなら行ってやる。そして言うべきことを言ってやるのだという、強気な空想に耽りながら。
私は腹をくくって出かけて行った(というつもり)。
道がわからないままなので今度もタクシーを拾ったが、途中で当の《インフィニティ・コーポレーション》をでかでかと通り過ぎていたことに気づいて空しい。
やっぱりちと遠過ぎた距離を運ばれて、ちと高過ぎた料金を支払って、ビルは相変わらずこちらへ倒れて来そうに感ぜられた。
とりわけ今回は、単身敵地に乗り込むのであって、生きて出られるかどうかわからない覚悟であるために。
(――実際には、消去法的に、一番ラクな選択に流されているばかりのことなのであったが。
もう受かりたい気持ちもないのだが。ちょっといったん一年ほど、半年でもいい、バイトでもしながら将来について、落ち着いた心で以て、ユックリ考えてみたいというのが本音なのだが。)
勝手知ったる回転ドアをくぐり、受付には目もくれずロビーをずんずん横切って、堂々とエレベーターを使い、いやにふかふかの廊下を踏みしめて、面接会場へ着いた(つもり。実際は受付で頭をぺこぺこ、誰彼かまわず手がたなを切りながらなるたけ体の面積を狭く狭くして――)。
隙間から手榴弾でも投げ入れる空想をしつつ、震える足を二、三発ぶっ叩き、大きくノックして「どうぞ」も待たずに入る(つもり)と、前と同じ面接官が三人、ニコニコしながら座っていた。
私は敢然と会釈して、大股に突撃すると、パイプ椅子の隣で立ち止まり、
「どうしてこのたびのようなことをされたのですか」
と問うた(つもり)。えらく痰がらみだったけれども、思ったよりは太い声が出たし、この一言で完全に度胸が据わった。まだまだ勝負はこれから、一瞬たりとも気が抜けないが、もう大丈夫だという気がした(つもり)。
いざとなったら暴れりゃ勝てる、そういう動物的な、根源的な余裕が身内に感ぜられ、我ながら嬉しいやら頼もしいやら。
すると面接官たちは、あくまで笑顔を絶やさずに、
「まあまあ、何事もご縁ですので――」
私は続く言葉を遮って、
「こっちは真剣なんです。人の人生で遊ぶべきではないと思います。本日はそれだけ言わせていただきに参りました。どうも失礼を致しました」
嗚呼爽快! 高みから社会を捏ね回してけつかる、社会の暗部に巣くう怪物どもに、私は見事に啖呵を切ったのである!
(――実際には、冷や汗が止まらず、先方の目も見られず。
先方は、厳しい声で、昨日はどうしておいでいただけなかったのですか。私は蚊の鳴くような声で、郵便受けを見ませんでしたので、合格通知に気がつきませんでしたものですから、ほんとうに、お詫びの申し上げようもございません……)
さあ武蔵も斬ったら一目散だ、あとは三十六計逃げるに如かずだ、面接官どもには呼び止める隙も与えずにさっさと退室した(つもり)。
ふかふかの廊下を小走りで、ちょうど待っていたエレベーターに飛び乗って、ロビーを突っ切って回転ドアを回して外の世界へ転げ出た。
駅まで歩くことにした。大都会過ぎて逆に緑豊かな景色、大都会過ぎて逆に閑散とした幅広な歩道を悠々とゆく。
いやな汗を掻き切った体からは獣くさい臭いがしているけれど、大いなる悪者をこらしめでもしたかのような晴れやかな気分であった(つもり)――。
翌朝、合格通知の入った白い封筒が投函されていた。
昨日のことは空想と現実がごっちゃになって、色々と定かではなかった。
私はほんとうに面接官たちへ啖呵を切ったのか。それともほんとうにあの場で裸踊りをしたのか?……
捨てる前にいちおう封を切って見てみると、これまでで最も長い。かすむ目をこすって読むに、第四面接は貴殿が面接官をすべしとあった。
――そうすると、私があのニヤニヤした面接官たちの中に混じるのか。
面接官は四人になるのか、それとも私の代わりに一人抜けるのか?
そうすると元々あの面接官たちも、あんがい試験中の求職者だったのであろうか。いっそ三人全員が? じつは本物の面接官など一人もいなくて? あるいは受付嬢のお姉さんも、タクシー運転手も?…………
そこまで行くと、社員たちも社長も、株主も会計士もとなって、ぐるっと一周して元に戻るばかりだ。現在職に就いて立派に生活している人全員が、ある意味では求職者となり、しかしその新たな求職者の中に、私は含まれていない。
いわばどの国の人も地球人だよねというくらいの話に片づいて、そうして結論として、私は宇宙人ということになるわけであった。
さて、面接官をすべし、そして入社希望者への質問を考えておけとある。……採点もするのであろうか。決定的な及落の判断まではさすがにしなくともよいであろうか。それならよいのだけれど。
だって人間一人の人生を左右するような断決は――一つの会社の命運を左右するかもしれないという点については、どうでもいいけれども――身につまされ過ぎて、よう出来得ないので。
……質問か。私もされたやつか。
私が食らったのは、「もしも戻ることが出来るなら、あなたは人生のいつに戻りたいですか」だった。
もう一度答えていいのなら、答えは「今です」だが。
――あるいはあれも、どこかの入社希望者が第四面接の課題として考えた質問であったのか?
私はけっきょく、このたびの合格通知、ぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。
怒りでもなければ、ウンザリしたのでもなかった。
ただもう肉体的に、くたびれたのであった。
翌朝、第四面接の合格通知が郵便受けに入っていた。私はろくに読むこともせず、丸めて捨てた。
その後も、第五、第六、第七面接と、合格通知は投函され続けた。
止める方法はないのかと思うけれども、電話して頼むまでの度胸はない。ボンヤリした頭で考えて、物は試しで、最新の合格通知、封も切らず、捨てることもせずに置いておいて、様子を見てみた。
すると、果たせるかな、翌日、ぴたりと止まったのであった。
これはよろしいと思って、私は白い封筒を、ちゃぶ台の真ん中に飾っておいた。
幸い伯父からも父からも連絡はなく、こちらからもしなかった。
いくらでも寝られたので、ずっとごろごろしていた。こうしていればそのうち回復するだろう。ある朝起きれば、次の一手へと人生を動かす意欲が湧いているだろう。それをひたぶるに待った。
ところが、四日目の朝に、白い封筒は投函された。
鋏で封を切り、見てみると、やっぱり合格とあった。そうして次の面接の案内が書かれてあった。
郵便受けの口をガムテープで封じても、窓の隙間から合格通知は投げ込まれた。窓を閉め切っても、風で飛ばないよう重石を載せられて、玄関前に置かれた。
交番で事情を説明すると、巡査はどこかに電話をかけて、しばらく話していたと思うと、受話器を置き、私をにこやかに見つめて、
「合格だということなので、ついては、」
私は耳をふさいで交番を出た。
いそいそと角を曲がったところで、待ち構えていたようなランドセルの女の子、
「お兄さん、どんなタイプの女性が好みですか?」
じっと私を見上げて、答えを待っている。どう答えたものやらわからず、とりあえず肩をすくめると、
「合格!」
と言って駆け去って行った。
その後も通行人からいきなり話しかけられ、色々に質問をされたが、黙っていたら合格だ、何でもいい答えさえすればいつかは外れるだろうと思って、
「右」
「合格!」
「左」
「合格!」
「青」
「合格!」
「ポコチン」
「合格!」
こうなりゃケンカだ。不合格になるまで、この馬鹿げた試験を受け続けてやろうじゃないかと決心した。
すると空から白い封筒が降って来た。
私は合格通知を拾い上げると、それで以て火照った顔を扇ぎつつ、ゆっくりと家路についた。
二
墓地を歩いている。このところの日課である。
ふとまた、合格通知の貼られた、あわれな先達の墓石を見つけた。
遂に死ぬるまで合否から逃れられなかった人生。死を合格と判ぜられた最後の敗北。
私は忌々しい紙をそっと剥がして、静かに丸めると、最寄りの屑籠へ投げ捨てるべく、ポケットにねじ込んだ。
「よう、早くせい」
急き立てられて、私は急ぎ足に戻った。
墓地の入り口に車が停まっている。よく日焼けした老人が、煙草を持った手を窓から垂らして、私を待っている。
彼は自助グループILA(アイロニック・ラック・アノニマス)で出会った同志であった。現在じつに第八八六面接の試験中になる古強者で、ILAの会員たちからは尊敬の念を込めて「おやっさん」と呼ばれていた。
八八六はむろん現役最多だ。人によっては二〇〇~三〇〇でじゅうぶん命にかかわる。それが一度の入院すらしていないというのだから信じがたい生命力だ。
私はまだ三桁にも達していなかったけれど、まあ何度救急車を呼んだことか知れない情けなさ。
おやっさんのアドバイスで、毎晩寝る前に孔雀王咒経(要文抄)を読誦し、高タンパク質の食事を心がけるようになってからだんだんマシになって、何とか尋常に過ごせているようなわけだった。
何せ車へと急いだ。今日は曇天模様で、空から見つかる恐れはないが、通行人の一人が立ち止まってこちらを見ていたので。
目ざとい人というのはどこにでもいるもので。ランニング中とおぼしきメタボ気味なオジサンであった。
私が助手席に座ってからも、相変わらず立ち尽くして見ている。私はテキトーなハンドサインを送った。右手の親指と小指でお互いを指さして、手首を百八十度回す。「明日は我が身ですよ」というくらいのつもりであった。
けっきょくメタボ気味オジサンはすんとして通り過ぎて行った。
急かしたわりに、おやっさんは動かなかった。せっかく火を点けた一本を吸い終わるまでは発車しない気配であった。
私も電子タバコを取り出して、おやっさんの三倍ほどの煙(水蒸気)を吐き出しつつ待った。
やがておやっさんは吸い殻をもみ消して、
「じゃあ――メシでも食って帰るか」
と言った。
私はうなずきかけたけれど、
「その前にパチンコ、いいですか。金欠で」
「ああ、わしもだ。ちょっくら行こうか」
我々は駅前のパチンコ店へ入った。
いつものごとく、じゃらじゃらと出た。そんな我々の障害が露顕しないうちに去らねばならぬと思いつつ、ふと隣席のおやっさんの横顔を見る。
こちらもじゃらじゃら出ているおやっさんは、無心にハンドルを回していた。
いつだったか、
「お前さん、もしも戻ることが出来るなら、人生のいつに戻りたいね」
と尋ねられたことがあった。ILAにおいて、その質問はタブーだったけれども、よほど気を許してくれたのだなと思って、むしろ嬉しかった。
しかし私は、以前には、面接でその質問をされたあの時に戻りたかったが、さて戻って今度はどう答え直すのかと考えれば、もうわからなくなっている自分がいた。
それでけっきょく、
「おやっさんは?」
と尋ね返したのだった。
おやっさんは、しばし沈黙していたと思うと、遠くを見るような目になって、
「――……わしは、この質問を作った時さ。遠い遠い昔だよ」
と答えた。
さて今、その横顔の向こうに、こちら見ながらインカムマイクにぼそぼそつぶやいている店員が見えたので、
「そろそろ出ましょうか」
と私は言った。
何やら物思いに沈んでいたらしいおやっさんは、脂っ気のない手のひらで皺だらけの顔をさすると、ほうと吐息して、
「何を食べに行くかな」
とつぶやいた。
私は答えて、
「たまには、一杯やりますか。〽はしごはしごで明日を忘れ……」
これにおやっさんは、少し驚いたように私を見たけれど、
「そうさな。まあ、ほどほどに行こうか」
と言うと、銀歯を光らして笑った。
蓉子もILAの会員であった。
初めて会ったのは、ミーティングの席だったと思う。
彼女の身の上話も、ほかの会員たちのと同様、凡庸でつまらなかったし、私の身の上話に対して彼女もまた、退屈そうな顔をしていた。
食事会で隣になったこともある。
ポテトサラダのボウルを回す際に手が触れたり、ブラックペッパーを取ってあげた際に二言三言、言葉も交わしたはずだが、その時は何とも思わなかった。
会が引けると、私は早々におやっさんと帰ったし、蓉子も、何か仲良しらしいおばさんと帰って行ったばかりのことで。
まったく、その他大勢の人たちと、何ら変わるところのないことだった。
それが、ある日、ILAの活動に関係なく、独り買い物していた業務スーパーで、バッタリ出会った。
即断力に秀でて体幹が強くて動きの速い健常者たちの中で、心に鎧を着てカートを押していた私の視野に、彼女は一人だけ際立って見えた。
ほんとうに、モノクロな世界の中で、彼女にだけ色がついていた。
私は蓉子に、遠い異国で出会った同郷人に対するような、激しい安らいを感じた。
私たちは会釈を交わし、しばし無言で見つめ合い、同時に口を開いてお互いの言葉を潰し合い、打ち解けたほほ笑みを浮かべ合った。
喫茶店でコーヒーを飲んだ。そうして、蓉子もまた、私に対して同じものを感じていたと打ち明けた。
それから蓉子は、私とおやっさんの日課(墓地巡り)に同行するようになった。
仲良しっぽかったおばさんとは、帰り道が同じというだけで、お茶をしたこともないとのことだった。
日課が済むと、おやっさんは「婦女子から送るべしよな」と言って蓉子の家へ向かうものの、いつも途中で停めて、
「じゃァわしはあっちだから、お前、ちゃんと送ってやりんしゃい」
と言って、私と蓉子を降ろしてしまうのだった。
そうして私たちは、やれやれと肩をすくめ合い、のろのろと蓉子のアパートまで歩き出す。
そうして到着すると、
「それじゃァ――……何もありませんけど」
「いやいや、ほんとに、お構いなく」
あちら向いて眠る蓉子の肩の細さを見つめつつ、思う。
いずれ蓉子にフラれたら、きっと一生涯翳を曳くであろう鈍々しい打撃の奥に、ようやく得られた「不合格」を喜ぶ自分がいるのであろうか……。
週に一、二度しか郵便受けを見なくなっていた。
不定期に投函され続けている合格通知の封筒は、まったくない週もあれば、一気に三通も四通も入っている週もあり、そのつどまとめて持ち帰っては、封も切らず、クローゼットに放り込んでいた。
ちょっと隙間を開けて、そこからシュッと投げ入れる。
クローゼットの中は、白い封筒で充満していた。
そんなある日のこと、郵便受けの中に三通重なっていた封筒の、真ん中の一通が、真っ黒なのだった。
黒い封筒の、裏を見れば、あべこべに白い字で以て、やはり《インファンティ・コーポレーション》と印刷されてあった。
とにかく持ち帰って、ちゃぶ台の上に置き、考えた。
考えられ得る色々の可能性――しかし、考えれば考えるほど、最終的には、どう考えても、それは「不合格」の通知であるのに違いなかった。
一気にいやな汗を掻き、指先を冷たくしている自分がいた。
これが投函されたのは何日前だ? そのころ私は、いったい何をした?
思い当たる節がないかどうか、めまぐるしく頭を働かせている自分を客観的に見ている自分は、呆れ返っている。情けない。不合格になるまで戦うことを誓い、その日が訪れるのを待ち望んで来たはずではないか。
不合格になられれば上等だ、《インファンティ・コーポレーション》への就職を遂に断念し(大笑いだ!)、そこから尋常の人生が帰って来て、健常な自分に帰られるはずだと望みをかけて来たのじゃないか。
それが、実際に差し出された(?)途端、この動揺ぶりで。
いやいや、ほんとうにはわからない、色が違うからと言って凶報とは限らない、それに何より、三通あるうちの真ん中だったのだから、この黒い封筒の投函されたよりあとに、いつも通りの合格通知が来たのであるから、黒い封筒が何の意味であったとしても、撤回されたのに違いないのだという考えに、すがりついて。
けっきょく、震える手で鋏を使い、一番上だった白い封筒だけ開封して、中の紙を取り出した。
そうして、毎度おなじみ「合格」の二文字を読んで、激しく胸をなで下ろした。
黒い封筒は、中を確かめてみることはせず、ちゃぶ台の上にしばらく溜まっていたほかの封筒と一緒に、クローゼットの中へ放り込んだ。
とにかく忘れることにした。
風邪を引いたと聞いて、私と蓉子でおやっさんの家に押しかけ、看病している。
木賃宿のようなアパート、黴の連合国のような水回り、裏に立派なキノコの生えた万年床であった。
この老いたる病人は、ふだん三人で行動する際には、若い恋人たちの邪魔にならぬよう気を配るけれども、蓉子をたいそう好いてもいるのであって、彼女にお世話される時にはほこほこと喜び、私に世話される時には露骨にイヤな顔をするのであった。
蓉子が外の洗濯機へ出向いているあいだのこと、寝たきりのおやっさんがちょいちょいと私を呼び寄せ、言うことには、
「それで、蓉子君とはどうなんだ」
私は額の濡れタオルを交換してやりつつ、
「順調に、お付き合いさせていただいてますよ」
「そうかそうか」
おやっさんは、何やら満足そうな、えらくしみじみとした感じで、しばらく遠い目をして天井を見つめたのち、
「介護されるんなら、彼女がええな」
と言った。
……何じゃいと思って、
「大丈夫、僕がしますよ」
するとおやっさんは、駄々っ子のようにいやいやをして、
「いやだい。野郎に介護なんぞされとうない。蓉子君がええ。ごはん食べさしてもらうのも、からだ拭いてもらうのも、オシモの世話も。
最後の最後には、蓉子君みたいな弁天様に万事やってもらえるんなら、わしゃもう恥も外聞も、ご先祖さまも子々孫々も、お天道様も閻魔法王も、なんもかんもうっちゃらかして、蓉子君の赤ん坊になって死にたい!…………」
……このジジイ、と一瞬は思ったけれど、
「まあ、わかりますよ」
「そうだろ」
「ええ」
そこへ蓉子が帰って来たので、私たちは慌てて顔を引き締め、日課再開のめどについて話し始めた。
三
ゴルフ場跡地に造られた広やかな公園の、澄んだ浅い川のほとりのベンチに、蓉子と並んで腰かけている。
体調でも悪いのか、悩み事でもあるのか、待ち合わせ場所からずっと生返事が多く、顔色の良くない蓉子だった。
「――何かあった?」
と聞いても、弱々しい作り笑いなど浮かべて、
「何でもないの」
と答えるばかりだった。
と思うと、とつぜん思いつめたような顔して私を見つめ、手を握りしめて来て――ひどく汗ばみ、そして氷のように冷たかった――早口で言った。
「今朝ね、郵便受けに、黒い封筒が入っていたの」
「……」
「裏を見たら、反対に白い字で、《インファンティ・コーポレーション》って、印刷されてた」
「……」
私は、何と答えたものやら、すぐには言葉が見当たらなかった。
蓉子も、なかなか続きを言わない。
次の言葉を口にするのが怖いのだろう。「中身は何だと思う?」と言ってしまったら、考えられ得る可能性に包囲され、そうして遅からず、最悪の結論へと行き着かざるを得ないから。
私はちょっとよそを向いていた。気の利いた慰め言葉一つ言えず、ただ無言でいる私に、さぞかし失望したこったろうなと思いつつ、そっと見やれば、蓉子はまだすがるような目で私を見つめていた。
そうして遂に、
「一緒に見てほしいの」
と言った。
ここで私は、蓉子が、これまでに投函された厖大な分量の合格通知を、すべて開封して来ていたことを今さらながらに知った。
私にはとうてい出来得ないことだと思われたが、蓉子の言うには、毎度封を切って中身を見て捨てる、ということも、習慣になれば何でもないことよ。むしろ、見ないで溜めておくほうが、わたしには怖くって出来ないことだわ。
ともあれ私は、
「その封筒は、開けるな」
と答えた。不思議そうな蓉子の目を、じっと見つめて、
「明日の朝には、いや早ければ今日の夕方にも、白い封筒に戻るよ。遅くとも、数日内には。それまでの辛抱だから」
「でも……」
「気づかなかったことにするんだ。もし君が、たとえばおやっさんの風邪をうつされでもしていて、一日、二日郵便受けを見に行けなかったとしたら、そうなっていたことだ。それは、大いにあり得たことだろう?」
蓉子はコクリとうなずいた。
「そうだったことにするんだ。それほど不自然なことじゃないさ」
「――……あなた、黒い封筒について、何か知ってるの?」
「いいや。僕は、何も知らない。だけど、とにかくいいね? そうするね?」
念を押されて、蓉子はふたたびうなずいた。それ以降はもう、質問することもしなかった。
蓉子と別れて、家に帰ると、閉ざされたクローゼットの沈黙が喧しかったけれど、私はぬるりと無視した。
ぬるりぬるりとやり過ごして、夜にまで漕ぎつけ、なかなか寝つかれなかったけれど、気づけば眠っていた。
目が覚めた時、世界は尋常だった。
カーテンにじんわりと曙光の濾された薄明るい室内で、寝起きの私には胸騒ぎ一つなかった。
スマホを見れば、蓉子から着信があった。未明のころに、五分ばかり間を置いて、三度。私は気づかず、ぐうすか寝ていたわけだった。
最後の着信の五分後に、メールが届いていた。開くと、「やっぱり耐えられないので、今から開封します」とあった。
そうして、それきりだった。
私は蓉子に電話をかけた。出なかった。
続けざまに五度かけたけれど、呼び出し音が無感情に長々と鳴り、留守番電話サービスへ接続されるばかりだった。
タクシーを呼んだ。車内でいちおうふたたびかけるけれども、やっぱり出ない。何もしないで座っていることは出来ず、とりあえずおやっさんに、簡単な現状報告のメールだけ送っておいた。
蓉子のアパートに着いた。合鍵で中に入った。
蓉子が椅子に座っていた。膝に手を置き、背筋を伸ばし、少し下方を向いて。
その視線の先には、黒い封筒があった。開封されていて、中身とおぼしき紙が、隣に並べて置いてあった。
紙には、「不合格」とだけ書かれていた。
蓉子の視線は、だいたいその三文字のあたりに向けられているものの、明らかに焦点は合っていなかった。
非常にゆっくりとではあるが、呼吸もしているし、まばたきもする。
けれども、呼びかけには答えず、揺すぶっても、少し強めにつねってみても、何の反応も示さなかった。
おやっさんと二人、蓉子の収容されている病室を見上げている。
かなり長い時間、こうしていた。私よりもむしろおやっさんのほうが、未練がましく、立ち去りかねているというふうだった。
途中までは、蓉子の叔母さんもいた。もう帰られたが。
前に蓉子が、帰り道が一緒というだけのことで、お茶したこともないと言っていた女性は、彼女の叔母なのだった。
蓉子の叔母さんは、ILAの会員でもなく、「家族の会」にすら入っておられないのだったが、一人では外出のおぼつかない姪っ子の行き帰りを、送ってくれていたのだそうな。
このたび、叔母さんは、「家族の会」から、こう言われたそうだ。
――もちろん、今はまだそんな余裕も御座いませんでしょうし、あなた自身の心のケアが必要な時です。ですが、このままではなにぶん、お金がかかり続けることでも御座いますから、強いて申し上げますけれども、姪御さまはもう……自然に元に戻られることは御座いませんの。
それで、わたくしどもといたしましては、このような場合、あえて心を鬼にして、このようなご提案をさせていただくことになっているので御座いますのよ。
そうして叔母さんは、蓉子の身柄を《インファンティ・コーポレーション》へ預けてしまうよう、勧められた。
とりあえず、保留というかたちでいったん、断られたそうだが。
今、蓉子はベッドの上で、背筋を伸ばして座り、どこを見るでも、何を訴えるでもなく、ただただ時に経たれているということだ。
――……ともあれ、私は、今しがた聞いた内容が、どこか別の世界の、何か別の生き物の、まるで関係のない話であったかのような気分なのだった。
実際、こうして病室を見上げて立ち続けているうちに、こうして冷たい風に吹かれているうちに、ごちゃごちゃした情報や重々しい衝撃は、ある種の視野狭窄に陥らなければ見え得ない小事・他人事として、抜けて行ったような気がする。
そもそも、「家族の会」と我々とは、根本的に断絶するものがあるので。――然り。彼らの言ったことなんぞ、アテにもクソにもならないのだから。
とそこへ、おやっさんが、誰にともなく、つぶやいた。
「――何でもかんでも、見てしまうのが人間の弱さだ。あまりに見過ぎる現代だ。見ないでおくべきこともあるんだ……」
これは、聞き捨てならないことだった。いったいどういう意味なのか、既に半ば判然としていることを、私は問いただした。
おやっさんは、白状するように言った。自分も、黒い封筒を受け取ったことがあること。しかし見ないふりして、やり過ごして来たこと。
年々、それが混じる割合の増えていること。このごろは、むしろ、そちらのほうが多いくらいですらあること。
「しかし、時さえ経てば必ず、白に戻るんだ。――何でもかんでも、むやみに確かめてみないほうがいいこともあるんだ……」
「それは、みんなに、あることなんですか」
尋ねると、おやっさんは、苦々しい顔で、中途半端にかぶりを振った。
「わからん。このことについては、誰も、ハッキリとは言わんのでな。――しかし、おそらく、ある程度長い人においては、たいがいあることだと思うよ」
「どうして教えてくれなかったんです」
と私は、詰め寄った。
「おやっさんもそうなんだって、誰にもあることなんだって――そのことを知っていれば、蓉子はもっと気楽に対処出来たはずだ。きっと開封なんかしなかったんだ!」
おやっさんは、ただただしょぼたれて、
「――人に話すのが、怖かったんだ……」
と言った。
私の苛立ちは、半ば以上、自分自身に向けられたものだった。あの時、私にも黒い封筒が来ていたこと、しかし放置していれば解決したことを、ハッキリ言ってあげていたら、結果は違っていたはずだったから。
しかし今、ともあれ私の視野に映ずるおやっさんは、どうしようもないほど、くすんでいた。
彼がこんなに小さく見えたことはなかった。
果物ナイフを懐中に忍ばせて、出発した。
あれはいつのことだったか、何とも中途半端な突撃をしたことが、今や懐かしく思い出される。
しかし今度は本気だ。願わしいのは、あのニヤニヤした面接官たちのうちの誰かだが、見つからなければ、誰でもいい。サイアク受付嬢のお姉さんでも、清掃員のオバサンでも。
人質に取り、「蓉子を元に戻せ」と命ずるばかりだ。
従わなければ暴力に訴えるまでの話だ。
そんな方法で成功するのか、それでほんとうに目的が達せられるのか、そのようなことを考えていては、何もやれないのである。
何はともあれ、行動するのみだ。
かくして私は、異様なほど冴え渡った頭で以て、敢然と歩いて行った。
ところが、どういうわけか、《インファンティ・コーポレーション》に、どうやってもたどり着かれないのである。
タクシーは、《インフィニティ・コーポレーション》にばかり行き着くのである。
何度も駅に戻っては、新たにタクシーを拾い直した。《インファンティ・コーポレーション》までお願いします。どのドライバーも、うなずいてカーナビに入れる。しかしその際、首を傾げることもなく、右折・左折のGも尋常、距離も料金も尋常で、《インフィニティ・コーポレーション》に到着するのだった。
さてはと思って、《インフィニティ・コーポレーション》までお願いしますと言ってもみたけれど、やっぱり《インフィニティ・コーポレーション》に運ばれるばかりなのだった。
とうとうタクシー運転手が二巡目に突入して、それ以上挑戦し得なくなった。
極限まで張り詰めていたものも、そろそろ限界だった。明日、ストリートビューで確認し直して、今度は徒歩で挑もうと決め、帰宅した。
帰って来て、郵便受けを開けると、色とりどりの封筒であった。
それは目もあやなる催促状・督促状の山であった。
印刷されている差出人は、電力会社、ガス会社、水道局、心療内科、歯医者、債権回収会社、法律事務所、市役所、裁判所――……
ちゃぶ台の上にずらりと並べられた、それらカラフルな封筒を眺めているうちに、ふと、クローゼットの扉の隙間から、やわらかな香の漂って来る心地。
くだんの封筒の、急に優しい黒さであった。
私は駈け込むようにクローゼットを開けた。途端にざあっと雪崩れ込んで来る無数の白の中にまばゆいほどに神々しい一通の黒、拾い上げ、鋏で以て封を切る。
中には一枚の紙が入っていた。
嗚呼、聖なる紙だ。免罪符や、不起訴処分告知書のごとき、たった一枚のぴらぴらしたもので、人間一人を生かすも殺すも自由自在な――……
私は妙に落ち着いた気持ちで以て、指を差し入れ、ゆっくりと取り出すと、そこに書かれてある三文字を読んだ。
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