新しいものは必ず嘲笑を受ける。
逆に、その時代においてもっともらしくみえるものや、いかにもそれらしいものというものに、人は納得し、拍手を贈るが、まさにそれこそ愚鈍である。
でも、こういう何度も繰り返し言われて来たことも、その身にならないとわからないものだ。
人はいつも自分は賢者の側にいて、愚者の側にはいないと思っている。
いまさらガリレオを凄いというのは勝手だが、当時においてガリレオを凄いというのは、現代において単に天動説を信じるというのと同じ位、奇異なことだ。
世の中には実に選民とでもいうべき人々があり、これは、民族であるとか、地域であるとか、全然関係がない。
新しいものに生れつき目を開かれている人と、そうでないひとがいるだけだ。
当時においてコペルニクスやガリレオを批難していた愚鈍とは、現代において、地動説を無為に信じる民のことである。
世の中はたいていそのようになっている。
さらに難しいことには、その時代においていかにも最先端で新しい知見とみえるものは、実際には、最も強いイデオロギーの産物でしかない。だから、愚鈍の民は、そういうものを、「新しいものだ、すごい」と礼賛する。
逆に、本物の異端は、その後正統になるのだが、それは当時においては凄まじく奇異に見える。アルトーを今更評価することは簡単だし、ロートレアモンやマルドロールの歌を今更聖書のように扱うこともまた簡単なことだが、当時においては文字通り狂気の沙汰だったと言って差し支えなかろう(少なくとも大学的な正統に入るものではなかった)。
真実の道を行くことは並大抵のことではない。これも何度も言い古された言葉であるが、真である。人と違うことをする(「新しいことを言う」なんてつまらないことじゃなくて、マジで新しいこと、世界の神秘や核心に触れてしまうようなこと)というのは、本当に、並大抵のことじゃできないね。
もちろん、そもそも、並大抵の人のくだらない脳味噌には、「新しいこと」も「革新的なこと」も思い付かないのだがね。
ほとんどの人は「それらしいもの」を求めて妥協の道に入る。
ここでいうほとんどの人というのは、九分九厘というほど「ほとんど」の人だ。八分というレベルじゃない。残りの一厘の人にしかそもそも「理解」さえできない。本当に新しいものは。
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