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『青哭』第五章「藍眼」

殯の器(第6話)

ゐで保名

擬古文 × ボディホラー

タグ: #ホラー #幻想文学

小説

3,553文字

 突風は、染物小屋の羽目板を紙風船のやうに震はせ、関の瀬戸の荒れ狂ふ潮飛沫を、容赦なく土間へと吹き散らした。
 吹き飛んだ蔀戸の開口部より、夜の海が黒々と口を開けて覗いてゐる。壇ノ浦の早瀬は白き牙を剥き、渦巻く波頭が岩礁を噛む轟音は、千の亡者の鬨の声となつて小屋を揺るがした。炉の火はとくに吹き消され、闇の中に残されたるは、煮え爛れて異臭を放つ五つの大甕と、土間に倒れ伏す青玄、そして甕の縁に手を掛けたる千鶴の影のみ。
 一番、二番、四番、五番の大甕は、既に絶命してゐた。
 浦人たちの放つた怯懦と呪詛を呑み込まされた藍の液は、青の光彩を失ひ、どす黒き汚泥となつて冷え固まりつつあつた。表面には饐えたる油膜が張り、泡の一つすら浮かばぬ。死せる泥水である。
 ただ一つ、中央に据ゑられたる三番目の大甕のみが、いまわの際の老人のやうに、細き、途切れがちな呼吸を続けてゐた。底に沈む阿波の蒅が、苦悶に身を捩りて、わづかに波打ち、液面には、潰れかけた赤黒き泡が、消え入るやうな音を立てて浮かんでは弾けてゐる。
「千鶴……退け……」
 青玄は泥にまみれた腕を伸ばし、千鶴の裾を掴まうとした。
 青玄の指先は、もはや己の意志に従はなかつた。手首から先はすつかり麻と化し、色は褐に沈み、擦れ合ふたびに青き繊維の粉を散らすばかりで、千鶴の衣を掴む力すら残されてゐなかつた。喉の奥からは、言葉の代わりに、凝固しかけた藍の塊が込み上げてくる。
 死ぬのだ。己も、この甕も。
 他者の涙を奪ひ、死者の無念を喰らひ尽くして建てたる藍の報いが、いま、自らを泥水の中へと引き摺り降ろさうとしてゐるのだ。
 そのときであつた。
 千鶴が、ゆつくりと膝を折つた。
 三番目の甕の前に跪き、その両の手を、煮え爛れたる液のすぐ上に翳した。
 千鶴の白い顔が、風に煽られて露はになる。肩に切り揃へられたる濡れ髪が乱れ飛び、その額に、首筋に、潮飛沫が容赦なく叩きつけられてゐた。千鶴は瞬き一つしなかつた。その両の瞳——かつて灰一色であつたその瞳は、いまや常ならぬ光を宿してゐた。瞳を縁取る青き環が、激しく脈打ち、眼の奥底で、青玄の見果てぬ夢の色彩が、奔流となつて渦を巻いてゐたのだ。
「千鶴……何を……」
 青玄が絞り出した声に、千鶴は振り返らなかつた。
 千鶴の視線は、倒れ伏す青玄の姿を、ただ一点に見据へてゐた。
 千鶴の眼には、小屋の闇も見えぬ。吹き込む嵐の飛沫も見えぬ。
 ただ、土間に倒れ、青き血を吐き、皮膚を繊維へと変じさせてゆく青玄の全身が、この世の凡百の光を圧して、青く、青く、燃え盛る巨大なる炎と映じてゐた。
「……見えます」
 千鶴の声は、嵐の咆哮を切り裂いて、青玄の耳朶に届いた。
「青玄さま。お前さまの命が……ほどけてゆくのが見えます。青い糸になつて、一本、また一本と、暗い風の中に消えてゆくのが見えます」
「千鶴……」
「嫌でございます」
 千鶴の胸の奥から、低く、地底を揺るがす叫びが漏れた。
「お前さまが消えてしまはれたら、わたくしは、またあの海底の泥の中へ戻らねばなりませぬ。色のない、音のない暗闇へ。……そんなものは、生きてゐるとは申しませぬ!」
 千鶴が両手を胸に当てた。
 その瞬間、青玄の紺の眼球が、信じ難きものを捉へた。
 千鶴の胸の奥——あの凍てつき、枯れ果て、一滴の水も湧くことのなかつた「無色の器」の中心で、先ほど灯つた赤い火種が、爆ぜて燃え広がつた。千鶴は青玄の袖を掴んだまま、離さなかつた。
 ぴき、と。
 千鶴の頭蓋の奥で、氷の割るる鋭き音が響いた。
 千鶴の目頭が、ひりと熱を帯びた。
 去年の秋より、海女の仲間に「鬼の申し子」と罵られ、己の胸を幾度叩いても湧き出ることのなかつた水分が、千鶴の眼窩の奥底から、泉となつて滾り上がつてきたのだ。
 一筋の滴が、千鶴の睫毛を震はせて零れ落ちた。
 涙であつた。
 千鶴の白い頬を伝ひ落ちるその涙は、濁りなき水晶の如く澄み渡り、風を孕んで燐光を放つてゐた。
「あ……ああ……」
 千鶴の口から、幼子のやうな嗚咽が漏れた。
 涙は止まることを知らず、次から次へと溢れ出し、千鶴の顎を伝ひて、三番目の大甕の液面へと滴り落ちた。
 ぽたり。
 ぽたり、ぽたり。
 
 その刹那——世界が、静止した。
 小屋を揺るがしてゐた風の唸りが、ふつと遠のいた。
 千鶴の涙が落ちた液面から、同心円の波紋が、滑らかに広がつてゆく。
 波紋が甕の縁に達した瞬間、甕の底より、鐘の音にも似た妙なる響きが立ち昇つた。
 きいん、と。
 濁り果て、煮え爛れてゐた液の表面が、まるで鏡を磨き上げたやうに、一瞬にして透き通つてゆく。赤黒き油膜は掻き消え、腐肉の悪臭は風に洗はれ、代はりに、雨上がりの山肌が放つ、清冽にして甘酸つぱき薫香が小屋の空気を満たした。
 泡が立つた。
 泥の泡ではない。
 それは、甕の底より夥しく湧き上がる、瑠璃色の光を孕んだ極微の気泡であつた。気泡は液面で寄り集まり、盛り上がり、やがて甕の口を埋め尽くすやうに、一輪の巨大なる「藍の華」を咲かせた。
 その色は——。
 青玄は、息をすることすら忘れ、両眼を見開いた。
 青であつた。
 されど、かつて老母の涙で建てたる、あの冥府の暗き青ではなかつた。
 光を吸ひ込むにあらず、光を自ら放つ青。天の虚空よりも高く、海底の深淵よりも深い、生と死のあはひに架かる青。
 甕は、もはや唸り声を上げてはゐなかつた。
 ただ、母の胎内のやうに静かに、温かき湯気を立ち昇らせ、波一つ立てずに澄み切つてゐた。
「建つた……」
 青玄は震へる声で呟いた。
 これこそが、己が生涯を賭けて求め続けてきた青であつた。
 
 されど、この青を布に写し取るには、受け止める布がなかつた。
 千鶴の涙に目覚めたこの藍は、通常の麻や絹を浸せば、色を吸ふ前に、繊維ごと脆く砕け散るであらう。
 受け止め得る布は、ただ一つ。死者の記憶を皮膚の奥に蓄へ、骨を芯木となし、血を藍の露となした——青玄自身の身であつた。
 ——そのとき、お前は何を以て己を染め上げるのぢや。
 宗信の言葉が、耳の奥で鳴つた。
 このためであつたのだ。己の体が香木のやうに乾き、布のやうに毛羽立ち、血が青く変じてきたのは。
「千鶴」
 青玄は、土間に転がつてゐた小刀を、硬化した指先で引き寄せた。
「千鶴、棚の上を見よ。……一番奥に、わたしが都を出づる折、ただ一反だけ携へてきた、無垢の白麻の反物がある。あれを取つてくれ」
 千鶴は涙に濡れた顔を拭ひもせず、立ち上がり、棚の奥より白麻の反物を抱き下ろしてきた。
 一度も人の汗に触れたことのなき、白布であつた。
 千鶴はそれを青玄の前に広げた。
「青玄さま……何をなさるおつもりですか」
「染めるのだ」
 青玄は小刀を取り、自らの左胸——心臓の真上の皮膚へと、刃の先を当てた。
「この世で、ただ一反の衣を染め上げる。……千鶴、お前が纏ふための衣だ」
「いけませぬ!」
 千鶴が叫び、青玄の腕に縋り付いた。
「お前さまが死んでしまつては、何のための生でございますか! 色など要らぬと申しました!」
「死ぬのではない」
 青玄は微笑んだ。
 硬化した青き唇が、歪んで笑みの形を作つた。
「わたしは、布になるのだ。この白麻と縒り合はされ、お前の涙で建つたあの甕の底へ沈む。……お前がその布を纏ふとき、わたしはお前の肌の上で、風を吸ひて青く息づく」
 青玄は、千鶴の手を己の胸の上に置いた。
 千鶴の手のひらに、青玄の心臓の鼓動が伝はる。
 とく、とく、と。
 それは、もはや人間の脈拍ではなかつた。甕の底で発酵する藍の息吹と、一つに重なり合つた、力強き地鳴りにも似た鼓動であつた。
「千鶴、お前の眼を見よ」
 青玄が囁いた。
 千鶴が目を見開いたとき、視界が変はつてゐた。
 灰色の闇が、音を立てて崩れ去つてゐた。
 小屋の壁も、吹き込む雨も、土間の砂も、すべてが、千鶴の瞳の奥で、淡き光の粒となつて輝き始めてゐた。そして、その世界の真ん中に座す青玄の姿は、深く、ただ青く、千鶴の眼に焼き付いてゐた。
「……あ……ああ……」
 千鶴の口から、感嘆の吐息がこぼれた。
「青……これが、青玄さまの青……」
「さうだ」
 青玄は小刀の刃を、躊躇ふことなく己の胸へと突き立てた。
 痛みは、やはりなかつた。
 胸の裂け目から溢れ出でたるものは、血にあらず。
 鮮烈なる、黄金に輝く液であつた。その液が、広げられたる白麻の反物へと、滝となつて注ぎ込まれてゆく。
 白布が、液を貪るやうに吸ひ込んでゆく。
「千鶴、櫂を取れ」
 青玄は己の体を白麻で包み込み、大甕の縁へと這ひ進んだ。
「布を……わたしを、甕の底へと沈めよ。……そして、引き上げ、関の瀬戸の風に晒せ。……風晒しの刻を、お前の手で完遂するのだ」
 千鶴は、もはや泣き叫びはしなかつた。
 その瞳に、青玄の魂の青を宿した千鶴は、巫女のやうな静けさを湛へて立ち上がり、白麻に包まれたる青玄の体を、その両の腕でしつかと抱き止めた。

© 2026 ゐで保名 ( 2026年10月14日公開 )

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