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リチウム

牧野楠葉

人生最後かもの原稿なのでネットで幅広く読まれることを祈ります

小説

27,497文字

★序

 プロフィール欄を打っている。
 一九九七年、東京生まれ。二十三歳で化粧品の会社を作る。自社ブランドの化粧水は、四年で累計二百万本売れた。著書三冊。一冊目は映画と演劇の批評集、二冊目は病気と経営の本で十一万部、三冊目は対談集。Xのフォロワーは十八万七千人。双極性障害Ⅰ型。診断は十九歳。処方は炭酸リチウム六百ミリグラム、ほか二種。通院は二週に一度。テレビは木曜のレギュラーが一本。離婚歴が一度。現在の夫は新宿のバーテンダー。夫は大うつ病。
 一行ずつ、同じ大きさで打つ。会社と病名を、化粧水と夫を、部数とミリグラムを、同じ書体、同じ級数で。等しく重要に、等しく重要でなく。それが私の仕事で、私はこの仕事で生き延びてきた。
 テレビは木曜のレギュラーが一本、と打った。その席は、改編で消えている。消えた行を消せば、目録が一行短くなる。短くなる目録を、私は打ったことがない。増える行しか、打ってこなかった。
 文章で、狙えないものはない。泣かせろと言われれば、三行で泣かせる。買わせろと言われれば、紙一枚で買わせる。信じさせろと言われれば、病名一つで信じさせた。狙った数字を外したことは、二十三のときから一度もない。
 病気の話が、いちばん読まれる時代になっている。私は、その時代の、いちばん上手い売り手だった。
 打ち終わって、送信を押した。
 画面が暗転して、黒い硝子に、顔が映る。
 女、二十九歳。この目録の全部を、これから失う。
 失う前に、この欄に書かなかったことを、書いておく。売れる書き方なら、誰よりも知っている。売らない書き方は、習っていない。習っていないまま、書く。

★水

 コルレに初めて入った夜のことは、雨の量から言える。
 傘が要るか要らないかの境の雨で、ゴールデン街の路地は石が黒く光っていた。夕方から三本、取材を受けた日だった。病気と経営、回復と発信。同じ話を三度して、三度目には、自分の話が他人の原稿に聞こえた。声を使い切って、終電までの一時間、誰とも喋らずに座れる椅子を探して、いちばん奥の路地の、いちばん奥の店の戸を引いた。
 五席の店で、カウンターの中に若いバーテンダーが立っていた。先客は二人。氷を落とす手つきと、客より先に笑う声で、店は回っていた。
 棚の酒は少なかった。上の段にジンが三本、下の段に、見たことのない色のリキュールが一本。先客の二人は競馬の話をしていて、負けた話を、勝った話の声で喋っていた。バーテンダーは白いシャツの袖を肘まで折っていて、左の手首に時計の日焼けだけがあった。時計はしていない。
 水をください、と言った。バーで水しか頼まない客を、店は冷たくあしらっていい。バーテンダーは何も言わずにコースターを置いて、洗ったばかりのグラスに注いだ。
 一杯目が消え、二杯目が消える。先客の会話を聞くともなく聞いて、笑うところで笑わず、ただ座っていた。喋らない客でいることを誰にも咎められない一時間は、その年の東京で、その椅子の上にしかなかった。
 三杯目の水を注ぎながら、バーテンダーが言った。
「リチウムのひとでしょう」
 グラスを持つ手が止まった。
「喉が渇くんだよね、あれ。うちの客に、あと二人いる」
 置かれた水には、氷が入っていない。
「薬の水に、氷は要らないでしょう?」
 それが、夫になる男だった。
 ――ここで一度、当時の私を説明しておく。誰にも訊かれなかった夜の分まで。
 教養の出どころから、先に言う。学校ではない。病気の時間割だ。
 鬱の体で摂取できる芸術は、映画だけだった。本は三行で目が滑る。美術館は、立って歩く体力が要る。音楽は、感情の栓を開けにくる。映画は、横になった人間のところへ、向こうから百二十分で進んでくれる。鬱の季節は、一度に二か月から四か月来る。一日三本観れば、一季節で二百本になる。十九から二十三までの鬱を合算して、千本を超えた。
 演劇は、躁の芸術だった。眠らない体は、夜の外出を欲しがる。当日券は、衝動の値段で買える。躁の三週間で、十四本観た月がある。拍手の中でいちばん醒めている客が私で、醒めた目で観た舞台の記録が、のちの批評の在庫になった。
 つまり私の教養は、波の副産物だった。鬱が映画をくれて、躁が演劇をくれた。
 商売の出どころは、時給千八十円の席だった。
 二十歳から、化粧品の通販会社で働いた。最初の結婚と、離婚と、酒の二年は、ちょうどこの在職と重なっている。受注画面、在庫表、コールセンターの応対録、同梱チラシの折り方。会社という機械の内臓を、いちばん安い席から三年見た。広告費の請求書が経理の島を通るたび、原価の横で数字が跳ねるのも見た。
 売れる文章の作り方は、コールセンターで覚えた。応対録を読む係だった。
 二年目の秋、解約の電話が月に四百件を超えて、課長が、引き止めの手紙を書ける者はいるか、と島に向かって言った。書く係は三人いて、三人とも黙った。私は、応対録を四百件読んでから書いた。解約の理由は、効かなかった、が最多になる。ただ、四百件のうち三百件で、客はその前に、効くと思って買ったのに、と言っている。効く、を疑っていない。疑っているのは、自分の肌のほうだった。
 手紙には、商品のことを書かなかった。お肌のことを、誰かに話せていますか、と書いた。一枚の紙で、解約の三割が戻った。課長は一万円の封筒をくれて、中身には触れなかった。触れないのが、あの島の礼儀だった。
 残酷の量は、そこで覚えた。戻った三割は、肌の話を誰にもできない人間だ。それを知っていて、営業も経理も隣の席も、昼には弁当を食べていた。人はどれだけ残酷になれば食っていけるか。誰の仕事を見ても、それは書いてあった。私は、書いた側になった。二十一だった。
 二十三で作った会社は、発明ではない。勤め先の仕組みから広告を引き算して、文章を足し算した複製だ。引き算のほうは、請求書を三年横から見ていれば誰でも思いつく。足し算のほうは、私にしか書けなかった。
 ――私にしか、と言い切るこの癖ごと、のちに私の商品になった。
 会社の商品は、化粧水が一本だけだった。
 薬を飲む人の肌のための化粧水。向精神薬の多くには抗コリン作用というものがあって、唾液と汗の出る量を絞る。口が渇く。これは、処方箋をもらう人間なら誰でも知っていて、もらわない人間は誰も知らない。リチウムは、人によっては腎臓に働いて、水を一日何リットルも飲ませる。私は、そちら側だった。
 肌が乾くかどうかは、知らない。私は乾かなかった。根拠は、応対録のほうにある。三年分の応対録に、薬を飲んでいる、と自分から言った客が三百六十人いた。そのうち九十人が、肌の乾燥を理由に買っていた。薬のせいだと思う、と言っている。本当に薬のせいかは、誰も確かめていない。確かめなくても、九十人は、そう思って買っている。思って買う人間の数が、根拠だった。
 私はそれに、薬肌、という名前をつけて、瓶に詰めた。医学の名前では、売れない。つけた名前で、売れた。薬肌、という言葉は、それまで誰も使っていない。使われていない言葉は、意味を私が決められる。薬を飲む人の肌、とだけ決めて、どの薬かは言わない。九十人が自分で言っていたことを、名前にして返した。それだけで、名前は、本人の言葉に聞こえる。
 薬機法の条文は、二十歳のときに全部読んである。効く、治る、改善、は書けない。それは誰でも知っている。知られていないのは、書けない語を一つも使わずに線を越える書き方があるほうだ。薬の名前を出せば越える。副作用、と書けば越える。薬肌、の二文字さえ、薬の一字が効能を匂わせたと読まれれば、それで終わる。線の位置を、私は一ミリの幅で知っていた。知っているから、線の上を歩けた。
 売り方も一つに決めた。広告を一円も買わない。店に置かない。通販だけ。瓶の箱には成分表と、私の書いた説明のカードを一枚入れる。カードには、渇きのことだけを書く。薬の名前も、副作用という語も、書かない。空けておいた場所を、読む人間が自分で埋める。自分で埋めた分だけ、人は信じる。広告を買わないのは、清潔だからではない。カードは、箱を開けた人間の手の中で読まれる。夜、一人で、薬を飲んだあとで。読む人間がいちばん弱い時刻と場所を、広告は買えない。カードなら、そこへ届く。説明が、私の商品だった。化粧水は、その容れ物になる。
 二年目に、月商が一億を超えた。広告費ゼロ、負債ゼロ、商品一つ。出資の申し出は十七件、全部断った。経済誌が「文章で売る会社」と書き、ピッチコンテストの席に、私は出場者ではなく審査員で座った。
 文章は、会社と同じ年に始めている。酒をやめた二十三の春、眠る前にXへ映画の三行批評を上げるのを日課にした。酒のない夜の、埋め草だった。書く在庫なら、鬱の四年分、千本あった。三行が三十行になり、noteに移る。『下女』の階段の話が三十万人に読まれ、エドワード・ヤン論が翌月それを抜いた。眠らない週があり、その勢いで有料プランに切り替えて、月額五百円のサブスクリプションを始める。読者は半年で四千人になった。躁の勢いだったのか、商売の嗅覚だったのか、区別は当時からつかない。当たった決断は、症状の欄に書かれない。批評で食えるわけがない、と言われた批評は、月二百万の定期収入と、化粧水を売る文章の稽古になった。二十四で、noteをまとめた批評集が書籍になる。映画と演劇の本で、著者の欄に、経営者の肩書きが付いた。
 二十五歳の秋、経済番組の討論に呼ばれた。
 事前の打ち合わせは四十分あって、作家の顔は最初の五分で切られた。批評の本は、経済の視聴者には遠いので。構成作家はそう言って、経営者、の三文字を企画書の私の名前の横に置いた。文章の書ける若い社長。番組が買ったのは、その形だった。病名は、企画書のどこにもない。公表そのものを、まだしていなかった。
 本番、司会は化粧水の実物をカメラに向けて、前半を褒め言葉で使った。広告費ゼロ。店舗ゼロ。商品は一つ。それで月商一億――すごいことですよ、これは。観覧席が拍手をして、私は、運が良かっただけです、と言った。謙遜は、練習してきた通りに出た。時代が味方しただけです。お客様に育てていただきました。使い慣れた三枚の札を、順番に切った。
 褒められている数字の出どころ――薬肌、当事者しか知らない渇き――には、司会は触れない。触れる言葉を、番組はまだ持っていなかった。私も、出さなかった。
 中盤、テーマが変わった。精神疾患と雇用。ここからが討論です、と司会が言って、年配のコメンテーターが、まず口を開いた。
 精神疾患のある方の雇用はね、企業には正直、リスクなんですよ。善意でどうにかなる話ではなくて、株主への説明責任の問題です。
 シンクタンクの研究員が、手元の紙に目を落として続けた。メンタル不調による休職と離職の経済損失は、国全体で年に数兆円。一人が長期休職した場合の企業負担は、平均で年収の一・五倍前後という試算もあります。リスクという表現に、数字の根拠はあります。
 反対側の席から、ITの若い社長が身を乗り出した。うちは何人も採ってますよ。優秀なら病気なんて関係ない。実際、うちのエースがそうですし。
 最後に精神科医が口を開いた。法定雇用率という制度があり、合理的配慮は企業の義務です。ただ、採用の現場で病名を開示できる人は、現実にはごく少数です。開示した瞬間に、別の選考が始まるからです。
 四人とも、論理は通っていた。リスクと言った人は株主の話をして、数字の人は数字の話をして、擁護した人は、優秀なら、という条件を付けた。制度の人は、制度が守れていない現実まで正確だった。病気を語る声が四つ並んで、病気の側の声は、ゼロのまま進んでいる。全員が、当事者はこのスタジオにいない前提で喋っていた。
 その前提の中に、私は座っていた。
 生放送だった。台本にない三秒が空いて、私は手を挙げた。
「そのリスクです、私が。双極性障害Ⅰ型。手帳も持っています。社員九人に、給料を払っています」
 スタジオが静かになった。司会が何かをまとめ、CMに入った。
 切り抜きは、その夜のうちに四百万回、再生される。フォロワーは一晩で九万人増えた。時の人、という言い方を、翌週の雑誌がした。
 番組は木曜のコメンテーター席をくれた。経済誌の表紙になり、衣装は貸衣装ではなく私物でと指定される。講演料の相場は一年で三倍になり、省庁の勉強会に呼ばれ、空港で声をかけられた。二冊目の本の企画は、放送の翌週に来る。病気と経営の本で、十一万部になった。
 あの三秒で、私は病名を売り物にした。売り物という言い方を、当時は、旗と呼んでいた。
 説明は、以上になる。コルレは、この全部を要求しなかった。
 顔は知られているころで、木曜の昼にはテレビに出ていた。夫は最後まで、番組の話を一度もしない。この店で見られているのは、水の減りだけだった。
 二度目の夜は、映画の話をした。アルトマンの『ロング・グッドバイ』は、猫の餌の場面だけで一本と言えるか。ペキンパーなら『ワイルドバンチ』か、『ガルシアの首』か。バーのピアノ弾きの負け犬が、腐っていく首を助手席に乗せて国境を越える話のあいだ、男の布巾の手が止まっていた。話しているうちに客が二人帰って、店には私だけが残った。
「『さすらいの二人』は」
 と聞いた。男は氷を割る手を止めずに答えた。
「最後の七分のために、ほかの全部がある」
「あれで何も感動しない人とは」
「話ができない」
 言い終わりが、重なった。
「『女王陛下の007』は」
 と男は新しい氷をグラスに落としながら言った。
「ボンドが唯一、負ける話。シリーズでいちばんいいのは、あれ」
「主題歌で泣くひとでしょう。世界中の時間が俺たちのもの、っていう」
「あれは主題歌じゃない。挿入歌」
「泣くひとの訂正の仕方」
「泣かない。レーゼンビーでは泣かない」
 どちらが先に笑ったのかは、覚えていない。あの歌の題が、映画の最後の台詞でもあることは、どちらも言わなかった。noteで三十万人に読まれた映画の話は、一度も出さなかった。ここでは、書く前の目で観たものだけを喋った。
 三度目の夜、閉店まで残った。看板の灯を消してから、男は自分のグラスに炭酸水を注いだ。
「そっちは、いつから」
「十九」
「こっちは二十四。うつのほう」
「きっかけは」
「厨房。店長が倒れて、一年、休みなしで回した。回し終わった朝、起きられなくなった。それだけ」
「それだけ」
「それだけで、なる」
「双極の、Ⅰ型ってどういうの。Ⅱと何が違う」
「躁で入院までいくのがⅠ。眠らないで四日動いて、会社を作って、口座を空にして、本人だけ絶好調。上に振り切れる回路が付いてるかどうか」
「こっちは、下しかない」
「下は、たぶんどっちも同じ底」
 それから処方薬の名前で、しばらく話した。銘柄と、ミリグラムと、副作用。手の震える薬、太る薬、性欲の消える薬、夢ばかり見る薬。バーの客が酒でやる話を、私たちは薬でやった。
「少し元気になると、治ったって言われるでしょ」
「言われる。波の上にいるだけなのに」
「波のいちばん上で会った客には、二度と病人に見えない」
「客どころか、親にも見えない」
 男は炭酸水を飲み干して、グラスを洗った。閉店後の店に、洗い物の音だけがした。病気の説明を、一度もしなかった。する必要のある相手と、それまで会ったことがなかった。
 四か月後に籍を入れた。式はしないまま、証人の欄は店の常連と、会社の役員が書いた。
 結婚した年、二人の病気は、どちらも軽くなった。夫の皿が増え、私は眠れるようになる。治ったのだと、あのときは思っていた。

★皿

 結婚した年の記憶は、水曜に集まっている。
 水曜は夫の店の定休で、映画と焼き飯の日だった。私が会社から帰る時間に、皿が出る。バーテンダーの盛りつけで、家の飯が出てくる。
「なんで店、バーにしたの。厨房でやっていけたでしょう」
 と、皿越しに聞いたことがある。夫は皿を拭く手を止めなかった。
「高校から居酒屋の厨房にいてさ。料理は覚えたけど、厨房って、客の顔が見えないんだよ」
 布巾を畳んで、食卓の向こうに立った。カウンターの立ち方だった。
「うまい飯は、人を黙らせる。うまい酒は、人を喋らせる。俺は、聞くほうが好き」
 聞くほうが好きな男は、その一年後に、聞くことも喋ることもやめる。当時の私は、いい話として聞いた。投稿はしなかった。なぜしなかったのかは、覚えていない。
 記録に残していない水曜が、一つだけ、時間の順に再生できる。
 七時十分に家に着くと、換気扇が回っていて、油と葱の匂いが玄関まで来ている。夫は火の前にいて、振り向かずに、おかえり、と言った。中華鍋を振る音は、シェーカーと同じ拍子だった。
 焼き飯は山の形で、盛りは突き出しのそれだった。炭酸水の栓を、二つ揃えて開けた。
 胡椒が、いつも少し多い。言ったことはなく、言わないまま、多いのに慣れた。テレビの台は前の住人が置いていったもので、脚の一本が短く、雑誌を挟んで水平にしてある。挟んであるのは経済誌で、どの号かは見ていない。
 その夜は、カウリスマキの『浮き雲』だった。夫が選んだ。ヘルシンキのレストランの給仕長と、市電の運転手の夫婦が、同じ年に二人とも職を失う。運転手の解雇は、事務所でカードを引かせて決める。引いた男は、何も言わずに帽子を取って出ていく。妻も何も言わない。二人はソファに並んで座って、月賦で買ったテレビを見ている。
 この映画の人間は、説明をしない。失業しても、金が尽きても、説明の場面がない。台詞のかわりに、座っている。
 最後に、夫婦は自分たちの店を開く。開店の日、客は来ない。料理人と、ドアマンと、二人で、空の店に座って待つ。何時間も。
「客が来ないあいだも、店は開いてるんだよな」
 と夫が言って、焼き飯の最後の一口を掬った。
「鍵が開いてれば、開店。それだけの話」
「うまいこと言った顔しないで」
「してない」
 していた。頬に飯粒の付いた顔で。指でとって口に入れるまでを見ていたら、映画は三分進んで、電話が鳴り、最初の客が入っていた。巻き戻すかと聞かれて、いい、と答えた。筋は知っている。このあと店は客で埋まり、夫婦は外に出て、空を見上げる。そこで終わる。見なかった三分のほうに、飯粒があった。空を見上げる二人は、来週も観られる。隣にこの人がいて、同じ画面が点いている。それが、あの部屋の使い方だった。
 十一時に、薬のシートを二人分、箸置きの横に並べた。飲んだ、と確認し合う。儀式は三十秒で終わる。終わってから夫は皿を洗い、私は風呂を入れた。水音が二種類、壁越しに重なって、どちらもただの生活の音だった。
 寝る前に、夫が明日の米を研いだ。眠る人間のいる家で米を研ぐ音は、店じまいの音に似ている。聞きながら先に布団へ入って、電気が消えるまでを覚えていない。眠りに、努力が要らなかった。
 ――この水曜を、二百字に要約して、支え合う、の一語を添えて投稿した。指は迷わない。二万回、共有された。
 要約に入らなかったもの。シェーカーの拍子。飯粒。三分。米を研ぐ音。眠りに努力が要らないこと。入らなかったもののほうが、いま思えば、全部だった。
 出版社の会議室で、帯案が机に並んだのは、その冬だった。
「双極性障害Ⅰ型の妻と、大うつ病の夫。支え合う夫婦――でいきましょう」
 編集者は帯の四文字を指で叩いた。私は赤を入れなかった。嘘だとは、思っていなかったからだ。事実、皿は出ていた。事実、私は眠れていた。事実は、いちばんよく売れる。
 大うつ病、は編集者の案ではない。私が出した。大うつ病性障害は正式の診断名で、うつ病は、その通り名になる。同じ病気で、字が二つ多い。夫は自分の病気を、うつ、としか言わない。カルテと、この帯だけが、大、と書く。大、の一字があるほうが、売れる。夫には、見本が届くまで、帯を見せていない。
 会社は、その年がいちばん伸びた。化粧水は月に九万本出て、社員は十四人になる。人を雇い、給料を払い、取材を受けた。名刺の肩書きは代表取締役で、私は二十七歳だった。

 箸置き、という道具を、私は結婚するまで使ったことがなかった。
 母から電話が来たのは、雑誌の発売日だった。
「見たわよ。あんた、顔が変わった。いい流れが来てる」
 母は、流れ、と言った。
 母の語彙で、世界は三つでできている。流れと、サインと、お告げ。娘の会社は「流れ」、娘の病気は「サイン」、自分の躁は「お告げ」だった。母も同じ病気で、Ⅰ型だ。病識は、ない。薬は、飲まない。神様が、母の主治医だった。
 子どものころ、母の「お告げ」は手から来た。理由は、そのときどきで違う。箸の持ち方、テストの点、母より先に泣いたこと。翌朝の母は機嫌がよく、気前がよく、私の弁当に苺を入れた。殴った日の記憶は、母の中に残らない。波が、覚えていることを許さないのだと、いまなら病名で説明できる。説明できることと、許せることは、別の棚にある。
 父は、どの記憶でも背中でいる。テレビの前の背中、運転席の背中。声は一度だけ覚えている。母さんも大変なんだ、という声だった。
「お金の流れはね、感謝で太くなるの」
 電話の母は、まだ喋っている。私は相槌の位置だけ確かめて、決算の画面を見ていた。
 十九で診断された日、最初に思ったのは、母と同じ名前の病気で、母と違う患者になる、だった。母を許すかわりに、病気を説明して生きていくと、あの日に決めた。
 殴られた食卓のことは、どの本にも書いていない。夫の食卓は、二万回共有された。二つの食卓は、私の中で同じ引き出しに入っている。書けるほうだけを、書いて売った。

★数字

 通知は、三月四日に来た。
 効能の表示が、薬機法に触れている。正式名は、医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律。長い名前の法律が、瓶の箱のカードにあった、副作用、の三文字と、瓶の、薬肌、の二文字を並べて、うちの化粧水を未承認の医薬品と呼んだ。効く、とは、どこにも書いていない。書かなくても、薬の副作用に、と言えば、効能を謳ったことになる。根拠は六十八条。改めなければ、販売は継続できない。趣旨は二行で、条文の写しが三枚付いていた。
 副作用、は私が置いた。四年目の冬、夫の皿が週に一枚になった月に、カードを刷り直した。それまで読む人間に埋めさせていた三文字を、こちらから書いた。効く、は使っていない。使わなくても、薬に触れれば線の向こうになる。線は、二十歳から知っている。知らなかったのではない。知っている、が働かなかった。
 眠っていない五日目だった。その週、私は誰より早く会社に着いて、誰より速く喋り、十四人に昼を奢り、企画を三つ配った。社長、絶好調ですね、と言われて、うなずいた。うなずいた顎が、そのまま閉まって、夕方まで開かなかった。歯の鳴る音で気づいた。会議の途中で、目尻から水が出た。可笑しい話のときで、拭いたら、誰も気づかなかった。トイレの鏡で、頬の内側を噛んでいるのを見つけた。いつからかは、わからない。喋っている言葉が口より先に出ていて、私は後ろから追いかけている。追いつかない。夜、横になると、天井が近い。眠れば止まる。止まれば、五日分がいちどに来る。それがわかっているから、起きていた。
 明日のことは、考えなかった。考えないようにした、ではない。その週、明日は、なかった。十四人の給料も、通知も、明日の側にあって、明日ごと、なかった。手元にあったのは式だけで、三文字を足せば、出荷が伸びる。書いた月、出荷は一割八分伸びた。式は、合っていた。
 化粧水は、その月も九万本売れていた。売れながら、止まった。表示を変えるには容器を全部作り直す。作り直す金は、次の出荷が止まれば消える。倉庫には四十万本があり、四十万本は、出せない在庫という名前に変わった。
 六月、会社を畳んだ。最後の日のことは、分単位で覚えている。
 朝八時、誰より先に着いて、十四人分の封筒を確認した。離職票の説明書き、未払いのない給与明細、書き上げるのに三晩かけた推薦状。給料は最後の月まで、一円も遅らせていない。守れたものは、それで全部だった。
 十時、全員を集めて、七分話した。原稿は前夜に書いて、四回声に出して練習してある。負債の額、法的な手続き、今日までの経緯、これからの流れ。質問は三つ出て、三つとも答えられた。私の説明は、その朝も上手い。上手さは、誰の雇用も守らなかった。
 それから一人ずつ、会議室で向き合った。
 最初は、九人のころからいる最古参だった。生放送の日、スタジオの出口で待っていて、社長、かっこよかったっす、と言った人だ。この日は何も言わずに封筒を受け取って、深く一度、頭を下げた。下げられる側になった私は、より深く下げ返すことしかできない。角度の勝負のかたちになって、先に上げたのは、向こうだった。
 五人目は、経理だった。数字を扱う者どうし、傷心より先に実務の話になる。社会保険の資格喪失日、住民税の切り替え。話し終えてから、経理は言った。
「帳簿はきれいでした。最後まで。それは社長の自慢にしていいです」
 八人目は、放送を見て履歴書を送ってきた子だった。双極性障害Ⅱ型。うちが初めての正社員で、勤続一年半。封筒を膝に置いたまま長く黙って、それから、次も病気を言って就活していいと思いますか、と聞いた。
 いいと思う、と私は答えた。旗を振った人間の声で、旗が守れなかった人間に、そう答えた。あの答えが正しかったのかは、いまもわからない。
 十四人目が終わったのは、四時二十分だった。
 六時、運送屋が大量のパソコンとモニター、そして観葉植物を三鉢運び出して、フロアには机と、機能を失った複合機だけが残った。観葉植物は、パキラと、名前を知らないのが二鉢だった。パキラは最古参が入社の年に持ってきたもので、引き取るかどうか、聞くのを忘れた。倉庫の四十万本は、産廃の見積もりが出るまで動かせない。化粧水の匂いは、最終日もいつも通りだった。ラベンダーに寄せた香料で、この匂いを、私は最初から好きではなかった。
 七時、十四脚の椅子を、一脚ずつ机に上げた。誰にも頼まれていない。閉店の手順は、夫の店で覚えたものだった。
 最後に電気を消して、鍵を二度回した。
 それが、あの会社で私が聞いた最後の音だった。
 九月、破産の申立てをした。書類の綴じ紐は緑で、私の名前が、債務者、という欄にあった。
 十一月、視界が滲んで、水が一日四リットルに増える。喉の渇きをリチウムのせいにして、二週間、放っておいた。倒れたのは台所で、目が覚めたのは白い部屋だった。糖尿病性ケトアシドーシス。血糖六百二十。即入院。
 モニターの数字を見て、まず思ったのは、六百二十は月商の単位ではない、だった。
 退院の日、管理栄養士が紙をくれた。一日の糖質の上限と、避ける品目。ショートケーキ、大福、加糖の缶コーヒー、練乳。品目を読み上げて、全部やめた。以後、口にしていない。
 インスリンは朝晩の二本になり、冷蔵庫の卵の隣が置き場になった。打ち忘れれば、六百二十に戻る体だと、退院の説明で言われている。
 十二月、知人の社長から電話が来た。在宅でいい、体調に合わせていい、うちで働かないか。月給は、かつて私が新卒に払っていた額より、二万円安かった。
 雇っていた女が、雇われる側になった。感想はなかった。二万円、と思って、それから、有給は何日からだろう、と思った。

 会社が倒れる前、私には顔が三つあった。経営者の顔、著者の顔、当事者の顔。三つとも、画面の中にあった。
 通知の件は、五月に業界の記事になった。見出しは「人気化粧品に誇大表示」。記事は事実で、事実は見出しになると別の形をしている。
 同じ日、二年前の投稿にコメントが付いた。支え合う夫婦の写真の下に、そんなことだろうと思ってました。その上には、二年前の、素敵なご夫婦、がそのまま残っている。同じ写真の下で、二つの時代が並んでいた。
 講演は三件、順に消えた。主催者の文面は三通とも丁寧で、三通とも「諸般の事情」だった。
 木曜の席は、改編で消えた。リニューアルに伴い、という文面が、局のプロデューサーから、電話ではなくメールで届く。後任は、明るく闘病を語る二十二歳のタレントだった。プロフィールの一行は、消さなかった。
 倒産の週、昼の番組が私を特集する。コメンテーター席で私の話をしているのは、私ではない人たちだった。画面の下の帯に、転落、の二文字が出る。自宅のテレビで、音を消して見た。
 例の切り抜きには、新しいコメントが付いていく。いま見返すと痛い。調子に乗ってたんだろうな。四百万回の再生数は、そのまま残っている。再生数は、味方の数ではなかった。
 転落の解説記事が、その月いちばん読まれた媒体がある。書き手の欄は、知らない名前になっている。私が書いた。依頼のメールには、当事者に近い視点で、とあった。近い、どころではなかった。
 薬機法のどの条文で会社が死んだか。躁の高揚と経営判断が、外からも本人からも見分けられない構造。支え合う夫婦という商品の、設計図と原価。誰よりも正確に書けるのは私で、正確さには、いつも通り、読者が付いた。匿名の口座に、原稿料が四万三千円入った。
 解説される側に回るくらいなら、解説する椅子に、偽名で座り直す。座って、自分を切り開いて、断面を売った。いちばん深く刺せる角度は、本人が知っている。ゲラを読みながら、三度、息が止まった。三度とも、いちばんうまく書けた行だった。
 四冊目の企画は、支え合いの続編だった。編集者からの連絡は「いったん寝かせましょう」で止まり、以後、来ていない。帯の四文字を考えた人と、同じ人だった。
 フォロワーは、破産の報道の週に四千人減った。減る数を、私は毎晩数えた。数えても減る。数えるのをやめられなかった。減るのを止める方法のほうは、一つも思いつかなかった。
 数え終わるといつも、画面を引き続けた右の親指だけが冷えている。机の端の麦茶は、口をつけないまま朝になった。
 最後の投稿は、退院の報告だった。心配をかけたこと、少しずつ戻ること、体を大事にすること。いいね、は過去最多だった。
 不幸は、いちばん数字になる。知っていて、知っているうちには入れていなかった。
 講演の依頼は三か月でゼロになり、半年後に一件来た。無償で、という条件が、依頼文の二行目にあった。
 後任のタレントの本が出る。平積みの帯の文言は、私の言い回しを少し薄めたものだった。著者近影の下の一行目が、病名だった。年齢より先に来ている。私がやったときは、三行目だった。書店で三十秒読んで、棚に戻した。旗は、次の人が持っていた。
 それきり、打っていない。アカウントは毎日開く。開いて、数字を見て、閉じる。著者の顔は、ログインしたまま止まっている。

★閉店

 皿は、少しずつ減った。
 週に五枚が三枚になり、一枚になり、春には、台所に立つ音がしなくなった。
 最後の皿は、鶏と葱の鍋だった。その夜、夫は初めて、味を見てくれ、と言った。塩が濃いのか薄いのか、わからない。利き酒を仕事にしてきた舌の持ち主が、鍋の前で、お玉を私に渡した。鍋はいつも通りの味だった。いつも通り、と伝える。そう、とだけ返ってきた。作り終えた夫は、台所の床に座り込んで、二十分、立たなかった。
 支え合う夫婦の本の見本が家に届いた月と、鍋が最後になった月は、同じ月だった。
 見本を最初に開けたのは、夫だった。帯を読んで、大うつ病、のところで指が止まって、それから、いい本だね、と言った。棚に立てたのも夫で、台所からいちばん見える棚だった。
 本が出た週から、店の客が変わった。本を持って来る客がいた。旦那さんですよね、と最初に言って、それから、うつって、どんな感じですか、と聞く。夫は氷を落としながら答えた。答えは上手かった。私の本の言い回しで、答えていた。聞く側の男が、聞かれる側に回った。閉店後に店の床に座り込んで立てなかった日が、その月に二度あったと、あとで店主から聞いた。
 夫は、私に一度も言わなかった。私も、聞かなかった。並べただけで、因果は言えない。言えないまま、本は棚から動かしていない。
 夫の一日は、夕方から始まる。朝がいちばん重く、日が落ちるころに、少しだけ動ける。動ける時間に風呂へ入れれば良い日で、入れない日は、三日同じシャツでいた。歯を磨く、という工程が階段の何段分にあたるのか、私には最後までわからなかった。
 二年目の冬の、ある木曜を、あの水曜と同じ順で書ける。書けてしまうことが、書きながらわかった。
 七時十分、家に換気扇の音はない。台所は夜のままで、中華鍋は吊るされた位置から、もう半年動いていない。
 九時、私は机で会議に出る。画面の中で相槌を打ちながら、耳は廊下に置いてある。戸の向こうで、寝返りが一度。朝のうちに聞ける、生きている音は、それで全部だ。
 十一時二十分、トイレの水が流れた。戸が開いて閉じるまでの四秒、廊下の空気が動く。顔は見ていない。見ないことにしているのではなく、見せないように計られた四秒だった。
 午後一時、戸の前に盆を置く。塩むすびと、味噌汁の椀と、白湯。音を立てずに置く練習が、いつのまにか上達していた。三時に下げに行くと、むすびが一つ減っていて、椀はそのままだった。減った一つを、良い日、と呼ぶ帳簿を私はつけている。
 四時四十分、日が落ちる少し前に、戸が開いた。夫が洗面所まで歩く。十一歩。水音が一種類だけして、戻る。廊下ですれ違うとき、夫は壁の側に体を寄せた。触れないためではなく、廊下の幅を私に多くくれるためで、その癖だけが、店にいたころのまま残っている。
 七時十分、二年前なら山の形の焼き飯が出た時刻に、台所で一人分の飯をよそう。テレビは点けない。消してくれと言われるからではなく、言う力が向こうにないぶん、こちらで先に消しておくからだ。
 九時、薬のシートを二人分、箸置きの横に並べる。儀式の形は残してある。夫の分は盆に載せて、戸の前へ。十分後に取りに行くと、シートだけが空になっていた。飲んだ、の確認は、空のシートが代わりに言う。
 十一時、戸の下から光は漏れない。米は研がれない。研ぐ音のない夜に慣れるまで、一年かかった。慣れた、と書いて、正確ではない。耳が、音のない位置へずれたのだと思う。
 深夜一時、布団に入る。眠りに、努力が要る。数を数える。羊ではなく、夫の息を思い出しで数えて、二十で止める。
 この一日を要約すれば、一行になる。夫は今日、部屋から二度出た。
 二度、と打って、投稿はしない。二度の中身――四秒と、十一歩と、壁に寄る癖――は、二百字に入らない。入らないものだけで、あの家の一日はできていた。
 コンビニまで行けた日があった。四十分後に、手ぶらで帰ってきた。飲み物の棚の前で、選べなくなったのだと言う。冷たいか常温か、糖のあるなし、五百か千か。決める、という動作だけを、店に置いて帰った。
 昼夜が逆になり、会話が一日三十語を切る。店への休職の連絡は、私がした。電話口の店主は、あいつの代わりはいないんだよ、と言った。知っている。私の家にも、いない。
 言葉が残っていたころ、夫は自分の状態を、店の言葉で言った。
「閉店してるだけだよ。潰れてはない」
 シャッターの中で在庫が古びていくことは、言わなかった。私も、言わなかった。
「うつのやつに頑張れって言うのはさ」
 布団の中から、一度だけ続けた。
「閉店後の店に、注文を入れるようなもんだよ」
 注文は、入れなかった。かわりに毎晩、夫の携帯を充電器に差す。開店の日のために、電気だけは絶やさない店のつもりだった。

 息の音を数え始めたのは、四月の朝だった。前の夜、夫が、ごめん、とだけ言って戸を閉めた。朝、戸の前に立って、開けるかわりに数えた。二十まで数えて、聞こえたら、仕事に戻る。儀式は、その朝に生まれた。開けて確かめる勇気の代わりに、数を使った。
 儀式には、決まりができた。立つ位置は戸の右で、左の耳を板に当てる。手は、戸に触れない。二十まで数えて、聞こえたら机に戻る。聞こえる前に、机には戻れない。夫の生存確認で、同時に、私の朝の儀式だった。一年目の冬、戸の向こうで夫の咳が先に聞こえた朝があって、数える必要がなかった。その朝、私は仕事が始められなかった。数え終わっていないからだった。戸に戻って、咳のあとの息を、一から二十まで数えた。母は毎朝、神様に挨拶をしてから台所に立った。挨拶を飛ばした日の母は、一日中、何かを探していた。形は、同じだった。
 在宅勤務の机は、夫の戸から四メートルにある。会議の声を落とし、息の音を数え、納期を守り、薬を確認し、処方箋を取りに行き、夜中に夫の携帯の充電を差した。妻で、稼ぎ手で、看護で、患者だった。給料は一つだった。
 離婚を考えなかったか、と問われれば、考えた。書類なら、一度出したことがある。
 最初の夫には、毎晩説明をした。なぜ眠れないか。なぜ薬が要るか。なぜ約束の日に起きられないか。説明するたび理解は一枚ずつ薄くなって、三年で尽きた。離婚届の理由の欄を埋めた夜、これからは説明の上手い人間になると決めて、なった。売れるほどに。
 二人目の夫は、最初の夜に、水の減りだけを見た。二年暮らして、病気の説明を、私はまだ一度もしていない。
 説明の要らない相手は、二十九年で一人しか現れていない。その一人が、あの戸の向こうで息をしている。毎朝数えに行く理由は、それで足りている。
 外に出る理由は、処方箋とゴミ出しだけになった。配慮として与えられた働き方が、家から出ない理由を完成させた。
 限界の形は、派手ではなかった。深夜二時、歯を磨きながら、洗面所の鏡に向かって、誰でもいいから喋ってくれ、と声に出していた。鏡は喋らない。
 通話アプリを開いたのは、その夜だった。集まっていたのは、死ぬ話をするための部屋だった。生きる話は禁止、説教も禁止、と部屋の説明にある。マイクを許可した十一人の自己紹介の欄に、病名と年齢と職業が、同じ大きさで並んでいる。私が本に書いた書き方だった。その中に、私と同じ双極性障害Ⅰ型と書いてある男の声があった。
「死ぬ前に、いちばん腹の立つことを言っていく部屋にしよう」
 男の声は、笑いながら聞く種類の声だった。順に、十人が言った。親。上司。薬の値段。病名を言った瞬間に変わる、面接官の目。六人目の女は、前向きに語れと言われること、と言った。病気を明るく発信すれば仕事が来る、と本に書いてあった。書いてある通りにして、仕事は来なかった。誰の本かは、言わなかった。私は、マイクを許可していない。
 二時間、聞いていられた。そのまま、朝が来る。
 三日目の夜、初めて喋った。何を言ったかは、覚えている。全部を等しくは喋れなかったことも、覚えている。
 七日目に、男が言った。
「あんたの声は、死ぬ声じゃない。疲れてる声だ。似てるけど、違う」
 聞き分けられる人間に、初めて会った。
 死ぬ話は、その男とだけ、通じる速さで進んだ。練炭と七輪と網は、月末に私が買う。網は売り場で炭の隣にあって、そのまま、かごに入れた。

★七輪

 網の上で一個目が焦げている。
 男は割り箸の先で角をつまんで返した。焦げは下の面に移って、見えなくなる。炭は七輪の縁まで熾きていて、部屋の光はそれだけになった。カーテンの向こうは白み始めている時刻のはずだが、布までは届かない。
 五時十分。携帯で確かめて、伏せた。
 男がコンビニの袋から二個目を出す。フィルムを剥ぐ音が長く続いた。塩むすびが二個、ソーセージが三本、六枚切りの食パンが一袋。レシートは袋の底にあり、四百八十円と読めた。
 冷蔵庫の上に白い円盤が伏せてあり、単三電池が二本、円盤から離して置いてある。昨夜からその位置のままだ。
 二時から四時のあいだの記憶は抜けていた。抜ける前までは、覚えている。男がコンビニの袋から、緑の小瓶を二本出して、言った。どうせ死ぬなら、最後くらいは。死ぬ怖さから逃げるためでもいい。――酒だった。やめて七年になるものだった。断る理由を、死ぬ予定が消していた。七年ぶりのアルコールが、リチウムの上でどう働いたのかは、知らない。二時間ぶんの記憶は、いまも見つかっていない。
「焦げてる」
 男が言って、二個目を網の端へ寄せた。端は火が弱い。米の焼ける匂いが畳の高さに溜まって、腹が鳴った。私の腹で、隠せる距離ではなかった。
 一個目を受け取る。指でつまめる温度ではなく、手のひらを二度替えた。塩むすび一個、炭水化物はおよそ四十グラム。二時間後の血糖は、たぶん二百に届く。届いたかどうかは、測らないと決めていた。手より先に、口が開いた。
 焦げの側から嚙む。九回で飲み込めた。次は七回。米は中がまだ温かく、焦げは苦い。苦みだけが上顎に残り続けた。
 人の焼いたものを口に入れるのは五か月ぶりだった。最後は夫の雑炊で、あれは三月だった。あるいは二月だった。確認していない。
 男は自分の分を四口で終えて、ソーセージを二本、火の強い側に足した。皮の破れる音が二度した。
「まだある」
 パンの袋が膝の前に置かれる。
 ソーセージを一本、パンを一枚焼いて食べた。パンは片面九十秒。男が数えていたのか、私が数えていたのか、どちらでもよかった。咀嚼の音と炭の鳴る音のほかに、部屋には何もない。新聞配達のバイクが窓の下を通って、遠ざかった。目が、煙で少し痛かった。男は靴下を片方しか履いていなくて、もう片方を探す気配もなかった。
 練炭は箱で買ってあった。箱には十二個入りとある。使ったのは、いま七輪に入っている一個だけだ。
 炭が白くなっていく。縁から中心へ白がすすんで、赤は網の真下に一点だけ残った。
 その一点が消えるまで、どちらも立たなかった。

 網が冷めてから、男が言った。
「議事に入っていい? 今日の心中の件」
 座り直した。冗談の速度ではなかった。
「昨日の夜、死ぬ理由は全部聞いた。全部妥当だった。こっちの理由も、あんたは妥当だと言った。そこは動かさない」
「うん」
「いま聞くのは別の議題。いつか死ぬ、じゃなくて、今日死ぬ。今日の分の理由を、まだ一つも聞いてない」
 今日の分。死ぬ理由を日割りで求める人間に、初めて会った。
「昨日の理由じゃ、足りないの」
「昨日の理由で足りるなら、腹は減らない。あんた、塩むすびとソーセージと、パンまで食った」
「食べた」
「死ぬ気の体は、食わないんだよ。食ったってことは、体はまだ、こっち側だ。頭が一票で、体は――」
 男は自分の腕と腹と脚を、順に指で数えた。
「――数えきれない」
 反論を探す。倒産の説明会でも、債権者の前でも、反論はいつも三秒で出た。今日の分の、今日死ぬ理由。持ち合わせが、なかった。
「延期の費用はゼロ。練炭は腐らない。十一個ある。急ぐ理由があるなら、そっちが説明する番」
「……誰が見つけると思う?」
 時間稼ぎに出した問いだった。男は初めて、答えに間を空けた。
「その問いを先に考えるのは、見つけたことのある側だけだ。……その話は、今日はしない」
 灰皿に、火のついていない煙草が一本、置かれた。
「動議。本件は延期。次回の日程は、決めない。異議は」
「なし」
 可決された。死ぬことが、初めて、事務になった。事務になったものは、急がない。
 男は七輪を流しの下に仕舞う。網は、私が洗った。死ぬために買った道具が、洗って仕舞う道具に変わるのを、二人とも黙って見ていた。

★豆球

「銀行は九時、法務局は八時半、定款は雛形があるから三十分、印鑑は即日で彫る店が新宿に二軒ある。会社は一日で作れる。前は三週間かけた。あの三週間は手続きじゃなくて、ためらいの長さだった」
 台所の蛍光灯の下で、指が四本折られている。折ったのは自分の指で、四本目の中身はもう次に移っていた。
 男は流しに背を預けて聞いている。鴨居に灰色の作業着が掛かっていて、ビルの設備を夜だけ見回る仕事の、今夜は明けだった。煙草の灰が、折れずに伸びている。吸うのを忘れていた。
「眠くない。四日目。眠くないのは困っていない。困るのは、眠くないことの説明を求められる側に回ったときで、いまここに、求める人間がいない」
「求めない」
「知ってる」
 男が灰を落として、一口吸った。
「医者は衝動って書く。カルテに。衝動性の亢進」
「書かれた」
「あれは衝動じゃない。結論だ。途中の式を省いてるだけで、答えは合ってる」
「合ってる。合ってるのが一番まずい。間違ってれば、止まる理由になる」
「止まらない」
「止まらない」
 男が窓の桟に灰を落とした。
「口座を二回、空にした。二回とも内訳を言える。いまも全部言える。後悔はあとから請求書で来る。そのときの計算では、そのときの答えが合ってた」
「躁のとき」と男が言った。「セックスはどうなる」
「三段階ある」
 指を三本立てた。
「最初、換算が始まる。目に入る全部が、使えるか使えないかに分かれて、人間も入る。次に、『あと』が消える。明日、仕事、病気、あとで困ることの箱が、丸ごとなくなる。最後に、皮膚が理屈になる。触られた場所から話が通じる。言葉より速くて、誤解が一つもない」
 男が流しから背を離した。煙草を灰皿に押しつけて、火を消す。膝を組み替えて、正座になった。
「三つ目は違う」
「どこが」
「誤解がないのは、会話じゃないからだ。会話ってのは、誤解が要るんだよ。誤解がゼロってのはさ、相手が要らなくなる、その直前の景色だ。躁のセックスは独走。相手は壁打ちの壁」
「壁なら誰でもいい。誰でもよくはない」
「根拠は」
「速度。速度の合わない相手だと事故になる。二回なった。相手が怯えて終わった。人は速度差に怯える」
「こっちは怯えない」
「知ってる。眠ってない四日目の速度に、あんたはいま全部ついてきてる」
「ついてきてない。並走してる」
「同じこと」
「違う。ついてくのは半歩遅れ。並走は同時」
 声が重なった。次の一言を二人同時に言って、どちらも譲らなかった。
 蛍光灯が鳴っている。管の端が細かく明滅して、点いてから一度も安定していない。
 立って、紐を引いた。
 豆球の橙だけになる。
 議論は終わらなかった。言葉のほうが先に尽きて、速度だけが残った。
 骨が当たった。額と顎、膝と腰骨。当たるたびに音がして、どちらの骨かは確かめなかった。畳で膝が擦れて、薄い皮膚が熱を持つ。歯が肩に入った。入れたのか、入れられたのか、区別は遅れて届く。
 数えなかった。時刻も、回数も、息も。数えていない時間がどれだけ続いたか、それも数えていない。

「うわ、あんた既婚者……? 人妻引いた」
 その声で、目が覚めた。眠ったつもりはなく、汗が冷えるところまでは覚えている。三時五十一分。男は肘をついて、こちらを見下ろしていた。
 声が出た。笑う声だった。腹の底から空気が抜けて、畳に肘をついて、目尻が濡れて、まだ出た。人妻引いた。外れくじの顔で寝起きの女を見る男が、この世にいる。笑いやむまで長くかかって……いつから笑っていなかったのか、そちらは数えられなかった。
「どうして」
「あんた、いま寝ながら数えてた」
 男は自分の胸を、指の背で叩いた。
「俺の息。二十まで数えて、二十で止めて、また一から数え直す。三周した」
 寝言に、反論の手段はない。
「寝てる人間の息を数える癖が付いてるやつは、家で誰かを看てる。それも毎朝だ。癖になるまで数えるのは、毎朝だけだから」
 男は天井を向いたまま、指を折った。
「毎回、始発で帰る。泊まらない。歯ブラシを置かない。あとは、数え合わせただけ」
 汗が冷えていく。男は起き上がって一本に火をつけ、二口吸った。
「夫がいる」
 服を引き寄せて、膝の上に置いた。
「大うつ病で、二年目。私と同い年。二十九。新宿のバーのカウンターに立ってた人で、いまは布団から出ない。私が朝、部屋の外から息の音を数える。二十まで数えて、聞こえなければ開ける」
 煙が豆球の光を横切って、消える。
「私が数えるのをやめたら、死ぬと思う」
 男は返事をしなかった。
 煙草を灰皿に置く。火はついたまま。立ち上がる。畳が鳴った。
 男が冷蔵庫の上から取ったのは、白い円盤と、抜いてあった電池だった。一酸化炭素の警報器。
 流しの前の椅子を天井の下へ運ぶ。電池を入れる。椅子に乗って、天井の金具へ警報器を戻す。手つきは、仕事のそれだった。テストボタンを押した。
 ピ、と鳴る。
「母のあとで付けた」
 男は椅子の上から動かなかった。
「練炭だった。見つけたのは、俺」
 椅子を下りる音がして、椅子は流しの前へ戻った。灰皿の煙草は火のついたまま、一本の形の灰になっている。
 警報器の戻った天井の下は、もう心中のできない部屋だった。
 新しい一本は出さなかった。男は七輪の横に座った。
「病気だから通じるんだと思ってた。最初は」
 膝の上で、指を組み直した。
「途中で捨てた、その考えは。あんた、あの朝、焦げから食っただろ」
「焦げは苦いだけだった」
「苦いほうを先に食うのは、うまいほうを最後に食うためだ。あんたは、死ぬはずだった朝に、飯のいちばんうまいところを最後に残してた」
「癖。そんなのは」
「躁だと『あと』が消えるって、さっき自分で言っただろ。うまいものを最後に取っておくのは、『あと』がある人間のやることだ。病気は、あんたの『あと』を消せてなかった」
 豆球の下で、男は私を見ていた。
「病気じゃないところが、あんたにはある。俺が惚れてるのは、そっちだ」
 答えられなかった。
「たぶん一生あんたを愛すると思う。でも、離婚してほしいとは思ってない」
 警報器は天井で黙っている。男は畳を指の背で二度叩いた。
「本当にもう無理になったら、仕事も家も全部投げ捨てて、ここへ来ればいい」
 答えなかった。
 豆球の光は天井の真ん中まで届かず、警報器は輪郭だけが見える。

★錠剤

 始発のあいだに、名刺の裏の文面を三案作った。会社を辞める文面は、一案でできた。
 六時二十六分、家の鍵を開ける。
 台所の机の上に、錠剤のシートが置いてあった。
 私の薬だった。双極性障害の処方薬。躁が来た日から、私は飲んでいない。今日で二週間になる。飲めば、この速度が落ちる。速度はいま、金と文章を作っている。
 シートの横に、水の入ったコップが置いてある。水は縁の一センチ下で止まっていた。零さずに注いだ手の、水位だった。
 置いたのは私ではない。この家には、私のほかに一人しかいない。その一人は、二年、台所に立っていない。
 シートの置き場は洗面所の棚で、ここに出すには、起きて、廊下を歩いて、棚を開けて、戻る。四つの動作が要る。私はその足音を、一度も聞いたことがない。
 廊下の突き当たりの戸の前に立った。いつもの通り、板に耳を寄せる。息の音を、一つ、二つ、と数え始めたところで、戸の向こうから声がした。
「おはよう」
 布団の擦れる音がした。
「息なら、してる。今朝はもう二百回くらいした。数えといてくれ」
 三つ目が、出なかった。夫に笑わされかけたのは、二年ぶりだった。
 二年間、私は夫の息を数えてきた。二十まで数えて、聞こえなければ戸を開ける。それを、知られていないと思っていた。知られていて、しかも、笑いに換えられていた。
「一杯、作っといた」
 間があった。
「飲んでいって。氷は抜きにした。棚卸しも済んでる。二週間、減ってない」
 薬を飲む水に、氷は要らない。二年寝ている男の、正確な一杯だった。声は二年前と同じ高さで、カウンターの中で氷を落として、客より先に笑っていたころと変わらない。
「面白かった。いまの」
 戸に向かって言った。
 返事はなかった。布団の音も、しなくなった。
 戸を開けた。
 カーテンが閉まっていて、朝はどこからも入らない。二十九の体が、壁を向いて丸くなっていた。枕元に空のペットボトルが三本、立ったまま並んでいる。一本だけ、キャップが締まっていない。汗の匂いが、戸の高さまで溜まっていた。
 おはようと、息の勘定と、一杯と、棚卸し。四つの文で、今朝の夫は全部を使い切っている。声だけが二年前で、部屋と体が、二年分だった。
 戸を閉めた。
 台所に戻って、シートの銀の粒を数えた。二十一。二週間前から、一錠も減っていない。夫の棚卸しは、合っていた。
 私が数えていたのは息で、夫が数えていたのは薬だった。精度は、比べるまでもない。寝たきりの人間が、この家でいちばん正確に、私を見ていた。
 シートから一錠、押し出した。パチン、と銀の破れる音がする。
 錠剤は口に入れず、排水口に落として、水で流した。コップの水だけを半分飲んで、洗って、伏せた。夫の棚卸しには、私が飲んだことになる数字が残る。
 残りは二十錠。明日も一錠、流す。飲まずに、減らしていく。
 速度は、渡さない。

★回数

 目録を作る。男の部屋の朝に、覚えていることと、覚えていないこと。
 覚えていること。栓の抜ける音が二度だったこと。畳の目。三時台のどこかで、水道の水を長く飲んだこと。覚えていないこと。何を喋ったか。何回笑ったか。どうやって布団に入ったか。
 覚えていない時間の分だけ、翌朝の体は軽い。軽さには請求書が付く。それは知っている。七年前に、支払いの明細まで見ている。
 最初の結婚は二十歳だった。二十一で離婚した。理由は短く言えるが、短く言うと嘘になるので、言わない。眠れなくなり、眠るために飲み、飲む量を誰にも見せないために一人で飲んで、二十二の春、一人でやめた。
 誰にも頼らなかった。断酒のアプリを入れて、一日目、と表示された数字を、毎晩ゼロ時に確かめた。数字で自分を管理したのは、あれが最初だった。頼り方は、あの春も、そのあとも、習わなかった。
 やめて七年、一滴も飲まなかった。七年は、七輪の夜に終わった。
 私はかつて、十八万人に向けて書いた。投稿は、いまも消していない。
「依存は意志の弱さではありません。病気です。一人で抱えず、医療と仲間につながってください」
 書いた本人は、いま、誰にもつながっていない。主治医の予約は、二回続けて飛ばしている。三回目の予約は、入れていない。
 男は明けの朝に帰り、昼を眠って、夕方に起きる。夜勤の給料と障害年金で、家賃四万のこの部屋に住んでいた。冷蔵庫には栄養ドリンクが六本、扉には現場の名札が磁石で留めてある。磁石は、寿司の形をしていた。生活は、声より静かだった。
 酒は、男の部屋の冷蔵庫にある。男は勧めない。止めない。数えもしない。数えない部屋は、自由だった。それが、この部屋の毒でもあった。警報器を天井に戻した手が、冷蔵庫には鍵を付けない。
 眠らないのが躁なのか、酒なのか、眠らないと決めている私なのか。検査をすれば数字は出る。検査は、していない。
 双極の生命線は睡眠だと、主治医は初診の日に言った。私は同じことを本に書き、講演で喋り、十八万人に配った。眠らないことは、この病気では、刃物と同じ用途に使える。知っている。たぶん、日本でいちばん上手に説明できる側の患者として、知っている。知っているまま、今夜も起きている。知識を刃の側で使う患者の欄は、カルテにない。

 三度目は、金曜だった。
 栓が開いて、畳に戻るころには言葉が減っている。減った分は、体に移った。男の呼吸は長く、私の呼吸は短い。長いほうが短いほうを待って、腰の速度で問いが来る。まだか、もうか。掌で背中を押して答える。会話は成立していた。単語は、ひとつもない。
 終わってから、肩の歯形を数えた。二つ。帰宅して、夫の息を数える。六つで聞こえた。錠剤を一錠、排水口に流した。手順は全部守られていた。壊れる、はもっと下手な形で来るものだと、まだ思っていた。
 五度目は、火曜から木曜になった。
 三日眠っていない。書いた枚数は百二十、使えたのは十一。口座から二十万が動いて、内訳は全部言える。言えることが、もう言い訳の形をしていた。
 セックスは、二度とも骨から始まった。額と顎、膝と腰骨。二度目の途中で、男の呼吸が変わった。浅く、速く、途切れる。母の話も、練炭の話も、していない。それでも背中の丸まり方で、何の夜かはわかった。答えるかわりに、男の後頭部に掌を置いて、自分の呼吸を、数の要らない速さまで落とした。伝わったかは、確認していない。朝、男の目の縁が乾いて赤かった。それだけが、確認だった。
 帰宅は金曜の朝で、夫の息は数えた。数は合った。ただ、木曜の夜の確認を一度、飛ばしている。二年間で、初めての欠測だった。
 八度目は、曜日がない。
 部屋に入った時刻は覚えている。二十三時十分。出た時刻は携帯が知っている。三十九時間後。あいだの記憶は、途中から目録にならない。
 覚えていないもの。食べたかどうか。インスリンを打ったかどうか。何を約束したか。
 覚えているもの。畳の目が頬に残した痕。自分の笑い声を、壁越しに隣人が二度叩いたこと。それから、胸の真ん中に置かれた男の掌。心臓の速さを、男が数えていたこと。数え終わると、男は自分の呼吸を遅くして、私の呼吸がそれに釣られて下りてくるまで、動かないでいた。獣の速度で始まった夜のいちばん奥で、行われていたのは、それだった。
 言葉は、一語も覚えていない。掌と呼吸だけが、朝まで残った。
 帰宅して、戸の前で息を数え始めて、途中で、自分が何番目まで数えたのか、わからなくなった。一からやり直す。もう一度、わからなくなった。
 二年間狂わなかった数が、初めて狂った。
 九度目からは、数えていない。

 午前三時十一分から三時四十分のあいだに、十二本の投稿を打った。
 独立すること。文章の仕事を受けること。事業の構想が三つあること。会社員を辞めた理由。全部で四千二百字。読み返して、誤字は一つもない。躁の指は、誤字をしない。
 一晩で三千人増えた。復活待ってました、というコメントが並ぶ。文章のキレが戻りましたね、と昔からの読者が書いた。
 キレ。
 その語を、画面の前で三十秒見ていた。戻ったのは何か。眠っていない六日目の速度か、二十三歳からの正当な腕か。書いた本人に、区別がつかない。外から見れば、回復と躁は同じ形をしている。中から見ても、いまは、区別がつかなかった。
 十八万人は、何も知らない。夫が二年、布団から出ないことも、男の部屋の冷蔵庫のことも、錠剤が毎朝一錠ずつ排水口に流れることも。知らないまま、十八万のうちの一万八千人が、朝までに、いいねを押した。

★一杯

 午前一時十分、家の鍵を開けた。シャワーは借りなかった。体のどこかに、まだ男の部屋の煙草の匂いがある。
 夫の戸の前で、息の音を数える。六つで聞こえた。早い夜だった。
 台所で夫のシートを見る。今夜の分は減っていた。夫は飲んでいる。私は今朝も一錠、排水口に流した。この家で薬を飲んでいるのは、寝たきりの側だけだ。
 義母に電話をかけたのは、一時二十四分だった。呼び出しは三回で切れて、向こうからかけ直しが鳴る。嫁の深夜の電話を、鳴った回数まで覚えているひとだった。
「入院、させたほうがいいと思うんです」
 閉鎖病棟、という言葉を、仕事の声で言った。数か月。荷物。面会。手続きの順で話して、途中から、声が濡れた。泣いている、と気づいたのは、頬より先に顎が冷えたからだった。
「あの子が、そんなに」
 義母の声は薄かった。後ろで、電子レンジの鳴る音がした。一時半に、義母は何かを温めていた。
「二年です。よくなっていません。私が毎朝、息の音を数えています。二十まで数えて、聞こえなければ開ける。そういう朝を、七百回やりました」
 男に言ったときは、三つの文で足りた説明だった。義母には、七百という数を出しても、届く音がしなかった。
「でもあなたたち、支え合ってるじゃない」
 支え合う。
 その語は、帯の四文字で見た。出版社の会議室でも見た。私の投稿では、二万回共有されている。義母の口から出たそれは、電話線の向こうで乾いた音がした。
 夫の戸の下を見た。光は、漏れていない。
「お義母さん。もし入院させないで、私がずっと見ていられなくなったら」
 言うつもりのなかった問いが、仕事の声のまま出た。
「誰が見つけると思いますか」
 義母は黙って、長い間のあとで、あなた疲れてるのよ、と言った。電話は義母のほうから切れた。
 誰が見つけると思う?
 発見者の側から先に考える人間は、見つけたことのある人間だけだと、教えた男がいる。私は見つけたことがない。ないまま、毎朝、見つける練習をしている。二十まで数える練習を、七百回。
 結婚した年、二人とも軽くなった。夫の皿と、私の眠り。あれは治っていたのか。二つの病気が、偶然、嚙み合っていただけなのか。歯車は、嚙み合っているあいだは止まって見える。
 コルレのことを、考えた。病名を言う前から病名を知られていて、それでも水の客でいられた店。説明で稼ぐようになる前の私が、最後にただの客でいられた場所。
 朝の四時まで、台所の椅子にいた。
 冷蔵庫の音だけが、規則正しかった。

 電話の四日後、義母から写真が三枚届いた。
 瓦屋根の平屋、畑、山。夫の祖父母が住んでいた家が、長野の村に空いたままだという。文面は短かった。あなたたち、あの家で少し休んだら。空気がぜんぶ違うから。
 試算は、三十分で終わった。
 家賃はゼロ。ここまでは良い。最寄りの精神科まで、車で五十一分。私は免許を持っていない。夫は、いまハンドルを握れる状態ではない。処方は二人分、二週間ごと。主治医を替えるなら、紹介状と、初診の待ちが三か月。在宅の仕事は、回線さえあれば動く。回線の工事は、二か月待ち。
 村の名前で検索すると、移住者のブログが出てきた。三年目で更新が止まっている。最後の記事の題は、挨拶をしても返ってこない、だった。
 東京は、人に会わないでいられる街だった。あの村は、会わないでいると知られる村になる。孤立の形が違うだけで、孤立の量は変わらない。量が変わらないなら、精神科まで五十一分の側が負ける。
 ここまでが、表の試算だ。
 裏の試算は、二行で終わる。始発で帰れる部屋が、あの村にはない。男の部屋にも、二度と行けない。
 どちらの試算が本体か、考えるのはやめた。
 義母には、考えます、とだけ返した。写真は消していない。畑の写真の隅に、物干し台が写っている。二人分の洗濯物を干せる大きさだと目測してしまってから、画面を閉じた。

 午前三時、台所の椅子で、『さすらいの二人』を開いた。
 最後の七分だけを観るつもりで、シークバーを終盤へ送る。指が止まって、結局、頭から観た。
 十三度目だった。その数だけは、狂わずに残っていた。
 ラストの長回しが来る。ホテルの部屋、ベッドの男、窓の格子。カメラがゆっくり窓へ寄っていく。格子の間隔は、カメラより狭い。抜けられないはずのものが、七分かけて、抜ける。広場の砂埃、車、老人、犬。カメラが振り返ると、部屋の中の男は、もう出来事になっている。
 七分のあいだ、何も数えなかった。呼吸も、時刻も。数えないでいられる七分が、まだ体に残っていた。
 イヤホンを外すと、冷蔵庫の音がして、戸の向こうは静かだった。
 携帯のメモを開いて、三行書いた。
格子は破られない。はじめから抜けられる幅だったことを、カメラは七分かけて白状させる。
男の死は映らない。犬が歩き、教習車が切り返し、ピントは世界の側へ合っていく。死は、映されないことで初めて正確になる。
知らない、と妻が言い、知っている、と連れの女が言う。二つの答えのあいだの幅が、あの格子の幅である。
 この文章は、noteに上げなかった。誰にも送らなかった。酒をやめた春、眠れない夜の埋め草に始めた形式が、埋め草に戻っただけだ。
 売れる文章の書き方なら、いまでも言える。これは、売らない。
 パソコンを閉じて、充電器に差した。夫の携帯の隣だった。
 朝までの残りで、答え合わせをした。
 夫か、男か、山の家か。締切のない問いのつもりでいたが、締切は体のほうから来ている。体重は六キロ減って、血糖の自己測定は三週間、空白のまま。欠測は、数えるほうが早い。
 目録を作った。最後の目録だ。題は、私の不在に気づく人間。
 十八万七千人のフォロワーは、私が三か月消えても、通知が減ったとしか思わない。母は、娘の沈黙を、流れが変わった、と読む。義母は、あなた疲れてるのよ、と言う。会社はもうない。木曜の席には、次の人が座っている。
 男。三十九時間、私が部屋にいたあいだ、男は私の心臓を数えた。数えたのは、私がそこにいるあいだだけだ。あの部屋は、来る者を拒まず、来ない者を数えない。自由と呼んでいたものの内訳は、それだった。あの部屋で、私の欠測は、永遠に欠測にならない。
 夫。二週間、減ってない、と戸越しに言った。私が偽装した二十錠を、あの人はたぶん、もう数え直している。鍵は、開いていた。開いている店に、二年、客が来なかった。来なかった客は、私だ。
 私の不在に気づく人間の目録は、一行で終わった。夫、の一行だった。
 布団から出ない人が、この家でただ一人、私を数えている。
 誰が見つけると思う、と男は言った。見つけたことのある人間だけが先に考える問いを、私はこの朝、初めて先に考えた。答えは出ている。私はもう、見つけられていた。二週間前に。棚卸しの朝に。
 誤解のないように、帳簿の裏まで書いておく。
 あの人は、何も要求しなかった。離婚も、約束も、次の日程も、泊まっていくことすら。仕事も家も全部投げ捨ててここへ来ればいい、と言った男は、来なければ来ないでいい、を同じ息の中に含ませていた。人にそこまで求めない人間を、私はほかに知らない。求めない、が優しさの完成形なのか、それとも、失った人間が二度と手を握らないと決めた形なのか。母を見つけた夜から、あの人は、引き留めるという動作を体から外して生きてきた。引き留めない。死なせもしない。あの人の優しさは、そこで終わっている。終わっているのではなく、そこまでしか、残らなかった。
 家賃四万の部屋。鴨居の作業着。冷蔵庫の栄養ドリンク。誰の欠測も数えない自由。あの部屋のわびしさは、不幸の形をしていない。何も持たないと決めた人間の、片づいた形をしている。私はあれに惹かれた。体だけではない。いまも、惹かれている。惹かれたまま、行かない。
 男に別れの言葉は、要らない。あの人は最初から、引き留める側に立っていない。愛か依存かの判定は、最後まで出なかった。出なかったものを、出なかったまま持っていく。説明しないものを一つ持つのは、二十九年で初めてだ。
 帰ったら、錠剤の数字を本当に戻す。夫の棚卸しが、正しい在庫を数えられるように。飲むかどうかは、明日の私が決める。数だけは、嘘をやめる。木曜の一行も、消す。短くなる目録を、初めて打つ。
 その前に、寄る店がある。
 私という売り物を畳む日の手順は、決めていなかった。
 決めた。閉店の一杯を、あの店で飲む。

 コルレは、ゴールデン街の路地のいちばん奥にある。
 夫の立っていたカウンターに、知らないバーテンダーが立っていた。若くて、爪が短くて、私を知らなかった。知らないというより、興味のない顔だった。五席の店で、客は私だけだった。この店で頼んだものは、五年間、水しかない。
「カルーアミルク」
 バーテンダーは聞き返さずに作った。コーヒーのリキュールに、牛乳。グラスは、夫が使っていたのと同じ型だった。店の物だから、当然だった。管理栄養士のリストの三番目は、加糖の缶コーヒーだった。その品目の、夜の形がカウンターに置かれる。
 酒は、七輪の夜に七年ぶりに戻って、男の部屋の味になった。甘いものは、ケトアシドーシスの年から一口も食べていない。カルーアミルクは、その二つを一つのグラスに入れる。男の部屋の味に私の禁忌を混ぜて、夫の店で飲む。糖質はおよそ三十グラム。インスリンなしでどこまで上がるかは、その日の体が決める。二百かもしれない。三百を超えるかもしれない。確かめる器械は、家に置いてきた。インスリンは、家の冷蔵庫の、卵の隣にある。
 数字の行き先を、この店の誰よりも正確に言える。言えた。言えただけだった。
 数字はいつも通りに出た。いつも通りのまま、手が先に動いた。
 一息で、飲み尽くした。
 牛乳の膜の下から、リキュールの糖が舌に残るまで、三秒かかった。
 グラスを置き、勘定を置く。バーテンダーが何か言う前に、戸を開けた。
 路地の奥で、コルレの灯がひとつ、点いている。

© 2026 牧野楠葉 ( 2026年10月11日公開 )

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