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暴発を待ちながらv2

牧野楠葉

(落ちて悔しかったので改稿しました)

小説

23,280文字

第一章 カラスと改造銃

 

夏だった。

蝉が鳴いていた。音というより、圧だった。頭のてっぺんから押さえつけてくる圧だった。朝からそうだった。息を吸うと、空気は湯の匂いがした。

縁側に座っていた。スーツを着て。クローゼットを開けるとスーツしかなかったから、着ていた。東京から戻ってきたのが去年の秋で、それからずっとそうだった。ウールが汗を吸って、重くなっていた。背骨に沿って汗が落ちるのがわかった。落ちて、ベルトのところで止まった。それでも脱がなかった。脱ぎ方を忘れた服というものがある。

庭の端に、カラスが積み上がっていた。

羽が黒い。くちばしが黒い。爪が乾いている。父が改造銃で撃ち落としたものだ。朝に三羽、昼すぎに一羽、また朝に二羽、そういう積み重なりが庭の端に小山をつくっていた。風向きが変わると、匂いが来た。甘いような、鉄のような匂いだった。喉の奥に貼りつく匂いだった。夏がそれを毎日濃くした。蠅が小山の上を回っていた。羽音が、蝉の圧の下で低く続いていた。一番上のカラスの目は、もう乾いて窪んでいた。

父はかつて鮮魚店をやっていた。やめてからこれを始めた。

銃声が鳴った。

蝉が一瞬だけ止んだ。

老人の声が重なった。

詐欺で追い詰めて、自殺させた人間たちの声だ。複数だった。性別もばらばらだった。言葉になりきれない、低く湿ったものが、銃声の余韻に乗ってくる。幻聴だとわかっていた。わかっていても来た。来なかった日がなかった。

縁側の板が軋んだ。

母が反対側に座って庭を見ていた。いつからそこにいたのかわからなかった。アルツハイマーの初期で、時代がばらばらになっている。笑っていた。今日は笑っている日だった。白粉の匂いがした。母は毎朝、誰に会うためでもなく化粧をした。

「きれいね」と母が言った。

カラスの小山を見ていた。

私は何も言わなかった。足の裏の下から、重さが来た。すぐに消えた。

 

*

 

銃声がまた鳴った。今度は声が来るのが少し遅かった。カラスが落ちる音がした。羽が乾いた土を叩く音だ。私は縁側を下り、庭を横切り、落ちたカラスを拾い上げた。まだ温かかった。体温が手のひらに移って、消えていくのがわかった。羽をむしり始めた。根元から薄い脂が出て、指が滑った。

左手の小指が第一関節から先にない。東京で詐欺グループにいたころに詰めた。その欠けたところに羽が引っかかった。引っかかるたびに、少し意識が行く。行って、戻ってくる。

店の奥から妹の声がした。

「父ちゃん、またやってんの」

私が実家に戻ってきた夜、妹は夕飯の皿を一枚増やした。何も言わずに。それだけだった。

父は答えなかった。

また銃声が鳴った。

 

*

 

私がこの改造銃のことを最初に見たのは、戻ってきて三日目の朝だった。

父は縁側の柱に背を預けて、膝の上に乗せていた。長くはない。短くもない。黒い。父はそれを磨いていた。タオルで、ゆっくり、端から端まで。鮮魚店を三十年やった手つきで、磨いていた。私が縁側に出ても顔を上げなかった。磨き続けた。

銃は魚の匂いがした。

銃油と鉄の匂いの下に、薄く、確かに、魚がいた。三十年の手の匂いが、銃に移っていた。

「何それ」とは言わなかった。

縁側に並んで、二人で庭を見た。

しばらくして父が「うるさい」と言った。カラスのことだった。「朝から鳴いてうるさい」と言った。確かに鳴いていた。父はそのまま立ち上がって庭に下り、銃を構えた。木の枝のカラスに向けた。引き金を引いた。カラスが落ちた。羽が広がった。

父は少しの間、落ちた場所を見ていた。それから私の方を見た。

「捌いてくれ」と言った。

それが始まりだった。

 

*

 

焼くのは庭の奥だった。石を丸く並べただけの場所で、網も何もなく、ただ木片と一緒に積んで火をつける。燃えるときに匂いがした。羽の焦げる匂いは肉の焦げる匂いとは少し違った。もっと軽い。もっと早く消える。灰になると、匂いも消えた。

声も止んだ。

ただ止んだ。

白かった。触ろうとして、やめた。灰は羽の形を残していた。羽の形のまま、白かった。風が来たら終わる形だった。終わるまでの形が、そこにあった。

母が縁側から「まだかかる?」と言った。夕飯のことだった。今日は今日の話をしている日だった。

「もうすぐ」と私は言った。

声が戻ってきた。喉だった。耳じゃなかった。消えなかった。カラスの灰は軽かった。風が吹くと、少しだけ動いた。

 

第二章 彼氏のこと

 

彼のジャケットは、いつも椅子の背にかかっていた。三年前、東京だった。彼は区役所の課長だった。印鑑の位置を気にした。受け取った書類はその場で端を揃えた。私が部屋に脱ぎ捨てたジャケットを、彼は必ず椅子の背にかけた。何も言わずに。それが習慣だった。

彼の部屋は石鹸の匂いがした。同じ石鹸を十年使っている、と彼は言った。理由を聞くと、変える理由がないから、と言った。

私は彼に、外資系コンサルタントだと言っていた。

 

*

 

朝、目が覚めると、彼がベッドの端に座っていた。

窓の外がまだ暗かった。エアコンの音だけがしていた。彼はパジャマのままで、背筋が伸びていた。膝の上に何も置いていなかった。私のスマホが彼の隣にあった。画面が下を向いていた。

怒っていなかった。泣いてもいなかった。

ただ私を見ていた。

私は何を言うべきか考えようとした。考えられなかった。彼の目が、そういう順番を許さなかった。言い訳でも謝罪でも説明でもなく、ただ私という生き物の全体を、静かに、端から端まで見ていた。

彼は何も言わなかった。やがてベッドから立ち上がり、クローゼットを開けた。荷物をまとめ始めた。書類を扱うときと同じ手つきで、ひとつずつ、丁寧に畳んで鞄に入れた。急がなかった。乱れなかった。私はベッドの上でそれを見ていた。止めなかった。止め方がわからなかった。

彼が出ていった。部屋に彼の秩序だけが残った。

椅子の背にかかったままのジャケット。端の揃った雑誌。洗い物のない流し台。石鹸の匂い。私がここにいるのに、私の痕跡だけがない部屋みたいだった。

 

*

 

グループに連絡したのは、その日の夕方だった。

彼が情報を握っている可能性がある、と打った。彼が何を知っているかより、あの目のことを考えていた。ベッドの端に座って、膝の上に何も置かずに、こちらを見ていた目。

グループは動いた。私は何も聞かなかった。電話を切った。

数日後、呼び出された。場所は繁華街から外れたビルの一室だった。蛍光灯が鳴っていた。低く、ずっと鳴っていた。椅子が一脚あった。テーブルの上にタオルと、小さな木の台が置いてあった。木の台は古くて、木目に沿って黒い染みが並んでいた。誰のものか、考えなかった。男が二人いた。どちらも私の顔を見なかった。窓がなかった。

誰かが私の左手を台の上に置いた。私は自分で置いた。

何かが来た。

音がした。聞いたことのない音だった。自分の体から出た音なのに、知らない音だった。

声は出なかった。出そうとしなかった。口の中に血の味が広がった。噛んでいたのは自分の頬の内側だった。蛍光灯がまだ鳴っていた。痛みは、来なかった。痛みはずっとあとから、東京を出る新幹線の中で、まとめて来た。終わったとき、タオルが渡された。タオルは新品だった。硬くて、糊の匂いがした。私はそれを受け取った。受け取りながら、彼のジャケットのことを考えていた。椅子の背にかかったまま置いてきたジャケットのことを。取りに戻れない、と思った。

部屋を出た。エレベーターに乗った。一階のボタンを押した。鏡に、タオルを巻いた手の女が映っていた。知らない女の顔をしていた。

 

*

 

その夜から、声が来た。

老人の声だった。最初は一人だった。次の朝には増えていた。言葉にならないまま来た。低く、湿って、銃声の余韻に似た重さで来た。医者に行けば、名前のつくものだと思った。行かなかった。名前をつけたら、手放し方を探さなければならなくなる。

彼の目が先にあって、それから声が来た。

彼の財布が手元に残っていた。グループに渡しそびれた。鞄の底にあった。捨てられなかった。捨て方がわからなかった。

開けたことはなかった。一度もなかった。開け方が、わからなかった。

声の中に、彼の声はなかった。

老人たちの声は来た。知らない女の声も来た。だが彼の声だけは来なかった。区役所という言葉を聞くたびに、印鑑、書類、却下、そういう事務の言葉に触れるたびに、来そうになった。

来なかった。

 

第三章 母親のこと

 

私が八歳の夏、母がいなくなった。

朝起きたら、いなかった。父は台所にいた。父は何も言わなかった。妹はまだ三歳で、台所の前で泣いていた。父は妹を抱いて、魚を捌き続けた。包丁の音だけがあった。私は学校へ行った。

夕飯は父が作った。味噌汁の味が少し変わった。煮干しの出汁が濃すぎた。妹は泣かなくなった。

 

*

 

母が戻ってきたのは半年後だった。

夜遅く、タクシーで帰ってきた。荷物は持っていなかった。玄関を開けて、靴を脱いで、台所に入った。冷蔵庫を開けた。何かを確認して、閉めた。鍋を出した。翌朝の味噌汁を作り始めた。

父は居間にいた。何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

三歳だった妹が、もう泣かなくなっていた。

母が戻ってきた翌朝、味噌汁の味が元に戻っていた。私はその味噌汁を飲んで、学校へ行った。出汁の薄い、いつもの味だった。半年ぶんの何かが、その薄さの中に沈んでいた。

 

*

 

駆け落ち相手の男を、私は一度だけ見たことがある。

母が戻る少し前、隣町の商店街だった。アーケードの下で、母と男が並んで歩いていた。私は自転車を止めた。二人は気づかなかった。

男は父より背が高かった。白いシャツを着ていた。言葉が多そうな顔をしていた。実際、話し続けていた。何を言っているのかは聞こえなかった。距離があった。母の横で、ずっと何かを言い続けていた。

母が笑っていた。

私が見たことのない笑い方だった。口だけじゃなかった。顔全体が、少し前に傾いていた。男の言葉を受け取るたびに、少しだけ前へ傾いた。うちの台所で味噌汁を作っているときの母とは、別の生き物みたいだった。

私は自転車を引き返した。ペダルが重かった。誰にも言わなかった。母が戻ってきたのは、それから少し後だった。荷物を持っていなかった。

 

*

 

現在。縁側で母が笑っている。

「あの人、最近来ないわね」と母が言った。

父のことか、男のことか、わからなかった。

幻聴の中で、老人の声と母の声が混じる瞬間がある。同じ湿度で来る。

縁側で母がまた笑った。庭を見ていた。カラスはもういなかった。

 

第四章 ヤスさんの死と妹の外出

 

ヤスさんが死んだと聞いたのは、行きつけの飲み屋だった。

脳梗塞だった。先週だった。マスターが教えてくれた。私はカウンターで酒を飲んでいた。そうか、と言った。それだけだった。氷が鳴った。

ヤスさんは七十過ぎの老人だった。いつもカウンターの端に座っていて、私が来ると隣に移ってきた。何も要求しなかった。何も聞かなかった。焼酎のお湯割りを飲んでいた。冬も夏もお湯割りだった。それだけの人だった。

カウンターの端の席が空いていた。マスターは、その席の前だけ拭かなかった。

帰り道、声が来た。老人たちの声だった。いつもの声だった。

ヤスさんの声は、混じっていなかった。

関係のない人間の声は、来ない。私が何もしていない相手の声は、来ない。そういう理屈の上に、私の夜は立っていた。

 

*

 

帰宅すると、妹が台所に立っていた。

派手なワンピースを着ていた。化粧をしていた。いつもの妹とは別の人間みたいだった。魚の匂いがしなかった。香水の、慣れない匂いがした。つけ慣れない人間のつけ方だった。

「どこ行くんや」と私は言った。

妹は振り返らなかった。小さな鏡を持って、口元を確認していた。鏡の角度が変わるたびに、口紅の色が変わった。赤から暗い赤へ。妹の指が唇の端を少し直した。丁寧だった。魚を捌くときとは別の手つきだった。

「雅子さんのスナック」と妹は言った。鏡を鞄にしまった。「今夜から働く」

私は何か言いかけた。妹が振り返った。一瞬だけ私を見た。値踏みするような目じゃなかった。もっと事務的な目だった。

「あんた、障害年金ちゃんと入れてなかったら出て行ってもらってた」

それだけ言って、出ていった。

ヒールの音が廊下を抜けた。玄関のドアが閉まった。音が消えた。

台所に立ったまま、私はしばらく動かなかった。妹が立っていた場所に、魚の匂いはなかった。口紅の匂いもしなかった。何もなかった。妹がいた場所だけが、少し乾いていた。

 

*

 

父は居間にいた。テレビを見ていた。母は縁側にいた。今日は今日の話をしている日だった。

私は流し台の前に立った。水を出した。飲まなかった。蛇口を閉めた。

声が来た。老人たちの声が来た。いつもの全部だった。

流し台は洗い物がなかった。妹が全部片付けてから出ていっていた。

 

第五章 三本足のカラスと銃の引き継ぎ

 

その朝、父が撃ち落としたカラスは三本足だった。

私が庭へ出ると、父がしゃがんでそれを見ていた。改造銃を脇に置いて、落ちたカラスを覗き込んでいた。父がそういう顔をするのを見たことがなかった。

「三本しかない」と父が言った。

私はカラスを見た。確かに三本だった。羽の付け根のあたりで、一本分の痕がある。もぎ取られたのか、生まれつきなのか。

「かわいそうやろ」と父が言った。

私は何も言わなかった。

「それなりに偉いやつがな」と父は続けた。「こいつの足をもぎ取って、恵まれない誰かにやったんや。そういうことやろ」

カラスは死んでいた。三本足だった。朝の光の中で、羽が青く光っていた。黒は近くで見ると黒じゃなかった。

「やたがらすか」と私は言った。

父が私を見た。

「やたがらすって可哀想やないか」と父は言った。

 

*

 

これまで何羽撃ち落としたか、と私は聞いた。

父は少し考えた。「覚えてない」と言った。

「だったら三本足でも四本足でも関係ない」と私は言った。

父は黙った。カラスを見ていた。しばらくして、「やめようかな」と言った。撃つのをやめようか、という意味だった。「でも完全にやめるのはスカッとしない」と続けた。「だからお前にパスしようと思って」

「そういうことか」と私は言った。

「そういうことや」と父は言った。

 

*

 

父が改造銃を差し出してきた。

私は笑った。なぜ笑ったのかわからなかった。笑いながら、受け取った。左手で受け取った。小指の欠けた手で、銃の重さを受けた。思ったより重かった。鉄と油と、薄い魚の匂いがした。

受け取るとき、銃身の付け根に細い線が見えた。

罅なのか、傷なのか、ただの汚れなのか。髪の毛ほどの線だった。父に訊かなかった。訊く言葉を、この家は持っていなかった。

父はその手を見なかった。小指のことも、線のことも、見なかった。

父が三十年魚を捌いた手で磨いていたものだ。父が毎朝縁側に出て撃っていたものだ。

父は縁側に上がった。

 

*

 

その夜、庭に出た。

月がなかった。懐中電灯を持っていなかった。目が慣れるまで、庭の端の輪郭が見えなかった。カラスの小山がある場所はわかった。匂いでわかった。

財布を持っていた。彼の財布だ。三年間、鞄の底に入れていた。東京から持ち帰って、ずっとそこにあった。捨てる手続きがわからなかった。今日まで。

鍬で土を掘った。柔らかかった。土は昼の熱をまだ持っていた。蚊が来た。刺されるままにした。財布を入れた。土をかけた。手のひらで押さえた。

縁側から母の声がした。

「また成績の悪い答案用紙、埋めたんでしょう」

私は何も言わなかった。土を踏んだまま、庭に立っていた。

声が来た。老人たちの声が来た。彼の声は来なかった。財布は土の中にあった。それでも来なかった。

 

第六章 雅子さんと私

 

妹に呼ばれたのは、火事の前の夜だった。

雅子さんが話があると言っている、と妹は言った。妹の言い方は平坦だった。何かを知っているのか、知らないのか、わからなかった。

スナックは駅から少し外れた路地にあった。表に看板が出ていた。夜だった。ドアを開けると、煙草の匂いがした。何年ぶんも重なった匂いだった。客はいなかった。カウンターに妹がいた。グラスを拭いていた。私が入ると、妹は一度だけこちらを見た。それから雅子さんを見た。

雅子さんが顎で奥を示した。妹はグラスを置いて、カウンターの奥へ消えた。妹が置いたグラスに、濡れた跡が残っていた。カウンターの上には空のボトルが並んでいた。ラベルの色が褪せていた。端の棚に小さなぬいぐるみが一つ置いてあった。誰かが置いていったのか、最初からそこにあったのか、わからなかった。

「来てくれたね」と雅子さんは言った。

私は返事をしなかった。カウンターの椅子に座った。椅子の革が破れていて、中の綿が見えていた。

 

*

 

雅子さんはグラスを二つ出した。水割りを作った。氷がグラスに当たる音がした。私のグラスを先に置いた。自分のグラスを持った。飲まなかった。

「出ようと思ってる」と雅子さんは言った。「この土地を」

私は何も言わなかった。

「男がいる」と雅子さんは続けた。「ここに出入りしてた人や。一緒に行く」

グラスの氷が溶けていた。雅子さんは灰皿を引き寄せた。煙草に火をつけた。ライターの火が、一瞬だけ雅子さんの顔を下から照らした。煙が上に行った。換気扇が回っていた。

「あの子には世話になった」と雅子さんは言った。煙草を灰皿に置いた。「よく働いてくれた」

私はグラスを持った。飲んだ。水割りは薄かった。氷の味がした。

「いつ出るんですか」と私は言った。

「明日」と雅子さんは言った。

煙草の煙が換気扇に吸われた。カウンターの端に小さな傷があった。古い傷だった。誰がつけたのか、長年の使用でできたのか、わからなかった。

 

*

 

「頼みがある」と雅子さんは言った。

私はグラスを置いた。

「私がいなくなったあと、何も言わないでほしい」と雅子さんは言った。「どこへ行ったか、誰と行ったか、何も」

私は雅子さんを見た。

雅子さんは煙草を灰皿に押しつけた。消した。私を見た。

侮辱がなかった。彼の目とは違った。値踏みでもなかった。ただ、頼んでいた。この土地にいた人間が、いなくなる前に、ただ頼んでいた。

「わかりました」とは言わなかった。頷きもしなかった。ただ聞いた。

雅子さんはそれで十分だったのか、新しい煙草を出した。今度は火をつけなかった。指の間で持ったまま、カウンターの傷を見ていた。

「あんたの妹、強い子やね」と雅子さんは言った。

私は何も言わなかった。

「私には無理やったわ」と雅子さんは言った。「ここで続けるのは」

少し間があった。

「朝方の片づけがね」と雅子さんは言った。独り言みたいな声だった。「ずっと嫌やった。誰も覚えてへん話を、また聞く朝が」

少し間があった。換気扇が回っていた。

「匂いが取れへんのよ」と雅子さんは言った。「何年やっても。煙草と酒の匂いが、朝になっても残ってる。髪の中に。指の中に」

煙草がカウンターに置かれた。火はついていなかった。グラスの氷がまた少し溶けた。

 

*

 

店を出たのは十時過ぎだった。

路地の空気は昼の熱を残していた。スナックの看板の灯りが足元を照らしていた。少し歩いて、振り返った。看板はまだついていた。

母のことを思った。母は言葉を残さずに戻った。荷物も持たずに、夜遅くタクシーで帰って、台所に入って、味噌汁を作り始めた。何も言わなかった。

雅子さんは言葉を残して消えようとしていた。

何が違うのか、うまく言えなかった。どちらも夜だった。どちらも男がいた。どちらも何かを置いて、別の場所へ行こうとしていた。

それでも違った。何かが違った。

家が近づいた。庭の匂いがした。土と、灰と、少しだけ魚の匂いがした。

玄関の前で止まった。鍵を出した。ポケットに手を入れて、鍵を探した。

声が来ていなかった。

気づいたのはそのときだった。玄関の前で鍵を探しながら、そこで初めて気づいた。その夜だけ、来なかった。

 

第七章 火事の夜

 

妹が戻ってきたのは夜の十一時過ぎだった。

ドアの開き方が違った。いつもより速かった。廊下を走る音がした。妹が走るのを聞いたことがなかった。

「火事や」と妹は言った。「雅子さんのとこが燃えてる」

息が切れていた。言うだけ言って、妹はまた出ていった。ドアが開いたままになった。開いたままのドアから、夜の匂いが入ってきた。煙の匂いが、もう混じっていた。

父が居間から出てきた。顔が変わっていた。「消防団呼べ」と父は叫んだ。「早よ呼べ」と言いながら、自分で電話を取った。母が縁側から顔を出した。笑っていた。今日は今日の話をしている日だった。

私は外に出た。

気づいたら走っていた。革靴で、スーツで、走っていた。

 

*

 

町の人間が、みんな同じ方向へ歩いていた。

サンダルの音。自転車のブレーキの音。誰かが誰かの名前を呼ぶ声。角を曲がるたびに、空が明るくなった。夜なのに、明るくなっていった。

路地の手前で、熱の壁に当たった。

顔に来た。真夏の夜より熱いものが、顔の皮膚に平たく貼りついた。目が乾いた。まばたきをしても乾いた。

見えた。

スナックが内側から光っていた。窓という窓から火が出ていた。火は生き物みたいに窓枠を舐めて、上へ上へ行こうとしていた。看板の灯りなんか、もう見えなかった。火の方が明るかった。電線が焼けて、火の粉が夜空へ上がっていった。火の粉は羽みたいだった。カラスの羽みたいに舞い上がって、上がりきる前に燃え尽きた。一片が私の袖に落ちて、ウールの上で小さく黒い穴になった。払わなかった。熱が、布越しに腕まで届いた。

ポンプ車が水を入れていた。水が火に当たって、白い蒸気が横に噴いた。蒸気は熱いまま群衆の方へ流れてきて、雨みたいに顔に当たった。熱い雨だった。ガラスの割れる音がした。木の爆ぜる音が、腹に響いた。腹の底を、内側から叩かれるみたいに響いた。消防団の男たちが怒鳴り合っていた。ホースが路地でのたうっていた。

群衆の顔が、全部オレンジ色だった。

知っている顔ばかりだった。魚屋の顔。豆腐屋の顔。飲み屋のマスターの顔。全部オレンジ色に照らされて、全部、火を見ていた。誰も喋っていなかった。何十人もいて、誰も喋っていなかった。群衆はひとつの生き物みたいに、同じ火を見て、同じ熱に炙られていた。

群衆の中に妹がいた。

口紅が半分落ちていた。炎を見ていた。まばたきをしていなかった。火の光が顔の上で揺れて、妹はそれを拭わなかった。

匂いが来た。

煙草と酒の染みた木が燃える匂いだった。何年ぶんも重なった匂いが、一晩で全部燃えていた。カウンターも、褪せたラベルのボトルも、棚のぬいぐるみも、燃えて同じ煙になっていた。その下に、もう一つの匂いがあった。

羽じゃない方の匂いだった。

膝から力が抜けた。隣にいた誰かの肩を掴みそうになって、掴まなかった。唾が湧いた。体は、匂いの意味を頭より先に知っていた。

私はその違いを知っていた。庭で毎日、知っていた。知っている人間は、この群衆の中に私しかいなかった。

誰かが叫んだ。中に人がおるぞ、と叫んだ。誰かが雅子さんの名前を呼んだ。呼び続けた。

屋根が落ちた。

骨組みが一瞬、火の中に黒く立った。立って、折れた。火の粉がいちどきに噴き上がって、夜空が橙色に膨らんで、群衆がどよめいた。どよめきは声というより、息だった。何十人ぶんの息が、一度に漏れた。

その中で、声が来た。

老人たちの声が来た。火の音と同じ音量で来た。木の爆ぜる音と、言葉になりきれない低く湿ったものが、同じ高さで鳴った。区別がつかなかった。初めて、区別がつかなかった。火が声で、声が火だった。どこまでが火で、どこからが私なのか、わからなかった。心臓の音だけが、自分のものだった。それも火に取られそうだった。

私は後ずさった。群衆から抜けた。歩いた。それから走った。火から遠ざかる方向へ走る人間は、私しかいなかった。革靴の底が、走るたびに路面に貼りついた。アスファルトまで熱かったのか、私が熱かったのか、わからなかった。

 

*

 

家に戻ると、庭に出た。

土が柔らかかった。一歩踏み出すたびに、少し沈んだ。財布を埋めた場所はわかった。そこだけ特別に柔らかいわけじゃなかった。庭全体が柔らかかった。この庭はいつもそうだった。

振り返ると、母が縁側に座っていた。こちらを見ていた。笑っていた。

「今度は何を埋めたの」と母が言った。

私は何も言わなかった。

空が赤かった。スナックの方角だった。ここからは火は見えなかった。赤い色だけが空に滲んでいた。雲の端が赤く染まっていた。染まり方が均一じゃなかった。滲んで、濃くなって、また薄くなった。

煙の匂いが、庭まで届いていた。私のスーツにも染みついていた。煙草と酒の染みた木の匂いと、羽じゃない方の匂いが、ウールの中にいた。

雅子さんのことを考えた。もう遠くにいるはずだった。男と一緒に、この土地を出ているはずだった。

私は何も言わなかった。昨夜も言わなかった。今夜も言わない。

 

*

 

翌朝、テレビをつけると報道が流れていた。

スナックの火災。死者二名、重傷者三名。出火原因は調査中。雅子さんの名前は出なかった。代わりに、女性の服を着た男性の焼死体が発見された、とアナウンサーが言った。淡々とした声だった。雅子さんの行方はわからない、と言った。

明日、と雅子さんは言っていた。

妹が台所にいた。魚を捌いていた。包丁の音だけがした。

父はまだ寝ていた。母は縁側にいた。

私はテレビを消した。

客の老人が二人死んだ。知らない人間だった。それでも昨夜から、新しい声が混じっていた。

妹の包丁が魚の骨を外した。正確だった。一度で外した。やり直さなかった。

店の前を誰かが通る気配がした。立ち止まる気配がした。また歩く気配がした。

妹は包丁を洗った。水が流れた。水が止まった。また包丁を持った。

包丁の音だけが続いた。

 

第八章 事情聴取

 

刑事が来たのは、火事から四日目の午後だった。

二人だった。年配の方が名刺を出した。県警の、何とかいう係の名前があった。若い方は名乗らなかった。手帳だけ持っていた。

居間に通した。父は立ち上がって、何も言わずに奥へ行った。母は縁側にいた。今日は笑っている日だった。妹は店だった。包丁の音が、薄く聞こえていた。

年配の刑事は正座した。汗をかいていた。ハンカチで首を拭いた。若い方は入口の近くに座った。汗をかいていなかった。

「確認ですが」と年配の刑事は言った。

私は茶碗に手を伸ばした。持っただけだった。飲まなかった。

「火事の前の晩、雅子さんとお会いになってますね」

「会いました」と私は言った。

「どういったお話を」

「世間話です」

自分の声が聞こえた。低くて、平坦で、少しだけ湿度のある声だった。知っている声だった。東京で、電話口で使っていた声だった。相手を安心させる声。数字を読み上げる声。三年間使っていなかった。手続きも要らずに、出てきた。

「世間話、ですか」と刑事は言った。

「お店を続けるのは大変だ、というような話です」と私は言った。

嘘ではなかった。嘘ではない、という置き方も、東京で覚えたものだった。

 

*

 

質問は続いた。

店に出入りしていた男について。常連の客について。雅子さんの様子について。私は答えた。知っていることの半分より、少し手前まで。

「雅子さんから、何か預かったりは」

「何も」

「行き先について、何かお聞きになっていませんか」

喉の奥で、何かが動いた。

雅子さんの行き先じゃなかった。別のものだった。三年前に打った文面のことだった。窓のないビルの一室のことだった。小さな木の台のことだった。誰も訊いていないのに、そっちが出ようとした。順番を待っていたみたいに、喉の奥に並んだ。

茶を飲んだ。妹が出しておいた茶だった。冷めていた。苦かった。

「聞いていません」と私は言った。

電話の声だった。

若い刑事が手帳に何かを書いた。書く音がした。

 

*

 

縁側から母が入ってきた。

刑事たちを見て、笑った。

「あら、お客さん」

若い刑事が頭を下げた。母は私の隣に座った。白粉の匂いがした。座って、刑事たちに言った。

「この子、よく庭に埋めるのよ」

部屋が静かになった。

包丁の音が、遠くで続いていた。蝉が鳴いていた。

「成績の悪い答案用紙をね」と母は言った。「昔から、隠すのが下手なの」

年配の刑事が笑った。事務の笑い方だった。手帳には何も書かれなかった。書かれなかったことを、私は見ていた。

母は満足したのか、縁側へ戻っていった。

「いいお母さんですね」と若い方が言った。

「はい」と私は言った。

 

*

 

刑事たちは一時間ほどで帰った。

玄関で、年配の方が振り返った。

「東京には、何年ほど」

「五年です」と私は言った。

「お勤めは」

「事務です」と私は言った。

「そうですか」と刑事は言った。それだけだった。

若い方は靴を履きながら、庭の方を一度だけ見た。カラスの小山を見たのか、別のものを見たのか、わからなかった。ドアが閉まった。

私は台所に立った。水を出した。飲まなかった。蛇口を閉めた。

声が来た。老人たちの声が来た。火事のあとから来る声も来た。全部来た。彼の声だけが、来なかった。

確認、という言葉だけが、畳の上に残っていた。

 

*

 

妹も署に呼ばれた。

夕方に出て、夜に戻ってきた。エプロンを外して行って、外したまま帰ってきた。玄関で靴を脱いで、台所に入って、手を洗った。水が流れた。止まった。

「何を訊かれた」と私は言った。

「あんたと同じようなことやろ」と妹は言った。

それだけだった。冷蔵庫を開けて、明日の仕込みを始めた。包丁の音がした。規則正しかった。いつもより、少しだけ速かった。

訊かれたことと、答えたことのあいだに何があったのか、私は訊かなかった。妹も言わなかった。この家のやり方だった。

 

第九章 火事の余波

 

雅子さんは、行方不明者になった。

地元の新聞に小さく載った。妹が読んでいた。私が台所に入ると、妹は新聞を畳んだ。テーブルに置いた。何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

湯を沸かした。お茶を入れた。妹の分も入れた。妹は受け取った。飲んだ。それだけだった。

 

*

 

眠れない夜が続いた。

若い刑事の目のことを考えた。靴を履きながら、庭を一度だけ見た目のことを。カラスの小山を見たのか。別のものを見たのか。

三日目の夜中、庭に出た。

月が細かった。鍬を取りに行かなかった。素手で掘った。土は表面だけ乾いていて、下は湿っていた。爪の間に土が入った。蚊が首に来た。潰さなかった。手を止めたくなかった。汗が目に入って、沁みた。心臓が耳の中で鳴っていた。

隣の家の窓に、電気がついた。

私は土に伏せた。頬を土につけて、息を止めた。土の匂いが鼻の奥まで入った。カラスの小山の匂いも、灰の匂いも、一緒に入った。窓の明かりが庭の端を四角く照らして、しばらくそのままだった。トイレか、水でも飲んだのか。明かりが消えた。

私は息を吐いた。吐いた息が土埃を立てた。掘り続けた。

財布は冷たかった。

土の中は、夜の庭より冷たかった。三年間鞄の底にあって、ふた月土の中にいたものだった。掘り出して、土を払って、スーツの内ポケットに入れた。胸の左側だった。

それから毎日、そこにあった。

重さはないのに、重かった。歩くたびに、布越しに角が肋骨に当たった。当たるたびに、少し意識が行った。行って、戻ってきた。小指の欠けたところに羽が引っかかるのと、同じだった。

 

*

 

誰に対しても何も言わなかった。雅子さんがどこへ行ったか。男が誰だったか。何も。

詐欺グループに報告したとき、私は彼のことを言った。言葉にした。処理に回した。あのときは言えた。でも今は言えなかった。言えないというより、言う場所がなかった。言葉にしたとたんに、何かが壊れる気がした。壊れるのが怖いのか、壊れてほしいのか、わからなかった。

 

*

 

声が増えた。

老人の声が増えた。火事で死んだ客の声かもしれなかった。会ったこともない人間だった。それでも来た。

来る理由なら、あった。私は雅子さんの明日を知っていて、黙っていた。二人は、私が黙った夜の向こうで死んだ。

夜中に目が覚めることがあった。声が来ていた。顔のない声が、天井の方から来た。重さだけがあった。詐欺で追い詰めたとき、相手の顔は見ていなかった。電話だった。書類だった。数字だった。顔を見ずに終わった。だから声にも顔がない、と思った。思いながら、起き上がれなかった。胸の上に財布があった。布団の中でも、スーツを着たままの夜があった。そのまま朝になることがあった。朝になると、銃を磨いた。父がやっていたように、タオルで端から端まで磨いた。磨いている間だけ、声が少し遠くなった。

妹は何も言わなかった。

妹は毎朝魚を捌いた。店を開けた。夜になると閉めた。派手なワンピースは見なくなった。口紅の赤も見なくなった。

ただ、たまに妹が私を見る目が変わっていた。

何かを確認するような目だった。値踏みでもなく、怒りでもなかった。もっと静かな、別の種類の目だった。

 

*

 

ある朝、父が縁側に出てこなかった。

その日だけじゃなかった。次の日も出てこなかった。その次の日も。父は居間にいた。テレビを見ていた。庭を見なかった。改造銃のことは何も言わなかった。

一度だけ、廊下ですれ違った。父は私の手元を見た。銃を持っていなかった。それでも見た。それから目を逸らした。何も言わなかった。

銃は私の部屋にあった。

 

第十章 再度、ヤスさん

 

飲み屋へ行ったのは、久しぶりだった。

客はいなかった。マスターがカウンターを拭いていた。私が座ると、グラスを出した。氷を入れた。酒を注いだ。冷房が効きすぎていて、汗が冷えた。

火事の話にはならなかった。町はもう、その話に飽き始めていた。

「ヤスさんの四十九日、もう済んだんかな」とマスターが言った。独り言に近かった。

「親戚とか、おったんですか」と私は言った。

「甥っ子が一人な。東京から来て、二日で帰った」

マスターはタオルを畳んだ。畳み直した。

「嫁さんが生きとったらなあ」と言った。

私は酒を飲んだ。

「ヤスさん、結婚してたんですか」

「しとったよ。三年前に死んだけどな」マスターは新しいタオルを出した。「気の毒やったで。死ぬ前の年に、電話の詐欺でやられてな。還付金がどうとか言われて、ATMで。老後の分、ごっそりや」

カウンターの木目が見えていた。木目しか見えなくなった。

「嫁さん、そのあと一気に弱ってな。自分を責めてばっかりで。飯も食わんようになって。ヤスさんがうちへ来るようになったんは、嫁さんが死んでからや」

マスターは喋り続けていた。私は聞いていた。グラスの氷が溶けた。溶けた氷が、澄んだ層になって酒の上に浮いていた。

「ええ人やったなあ」とマスターは言った。

「そうですね」と私は言った。

電話の声だった。

 

*

 

還付金。ATM。電話。

手口は知っていた。台本ごと知っていた。読み上げる数字の順番まで知っていた。時期も重なっていた。私が東京にいた三年と、重なっていた。

私のグループだったのか。別のグループだったのか。知りようがなかった。電話だった。数字だった。顔を見ずに終わった。こちらからは誰の顔も見えなかった。向こうからも、見えなかったはずだった。

ヤスさんは、いつもカウンターの端に座っていて、私が来ると隣に移ってきた。

何も要求しなかった。何も聞かなかった。ただ隣にいた。焼酎のお湯割りの湯気が、いつも二人の間にあった。

知っとったんか、と思った。

知らんかったんか、と思った。

どちらでも同じことだった。どちらなのか、確かめる相手がもういないという点で、同じことだった。

ヤスさんが死んだ夜、声は来なかった。関係のない人間だから来ない、と思った。その理屈の上に立って、私は眠った。

今夜、その理屈が壊れた。

何もしていない、が、どこにも立たなくなった。この町の誰に対しても、もう言えなくなった。電話の向こうに誰がいたか、私は一人も知らなかった。知らないということは、誰でもありうるということだった。カウンターの隣は、誰でもありうる席だった。

 

*

 

店を出て、路地で吐いた。

電柱に手をついて、吐いた。酒と、胃液と、氷の水だった。夕飯は食べていなかった。出るものがなくなっても、胃が絞られ続けた。胃が裏返ろうとしていた。喉が焼けた。目の縁に涙が滲んだ。泣いているのとは違う涙だった。体が勝手に出す水だった。膝が震えていた。革靴の先に、点々と散った。

電柱の看板が目の前にあった。金貸しの電話番号が書いてあった。数字を、読まないようにした。数字はもう読みたくなかった。

吐いている途中で、来た。

新しい声だった。低くて、湿っていて、お湯割りの湯気みたいな温度があった。カウンターの端から隣へ移ってくるときの、あの気配の質をしていた。

ヤスさんの声だった。

死んだ夜には来なかった声が、来た。四十九日を過ぎて、今夜、初めて来た。

電柱に手をついたまま、私は理解した。

死者が声を出すんじゃない。私が知った瞬間に、声は生まれる。三年間、声は死者の方から来るのだと思っていた。違った。声は私から出ていた。私の知ったことが、私の声帯を使わずに、私の中で鳴るのだった。

だとすれば、まだいくらでもいる。

電話の向こうに、私の知らない死者が、まだいくらでもいる。知った順に、声は増えていく。私が生きて、知り続けるかぎり、増えていく。

膝の震えが止まらなかった。吐くものは、もうなかった。

隣に座る、ということが何だったのか、わからなくなっていた。三年間、わからないままでよかったものが、今夜からわからないままではいられなくなった。それだけの違いだった。それだけの違いが、いちばん大きかった。

口を手の甲で拭いて、歩いた。

彼の目のことを思った。ベッドの端に座って、膝の上に何も置かずに、こちらを見ていた目。

ヤスさんは私を見なかった。ただ隣にいた。湯気の向こうで、ただ隣にいた。

見ることと、見ないこと。どちらも、底が抜けていた。

 

第十一章 銃を持つ日々と、妹の看破

 

父が庭に出てこなくなってから、私が撃ち始めた。

朝、縁側に出る。改造銃を持って、庭に下りる。カラスを探す。いる。構える。引き金を引く。落ちる。

撃った瞬間だけ、声が止んだ。一瞬だけ。それだけだった。止んだと思ったら戻ってきた。だから次を撃った。また止んだ。また戻った。それを繰り返した。三羽目を撃ったとき、妹が店の奥で何かを落とした音がした。その音で止んだ。撃ったからじゃなかった。妹の音で止んだ。すぐ戻った。でも止んだ理由が違った。

父はこれをずっとやっていたのか、と思った。

銃は、撃つたびに熱を持った。

撃ったあと、銃身の付け根の線に触れると、指先が覚えるほど熱かった。線は、伸びている気がした。髪の毛ほどだったものが、糸くらいになっている気がした。比べるための昨日を、覚えていなかった。

 

*

 

父は縁側から庭を見ることがあった。

私が銃を構えているのを見ていた。何も言わなかった。小指を見なかった。銃の持ち方を直さなかった。ただ見ていた。しばらくすると居間に戻った。

母は縁側で笑っていた。

「上手になったわね」と母が言った。

私は何も言わなかった。次のカラスを探した。

 

*

 

店の客が減っていた。

妹からは聞かなかった。夕方の仕込みでわかった。発泡スチロールの箱が、一つ減っていた。

焼けたスナックで働いてた子、という言い方を、町の誰かがしているのを聞いた。魚屋の妹、という言い方より先に、それが来るようになっていた。

妹は毎朝、店を開けた。夜になると閉めた。

 

*

 

その夜、妹は帳簿をつけていた。

台所のテーブルに帳簿を広げて、電卓を打っていた。私が水を飲みに入ると、妹は顔を上げなかった。電卓の音だけがした。

私は水を飲んだ。流し台の前に立ったまま、飲んだ。

妹が電卓を置いた。帳簿を閉じた。

「座れや」と妹は言った。

私は椅子に座った。妹はまだこちらを見なかった。帳簿の表紙に手を置いていた。

しばらく何も言わなかった。

台所の時計が鳴った。十一時だった。

 

*

 

「最近、何羽撃った」と妹は言った。

「覚えてない」と私は言った。

「そうやろな」と妹は言った。

また黙った。妹は帳簿の表紙を指で叩いた。一度だけ叩いて、止めた。

「あんたさ」と妹は言った。

私は水のグラスを持ったままだった。

「暴発を待ってるんとちゃうやろ」と妹は言った。「誰かを撃てる理由ができるのを待っとるだけや」

グラスを置かなかった。置けなかった。

妹はこちらを見ていた。怒っていなかった。

私は何も言わなかった。

 

*

 

妹が立ち上がった。帳簿を棚に戻した。電卓をしまった。流し台で手を洗った。水が流れた。水が止まった。

「寝る」と妹は言った。

台所を出ていった。

廊下の電気が消えた。

私はテーブルに座ったままだった。グラスの中の水が少し揺れていた。揺れて、止まった。

明日の朝、また撃つ。カラスが落ちる。声が一瞬止む。また戻る。そういう朝のことを考えた。

妹の言葉がまだそこにあった。

抜けなかった。

 

第十二章 照準

 

父は縁側から見ていた。

何も言わなかった。小指を見なかった。しばらく見ていた。居間に戻った。

母は笑っていた。

「今日も撃ってるの」と母が言った。

私は構えたまま、次のカラスを探した。頬に銃床が当たっていた。銃身の付け根の線が、頬のすぐ横にあった。撃つたびに熱くなる線が、そこにあった。

照準が動いた。庭の端を横切る影があった。隣の家の老人だった。毎朝散歩をする人間だった。名前は知らなかった。麦わら帽子をかぶっていた。

照準が止まった。

麦わら帽子の縁が、照準の中で揺れていた。揺れるのを、私は見ていた。銃床に頬をつけたまま、見ていた。頬の横に、罅の線があった。

老人が角を曲がって消えるまで、銃口は動かなかった。

私が動かさなかったのか、動かなかったのか、わからなかった。

その朝は、もう撃たなかった。

 

*

 

銃を膝に置いて、縁側に座っていた。

声が来た。止まなかった。

妹の言葉のことを考えた。暴発を待ってるんとちゃうやろ。誰かを撃てる理由ができるのを待っとるだけや。

銃口は、人の形の上で止まった。外したんじゃなかった。老人が消えるまで、外れなかった。

そのことが、引っかかった。抜けなかった。

 

*

 

夕方、飲み屋へ行った。

マスターがカウンターを拭いていた。私が入ると、顔を上げた。「いらっしゃい」と言った。いつもと同じ声だった。グラスを出した。氷を入れた。酒を注いだ。私の前に置いた。

私は酒を飲んだ。

マスターはまたカウンターを拭き始めた。横顔だった。タオルを動かすたびに、肩が少し揺れた。

銃があったら、と思った。今ここに銃があったら。このカウンター越しに。マスターの横顔に照準を合わせたら。引き金を引いたら。声は止むだろうか。

口の中に、鉄の味が滲んだ。頬の内側を、また噛んでいた。ビルの一室で噛んでいた場所と、同じ場所だった。

マスターは何も悪くなかった。ヤスさんの嫁さんの話をしただけだった。知っていることを、知っているままに話しただけの人間だった。

でも、理由なら、そこにあった。形の悪い、小さな理由が、カウンターの上にあった。

妹の言葉が来た。誰かを撃てる理由ができるのを待っとるだけや。

マスターが振り返った。「今日は顔色悪いな」と言った。

「そうですか」と私は言った。

酒を飲んだ。グラスを置いた。銃は家にあった。ここにはなかった。ここになくてよかったのか、なくて残念だったのか、わからなかった。わからないことが、いちばん怖かった。

店を出た。

 

*

 

帰り道、橋を渡った。

川があった。水が流れていた。欄干に手をついて、川を見た。

声が来ていた。老人たちの声が来ていた。川の音と混じって来ていた。川の音の方が大きかった。声が少し遠くなった。

欄干の冷たさが手のひらに伝わってきた。胸の内ポケットで、財布の角が肋骨に当たっていた。

銃を持っていなかった。

銃を持っていない手で、欄干を触っていた。

引っかかったまま、橋を渡り切った。

 

*

 

家に戻ると、母が縁側にいた。

「おかえり」と母が言った。誰に言っているのか、わからなかった。私かもしれなかった。別の誰かかもしれなかった。

「ただいま」と私は言った。

部屋へ行った。銃があった。手に取った。タオルで端から端まで磨いた。

磨きながら、カウンター越しの横顔のことを考えた。考えたことが、消えなかった。消えないまま、磨き続けた。小指の欠けた手で、端から端まで。銃身の付け根の線の上を、タオルが何度も通った。

 

第十三章 暴発

 

その朝、蝉が鳴いていなかった。

蝉が一斉に止む瞬間がある。その朝は、ずっとそうだった。庭が静かすぎた。空気が重くて、動かなかった。遠くに入道雲が立っていた。

縁側に出た。改造銃を持って、庭に下りた。カラスを探した。いた。木の枝にいた。

構えた。

照準を合わせた。銃口が動いた。カラスから外れて、自分の方へ向いた。こめかみの少し手前で止まった。

一秒か二秒、そのままだった。

台所から音がした。

包丁の音だった。妹が魚を捌いていた。規則正しい音だった。止まらなかった。

銃口をカラスへ戻した。

引き金を引いた。

 

*

 

白かった。

音はあとから来た。音というより、頭の中で何かが割れる感じだった。世界が右に傾いて、土が頬に当たった。倒れたのだと、あとからわかった。口の中に土と鉄の味がした。空が横向きに見えた。入道雲が、横倒しのまま動かなかった。

左手が熱かった。

見た。手袋みたいに血が広がっていた。小指のない手だった。てのひらの肉が裂けて、親指の付け根が別の色になっていた。血は土に落ちて、土は血を飲んで、黒くなった。銃は少し離れた土の上にあった。銃身が付け根から裂けて、めくれていた。鉄が、花みたいにめくれていた。あの線のところからだった。髪の毛ほどだった線の、そこからだった。

火薬の匂いがした。庭の土の匂いと、血の匂いと、火薬の匂いが、いっぺんに来た。鼻の奥で、三つの匂いが一つになった。

耳の奥で高い音が鳴り続けていた。蝉より高い音だった。その音の向こうから、声が来た。

全部来た。

老人たちの声。ヤスさんの声。火事のあとから来る声。知らない女の声。全部が一度に来た。三年分が一度に来た。銃声の余韻なんか、もう要らなかった。声は余韻に乗ってくるものじゃなくなっていた。声は私の中にいて、私の形をしていて、私より大きかった。

そして、初めて、言葉になった。

三年間、言葉になりきれなかったものが、言葉になった。

還付金が、と言った。お手続きが本日までで、と言った。キャッシュカードをお預かりします、と言った。息子さんですか、と言った。よかった、と言った。よかった、繋がって、と言った。

全部、私の言葉だった。

私が電話口で読み上げた台本が、老人たちの声で、私に返ってきていた。安心させる声で覚えさせた言葉を、老人たちは安心した声のままで返してきた。三年かけて、声はやっと私の言葉を覚えたのだった。

一つ前の引き金だったら、と思った。

こめかみの手前で止まった、あの銃口のことを思った。一分前の銃口のことを。

暴発は、来ていた。ずっと来ようとしていた。私はそれを頬の横に当てて、毎朝、待っていた。

 

*

 

母が庭に下りてきた。

裸足だった。裸足で土を踏んで、私のそばに膝をついた。エプロンを外して、私の左手を包んだ。強かった。骨に響くほど強く縛った。躊躇のない手つきだった。その手つきだけが、病気の外にあった。

「痛いわね」と母は言った。

痛かった。痛みはそのとき初めて来た。母の言葉と一緒に来た。

言葉が出たのは、そのときだった。

出よう、と思って出したんじゃなかった。堰き止めていたものが、堰き止め方ごと、抜けた。

彼のこと。区役所の課長だったこと。外資系コンサルタントだと嘘をついていたこと。朝、ベッドの端に座っていた目のこと。夕方に打った文面のこと。グループが動いたこと。立ち会わなかったこと。窓のないビルの一室のこと。小さな木の台のこと。蛍光灯が鳴っていたこと。老人たちのこと。電話のこと。数字のこと。声のこと。声が毎日来ること。彼の声だけが来ないこと。三年間、彼の声だけが来ないこと。

順番はばらばらだった。声は途中から震えて、割れて、泣いていた。泣きながら喋るのは、喋りながら溺れるのに似ていた。鼻水が土に落ちた。土に落ちて、丸まって、土をかぶった。私は泣いていた。東京を出てから、初めて泣いていた。喉が嗄れて、言葉が擦れて、それでも止まらなかった。止め方を、この体は最初から知らなかった。

母は膝をついたまま、聞いていた。

笑っていなかった。笑うのをやめた顔で、私を見ていた。目を逸らさなかった。エプロンごと、私の手を握っていた。エプロンに血が染みていくのが見えた。

言葉が尽きた。

息だけが残った。肩で息をしていた。庭が静かだった。耳鳴りの向こうで、蝉がまた鳴き始めていた。

最初の雨粒が、首の後ろに当たった。

大粒だった。乾いた土に落ちて、音を立てた。土に黒い点が一つできて、二つできて、点が繋がった。匂いが立ち上った。熱い土に雨が沁みる匂いだった。土と、灰と、血と、火薬の上に、雨の匂いがかぶさった。

夕立だった。入道雲が、やっと動いたのだった。

土から湯気が立った。焼けた庭中から白いものが立ち上って、立ち上るそばから雨に打たれて消えた。

雨は一気に来た。カラスの小山を叩き、石の場所の灰を叩き、裂けた銃を叩いた。灰が流れた。白いものが、黒い土の上を細く流れていった。頬の土が流れた。鼻水も、涙も、区別なく流れた。三年ぶんの湿ったものの上に、空の水が、音を立てて落ち続けた。

母の手が、頭に乗った。

濡れ始めた髪の上に、濡れた手が乗った。土の匂いがした。八歳の夏より前の、どこかの手つきだった。

「燃やしたらいいのよ」と母は言った。

雨の音の中で、穏やかな声だった。

「灰になったら、誰も読めないから」

それから母は、エプロンの結び目を確かめるみたいに私の手の包帯を確かめて、立ち上がった。縁側の方へ歩いて、途中で一度、雨の空を見上げた。白粉が雨に打たれて、母は気にしなかった。

「あの人、最近来ないわね」と母は言った。

雨が、母の言葉ごと庭に叩きつけた。

 

*

 

妹に呼ばれて、縁側に上がった。

ずぶ濡れのまま上がった。畳に水が落ちた。妹は何も言わずに救急箱を開けた。包丁を置いてきた手のままだった。魚の鱗が、前腕に一枚、光っていた。

雨がトタンの庇を叩いていた。太鼓みたいに叩いていた。その音の中で、妹は母のエプロンをほどいて、傷を見た。眉が動かなかった。水で洗って、消毒して、ガーゼを当てて、包帯を巻いた。魚を捌く手つきだった。躊躇がなかった。痛みに、いちいち付き合わなかった。消毒液が沁みて、私の腕が跳ねた。妹は押さえた。魚を押さえる力だった。

「病院は」と妹は言った。

「ええ」と私は言った。

「そうか」と妹は言った。

包帯の最後を、妹は歯で切った。

それから、雨の庭を見た。土の上の銃を見た。裂けてめくれた銃身が雨に打たれて、鉄の花に水が溜まっていた。妹は長いこと見ていた。拾わなかった。私も拾わなかった。

「終わったんやな」と妹は言った。

何が、とは言わなかった。私も訊かなかった。

雨が、夕方まで降った。カラスの小山の匂いが、初めて薄くなった。

 

*

 

雨上がりの夜、声が来なかった。

布団の中で待った。老人たちの声を待った。ヤスさんの声を、火事のあとから来る声を、待った。

来なかった。

耳鳴りが引いたあとに、何も残らなかった。

庭で虫が鳴き始めていた。雨のあとの、洗われた虫の声だった。天井があった。天井だけがあった。左手がずくずくと脈打った。脈打つたびに、生きている、という事実だけが確認された。それ以外、私の中に音がなかった。

静けさは、声よりも重かった。

明け方、遠くで一番電車の音がした気がした。この家から駅は遠い。聞こえるはずのない音だった。

それから少し眠った。夢を見なかった。三年ぶりだった。

 

第十四章 暴発を待ちながら

 

妹が出て行ったのは、三日後の朝だった。

荷物は少なかった。鞄一つだった。台所を片付けてから出た。私が縁側にいると、妹は玄関の前で一度だけ立ち止まった。こちらを見なかった。ドアが閉まった。

ヒールの音はしなかった。

台所のテーブルに、店の鍵が置いてあった。

ありがとうも、ごめんも、言わなかった。言う機会なら三日あった。この家の言葉は、皿を一枚増やすことと、包帯を歯で切ることでできていた。それで全部だった。全部で、足りていなかった。足りないまま、ドアが閉まった。

 

*

 

撃つ者がいなくなった庭に、カラスが戻ってきた。

一羽が来て、次の日には三羽になった。その次の朝には、木の枝が黒くなっていた。鳴いた。朝から鳴いた。何十の声が重なって、庭の空気がびりびりと震えた。生きている声だった。うるさかった。耳の芯まで、うるさかった。

父が「うるさい」と言ったのが、少しわかった。

私は撃てなかった。銃は裂けたまま、部屋の隅にあった。二度と撃てなかった。カラスはそれを知っているみたいに、庭の真ん中まで下りてきた。カラスの小山があった場所を、生きているカラスが歩いた。黒い羽が朝の光の中で青く光った。死んだカラスと同じ色で、まるで違う色だった。

声は、来なかった。

どの声も来なかった。カラスの声だけが来た。生きている声だけが、朝の庭に満ちた。

 

*

 

石の場所へ行った。

財布を持っていた。胸の内ポケットから出した。革に血が染みていた。私の血だった。暴発の朝、胸を押さえた手の血だった。

包帯の手で、開けた。

三年間で、初めて開けた。

職員証が入っていた。顔写真があった。彼はこちらを見ていなかった。カメラを見ていた。背筋が伸びていた。写真の中でも、もう私を見ていなかった。

図書館の貸出カードが一枚。千円札が二枚。レシートが一枚、四つに畳んであった。

開いた。

コンビニのレシートだった。缶コーヒーが二つ。あんパンが一つ。ヨーグルトが一つ。朝の七時十二分。

二人分の朝だった。

どの朝か、思い出せなかった。缶コーヒーの一つはブラックで、一つは微糖だった。微糖は私だった。思い出せない朝を、彼は畳んで、ポケットに入れて、持ち歩いていた。捨てる理由がなかったのか。捨てる理由がないものだけが、財布に残るのか。

木片と一緒に積んで、火をつけた。

夕立の名残で、木片が湿っていた。マッチは一本目が消えた。二本目も消えた。三本目で、木片の下に入れた新聞紙に火が移った。煙が白く、太く上がった。目に沁みた。

革は燃えにくかった。端から黒くなって、反って、脂を滲ませて、それから燃えた。焦げる匂いがした。羽とは違う匂いだった。もっと重い。もっと長く残った。血の染みたところが、いちばん最後まで残った。

レシートは一瞬だった。

一瞬の火の中で、思い出した。

彼はいつも、缶コーヒーのプルタブを先に起こして渡した。書類に印鑑を押すときの手つきで、正確に、起こしてから渡した。冷たい缶が手のひらに来て、もう開いていた。そのことを、思い出した。思い出は暴発みたいに来た。防げなかった。

私は彼の名前を呼んだ。

三年ぶりに、声に出して呼んだ。嗄れた、小さな声だった。

庭のカラスが、一斉に飛び立った。

黒い羽が空いっぱいに散って、鳴きながら、旋回して、家の上を一回りして、また枝に戻ってきた。羽音が屋根を撫でた。

それが、返事の全部だった。

灰になった。

匂いが消えた。

 

*

 

縁側に戻った。母が座っていた。庭を見ていた。

「今日は賑やかねえ」と母が言った。

カラスが鳴いていた。蝉が鳴いていた。生きている声だけが、庭に満ちていた。

私は隣に座った。裂けた銃を膝に置いた。鉄の花はめくれたままだった。重かった。撃てない銃は、撃てる銃より重かった。

暴発なら、もう起きた。

庭で起きた。手の中で起きた。それから、母の前で起きた。銃と、言葉と、両方が裂けた。三年間、私はそれを待っていた。待っているとは知らないまま、毎朝、頬の横に当てて待っていた。

それでも私は、銃を膝から下ろさなかった。

耳を澄ました。

彼の声は、来なかった。どの声も、もう来なかった。カラスだけが鳴いていた。

夏が続いていた。

私は、まだ待っていた。

© 2026 牧野楠葉 ( 2026年9月26日公開 )

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