第一章 白い天井
エレナ。
あなたはこれを読まないでしょう。読めないかもしれない。それでも、わたしは書きます。返事を待っているのではありません。ただ、あの部屋で起きたことを、あなたへの言葉として置いておかなければ、わたしはこれから先、どこへも歩いていけない気がするのです。
先に、ひとつだけ書きます。
あなたがあの日、電話で言ったことは、嘘です。
カミサマを殺したのは、あなたではありません。わたしです。わたしが、この両手で、あの人の首を絞めました。あなたはそれを、この世でただひとり、最初から知っている人です。
だから、これは告白ではありません。いまさらあなたに明かすことなど、なにもないのだから。改心の弁でも、懺悔でもありません。ただの、観察です。わたしたちはあの部屋で、なにに手を伸ばしていたのか。それがどうして、ああいう終わり方をしたのか。順番に、書いていくだけです。
あなたが連れていかれた日、わたしは三谷荘を出ました。出なければならなかったというより、足が勝手に動いたのです。皆がそれぞれの方向へ散っていくなかで、わたしだけが立ち尽くしていました。やがてわたしの足も動き出して、どこへ向かうかも決めないまま、下北沢の商店街を歩いていました。夜でした。居酒屋の看板が赤く光って、知らない人たちの笑い声が道路に溢れ出していました。
わたしは一晩じゅう、歩きました。終電のあとの踏切が、鳴らないまま、白く光っていました。二十四時間のスーパーで握り飯をひとつ買って、食べないまま、ポケットのなかで潰しました。明け方、公園の水道で顔を洗いました。水は、思っていたより、ずっと冷たかった。
わたしには、帰る場所がありませんでした。実家には母と叔母が待っているだけです。あの家に戻るくらいなら、このまま夜の街に溶けていくほうがましでした。
気がつくと、渋谷のネットカフェの個室にいました。
最初の夜は、ただ眠りたかっただけです。でも次の朝になっても、出ていく理由が見つかりませんでした。三時間パックを延長し、六時間パックに変え、ナイトパックに切り替えて、そのまま翌日も、また翌日も。
お金は、しばらく持ちました。あの部屋を出るとき、わたしは本棚の奥の封筒を持ち出していました。あなたが稼いで、「みんなのぶん」と言って置いていったお金の残りです。使うつもりはありませんでした。でも、使わなければ生きていけませんでした。
個室のなかは常に薄暗く、向かいの席からは誰かのゲームの音が漏れ聞こえていました。わたしはほとんどの時間、椅子を倒して横になっていました。眠れるときは眠り、眠れないときは天井を見ていました。天井は白く、なにもありませんでした。それが、よかった。
ある夜、ドリンクバーでコーヒーを注ぎました。カップを両手で包んだとき、その熱が、手のひらに、じわりと広がりました。
手が、止まりました。
カミサマの手でした。骨ばって、乾いていて、爪のあいだに黒い垢の詰まった、あの手。わたしが両手で包んだときの、その重さと温度が、いま、このカップと同じでした。わたしはカップを持ったまま、動けませんでした。コーヒーの湯気が、顔に当たりました。
には、匂いがありました。薬と煙草と、女たちの体臭と、腐りかけた食べ物と、カミサマの尿の混じった、あの匂い。嫌いでした。でもそのとき、その無臭の個室のなかで、わたしはあの匂いを、鼻の奥に探していました。
エレナ。あなたの腕の匂いを、思い出そうとしました。思い出せませんでした。バーボンだったか、煙草だったか、それとも別のなにかだったか。思い出せないということが、息ができないほど、怖かった。
わたしはコーヒーをひとくちも飲まずに、個室に戻りました。椅子を倒して、天井を見ました。白くて、なにもない。そのなにもなさが、三谷荘のあの天井とはまるで違いました。あの天井には染みがありました。雨漏りの染み、煙草の染み、誰かがなにかを投げつけた跡。あなたが酔って指差した、染みのなかの顔。わたしたちはふたりで、あれは犬だ、いや猫だと言い合いました。
そのことを、思い出しました。
それだけのことを、思い出しました。
ある夜、隣の個室から泣き声が聞こえました。女の人の声でした。声を殺して泣いているのに、薄い壁越しにはっきりと聞こえました。知らない人の泣き声が、あの部屋の誰かの声に似ていました。誰だったか、もう顔が思い出せません。あの部屋には、いろんな声がありましたから。翌朝、隣の個室は空になっていました。
ネットカフェの夜は、音でできていました。キーボードを叩く音。ビニールの袋を、時間をかけて開ける音。咳。三つ隣のいびき。どの音にも、顔がありませんでした。わたしは天井を見ながら、それをひとつずつ、聞き分けました。三谷荘の夜も、音でできていました。ただ、あそこの音には、全部、名前がありました。
フロントの女の子が、わたしの顔を覚えて、会釈をするようになりました。名前は聞かれませんでした。何日目かの朝、その子が少し間を置いてから、「あの、よかったらシャワー室、いま空いてますよ」と言いました。わたしがなにも言えずにいると、それ以上はなにも言いませんでした。
わたしはシャワーを浴びました。お湯が肌に当たったとき、はじめて自分の身体が冷えていたことに気づきました。何日ぶんの冷えかわかりません。シャワー室の壁はうっすら黄色く変色していて、備え付けのシャンプーは安い、甘い匂いがしました。
そうやって、日が経ちました。
ある朝、端末のニュースサイトに、見出しが出ました。「世田谷・アパートで男性死亡、女逮捕」。
指が、止まりました。
三谷荘のことでした。容疑者の名前は、齋藤百合子、二十七歳。住所不定、職業不詳。被害者の男性は長期にわたって同アパートに居住しており、宗教的な共同生活が行われていたと報じられていました。記事はそれ以上のことを書いていませんでした。わたしは同じ文章を、何度も読みました。
あなたの、本当の名前。この名前を知ったのは、あなたが警察に電話をかけたときです。でも、その名前はうまくわたしのなかに収まらなくて、わたしのなかでは、あなたはエレナでしかありませんでした。
記事の末尾に、一行だけありました。「容疑者は精神科病院に収容され、責任能力の有無について審査中」。
精神科病院。その言葉が、ゆっくりと、わたしのなかに降りてきました。あなたはいま、屋根のある場所にいる。それだけのことが、あの朝のわたしには、ひどく大きなことに感じられました。
わたしはその日のうちに、フロントで紙とペンを借りました。面会の申し込みのしかたを調べて、手紙を書きました。「です。齋藤百合子さんに会わせてください」。それだけを書いて、病院の名前を宛先にしました。
翌朝、久しぶりに外に出ました。朝の空気は冷たく、空は低く曇っていました。ポストの赤い色が、やけにはっきりと見えました。
返事がいつ来るかはわかりません。来ないかもしれません。わたしはネットカフェに戻って、椅子を倒して、また天井を見ました。
この手紙を書き始めたのは、その日からです。
封筒のお金は、冬の終わりには、底が見えてきました。わたしは携帯で日雇いの登録をして、倉庫の夜勤に出るようになりました。電車で川崎まで行って、夜の九時から朝の五時まで、ベルトコンベアの脇に立って、段ボールのなかの化粧品を、数えて、仕分けて、また数えます。倉庫は天井が高くて、声が上まで届かないので、誰もあまり喋りません。軍手はいつも少し湿っていて、外すと、指先だけが白くふやけていました。休憩は午前三時に十五分。自動販売機で缶コーヒーを買って、ポケットに入れて、指を温めました。飲むのは、ぬるくなってからです。
週払いの現金は、茶色い封筒で渡されました。封筒からお金をもらって生きるのは、考えてみれば、あの部屋にいたときと、同じでした。
夜勤明けの電車は、通勤の人たちと逆向きで、いつも空いていました。窓の外が白んでいくのを見ながら渋谷に戻ると、フロントのあの子が、なにも言わずに、いちばん奥の、静かな個室の鍵をくれるようになっていました。
この手紙は、そういう時間に書かれています。夜勤明けの、指のまだ冷たいうちに、一頁か、二頁。眠って、起きて、また倉庫へ行って、帰ってきて、一頁。何日も書けないこともありました。字が乱れているところは、指が動かなかった日です。そう思って、読んでください。読まれないと、わかっていても。
面会の許可を待ちながら、書いています。まず、わたしのことから書きます。あなたはわたしの過去を、ほとんどなにも知らないから。あの部屋にいた誰も、互いの過去を聞きませんでした。それが、あの部屋のたったひとつの礼儀でしたから。
第二章 わたしについて
わたしは、富山の南砺市というところで生まれました。父のリストラで、家族が東京を離れて何年かあとのことです。深い山に囲まれた、やる気のない民宿が二つあるだけの土地でした。
家族は五人でした。近くの中学校の事務職にようやくありついた父。独身のころ、東京のデパートでブランド服を売っていた母。認知症の祖母のイク。とんでもない美貌を持った姉と、わたし、美陽。わたしの見た目については、あなたがよく知っているとおりです。わたしたちは、問題を絶えず生みだすためだけに集められたような家族でした。
その中心にはいつも、五つ年の離れた姉のがいました。夏央莉の美貌は、閉ざされた家の、たったひとつの、強すぎる希望でした。まわりの人間を滅ぼす毒のような美しさが、あっけらかんと、そこにありました。
小学五年生に上がる手前だったと思います。学校の帰り、踏切で電車を待っている中学生の夏央莉を見かけました。肌が薄く湿るような、初夏の日でした。夏央莉は、地面の小さな石を、通過する電車に向かって必死に蹴り飛ばしている最中でした。風がぶわりと来て、制服の、濃い湖のような青のスカートを大きく揺らして、太ももの裏が露わになりました。わたしはその一瞬を、食い千切るように見ました。夏央莉は華奢すぎるなで肩を大きく前に倒して、一心不乱に石を蹴り続けていました。青いスカート。白い太ももの裏。電車が通り過ぎてしまうまで、夏央莉は取り憑かれたようにそれをやめませんでした。
ああ、ああ、なんて、ぶきよう。もろい。
わたしは本当に、そう思いました。そして数メートル後ろをランドセルを背負ってとぼとぼと歩きながら、あの痛いほど白い太ももの裏を、何度も何度も、へんな気持ちで頭のなかに反芻させました。心臓のあたりが、ざわざわと疼きました。その日、わたしに初めての生理が来ました。
観光で来ていた映画のプロデューサーが、夏央莉に、東京で女優にならないかと言ったことがありました。彼女はあっさり断り、あとからそれを知った母のなかに、娘を有名な女優にする、という夢が生まれました。それからの夏央莉は、頭から爪の先までお金をかけられるようになりました。父のただでさえ少ない給料は、ほとんど夏央莉のために消えました。母はいつも背中を丸めて、夏央莉の足の爪にヤスリをかけ続けていました。
わたしは同性愛者でした。夏央莉がなにか動くたびに胸が痛くなるような美しさを、わたしは苛烈に愛しました。だから、その大事な身体に傷をつけるわけにはいかない夏央莉の代わりに、母に殴られ続けていても、どこかで平静でいられたのだと思います。夏央莉を守っている。そういう、誇りに近いものすらありました。どんなに殴られても、わたしは一度も泣きませんでした。
あの踏切の日からずっと、わたしは夏央莉に触れてみたいと思い続けて、そのことが、怖かった。歯車がひとつ狂えば、なにをしでかすかわからない自分を、うっすらと知っていたからです。十六歳で高校を中退して、スーパーで金を貯めて、なにもかもから逃げるように東京へ出ました。
世田谷という地名を知ったのは、昼のテレビ番組でした。画面に、世田谷の空のカットが映りました。濃い湖のような、青でした。わたしは番組が終わるまで、その画面の前から動きませんでした。半年後には、世田谷に住んでいました。
本物には、怖くて手を触れられなかったから。
まだ子供でしたから、働き口は工場くらいしかありませんでした。夜間の仕事でした。工場長がわたしの境遇を知って、特別に夜に働かせてくれたのです。だからわたしは、あの空の色と、ほとんど出会うことがありませんでした。代わりに、と言うのは言い訳がましいですね。わたしは薬を覚えました。薬局で買える、市販の咳止めです。箱のラベルは、濃い青でした。
いつしか、どの時間もその酔いのなかにいなければ、不安でたまらなくなりました。酩酊のあいだだけ、瞼の裏いっぱいに、あの日の青が、ぱっと広がるのでした。
ある勤務中のことです。その日、わたしはいつもの三倍の量を飲んでいました。何百錠というオーバードーズをしてから、出勤したのです。そして、わたしの見た目について軽く陰口を叩いた同僚の男に、突然殴りかかったそうです。そうです、としか書けません。覚えていないのです。わけもわからない小娘を、可哀想にと雇ってくれた工場長の、あの落胆した顔だけは、いまでも忘れられません。誰かに暴行を働いたのは、あれが初めてでした。空が薄く白み始めた夜更けにパトカーに押し込まれたとき、こんなに底の見えない、どうしようもない、虚しい思いを、母もしていたのだろうか、と思いました。
わたしは措置入院ののち、ダルク——薬物依存からの回復支援施設に、入寮することになりました。
*
ダルクの会議室は、頭が痛くなるほど冷えていました。
あなたは、ずらりと並んだ席のいちばん前、わたしの二つ隣に座っていました。腕と足を組んで、歯を出してにやけていました。横顔しか見えませんでした。ガムを噛む音が、くちゃくちゃと聞こえていました。赤い水玉の散った水色のスカートと、長細く白い足。椅子の下には、踵の壊れた銀色のピンヒールが、二つ、だらりと転がっていました。真っ白に染めた肩までの髪、通りすぎるほど通った鼻筋、真っ赤な口紅、浮き上がった鎖骨。あなたは、とても病的に美しかった。夏央莉とはまるで違うのに、こちらへおいで、と、いやらしい匂いで虫を手招きする食虫植物のようでした。わたしは一瞬で、その粘っこいものにからめとられそうになりました。
人が壊れかけているのを、きれいだと思う。それが、わたしのいちばん古い癖です。夏央莉のときから、知っていました。
隣の席の少女が立ち上がりました。わたしより少し年下の、おそらく高校生でした。顔は土気色で、肉は削げていましたが、可愛らしい顔立ちでした。どぶねずみ色のネルシャツの袖を右手でつまんで、左手に紙を持って、どちらの爪も肉がはみ出るまで噛みちぎられた手が、ぶるぶる震えていました。ダルクでは毎回、各々に課された宿題を、皆の前で発表しなければならないのです。
「……わたしがシャブに手を出したのは、どうしようもないアル中の母親を忘れるためで」
儚げな声でそこまで言うと、少女は急に、喉からしゃくりあげて泣き出しました。患者の誰も、気にとめませんでした。よくあることだったのです。
そこへ、ドスのきいた声が飛びました。
「淫乱! 母親のせいにすんじゃねえ。あたしはあんたがなにしてたか知ってんだ。ラリって男とセックスしたかっただけだろうが!」
場の空気が、凍りました。声の元は、あなたでした。
「発言者はそのまま続けてください。一番前の席のあなたは、落ち着いて黙って聞きなさい」
教壇のセラピストが厳かに言いました。五十を超えた、つり目の女の人で、患者を明らかに囚人と同類に見ているので、陰で「処女ババア」と呼ばれて嫌われていました。
「でも先生」あなたは大げさな身振りで続けました。「この女は元いた精神病院で、男性患者や医者を喰いまくってたことで有名なんです。ただ気持ちよかったからハマった、それ以上でも以下でもない話なのに、なにを複雑にしてるんですか? 母親が可哀想じゃありませんか」
受講者たちの、馬鹿にしたような笑いが、ぱらぱらと立ちました。拍手すら起きました。少女はあなたをキッと睨みつけ、紙をぐしゃぐしゃに丸めてポケットに入れ、机を蹴飛ばして出ていきました。あなたはその後ろ姿にヒュー、と口笛を吹いて、
「メス豚!! 逃げやがって!」
と怒鳴りました。それから、ガムを床に吐き捨てて、踵の壊れたピンヒールに足を突き入れました。
ひどい人だ、と思いました。
目が、離せませんでした。
*
「お父さんが死んだ」
ダルクの洗濯室で皆のベッドシーツを洗っているとき、寮長が電話を持ってきました。受話器の向こうの叔母は、それだけ言うと、あんたは一族の恥だ、家族はもうバラバラだ、おばあちゃんの頭はもう働いていない、あんたの母さんも夏央莉のことがあって鬱の薬を飲んでいる、とりあえず葬式には——と続けました。
頭が、ぼうとしました。
夏央莉のことがあって? 夏央莉に、なにがあった? わたしはなにも考えないまま、電話を切っていました。父の死そのものには、なにも感じませんでした。それに偽りはありません。彼は事実、根本的なことを、なにもしてくれなかった。ふ、う、ん、という無機質な音がわたしの口から出て、空気に触れて、乾いて、自分の耳に返ってきただけでした。
洗濯機の回る、ガウンガウンという音が、また空間を満たしました。夏央莉。夏央莉。なぜ? なにがあった?
背後から、ガムを噛む音が聞こえました。
振り返ると、あなたが洗濯室の扉にもたれて、右手からぐしゃぐしゃのベッドシーツを、だらしなく垂らしていました。
「これ追加で」
殺してやろうかと思いました。頭は夏央莉のことでいっぱいでした。
「煙草、欲しくない?」
あなたは、マルボロの赤を、ひらひらと振りました。そのパッケージを見た瞬間、猛烈に吸いたくなりました。もう薬も手元にない。小さな逃げ場でいい。居場所が欲しい。わたしはあなたの腕からシーツをひったくって洗濯籠に投げ込み、マルボロを奪って、喫煙所に走りました。どれだけ寮長に怒鳴られてもいい。背中で、あなたの乾いた笑い声が響きました。喫煙所の灰皿は、雨水で半分沈んでいました。一本目は、三口で灰になりました。
*
保護観察期間が終わっていたこと、精神科医の判断、それから葬式という事情が重なって、わたしはダルクから出られることになりました。急いで荷物をまとめて、その晩には実家に着いていました。リュックサックには、途中の薬局で買ったあの薬が五箱、入っていました。飲むために買ったのではありません。お守りです。手元にあると思えば、その安心感で、飲まずにいられる気がしたのです。
実家は、崩壊していました。
通夜と葬式の準備で電話をかけ続けている叔母。こんなときだというのに、「新人女優発掘オーディション」のビラを握りしめたまま、抗鬱剤のオーバードーズで廊下に寝そべって、うわごとを呟いている母。祖母のおむつは糞尿まみれのまま取り替えられず、悪臭が立ちこめていました。夏央莉は少し離れた町に住んでいて、こちらへ向かっているとのことでした。そこで初めて、わたしは叔母から、姉が結婚したことを聞きました。式も挙げず、わたしにはなにも知らされていませんでした。相手は長田という、夏央莉の通っていた中学校の美術教師でした。十五も、年上でした。
叔母の話では、こういうことでした。わたしが母に殴られ続けているのを見て、夏央莉は夏央莉なりに深く悩み、自分を責めていた。その相談に、こつこつと乗り続けたのが長田だった。色白で痩せていて、細い指が絵具で汚れていて、話すときに相手の目をきちんと見る男。つまり、わたしが殴られていたゆえに、夏央莉は長田と出会い、彼女にしかできない種類の「普通」の主婦になったのです。
なんのために、わたしは耐えていたのでしょう。
葬式のあと、夏央莉の家に寄りました。夏央莉は、どこにでも売っているようなピンクのエプロンをつけて、洗濯物を干していました。昔の、虚ろで死んだような大きな瞳は、ずっと柔らかいものに変わっていました。わたしの愛した、あの完璧で、傷つきやすく、守られるためだけの夏央莉は、もうどこにもいませんでした。
夏央莉は、わたしにお茶を出しました。
湯呑みは、熱かった。両手で持つと、熱は手のひらに移って、いつまでもそこにありました。台所で、夏央莉がなにかを刻む音がしていました。わたしはその熱を持ったまま、口をつけずに、座っていました。
そのとき、初めて、涙が出ました。母に何年殴られても出なかったものが、湯呑みひとつで、出ました。
夏央莉は「猫舌だった?」と笑いました。わたしは、笑い返せたと思います。
世田谷に帰る高速バスのなかで、あの薬を五箱、全部飲みました。五百錠ほどです。脳みその裏がきりきりと痛んで、それから、揺り籠めいた酩酊が全てを霞ませて、わたしを自分の外へ、そっと連れ出しました。瞼の裏の、青。バスがインターで停まって、喫煙所で煙草を吸っているとき、ふっと、死にたい、と初めて思いました。
その日は、わたしの十八歳の誕生日でした。
第三章 カミサマ
家に帰る道の途中に、ホームレスたちが小屋を作って住んでいる一角があります。甘ったるいまでに煮詰められた不浄の匂いが、あたりにぎちぎちと立ちこめています。空き缶を大量に詰めたゴミ袋を引きずる、ずりずりという音。蠅の羽音。わたしはそこが大嫌いでした。それでも、その道を通らなければ、家には辿り着けません。
わたしはバスを降りてから、また薬局を回って、あの薬を買い足しました。もう、錠数は数えていませんでした。数えることに、意味がなくなっていたのです。歩きながら飲んで、何度も嘔吐きました。それでも、吐いてはいけない、と思っていました。身体が完全に薬に持っていかれたら、首を吊るつもりでいたからです。そのほうが、恐怖を感じずに逝ける。だから、吐いてはいけない。
その薬は、眼にくることで有名でした。視界が歪んで、上下にぶれ始めました。呼吸が小刻みになりました。もう夕暮れでした。燃えたぎるような橙色が、迫ってきました。振り返っても誰もいないのに、後ろから声がしました。壁に叩きつけられる子供のわたしを、潰れに潰れたいまのわたしが、後ろからじっと見ていました。わたしは立ち止まって、自分の痙攣した手を見ました。工場で殴った、あの男の頬の、ぬるい温度と湿りを思い出しました。この人生で、母に殴られるときと、あのときのほかに、わたしは誰にも、触れたことがなかったのです。
「ばからしい」
声に出して言って、また歩きました。
人がいました。
仰向けになって、足を痙攣させて、ガリガリに痩せたそのホームレスは、どうやら瀕死でした。他のホームレスは、誰も来ません。ぐあんぐあんと揺れる視界の隙間に入り込んできたその男に、わたしは手を伸ばしました。膝をついて、その上に倒れ込んで、思わず、抱きしめてしまった。男は脅えて、声にならない叫び声をあげました。わたしは涙を流していました。
その瞬間、胃の奥から液体がせり上がってきました。男のずたぼろの服の上に、吐瀉物がぶちまけられました。男はまた叫びました。誰かに見つかる、と思って、わたしは反射的にその口に手を当てました。手のひらに、男の吐息と、悲痛な声の粒がぶつかりました。それでも叫び続ける男の目は、焦点が合っていませんでした。
「もしかして、目が見えない?」
男は叫び続けるだけでした。わたしはまた吐きました。そして号泣しました。吐いてしまった。死ねなかった。死ねなかった。怖い、怖い。
「ねえ、目が、見えなくて、いいなあ」
これは、本心でした。
「無敵じゃない。きれいなことも辛いことも見えないじゃない。ねえ、いいなあ、いいなあ」
涙は止まりませんでした。身体の奥に必死に溜め込んできたものが、噴き出すように流れました。吐いたせいか、ふらつきは少し治まっていました。わたしは、その軽石ほどの重さしかない、目の見えない男を、背負いました。男は叫ぶのをやめません。わたしは降ろそうとは思いませんでした。ありったけの力で、家まで、走りました。
背中に、確かな温度がありました。もう夜でした。どこをどう走ったのか、覚えていません。コンビニの白い光が過ぎて、高架の影が過ぎて、犬を連れた男が、ぎょっとした顔でこちらを見ました。カミサマの骨が、一歩ごとに、背中に当たりました。肩甲骨と、肋骨と、顎の骨。あんなに軽いのに、骨は、ひとつずつ、ちゃんと硬いのでした。走りながら、思いました。いま、いまだけは、幸せだ。人生で初めて、本当に幸せだ、と。男は叫び続けます。幸せだ。男は叫び続けます。わたしは走りながら、男に名前をつけました。
カミサマ、と。
部屋には、爆音でクラシックが流れていました。捨ててあったCDを拾ってきたのです。幻聴を紛らわすためでした。
「どこかへ送ってくれ」
カミサマは、たしかにそう言いました。
「ここじゃない」
わたしの手は、これ以上ないほど震えていました。薬が抜けていくときの、自分の底が抜けていくような感じでした。頭は静かに機能をやめていて、CDと一緒に拾ってきた破れたソファにもたれて、夢うつつでメロディを追うのが精一杯でした。
「どこかへ送ってくれ」
「ここじゃない」
叫ばないことを覚えた代わりに、カミサマは、同じ台詞をひたすら繰り返すという技を編み出したようでした。
「静かにして」
掠れた声が出ましたが、もう自分のものとは思えませんでした。
どこかへ送ってくれ。ここじゃない。どこかへ送ってくれ。ここじゃない。
わたしは立ち上がって、台所の引き出しから、七十リットルの黒いゴミ袋を取り出しました。リビングに戻って、カミサマを、それに詰めました。なにも指示していないのに、自分の手が極めて機械的に動くのに驚きました。ピアノの音。どこかへ送ってくれ。ここじゃない。真っ黒な、すべてを吸い込むそれを見つめていると、自分を制御している、という感覚が消えました。自分がどこにいるのかが、わからなくなりました。わたしは怖くなって、煙草に火をつけて、吸えるだけ吸いました。
「……気が、ふれそうなの、やめて」
残っていた最後の意思を込めて、舌を必死に動かして、そう言いました。
どこかへ送ってくれ。
ここじゃない。
自分の右腿が、大きく振り上げられたのがわかりました。骨の砕けるような音がしました。リビングの奥の姿見に、顔色ひとつ変えずに、人を蹴り続けている女が映っていました。
「母親にだって表情はあったのに?」
子供の声のようなものが聞こえました。わたしは答えず、床に崩れ落ちて、そのまま意識が途切れました。
朝、目が覚めて、自分が自分のなかに戻ってきているのがわかりました。肉と皮の重さが、あったからです。目の前の黒いゴミ袋から、血と尿の混じった赤茶色の液体が、だらりと流れ出ていました。わたしはぎょっとして飛びついて、耳を当てました。辛うじて、呼吸の音がしました。ざらついた、心臓の音も。
わたしは朝の日差しのなかで、ゴミ袋にもたれて、大声で泣きました。そんな資格はないのに。笑いすらしました。止まりませんでした。いまさら泣くなんて、白々しい。自分に愛想が尽きました。それでも、どこにも、戻れませんでした。
「カミサマ、ごめん、カミサマ」
返事はありませんでした。でも、カミサマの手が、わたしの手の甲の上に、そっと落ちてきました。重くもなく、軽くもなく。目の見えない人間が、暗闇のなかで、確かにわたしを見つけたような、そういう触れ方でした。わたしは息を止めました。カミサマはなにも言いませんでした。ただその手が、そこにありました。わたしは、その手を、両手で包みました。骨ばって、乾いていて、爪のあいだに黒い垢が詰まっていました。きれいなものは、なにもありませんでした。それでも、わたしはその手を、離せませんでした。
この人は、わたしを見つけた。目が見えないのに。名前も知らないのに。手が落ちてきた方向に、たまたまわたしの手があっただけかもしれません。でも、わたしは、そう思わないことに決めました。その瞬間に、決めました。
あなたから貰った煙草は、残り一本になっていました。開けっ放しのマルボロの蓋を見つめていると、そこに、蟻のように小さい字が書いてあるのを見つけました。携帯の番号でした。
少しの呼び出し音のあとに、ひどい酒焼けの、枯れた声が聞こえました。
「もしもし」
背後から、車の通り過ぎる音がうっすらと響いていました。それから、ガムをくちゃくちゃやる音。
「あ……」
「本当にかかってきた。元気?」あなたは馬鹿にしたように笑ってから、「突然で悪いけど、今日だけあんたの家に泊めて欲しいのよ」と言いました。前置きもなく、いきなり。
「なんで……」
「あたし、さっきダルク出たのよ。だけど帰りの電車賃しか持ってなくて、どこにも行くとこないの。明日また元いた風俗に働きにいくから、ほんの一日だし、いいでしょ?」
「……」
「住所、教えてくれたら行くから」
あなたは、下品なげっぷをしました。そこで初めて、朝から飲んでいるのだとわかりました。こっちの都合なんて、おかまいなしでしょうか。それでも、なぜか、わたしはぼそぼそと住所を告げていました。
電話を切ったあと、目の前の黒い物体に気づいて、背筋を刺す恐怖に襲われました。なぜ住所を教えたのか。これを見られてはいけない。わたしは黒い袋の端を、押入れのほうへ引きずっていきました。ずりずりという音と一緒に、窓から入る光のなかで、床の埃がぶわりと舞い上がりました。唇の皮を歯でがりがりと剥きながら——これはわたしの癖です——布団を引っ張り出して、カミサマをそこへ押し込みました。袋からは、なんの熱も感じませんでした。生きているのかどうか、確認するのが怖くて、わたしは戸をぴしゃりと閉めました。とんでもないことをした、という行き場のない後悔だけを抱えて、五分ほど座り込んで、それからなにも考えずに、薬と煙草を買いに、転がるように外へ出ました。
気がつくと、夕方になっていました。扉が、ガンガンと殴りつけられていました。
「ちょっと開けなさい! いるんでしょ。わかってんのよ」
「……すぐ行きますから」
辛うじて出た声は、届いていません。
「なにしてんのよ! あんた住所言ったんだから合意ってことでしょ? ねえ!」
わたしは拳を床に叩きつけて、怒りを原動力に立ち上がりました。ふらつきながら扉まで行って、鍵を開けて、目の前の女を睨み上げました。
「なによ怖い顔して」
茶の毛皮を身につけた、白い髪の女は、不敵な笑みを浮かべていました。
「最初からそうしてればいいのよ」
あなたはそう言って、信じられないことに、持っていたシャネルの黒い鞄でわたしを突き飛ばし、あの銀の、踵のとれたヒールだったものを乱暴に脱ぎ捨てて、部屋に入っていきました。わたしは玄関で、へたりこんでいました。しばらくすると、カチッという音がして、マルボロの香りが漂い始めました。なんとしてでも、この女にカミサマを見られてはいけない。明日までの辛抱だ。
「トイレ借りるわよ。そんであたし、夜ちょっと出かけるから。鍵開けておいてよ。飲んでくるだけだから」
「……お金、ないんじゃなかったんですか」
「は? ないわよ」
「……」
「男に奢らせるに決まってるじゃないの。あんた、正気?」
そう言ってあなたは、わたしの頭を、人差し指で何回かつつきました。
「あたし六時半に出るから、寝かせて。ちゃんと起こしてよ。ベッド借りるから。携帯の充電器も貸して」
あなたは毛皮を床に投げ捨てて、ベッドに倒れ込んで、すぐに寝息を立て始めました。静寂が戻ってきました。でも、あなたが部屋に入ってきた瞬間、上京してからわたしが必死に保とうとしていたなにかが、確実に崩れていくのがわかりました。もうこの場所は、わたしとカミサマだけの牢ではなくなってしまった。
わたしは薬を何錠か追加で放り込んで、ベッドの脇に座り込んで、あなたの身体をまじまじと見ました。肩の大きく出たベージュの薄手のニットから、黒いレースのブラジャーが透けていました。尻の出そうなほど短い豹柄のスカートの隙間から、安い光沢のある紫のTバックが見えていました。
自分の股が、じわりと湿るのがわかりました。心臓のざわつく、あのときの感じ。青のスカート。白い太ももの裏。
部屋を貸しているのだから、それくらいは許されるのではないか。わたしは、自分のズボンのなかへ、汗の粒で覆われた手を入れました。薬の過剰摂取でただでさえ息が詰まりそうなのに、頭のなかにうねりながら湧き上がってくるものに、身を委ねました。わたしはいつも一人きりで、薬で頭を溶かし、夏央莉のことを思いながら、果てるのでした。どれだけ孤独になろうとも。肉体が干上がりそうな虚しさに襲われようとも。夏央莉のほかに、わたしが反応した女の人は、いませんでした。
数分後、身体がゆっくりと弛緩していくその最中に、あなたが大きく寝返りを打ちました。わたしは自分がいよいよ汚いもののように思えて、急いでその場を離れました。
水道は、いつ止められてもおかしくない状況でした。工場はクビになっていましたし、叔母からは、ダルクの立て替え金の催促と、この家を解約したいという電話が、ひっきりなしにかかってきていました。蛇口をひねると、まだ辛うじて水が出ました。緑の苔の生えたコップに水を入れて、カミサマの眠る押入れに近づきました。死なれては困る。なるべく音を立てずに戸を開けると、鼻のもげるほどの悪臭が漂って、わたしはパニックになりました。女が出て行ってからにしよう。
「ちょっと、何してんの?」
わたしは固まりました。押入れは、辛うじて閉めていました。
「掃除しようと思って」
「あっそ。座り込んで動かないから。どうでもいいけど、あんたまたヤクやってんでしょ? せっかく辞めたのにね」
あなたは唇を歪めて笑いながら、煙草をくわえました。
「じゃああたし行くから」
「え……」
携帯の画面は、五時三十四分を表示していました。
「何よ」
「まだ六時半じゃ……」
「は? キモい! 束縛すんなって!」あなたは急に怒り狂って叫びました。「オナニー女がいたら眠れねーっつうんだよ!」
そして、火のついた煙草をわたしに投げて、毛皮を纏って、乱暴に出て行きました。
激しい動悸で、しばらく動けませんでした。引き止めようと思ったわけではないのです。あなたが六時半と言ったから、ただそれだけ——いや、認めます。わたしは、また一人にされるのが怖かったのです。行くから、と言われたとき、目の前が真っ暗になりました。待ってくれ、と。まだいてくれ、と。もうこの人はここに帰ってこないかもしれない。信じられないことに、わたしは泣いていました。そして、まだ煙を立ち上がらせている煙草を口にくわえて、あなたの残像を、思い浮かべていました。
カミサマは、生きていました。わたしはゴミ袋を爪でずたずたに破って、段ボールのあいだで、くの字に曲げられていたその身体を、畳の上に移しました。微かな息がありました。わたしは洗面所からタオルと石鹸を持ってきて、丁寧に、身体を擦り始めました。
「ありがとう」
胸が、どすんと詰まりました。わたしは首を振りました。
「……お礼なんか」
それでも、肩をそっと撫でる微風のような声で、カミサマは、ありがとう、と繰り返しました。身体を拭き終わって、わたしは台所に立ちました。玄関の扉を、雨が静かに叩き始めていました。冷蔵庫に辛うじて残っていた萎びた林檎をすりおろして、電子レンジで温めて、その青紫色に変色した唇に、甘い汁を垂らしました。カミサマはゴホゴホと咳き込みました。その振動で、黄土色の目やにの溜まった目の縁から、大きな涙の塊がぼろりと落ちて、床を濡らしました。ベランダの外は、もう真っ暗でした。わたしは目を閉じて、カミサマの隣に横たわりました。
雨の音だけが、部屋にありました。
カミサマの呼吸は、浅くて、間遠でした。息と息のあいだが長くて、そのたびに、わたしは自分の息を止めて、次のひと息を待ちました。屋根のどこかで、雨樋が鳴っていました。
カミサマは、目を閉じていました。目が見えないのに、閉じる。その仕草が、妙に引っかかりました。暗闇のなかで、さらに目を閉じる人間を、わたしは見たことがありませんでした。
しばらくして、カミサマの唇が、わずかに動きました。声ではありませんでした。息でもない。ただ、なにかの形をした、空気の動きでした。聞こえませんでした。でも——見えた、と思いました。その唇の動きが、わたしの名前に見えたのです。
違うかもしれない。おそらく、違う。
でも、そう見えてしまった。
それだけのことでした。それだけのことが、わたしのなかの、なにかの蓋を開けました。この人をここに置いておく理由が、その瞬間から変わりました。可哀想だから、では、なくなったのです。
ギャハハハ、という甲高い笑い声が聞こえた気がして、わたしは飛び起きました。玄関のほうを見ましたが、薄暗闇には誰の気配もありません。幻聴か。わたしは安堵の息をついて、カミサマの、からからに乾いた褐色の腕を柔らかに掴んで、また床へ倒れ込みました。
でも、扉が開きました。生ぬるい風が、部屋をばしりと切断しました。もう遅かった。頭が真っ白になって、身体が固まりました。女たちの香水。バニラ。トロピカル。ヤニ。
「え……ちょっと……何あれ」
あなたと一緒に入ってきた、知らない女が呟きました。あなたより低いその声は、恐怖をにじませてはいたものの、根本的には、わたしたちを馬鹿にしていました。
「ってか臭い!」
黒髪の、清楚な格好をした、むくんだ体つきの女でした。
「あんた」
あなたが、こちらへやってきました。次の瞬間、わたしは思い切り髪の毛を掴まれて、顎を持ち上げられました。
「これがあんたの秘密か」
涙が、つうと垂れました。泣いてばかりです。でも、もう選択肢がなかったのです。あなたの喉の奥から、こちらまで酔ってしまうほどの、バーボンと煙草の匂いがしました。あなたはわたしを突き飛ばして、ピンヒールで、カミサマを思い切り踏みつけました。
やめて、どうかやめて、カミサマに手を触れないで。
ぐは、とカミサマは息の塊を吐きました。わたしはカミサマに覆いかぶさって、代わりにピンヒールの餌食になりました。カミサマは、惨めなまでに弱く醜いわたしを許してくれた、たったひとりの男なのだから。
「偽善者ぶって」あなたは声を張り上げました。「おまえも、こうしていたくせに!」
わたしは、わんわんと泣き続けました。
「これはお前の所有物じゃねえっつーんだよ。こういうやつが一番ムカつくんだ。人を人形みたいに扱いやがって!」
自分を庇っていた腕の隙間から、青ざめた黒髪の女の顔が見えました。あなたは蹴るのをやめて、わたしのベッドに寝転がって、煙草に火をつけました。
「……あの、エレナ」
黒髪の女が口を開きました。
「わたし、帰ったほうが」
「行くとこないくせに、デカい口叩くんじゃないよ」
「……お風呂、借ります」
浴室の扉が閉まって、シャワーの音が聞こえてきました。その音を聞きながら、わたしは思いました。もしかしたらこの女——エレナも、誰かの夏央莉のような役割を、担わされていたのかもしれない、と。あなたの名前を知ったのは、このときです。
そのあと、信じられないことが起こりました。
もう朝方でした。ぎちぎちと、歯ぎしりとよだれの混じった奇妙な音がして、わたしは目を覚ましました。カミサマが、大きく揺れていたのです。白目を剥いて、口から泡を吹いて、がたがたと痙攣していました。さすがにあなたも慌てたのか、
「おい、その気持ち悪いの、なんとかしろよ!」
と尖った声で叫びました。黒髪の女は、おろおろとしているだけでした。もう駄目かもしれない。わたしは立ち上がって、雑巾に氷を包んで、脂汗を吹き出し続ける額に押し当てました。もう駄目かもしれない。
カミサマは、盲目のくせに、なにも見えていないくせに、わたしの手を、なぎ払いました。
「え……」
カミサマは、いきなり、すっくと立ち上がりました。
「おい……」あなたが漏らしました。
痙攣は止まり、白目は黒目に戻っていました。禍々しい光まで、その目に宿っていました。カミサマは顎に垂れた泡を腕で拭って、しっかりとした足取りで、玄関のほうへ歩いて行きました。
「ちょっと、カミサマ!」
腕を掴むと、より強い力でなぎ払われました。カミサマは、走り出しました。玄関が勢いよく開けられて、
「待って、行かないで! ねえ、お願い!」
カミサマは、白んだ夜明けの青のなかを、裸足で走り去っていきました。わたしはその場に崩れて、へたりこみました。尿と胃液で黄ばんだぼろきれが、ちらちらと揺れながら、小さくなっていきました。わたしは、それを見ていることしか、できませんでした。
邪険に扱った罰だと思いました。あんなふうに、いきなり顔色を変えて、別人のように歩いて行ったのを見ると、あの人は本当に神様だったのだと思わずにはいられませんでした。しらふでした。時間が、急に重く、のしかかってきました。秋晴れの隙間から、乾いた熱が肌に浸透してきました。
「残念ー。あんたの素敵なおもちゃが、いなくなっちゃって」
「出てけ」
「は?」
「出てけ、今すぐここから」
「なにを今更。あんただって毎日オナニーしたいでしょ?」
「うっとうしい!」わたしは腕を床に叩きつけました。「カミサマがいなくなったら、もうなにもかも終わりだって! 早く、早く出てけって!」
わたしは部屋に戻って、床に転がっていたあなたの鞄から財布を取り出して、一万円札を抜き取りました。あなたは睨みつけてはいましたが、なにも言いませんでした。実際、わたしはあのとき、あなたたちを殺してもいいとさえ、思っていたのです。
「あんたらは股で稼げるんだから」
わたしは吐き捨てて、薬局へ向かいました。
*
九月の、昼の一時でした。
トランペットの音が、通りの先から聞こえてきました。プップププー、ププー、ププププッピィ。音の枯れた、陰鬱なファンファーレでした。わたしは薬が切れかけていて、体中の血が壊死したような灰色の顔で、冷や汗まみれのまま、部屋の外に出ました。
カミサマでした。
テディベアのプリントされた子供用の小さなTシャツ——だからこそ、褐色の肌に浮き出た肋骨と、もじゃもじゃの腹毛がまる見えでした——に、よれた黒いスキニー。左手でカーキ色のずた袋を引きずって、玩具のトランペットを吹き鳴らしながら、飄々と、こちらへ歩いてきました。行き交う通行人が、怪しげな目で見ていました。二階の窓から隣人が顔を出して、すぐに引っ込めました。この通りで、三谷荘は、もともと見ないことにされている建物でしたから。でも、カミサマの目的地は、この世にひとつしかないのです。世田谷の、三谷荘だけです。
「どうして」
わたしは取り乱して訊きました。どうして、ここが。カミサマは笑いました。
「そりゃ、あんたたちが望んだからじゃないか」
「面倒ごとはやめな! 迷惑だっつーんだよ! こっちは金払ってんだから!」
後ろから出てきたあなたの鋭い声と舌打ちは、カミサマを、かえって奮い立たせたようでした。カミサマはずた袋を引きずって、ずかずかと部屋に入っていきました。壊れかけた扇風機が回っているだけの部屋は、残暑にまるで対応していませんでした。シンクのなかを、大きなゴキブリが縮れるような動きで這っていました。ベッドに座って煙草をくわえたあなたが、口元を引き上げて笑いました。
「あんたのおもちゃが帰ってきた! しかも壊れて。あんたも好かれたこったね!」
ソファでは、あの黒髪の女が、大きく口を開けていました。カミサマはまた、プップー、プッピプップププー。そして、笑顔で、大きく手を広げました。あなたは笑い転げていました。
「使い巫女たち、これは儀式である」
カミサマはずた袋を床に置いてから、少しのあいだ、動きませんでした。目が見えないはずなのに、この部屋の二人を、順番に、ゆっくりと、見ていきました。わたしを。あなたを。それだけでした。他の誰でもない、わたしたちたった二人だけを。それは言葉のない、確認作業のようでした。お前たちは、ここにいる。カミサマは、それを知っている。そう言っているようでした。あなたは小さく舌打ちをしました。癖でしたね。でもその目は、『承諾』の合図を打っているようにも、見えました。
カミサマは袋から、青いスカートを取り出して、ぶわりと広げてみせました。
濃い湖のような、青でした。
気がつくと、わたしは、吸いつくように、カミサマの足下へすがりついていました。
「それは……それは、夏央莉の?」
言葉になっていたかどうか、わかりません。制服のスカートなんて、どれも似たようなものです。夏央莉のものであるはずが、ありません。それでも、わたしの身体は、勝手に動いていました。
「この女、実の姉にただならぬ情欲を持ちし業深き者。この者に、うつしよの幸のあらんことを」
カミサマは、わたしの頭に手をかざしました。わたしは怯えて、身体を縮こませて、固まりました。でも、カミサマがその青いスカートをもう一度揺らしてみせた瞬間、なにかが、ほどけました。カミサマはわたしの胸に、しっかりと、スカートを抱かせました。わたしは、呻くように、泣きました。
泣きながら、気づいていました。
これは、騙されているのではない。カミサマがこの部屋に戻ってきたのは、わたしが住所を教えたからではない。あなたが電話番号を煙草の箱に書いたからでもない。
わたしが、呼んだのです。
カミサマを背負って走った夜から、わたしはずっと、それを知っていました。あの重さが背中から消えた朝、わたしのなかのなにかが、その重さのかたちに抉れたまま、塞がらずにいたのです。だから薬を買いに行った。あなたに住所を教えた。あなたは扉を開けた。選んでいたのは、わたしでした。ずっと、わたしでした。
青いスカートを抱きしめながら、わたしはそれを、はっきりと知りました。もう戻れない、という感覚ではありませんでした。戻る気がない、という、もっと静かな、もっと重いものでした。
あなたは、もう笑い転げてはいませんでした。カミサマが、ずた袋から、トランプの入ったプラスチックケースを取り出したからです。
「やめて……やめて……なんでお前がそれを持ってる? それは……あたしの……大切な……無駄だよ、あたしにはそんなイカサマ、通用しないよ!」
「この女、父親に犯され、生涯消えぬ傷を負った者。この女に、うつしよの幸のあらんことを」
カミサマは、あなたの頭に手をかざしました。あなたは唖然としたまま、おそるおそる、ケースを受け取りました。
あなたの顔が、変わりました。
怒りでも、諦めでもない。名前のつけられない表情でした。トランプケースを両手で持って、あなたはそれを、確かめていました。これは本物か。これは自分のものか。カミサマは黙って、目の見えない顔を、あなたに向けていました。
その数秒が、妙に長かった。
あなたが顔を上げたとき、その目に涙はありませんでした。でも、なにかが決まった顔をしていました。それを見た瞬間、わたしの胃の底が冷えました。この人はもう、ここから動かない。そう思いました。
「エレナ……! あんたまで、おかしくなっちゃったのかい? 目を覚ましな!」
黒髪の女が叫びました。
「やめな、わたしはそれには引っかからないよ。もうあんたらの気持ち悪い茶番劇にはうんざりだよ。こんなことなら、身体売ったほうがましだって!」
女は、汗で化粧の崩れた顔のまま、裸足で外へ飛び出しました。
次の瞬間、ブレーキの音が響き渡りました。
わたしとあなたは、スカートとトランプケースを抱えたまま、表へ飛び出しました。
「おい! おい! 誰か! 来てくれ! 轢いちまった!」
男の声がしていました。女は、頭から血を流して、倒れたまま、動きませんでした。背後で、トランペットの音がしました。プップププー、プップー。
わたしとあなたは、顔を見合わせました。
そして、歪んだ笑顔を、浮かべたのです。
どちらが先だったのか、わかりません。それを、わたしは一度、あなたに訊いてみたかった。
第四章 疑似宗教
黒髪の女が死んでから、わたしとエレナとカミサマだけだった狭い部屋には、少しずつ、女たちが増えていきました。最初に儀式を受けたことから、わたしとあなたは、第一巫女、第二巫女と呼ばれる立場になりました。以前のあなたなら、馬鹿らしいと金切り声をあげていたはずなのに、誰よりも熱心だったのは、エレナ、あなたでした。
あなたはあの洗礼の日から、元いた新宿の「ミルク」へ、真面目に出勤するようになりました。夜中に脂汗を滲ませて、うなされてはいましたが、それでも毎日出て行って、すり減った病んだ女たちを、この部屋へ連れて帰ってきました。店員に迫られ、オーナーにいつレイプされるかわからない風俗店の寮よりも、ここは、はるかに安全でしたから。
一度だけ、訊いたことがあります。出勤前の、鏡に向かって睫毛を描いているあなたの背中に。
「なんて言って、連れてくるの」
あなたは筆を止めませんでした。鏡のなかのあなたは、片目だけ化粧が終わっていて、左右で、違う顔をしていました。
「勧誘なんか、しないよ」
「でも」
「待機部屋でさ、泣いてる子がいるんだよ。客と客のあいだの、十五分に。声を出さないで泣くの、みんな上手いんだ。あたしは隣に座って、煙草あげて、それで、あんた帰る場所どこ、って訊く。ない、って言うんだよ、だいたいの子は。じゃあ来な、って言うだけ」
「……それだけ?」
「汚くて、臭くて、目の見えない男がいるけど、誰もあんたを使わない、って言う。それだけ」
あなたは睫毛を描き終えて、もう片方の目にかかりました。
「治るよ、とは、言わないの」
「言わない」あなたは即座に言いました。「そういう嘘は、あたしはつかない。あそこは治す場所じゃないもの。ただ——」
筆の先が、瞼の上で、止まりました。
「名前を、呼ばれるよ、って言う」
それから、あなたはいつもの顔に戻って、ヒールに足を入れて、出て行きました。玄関の扉が閉まる音を聞きながら、わたしは思いました。あなたが女たちに売っていた言葉を、あなたは先に、自分で買っていたのだと。
あなたが出ていった夜は、部屋がやけに広く感じました。広いわけがないのに。六畳に女が五人いても、あなたがいないと、空気が薄くなるのです。わたしは薬を飲んで、煙草を吸って、カミサマの呼吸音を聞きながら、ただ待っていました。待っている、とは思いたくなかった。でも、玄関の鍵が回る音がするたびに、胸の奥のなにかが、ぴくりと動くのがわかりました。あなたが帰ってきます。ヒールを脱ぎ捨てて、毛皮を床に投げて、黙ってベッドに倒れ込む。その一連を、わたしは目で追いました。あなたの首筋に、知らない男の匂いが残っていました。わたしはそれを知っていました。知りながら、なにも言いませんでした。言える立場ではなかった。言いたくもなかった。ただ、あなたが眠るまで、その呼吸を、聞いていました。
わたしは、というと、あなたが見ていたとおり、なにもせずにふんぞり返っていました。薬はやめられないまま、皮肉なことに、前より醜く肥えていきました。新しく見つけた工場のバイトは、二日で辞めました。それでも、「あんたはカミサマの第一巫女だから」と一万円札を渡して、薬局に見送ったのは、あなたでした。
儀式が終わると、わたしの仕事がありました。
まず灰皿を空にする。次に床の吸い殻を拾う。女が泣いたなら、使ったティッシュを片づける。女が吐いたなら、雑巾で拭く。それだけのことを、わたしはいつも一人でやりました。あなたはやりません。カミサマは押入れに戻っています。新しく来た女たちは、やり方を知らない。だから、わたしがやる。第一巫女の仕事とは、そういうものでした。
入会金は、封筒で受け取りました。金額は決まっていませんでした。女が出せる分だけ、というのがあなたのやり方でした。しわくちゃの千円札が三枚の封筒もあれば、五万円が入っていたこともありました。封筒はわたしが預かって、棚の奥の缶に入れました。あなたが出勤前に、必要な分だけ抜いていきました。いくら抜いたかは、わたしには言いませんでした。わたしも、聞きませんでした。
序列は、自然に決まりました。誰かが決めたわけではありません。儀式を何度受けたか。カミサマにどれだけ近い場所に座れるか。それだけのことが、この部屋では全てでした。新しく来た女は、入り口の近くに座ります。古い女は、奥に座ります。押入れに一番近い場所は、わたしの場所でした。
おかしい、と思ったことはありません。これが秩序だと思っていました。
儀式には、いつも同じ匂いがありました。女が持ち込む香水と、薬と、恐怖の混じった、甘く腐った匂い。新しい女が部屋に入ってくるたび、空気がそれで塗り替えられました。
女はたいてい、最初は怒っていました。騙された、と思っている顔でした。こんなところに来るはずじゃなかった、という顔。でも、カミサマの前に座らされると、その怒りが少しずつ、形を変えていきました。
カミサマは、なにもしません。ただ、そこにいる。目が見えないまま、女のほうに顔を向けて、黙っている。それだけです。でも、その沈黙のなかに、女は勝手に、なにかを見つけるのです。わたしにはそれが、ずっと不思議でした。この汚い、骨と皮だけの盲目の男の、どこに、女たちはそんなものを見るのだろう、と。
やがて、カミサマが口を開きます。女の名前も、来歴も、なにも知らないはずなのに、その女の一番深いところを、音叉のように叩く言葉が出てきます。女は息を呑みます。泣く女もいます。怒鳴る女もいます。カミサマを殴る女もいました。カミサマは、殴られても動じません。殴られたまま、また黙る。その沈黙がまた、女を揺さぶる。
わたしは少し離れたところから、それをいつも見ていました。第一巫女として。煙草を吸いながら。胸の奥に、ざまあみろ、という気持ちがありました。宛先は誰だったのか、いまもわかりません。ただ、崇められることの快感よりも、わたしはその儀式の、繰り返される構造に、どこか魅せられていたのだと思います。女が壊れ、そして、なにかが、ほんの少しだけ、報われる。その瞬間だけ、この部屋に、息のできる場所が生まれる気がしました。
それが本物だったのかどうか、わたしには、いまもわかりません。
だから一度だけ、最初から終わりまで、順番に書いてみます。ヒロエが来た夜のことです。
ヒロエは、あなたが十月の終わりに連れてきた女でした。三十を少し過ぎたくらいで、右の耳に、肌色の補聴器をつけていました。部屋に入ってくるなり、ぐるりと見回して、鼻で笑いました。
「なにここ。話がちがうんだけど」
帰る、と言うヒロエの腕を、あなたは掴みませんでした。どうぞ、と扉を開けてみせただけでした。ヒロエは、出て行きませんでした。行くところがあるなら、最初から来ていないのです。
わたしは灰皿を空にして、押入れの前の、いつもの位置に座布団を置きました。それも第一巫女の仕事でした。女を、カミサマの正面に座らせること。近すぎず、遠すぎず。逃げようと思えば、いつでも逃げられる距離に。
押入れの戸が、内側から開きました。
カミサマは、ずた袋のような服のまま、畳の上を這って出てきて、座布団の向かいに座りました。目やにの溜まった、閉じたままの目。ヒロエは煙草に火をつけて、わざと、その顔に煙を吹きかけました。
「うわ、くさ。ねえ、これがカミサマ? 冗談でしょ」
カミサマは、動きませんでした。
「あたしね、こういうの全部やったの。手相も、水子も、前世も、ぜんぶ。三十万取られたこともあるんだよ。で、次はなに? お布施? いくら?」
カミサマは、動きませんでした。
ヒロエは、喋り続けました。煙草が一本終わって、二本目に火がつきました。店の客の話。腰の話。実家の話は、しませんでした。誰も相槌を打たないのに、声はだんだん大きく、速くなっていきました。壁際の女たちは、黙って見ていました。あなたはベッドの縁に座って、灰を落としながら、見ていました。三本目の途中で、ヒロエの声が、ふっつりと切れました。
沈黙が、来ました。
長い沈黙でした。ヒロエは、癖なのでしょう、右耳の補聴器に指をやって、小さくいじりました。カチ、という音がしました。少しして、もう一度、カチ。切って、また入れたのだと思います。世界を一度消して、それから、戻したのだと。
カミサマが、口を開きました。
「聞こえないほうの耳を、こっちへ」
それだけでした。
ヒロエの顔から、笑いの形が、剥がれ落ちました。
どうしてその一言だったのか、わたしにはわかりません。いまも、わかりません。ヒロエは、煙草を灰皿に置いて、畳に両手をついて、ゆっくりと、首を回しました。右の耳を——閉じたほうの耳を——カミサマへ向けました。カミサマはその耳に、顔を寄せて、なにかを言いました。わたしたちには、聞こえませんでした。聞こえない耳に向かって言われた言葉です。聞こえるはずが、ないのです。
ヒロエは、泣きました。声を出さずに。あなたの言う、待機部屋の泣き方で。
それから、補聴器を外して、カミサマとのあいだの畳の上に、そっと置きました。お供えのようでした。カミサマは、それに触れませんでした。ヒロエは、長いあいだ、頭を下げていました。
顔を上げたヒロエは、化粧の下で、別の顔になっていました。いい顔になった、という意味ではありません。持ち主のいる顔に、なったのです。壁際の女のひとりが、座ったまま、少しだけ場所を空けました。ヒロエはそこへ、座りました。それだけのことが、この部屋では、住所でした。
儀式は、それで終わりです。
わたしは灰皿を片づけて、吸い殻を拾いました。ヒロエの封筒には、しわくちゃの千円札が四枚、入っていました。棚の奥の缶に入れました。ヒロエは次の日から、この部屋の女になりました。補聴器は、つけている日と、つけていない日がありました。
女が来て、怒って、喋って、黙って、崩れて、封筒が缶に入る。宗教は、そうやって育ちました。
でも、いつもそうなるとは、限りませんでした。
十一月の頭に来た女のことを、覚えています。名前は、聞きませんでした。厚化粧の下の顔が、ひどくむくんでいました。カミサマの前に座って、いつものように、沈黙があって、それから、カミサマが口を開きました。
「お前は、子を、亡くしたな」
女は、きょとんとしました。
「……は? いないよ、子どもなんて。産んだこともない」
カミサマは、動きませんでした。少しして、また、同じことを言いました。お前は、子を、亡くしたな。女の顔から、みるみる、興味が引いていきました。
「なんだ。外れじゃん」
女は鼻で笑って、立ち上がりました。封筒も置かずに、ヒールを鳴らして、出ていきました。扉が閉まると、部屋は、しんとしました。カミサマは、閉じた目のまま、まだ、女のいたほうへ顔を向けていました。あなたは、灰を落として、べつのほうを見ていました。誰も、なにも言いませんでした。
わたしは、そのとき、初めて思いました。当たっていたのは、カミサマのほうではなかったのかもしれない、と。ヒロエのときも、あの洗礼の日のわたしたちのときも、言葉を受け取る側に、受け取るだけのものが、もともとあっただけなのかもしれない。空っぽの女には、なにも起きない。ただ、それだけのことだったのかもしれない。
でも、わたしはその考えを、すぐに、しまいました。しまって、鍵をかけました。そのころのわたしには、カミサマが、まだ、必要な人でしたから。
ヒロエは、まだ部屋にいました。あの夜、補聴器を畳に置いて泣いたヒロエです。でも、いつのまにか、また補聴器をつけて、もとの、醒めた目に戻っていました。新しい女が儀式で泣くたびに、壁際で煙草を吸いながら、ふん、と鼻を鳴らすのでした。一度、わたしに言いました。あたしもあれ、やったんだよね、と。あれがなんだったのか、いまでもわかんない、手相と、どこが違うのかも、と。それでもヒロエは、出ていきませんでした。醒めた目のまま、この部屋の隅に、ずっといました。行くところが、なかったからです。それとも、あったのに、いなかったのか。わたしには、わかりません。
*
午後四時。扉がノックされました。
饐えた匂いのする狭い部屋には、五人ほどの女が雑魚寝していました。寝袋が床に二つ、転がっています。段ボールを敷いただけの上に寝ている女もいました。カミサマは、押入れのなかにいました。
そのカミサマが、不意に、押入れの戸をわずかに開けました。目の見えない顔を、部屋のほうへ向けました。眠っている女たちを、一人ずつ、数えるように。唇が、微かに動いていました。声にはなっていませんでした。でも、わたしには見えました。カミサマは、この女たちの名前を、呼んでいたのです。誰も教えていないはずの、名前を。それぞれの、名前を。眠っている女の一人の呼吸が、深くなりました。別の女が、ぎゅっと握っていた手を、そっと開きました。カミサマは戸を閉めて、また、暗闇のなかへ戻っていきました。
ノックは続いていました。その音には、剥き出しの怒りが込められていました。出勤前の、頬にファンデーションを塗りたくっていたあなたが、不機嫌にがしがしと歩いて行って、乱雑に扉を開けました。
「誰!」
立っていたのは、この部屋の話を聞いて、入会したいと言ってきた女でした。殴られた痕がまだ薄く残る頬に、乱れた髪が貼りついていました。分厚い眼鏡をかけていました。その後ろで、小学校に上がったばかりくらいの男の子が、母親のコートの裾を、しっかりと握っていました。男の子の胸元には小さな鳥籠があって、そのなかで、瑠璃色の鳥が、くちばしをくくく、と突き出していました。
あなたは舌打ちをしましたが、それは苛立ちではありませんでした。扉を開け放って、女の腕を掴んで、部屋のなかに引きずり込みました。
女は床に座り込みました。男の子は、女の背中にぴったりと張りついて、膝を抱えて、小さく震えていました。かわいらしい顔をした子でした。自分からはなんの反応も示さず、ただ、大きな目でわたしたちを見ていました。その目には、恐怖よりも、どこか遠い場所を見ているような、不思議な静けさがありました。鳥籠は、胸に抱えたままでした。
「この子、あんたの?」あなたが言いました。
「はい」女は男の子の頭をそっと撫でました。「連れてくるしかなくて」
「……飯、食ったの?」
わたしはその子に向かって言いました。男の子はわたしの顔をじっと見ましたが、なにも答えませんでした。女が代わりに、首を横に振りました。
あなたは黙ってキッチンへ行って、棚からカップ麺を二つ、取り出しました。それだけのことでした。でも、その背中が、わたしには忘れられません。いつも核爆弾みたいに生きているあなたが、あの瞬間だけは、違いました。
その夜、女と男の子は、部屋の隅で丸くなって眠りました。
朝、わたしが目を覚ますと、男の子が、押入れの前にいました。正座して、じっと、戸を見つめていました。母親はまだ眠っていました。男の子は、声を出しませんでした。ただ、そこに座っていました。しばらくして、押入れの戸が、内側から、わずかに開きました。カミサマの手が、隙間からそっと出てきました。男の子は驚きませんでした。その手を、しばらく見てから、自分の小さな手を、そっと重ねました。カミサマの手が、止まりました。二人はそのまま、しばらく、動きませんでした。朝の光が、その二つの手の上に、静かに落ちていました。
わたしは、それを見ていました。声は出ませんでした。出す気にも、なれませんでした。
眠っていたはずの女が一人、目を開けました。その光景を見て、また目を閉じました。でも、その口元が、わずかに緩んでいました。別の女が寝返りを打ちながら、男の子のほうに顔を向けました。見ている、とは言えない。でも、感じている、という様子でした。
誰も、なにも言いませんでした。
ただ、部屋の空気が、少し変わりました。カミサマは押入れのなかにいる。男の子はその前に座っている。その事実だけで、この部屋が、なにか別のものになったような気がしました。それがなんなのか、言葉にはできませんでした。でも——この子は、知っている、と思いました。わたしたちが必死に手を伸ばしているものを、この男の子は、もう、知っている。
それが正しかったのかどうか、いまもわかりません。ただ、あの朝から、女たちのカミサマへの態度が、少しだけ変わりました。恐る恐る触れるような、そういう変わり方でした。
鳥籠は、男の子の傍に置かれていました。あなたは出勤前に、自分の毛布を、女にかけていきました。
女たちは、あの男の子を、各々の拙いやり方で可愛がりました。ある女は自分の食事を分け、ある女はぎこちなく頭を撫で、ある女は黙って隣に座って、同じ方向を見つめていました。男の子は、母親のスマホで、物理の実験動画ばかり観ていました。気取った大学生のナレーションが、この狭い部屋に、静かに響いていました。あの子がぽつりと笑うと、部屋の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなりました。
ある午後、わたしはあの子の隣に座りました。膝の上の画面では、白衣の男の人が、大きなガラスの筒から、機械で空気を抜いているところでした。筒のなかには、鳥の羽根と、金属の玉が吊るされていました。留め金が外れて、二つが落ちました。羽根は、ひらひらと迷いながら落ちて、玉は、まっすぐに落ちました。それから男の人は空気を抜いて、もう一度、留め金を外しました。今度は、羽根と玉は、同じ速さで、まっすぐに、一緒に落ちました。ひらめきも、迷いもせずに。
「空気のない場所では、すべてのものが、同じ速さで落ちます」
と、気取ったナレーションが言いました。
あの子は巻き戻して、もう一度、それを観ました。落ちる。巻き戻す。落ちる。巻き戻す。何度目かに、あの子は画面を、ほんの少しだけ、わたしのほうへ傾けました。目は、合いませんでした。それが、あの子の話し方でした。
わたしたちは、羽根と玉が一緒に落ちるのを、何度も、黙って観ました。
ラリー・バード、という名前の由来を、母親に訊いたことがあります。バスケットボールの選手だそうです。昔の、背の高い、白い選手。動画で一度見たきりで、あの子はその名前を、鳥にあげたのでした。青い鳥だから青いユニフォームの人かと思ったら、緑のチームの人でした。どこがどう繋がっているのかは、あの子にしか、わかりません。あの子の世界の地図は、あの子だけのものでした。
わたしは、ほかには、なにもしませんでした。ただ一度、あの子が床にこぼした鳥の餌を、黙って拾って、その小さな手のひらに戻したことがあります。あの子は、わたしの手を、少しのあいだ、見ていました。
*
あの男の子が、柔らかな光の差し込む窓辺で、鳥を飛ばして遊び始めたのは、それからしばらくしてのことです。くちばしをくくく、と突き出し続けている瑠璃色の鳥——男の子はその鳥を、ラリー・バードと呼んでいました——を籠から出して、男の子は小さな手で、鳥を放ちました。鳥は、あの暗く饐えた空間のなかで、唯一の色彩のように、ひらひらと舞いました。
鳥が部屋を舞うのを、カミサマは、押入れのなかから聞いていました。羽音が近づくたびに、カミサマの顔が、その音のほうへ向きました。男の子はそれに気づいて、ラリー・バードをそっと捕まえると、押入れの戸の隙間に、差し入れました。カミサマの手が、鳥を受け取りました。しばらく、羽音が止まりました。カミサマが、鳥を両手で包んでいるのがわかりました。男の子は押入れの前にしゃがんで、戸に耳をあてました。なかから、低い、震えるような声が聞こえていました。言葉ではありませんでした。でも男の子は、じっと、それを聞いていました。
「俺は……」
震えてはいましたが、ちゃんとした、低い声でした。
「家族でピクニックに行かなきゃならないんだ。息子が海の見える公園に行きたいって金曜日言ってた、晴海ふ頭なんかがいいかなって考えてた。まだ小学生なんだよ、小さくて。ついでに泳ぐんだと、赤いビニールの浮き輪を持ってさ、嫁も楽しげに笑うんだ、行ってもいいわねって、もうそんな季節ねって、そう言うんだ。頼むよ、なんとかしてくれよ。ここにいる誰か、車を貸して欲しいんだ。息子がそういうから」
カミサマは、切実に、言いました。
秋が、空で鳴っていました。
男の子は、押入れの前から、動きませんでした。戸に耳をあてたまま、ピクニックの話を、最後まで聞いていました。聞き終わると、ラリー・バードを籠に戻して、留め金を、丁寧にかけました。それから母親のところへ戻って、いつものように、画面のなかの実験を観はじめました。あの子だけが、慌てませんでした。
カミサマが壊れてから、この部屋は、ただ人が出入りするだけの場所になりました。入会金を払う新しい人々を引きつける、一番の見世物が壊れてしまって、あなた一人が頼りでした。あなた以外の女たちは、ほとんど、ただ寝ているだけでした。どこから聞きつけたのか、明らかに風俗嬢ではない、汚らしい男女も、しわくちゃの札を何枚か持ってやってきて、何日か滞在しては消え、またやってくる。そんな場所になっていました。誰も、それについて、なにも言いませんでした。
*
エレナ。ひとつ、白状します。
わたしはあなたに、あなたが見たことばかりを、書いています。あの部屋を、あなたも一緒に見ていた。あなたの知らないことなど、ひとつも書いていないのに、わたしは、こんなに書いている。書かないと、わたしのものにならないからです。起きたことは、書いて、はじめて、持てる。あなたのためではありません。手放したく、ないからです。
もうひとつ。さっき、カミサマのピクニックの話を、書きました。秋が、空で鳴っていた、と。切実だった、と。
あれは、すこし、きれいに書きました。
本当は、あの話をしているあいだ、カミサマは、下を汚していました。饐えた匂いが、部屋じゅうに立ちこめていました。男の子は、それでも、戸に耳をあてていました。わたしは、匂いのことを、書かないでおこうとしました。指が、勝手に、そうしました。
だから、いま、書き足します。匂いのことを。カミサマは、きれいには、壊れませんでした。
*
駅へ出かける前、あなたは面白がって、わたしにも化粧をするようすすめました。鏡のなかの、アイラインをひいたわたしは、目の垂れた狸のようでしたけれど、あなたはそれを気にもしないで、目の縁に皺を寄せて、誉め讃えるのでした。八重歯の出た、可愛らしい顔でした。いつも神経質で、いつも苛ついているあなたからは、想像もできない顔。あなたは少女のようにはしゃいで、ピンクの旅行鞄に、様々なものを詰めたり、やめたりしていました。花びらのように揺れるパステルイエローの短いスカートから、血色のいい生足が出ていました。つま先にビジューがたっぷり乗った、踵にサテンの大きなピンクのリボンがついたヒール。それは、透けるように白いあなたの足首に、とても似合っていました。
「本当にいいの?」
扉を押し開けながらわたしが訊くと、あなたは、付き合って間もない恋人に愛情を示すみたいに、自然に、極めて自然に、腕を絡ませて笑いました。空は蕩けるように青くて、眩しくて、会話はいりませんでした。これから東京駅へ行って、新幹線に乗って、あなたの地元へ行って、一緒に暮らすのです。適当な仕事を見つけて。あなたはわたしのために、自分の両親に話をつけてくれた。わたしの、こんなわたしのために。
「え?」
あなたは確かに、なにかを耳打ちしました。
すると、甘い恋人のように絡まっていたあなたの手が、重苦しい南京錠に変わって、地面の枯葉が大群になって絡みついて、わたしの動きを止め、目の前の可愛い人の顔が、ぐにゃりと歪んで、母の顔に変わりました。その腕が、ありえない圧力で、わたしの頬を打とうとしていました。晴れ渡った世田谷の道路は、一瞬であの暗い実家の、湿っぽい廊下に変わって、わたしはまた子供の姿になって、せっかくあなたに引いてもらったアイラインも、涙と一緒に溶けて——
わたしは、飛び起きました。
油汗の浮いた手が、ぐしゃぐしゃの鼠色のシーツを掴んでいました。あなたは死体のように固まって眠っていて、枕の隣には、何種類もの睡眠薬と安定剤。床には、オレンジジュースをこぼした跡、散らばった灰、先の曲がった綿棒が数本、なにに使ったかわからない両面テープ、残り二本の煙草の箱とライター、吸い殻が目一杯詰まって蜂の巣のようになったガラスの灰皿。そこには、わたしの作り上げてしまった、生活を彩るものがなにもない、殺風景な部屋があるだけでした。
ふと押入れを見ると、その奥から、カミサマが、狭苦しいソファで抱き合って眠る女と息子を、じっと見つめていました。目が見えないのに、その気配は、まがい物ではない愛でした。わたしはそれを見て、恐怖に打たれながら、泣くように笑いました。ねえ、カミサマ。あなたは、ただの優しい父親じゃないか。ホームレスになる前、本当は、誰かのいい父親だったんでしょう? あの日、軽石のような重さのカミサマを背負って走って、自分だけのものを初めて手に入れたと思った、あの万能感は、もう戻ってこない。駄目だ、駄目だ。本当にそう思って、窓から差し込む夜明けの白んだ光に、目を細めました。
びびびびびびびび、とスマホのアラームが鳴りました。十五時四十分。あなたが出勤のために毎日かけていたアラームです。でもその日は、あなたの大きな目玉が、腕のなかでぐるりと動いただけでした。あなたは、ベッドから動きませんでした。
あなたが「ミルク」をやめたのは、あなたの意思ではありませんでした。カミサマが、そう言ったのです。ある夜、信者たちを前にして、男の子を抱きながら、カミサマは言いました。この場所の外に出ることは、聖なるものを汚すことだ、と。その声に感情はなく、ただ静かに、取り消しようのない言葉として、部屋に落ちました。あなたはなにも言いませんでした。翌日からアラームは鳴り続けましたが、あなたは一度も、起き上がりませんでした。
信者たちのお布施が、少しずつ、生活費を補うようになりました。しわくちゃの千円札が封筒に入って渡されることもあれば、食料が置かれていることもありました。棚の缶のなかは、千円札より、小銭のほうが多くなりました。米が二キロ、袋のまま玄関に立ててあったこともあります。誰が置いたのかは、誰も言いませんでした。あなたが稼いでいた金額には、遠く及びません。それでも誰も、なにも言いませんでした。
あなたには、枕元に散らばった抗鬱剤を、酒で飲むことしか、することがなくなりました。第二巫女でも、伝説の風俗嬢でもなくなったあなたは、それらの肩書きを持つ前の、凡庸な生活に戻らざるを得なかったのです。カミサマは、壊れた日からずっと、部屋にいる誰か——名前も知らないカップルや、ヒロエ——に、自分の家族との幸福な日々を、雄弁に話し続けていました。その登場人物たちは、どこにもいないのに。
なにもかも失ったあなたが、夢物語を語る父親としてのカミサマにすり寄っていったのは、わたしにも、なんとなく理解ができました。以前のあなたは、少しでも気に障る押入れことを言えば、誰かれ構わず怒り叫んでいたのに、自分からカミサマの足元へ寄っていって、濡れた目で、頭を撫でるようにせがむのでした。
「ねえ……頭のなかに、水があるの。その水のなかで、たくさんの鈴が鳴っててね、一日中、それが鳴ってる。たまに木魚を叩く音も聞こえるのよ。あたしは大きなその水のなかに浮かんでいて、手を広げてて……」
あなたはカミサマの細い足首を抱きながら、チューハイの缶を唇に近づけようとするのですが、距離がわからないのか、それは全部、白いタンクトップの上に、だだだだだだと、こぼれていきました。
カミサマはあなたを見ようともせず、窓際のヒロエのいるほうを向いて、息子の授業参観の話を、大きな声でしていました。父親たちだけが参加できる短距離走で、一位になったことを。見えていないはずの目が、ギラギラと輝いていました。次の瞬間、大便の匂いが漂いました。わたしは黙って立ち上がって、台所の換気扇を回しに行きました。薄緑の苔がびっしり生えたシンクを見つめながら、ひたすら、煙草を吸いました。
足に、なにかが触れました。見下ろすと、あなたの真っ白な髪でした。
「あんた、あたしのこと好きだったっけ?」
わたしは息を止めました。
「オナニーしてたよねえ」あなたは柔らかに微笑みました。「またしていいんだよ」
あなたは自分から股を広げて、Tバックをずらして、性器をわたしに見せました。ずらすと同時に、水気を含んだ下痢が、その隙間からにゅるりとこぼれました。
実家で殴られていたときよりも。夏央莉がもう自分のものにならないとわかったときよりも。ゴミ袋のなかのカミサマを蹴り続けたあの夜よりも。わたしはその、首を酒でべっとり濡らして、腐臭を放つ、それでも美しいあなたを見て、絶望しました。
「ねえ」
「できない」
「なんで?」
わたしがなにか働きかけて、そのたびにこの人との断絶が深まっていくのが、もう、耐えられなかったのです。それなら今のまま、この小さな部屋で、あなたと一緒に「止まって」いたかった。それぐらいに、わたしはあなたを——。
「できない」
わたしは歯を食いしばりながら、涙を堪えながら、言いました。
第五章 聖なる逃亡
あの日のことを、書きます。
あなたが読まないとわかっているから、書けることです。
昼過ぎ、わたしは薬と煙草を買いに出ていました。金はもうほとんどなかったのに、わたしの薬代だけは、封筒から出ることになっていました。誰が決めたのでもありません。あの部屋の秩序が、最後まで、そうなっていただけです。
冬になる手前の、乾いた日でした。
わたしは袋を提げて、外階段を上がって、扉を開けました。
最初、なにも理解しませんでした。
あなたの白い背中だけが、見えました。それから、音が聞こえました。パシン、という、乾いた音。あなたの骨盤が、カミサマの足の付け根にぶつかる音でした。ベッドが、きいきいと、歯軋りのような音を立てていました。窓から入る光に、あなたの銀色の髪が、輝きながら揺れていました。
床には、あの信者の女——男の子の母親が崩れていて、分厚い眼鏡の奥から、気怠い体勢とは真逆の、禍々しい眼差しを宙に向けて、天井へ、札束をぶわっと放り投げていました。その脇で、男の子が、母親のスマホで、物理の実験動画を観ていました。音は、とても小さくしてありました。隣に置いた鳥籠のなかで、ラリー・バードが、くちばしを突き出していました。ほかの女たちは、死んだように眠っていました。
わたしの口から、息が漏れました。胃の底が、ゆっくりと落ちました。あれほど触れたかった、触れられなかった、その背中が、男の上で揺れていました。
袋が、落ちました。
わたしは、あなたを、カミサマに奪われた、と思ったのです。
でも、それだけでは、なかった。
わたしは、カミサマの顔を、見ていました。あなたの下で、顎を弛ませ、歯茎を剥き出して、赤黒く歪んだ、その顔を。あの夜、軽石のように背負って走った、盲目の廃墟は、そこには、いませんでした。女の上で腰を振る、ただの、壊れた男が、いただけでした。
そこから先を、わたしは順番には覚えていません。気がつくと、わたしの両手は、カミサマの首にありました。ぐに、と、歯を食いしばったカミサマの赤黒い顔から、生気が零れ落ちました。その決定的な瞬間を、この部屋にいた女たちは、目撃しました。息の詰まる時間が流れました。女たちは、黙っていました。ひたすらに、黙っていました。誰かの煙草が、灰皿の縁で、ひとりでに燃え尽きていくのを、覚えています。
亡霊のような足どりで、あなたが、トイレまで歩いていきました。扉を開けたまま、放尿しました。その音で、わたしは正気に戻って、ようやく、カミサマの首から手を離しました。
戻ってきたあなたは、何気ない、いつもの様子で、ソファの上の、派手にデコレートされたスマホを取って、電話をかけました。
「殺したのはあたしです齋藤百合子二十七歳無職です住所は世田谷区の三谷荘。首を絞めて殺しました全て全て全てオナニーでしたなんの聖なるものでもない卑俗極まりないものでしかありませんでした」
少し枯れた声でそれだけ言うと、あなたは、スマホを窓に向かって、思い切り投げつけました。ばりん、と窓は簡単に割れて、冷酷な風が入ってきました。
女たちは、逃げ出しました。あの部屋にいた誰も、警察へは行きません。差し出せる名前を、持っていないからです。
信者の女は、眼の前のものを脳裏から払い落とすように、息子を強く抱き寄せて、その目を手で覆いました。もう一方の手で、散らばった札を掻き集めて、ジーンズのポケットに叩き込むと、息子を抱え上げて、外へ駆け出しました。
鳥籠が、倒れました。
女の腕のなかで、男の子が、腕を伸ばしました。声は、出しませんでした。ただ、母親の肩越しに、倒れた籠を、見ていました。籠のなかで、ラリー・バードが発狂したように、ビチビチ! と啼いていました。その声だけが、廊下を追いかけていきました。
誰も、籠を拾いませんでした。
割れた窓から、風と一緒に、遠いサイレンの音が入ってきました。
あなたは全裸のまま、立っていました。突き出た鎖骨、腰の反り、尻の湾曲。わたしがついに触れられなかったものが、そこにありました。あなたは嘘みたいに、あのときの夏央莉を思い出させるくらい、美しかった。
「行って」あなたは言いました。わたしは首を振りました。
「嫌だ」
「行ってよ!」
あなたは絶叫しました。その整った顔に、憤怒と、愛が溢れているのを、わたしは見てしまいました。
わたしは、走りました。走ることしか、できませんでした。
そこから先を順番には覚えていない、と、さっき書きました。工場のときも、同じことを書きました。都合のいい空白だと、自分でも思います。でも、頭が覚えていなくても、手が覚えているのです。首というものの、思いのほかの細さを。皮膚の下で動いていた、管のかたちを。力を、緩めなかったことを。だから、これはわたしのものです。誰にも渡しません。エレナ、あなたにも。
わたしは、こう書いてきました。人が壊れかけているのを、きれいだと思う、と。いちばん古い癖だ、と。でも、あれは、半分でした。壊れかけたものは、きれいです。壊れきったものは、きれいでは、ありません。カミサマは、あの部屋で、壊れかけから、壊れきりに、変わっていました。ピクニックの話をする父親に墜ちて、もう、きれいでは、なくなっていた。
わたしが絞めたのは、そこだったのだと思います。奪われたから、ではなく——もう、きれいでは、なかったから。首を絞めると、カミサマは静かになって、あの夜、背負って走った廃墟の顔に、戻りました。わたしは、それを、きれいだと思いました。人ひとりを殺して、その死顔を、きれいだと思ったのです。
癖に、値段がついた瞬間でした。死体、一つぶんの。夏央莉には、指一本、触れずにすんだ。あなたには、この手紙一通で、すむのかもしれない。でもカミサマには、命でした。同じ癖が、相手によって、これだけ違う値札をつけるのです。
あなたはなぜ、あの電話で、あんな嘘をついたのか。わたしはずっと考えてきました。わたしを守るためだったのか。それとも、カミサマを殺した女でいることのほうが、カミサマを奪われた女でいることよりも、まだしも息のできる場所だったのか。いつか会えたら訊こう、と思って、やめました。訊いたところで、あなたはきっと、笑うだけでしょう。
部屋には、割れた窓と、倒れた鳥籠と、カミサマだけが残りました。
あの鳥がそれからどうなったのかを、この頁を書いているいまも、わたしは知りません。倒れた籠の戸が、開いていたことだけを、覚えています。
第六章 面会
その半年のあいだに、一度だけ、あなた宛てではない手紙を、書きかけたことがあります。
夜勤明けの朝でした。フロントで便箋を借りて、宛名を書きました。夏央莉へ。そこまでは、書けました。姉は生きていて、住所も、調べればわかるはずでした。長田という姓になって、ピンクのエプロンで洗濯物を干している、あの家に。
ボールペンの先を、一行目の上に置いて、そのまま、長いあいだ、動きませんでした。インクが滲んで、便箋に、小さな青い点がひとつ、できました。書かれたのは、それだけでした。
書けなかったのか、書かなかったのか、いまも、わかりません。わたしは宛名と点だけの便箋を四つに折って、リュックの底に入れました。それは、いまもそこにあります。角が擦れて、柔らかくなって。
エレナ。あなたには、こんなに書けるのに。
理由は、書きません。書けば、嘘になる気がします。
面会の許可は、手紙を出してから半年あまりが経って、ようやく下りました。鑑定がまだ続いているから、というのが、断られ続けた理由のようでした。
病院は、私鉄の駅からバスで二十分の、丘の上にありました。バスを降りると、空が、近くなりました。
受付で、名前と続柄を書きました。従妹、と書きました。ボールペンは、備え付けの紐で、机に繋がれていました。手荷物はロッカーへ、と言われて、ここまで書いたこの手紙の束を、リュックごと押し込みました。鍵を回すとき、少しだけ、ためらいました。
病棟への道は、三谷荘の階段よりずっと明るく、清潔でした。青いビニール床は消毒液の匂いを放って、どこか虚ろに光っていました。手続きは淡々と進みました。看護師は、ためらいもなく鍵を開けました。
バルコニーのドアを開けたとき、まず目に飛び込んできたのは、青でした。
初夏の午後の、深く、残酷なほど透き通った青空。その下で、あなたは車椅子に座っていました。精神薬で、ぶくぶくに太っていました。銀髪は根元から黒く伸びて、無造作に束ねられていました。入院服は、薄汚れた水色。薬の副作用でふくれた両手が、微かに震えていました。
その膝の上に、ラリー・バードがいました。
瑠璃色の小さな身体が、あなたの膝の上で、じっとしていました。籠はありませんでした。ただそこに、あなたと並んで、空を見上げていました。
鳥は、逃げませんでした。あなたのふくれた指が、ときどき、思い出したように、その瑠璃色の背中に触れました。鳥は、触れられているあいだだけ、目を閉じました。
あとで、看護師さんに聞きました。あなたが入院したとき、あの鳥だけは手放さなかったのだと。押収しようとしたけれど、どうしても、と懇願して。個室の窓辺に置いて、毎日話しかけていたのだと。暴力的な患者だったのに、その鳥の前だけは、穏やかだったと。
あなたは、空を見上げていました。見ている、というより、青に飲み込まれていました。
その横顔は、わたしの記憶のなかの、鋭く美しく歪んだあなたではありませんでした。角という角が削り取られて、丸みを帯びて、色褪せていました。目の下には、深い青黒い隈。唇は乾いて、紫色を帯びていました。
「エレナ」
声が、出ませんでした。喉が渇いて、その青に、全ての湿気を奪われたようでした。
あなたはゆっくりと、ゆっくりと、顔を向けました。焦点は、わたしには合いません。あなたの瞳のなかには、わたしの姿ではなく、ただ青が、無限に広がっているようでした。
あなたの唇が、わずかに動きました。
「……み……よ……?」
声は、擦り切れた紙のようでした。でもその一瞬、瞳の奥に、かすかな光が灯ったように思えました。あるいは、わたしの願望かもしれません。
はい、とも、そうだよ、とも、言えませんでした。わたしは頷きました。あなたに見えたかどうかは、わかりません。風がバルコニーを渡って、あなたの伸びかけの黒い根元を、少しだけ動かしました。遠くで、誰かがボールをつく音がしていました。病院の敷地の、どこかでした。とん、とん、という音が、青のなかに、間遠に響いていました。
わたしは、あなたの前にしゃがみました。コンクリートの床は、日差しで温もりを帯びていました。あなたの震える手を、そっと、自分の両手で包もうとしました。
触れる直前に、手が、止まりました。
この手は、あなたの愛したカミサマの首を絞めた手です。あなたを、ここへ入れた手です。
あなたは、わたしの止まった手を、見つめていました。そして、ほんの少しだけ、口元が緩みました。笑いでも、泣きでもない。全てを理解したような、深い、諦めに似た表情でした。
その瞬間、ラリー・バードが鳴きました。
ちちちちちち、と、あの三谷荘で聞いたのと同じ声で。あなたの膝の上で翼を広げて、一度、二度、羽ばたいて——そのまま、空へ飛び出しました。
青い空に、瑠璃色の小さな点が、どんどん小さくなっていきました。
あなたは、目でそれを追いました。首を空へ向けて、その点が見えなくなるまで、ずっと。その顔には、もうなんの表情もありませんでした。でも、なにもないということが、この人にとっての安らぎなのかもしれない、と、わたしは思いました。
あなたは、また空を見上げました。青へ、還っていくように。
さようなら、エレナ。
声には出さず、心で呟きました。
わたしは立ち上がりました。膝が軋みました。歩きたくない。この青から離れたくない。それでも、バルコニーのドアに向かって、一歩を踏み出しました。
廊下は、静かでした。
消毒液の匂い。青いビニール床。看護師ステーションの前を通り過ぎようとしたとき、わたしは、足を止めました。電話機が、目に入ったのです。
でも。
わたしが自首すれば、あなたの「自首」は、嘘になります。あなたが警察に電話をかけたあの日、「殺したのはあたしです」と言ったあの声が、ただの狂人の妄言になる。あなたが選んだことを、わたしが踏み潰すことになる。
それは、できない。あなたのためだ、と思いました。
でも、あなたはもう、なにも選べません。
わたしが電話をかけても、かけなくても、あなたはあの車椅子で、あの青を見ています。ふくれた指で鳥に触れて、焦点の合わない目で。わたしがどうしようと、あなたの一日は、一ミリも動きません。守る、と言ったところで、守られる人は、もうどこにもいないのです。あなたはとっくに、わたしの手の届かないところで、安全でした。
だから、これは、あなたのためではありませんでした。
電話をかければ、わたしは終わります。かけなければ、続きます。ただ、それだけのことでした。わたしはまだ、この廊下を歩いていたかった。バルコニーのあなたを、また見に来たかった。罰されたく、なかった。
あなたを守るためか。自分が生きるためか。
その区別がつかない、と書けば、きれいに終われる気がしました。でも、区別は、ついています。わたしは、罰されたくない。ただ、それだけのことです。「わからない」というのは、そう言っておけば、自分をもう少し、ましなものにしておける、という言葉でした。判決もなく、終わりもない罰。そんな上等なものは、わたしにはありません。あの朝、カミサマの手が触れたのを、偶然ではないと決めたときと、同じ手つきで、わたしはまだ、自分に都合のいい意味を、こしらえようとしていました。
わたしはスマートフォンを、ポケットに戻しました。看護師が、怪訝そうにわたしを見ていました。わたしは首を振って、歩き出しました。
初めの一歩は、鉛のように重かった。二歩目は、少し軽い。三歩目で、わたしは、振り返るのをやめました。
病院を出ると、日が傾いていました。門の脇の自動販売機で、水を買いました。ペットボトルは冷たくて、手のひらの熱を、ゆっくりと奪っていきました。わたしはそれを両手で持ったまま、バス停まで歩きました。
空は、見ませんでした。
いま、帰りの電車のなかで、この最後の頁を書いています。窓の外はもう暗くて、なにも見えません。ガラスには、わたしの顔だけが映っています。
この半年、わたしは毎晩、あなたを書いてきました。いちばん美しかったころの、あなたを。銀の髪と、赤い唇と、核爆弾みたいな生き方を。膨れて、焦点の合わなくなったあなたに宛てて、壊れる前のあなたばかりを、こんなに、丁寧に。
いま、書きながら、わかってしまいました。
この手紙も、そうだったのです。壊れかけたものを、きれいだと思う。壊れてしまったものに、壊れる前の姿を、送りつける。夏央莉の、青いスカート。カミサマの、死んだあとの顔。そして、いまのあなたへの、この、うつくしい手紙。ぜんぶ、同じ手が、しています。いちばん古い癖が、いちばん新しく、こしらえたもの——それが、この手紙でした。
知ってしまって、なお、わたしはこの頁を、書き終えようとしています。やめれば、いいのに。やめれば、すこしは、ましなのに。やめられない、のではありません。やめたく、ないのです。最後まで。
エレナ。この手紙は、次の面会の日に、持っていきます。読まなくて、いい。あなたの膝の上に、置いてくるだけです。
あの鳥が、いた場所に。
わたしの、いちばん新しい、いちばん醜い作品を。
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