夏だった。
縁側に座っていた。スーツを着て。クローゼットを開けるとスーツしかなかったから、着ていた。東京から戻ってきたのが去年の秋で、それからずっとそうだった。
庭の端に、カラスが積み上がっていた。
羽が黒い。くちばしが黒い。爪が乾いている。父が改造銃で撃ち落としたものだ。朝に三羽、昼すぎに一羽、また朝に二羽、そういう積み重なりが庭の端に小山をつくっていた。父はかつて鮮魚店をやっていた。やめてからこれを始めた。
銃声が鳴った。
老人の声が重なった。
詐欺で追い詰めて、自殺させた人間たちの声だ。複数だった。性別もばらばらだった。言葉になりきれない、低く湿ったものが、銃声の余韻に乗ってくる。幻聴だとわかっていた。わかっていても来た。来なかった日がなかった。
縁側の板が軋んだ。
母が反対側に座って庭を見ていた。いつからそこにいたのかわからなかった。アルツハイマーの初期で、時代がばらばらになっている。笑っていた。今日は笑っている日だった。
「きれいね」と母が言った。
カラスの小山を見ていた。
私は何も言わなかった。足の裏の下から、重さが来た。すぐに消えた。
*
銃声がまた鳴った。今度は声が来るのが少し遅かった。カラスが落ちる音がした。羽が乾いた土を叩く音だ。私は縁側を下り、庭を横切り、落ちたカラスを拾い上げた。まだ温かかった。羽をむしり始めた。
左手の小指が第一関節から先にない。東京で詐欺グループにいたころに詰めた。その欠けたところに羽が引っかかった。引っかかるたびに、少し意識が行く。行って、戻ってくる。
店の奥から妹の声がした。
「父ちゃん、またやってんの」
私が実家に戻ってきた夜、妹は夕飯の皿を一枚増やした。何も言わずに。それだけだった。
父は答えなかった。
また銃声が鳴った。
*
私がこの改造銃のことを最初に見たのは、戻ってきて三日目の朝だった。
父は縁側の柱に背を預けて、膝の上に乗せていた。長くはない。短くもない。黒い。父はそれを磨いていた。タオルで、ゆっくり、端から端まで。鮮魚店を三十年やった手つきで、磨いていた。私が縁側に出ても顔を上げなかった。磨き続けた。
「何それ」とは言わなかった。
縁側に並んで、二人で庭を見た。
しばらくして父が「うるさい」と言った。カラスのことだった。「朝から鳴いてうるさい」と言った。確かに鳴いていた。父はそのまま立ち上がって庭に下り、銃を構えた。木の枝のカラスに向けた。引き金を引いた。カラスが落ちた。羽が広がった。
父は少しの間、落ちた場所を見ていた。それから私の方を見た。
「捌いてくれ」と言った。
それが始まりだった。
*
焼くのは庭の奥だった。石を丸く並べただけの場所で、網も何もなく、ただ木片と一緒に積んで火をつける。燃えるときに匂いがした。羽の焦げる匂いは肉の焦げる匂いとは少し違った。もっと軽い。もっと早く消える。灰になると、匂いも消えた。
声も止んだ。
ただ止んだ。
白かった。触ろうとして、やめた。暴発、という言葉が来た。灰を見ていた。
母が縁側から「まだかかる?」と言った。夕飯のことだった。今日は今日の話をしている日だった。
「もうすぐ」と私は言った。
声が戻ってきた。喉だった。耳じゃなかった。消えなかった。カラスの灰は軽かった。
第二章 彼氏のこと
彼のジャケットは、いつも椅子の背にかかっていた。三年前、東京だった。彼は区役所の課長だった。印鑑の位置を気にした。受け取った書類はその場で端を揃えた。私が部屋に脱ぎ捨てたジャケットを、彼は必ず椅子の背にかけた。何も言わずに。それが習慣だった。
私は彼に、外資系コンサルタントだと言っていた。
*
朝、目が覚めると、彼がベッドの端に座っていた。
窓の外がまだ暗かった。彼はパジャマのままで、背筋が伸びていた。膝の上に何も置いていなかった。私のスマホが彼の隣にあった。画面が下を向いていた。
怒っていなかった。泣いてもいなかった。
ただ私を見ていた。
私は何を言うべきか考えようとした。考えられなかった。彼の目が、そういう順番を許さなかった。言い訳でも謝罪でも説明でもなく、ただ私という生き物の全体を、静かに、端から端まで見ていた。
彼は何も言わなかった。やがてベッドから立ち上がり、クローゼットを開けた。荷物をまとめ始めた。書類を扱うときと同じ手つきで、ひとつずつ、丁寧に畳んで鞄に入れた。急がなかった。乱れなかった。私はベッドの上でそれを見ていた。止めなかった。止め方がわからなかった。
彼が出ていった。部屋に彼の秩序だけが残った。
椅子の背にかかったままのジャケット。端の揃った雑誌。洗い物のない流し台。私がここにいるのに、私の痕跡だけがない部屋みたいだった。
*
グループに連絡したのは、その日の夕方だった。
彼が情報を握っている可能性がある、と打った。彼が何を知っているかより、あの目のことを考えていた。ベッドの端に座って、膝の上に何も置かずに、こちらを見ていた目。
グループは動いた。私は何も聞かなかった。電話を切った。
数日後、呼び出された。場所は繁華街から外れたビルの一室だった。椅子が一脚あった。テーブルの上にタオルと、小さな木の台が置いてあった。男が二人いた。どちらも私の顔を見なかった。窓がなかった。
誰かが私の左手を台の上に置いた。私は自分で置いた。木の台は古かった。何かが来た。声は出なかった。出そうとしなかった。終わったとき、タオルが渡された。私はそれを受け取った。受け取りながら、彼のジャケットのことを考えていた。椅子の背にかかったまま置いてきたジャケットのことを。取りに戻れない、と思った。
部屋を出た。エレベーターに乗った。一階のボタンを押した。
*
その夜から、声が来た。
老人の声だった。最初は一人だった。次の朝には増えていた。言葉にならないまま来た。低く、湿って、銃声の余韻に似た重さで来た。幻聴だとわかっていた。わかっていても来た。
彼の目が先にあって、それから声が来た。
彼の財布が手元に残っていた。グループに渡しそびれた。鞄の底にあった。捨てられなかった。捨て方がわからなかった。
声の中に、彼の声はなかった。
老人たちの声は来た。知らない女の声も来た。だが彼の声だけは来なかった。区役所という言葉を聞くたびに、印鑑、書類、却下、そういう事務の言葉に触れるたびに、来そうになった。
来なかった。
第三章 母親のこと
私が八歳の夏、母がいなくなった。
朝起きたら、いなかった。父は台所にいた。父は何も言わなかった。妹はまだ三歳で、台所の前で泣いていた。父は妹を抱いて、魚を捌き続けた。包丁の音だけがあった。私は学校へ行った。
夕飯は父が作った。味噌汁の味が少し変わった。妹は泣かなくなった。
*
母が戻ってきたのは半年後だった。
夜遅く、タクシーで帰ってきた。荷物は持っていなかった。玄関を開けて、靴を脱いで、台所に入った。冷蔵庫を開けた。何かを確認して、閉めた。鍋を出した。翌朝の味噌汁を作り始めた。
父は居間にいた。何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
三歳だった妹が、もう泣かなくなっていた。
母が戻ってきた翌朝、味噌汁の味が元に戻っていた。私はその味噌汁を飲んで、学校へ行った。
*
駆け落ち相手の男を、私は一度だけ見たことがある。
母が戻る少し前、隣町の商店街だった。母と男が並んで歩いていた。私は自転車を止めた。二人は気づかなかった。
男は父より背が高かった。言葉が多そうな顔をしていた。実際、話し続けていた。何を言っているのかは聞こえなかった。距離があった。母の横で、ずっと何かを言い続けていた。
母が笑っていた。
私が見たことのない笑い方だった。口だけじゃなかった。顔全体が、少し前に傾いていた。男の言葉を受け取るたびに、少しだけ前へ傾いた。うちの台所で味噌汁を作っているときの母とは、別の生き物みたいだった。
私は自転車を引き返した。誰にも言わなかった。母が戻ってきたのは、それから少し後だった。荷物を持っていなかった。
*
現在。縁側で母が笑っている。
「あの人、最近来ないわね」と母が言った。
父のことか、男のことか、わからなかった。
幻聴の中で、老人の声と母の声が混じる瞬間がある。同じ湿度で来る。
縁側で母がまた笑った。庭を見ていた。カラスはもういなかった。
第四章 ヤスさんの死と妹の外出
ヤスさんが死んだと聞いたのは、行きつけの飲み屋だった。
脳梗塞だった。先週だった。マスターが教えてくれた。私はカウンターで酒を飲んでいた。そうか、と言った。それだけだった。
ヤスさんは七十過ぎの老人だった。名前も知らなかった。いつもカウンターの端に座っていて、私が来ると隣に移ってきた。何も要求しなかった。何も聞かなかった。ただ隣にいた。詐欺の被害者でもなかった。私が何かをした相手でもなかった。
帰り道から、声が混じり始めた。
老人の声の中に、ヤスさんに似た質のものが入ってきた。言葉にはならなかった。ただ、低く、湿って、来た。来ながら、私は少しおかしいと思った。ヤスさんとは何もなかった。私は何もしていないのに。
*
帰宅すると、妹が台所に立っていた。
派手なワンピースを着ていた。化粧をしていた。いつもの妹とは別の人間みたいだった。魚の匂いがしなかった。
「どこ行くんや」と私は言った。
妹は振り返らなかった。小さな鏡を持って、口元を確認していた。鏡の角度が変わるたびに、口紅の色が変わった。赤から暗い赤へ。妹の指が唇の端を少し直した。丁寧だった。魚を捌くときとは別の手つきだった。
「雅子さんのスナック」と妹は言った。鏡を鞄にしまった。「今夜から働く」
私は何か言いかけた。妹が振り返った。一瞬だけ私を見た。値踏みするような目じゃなかった。もっと事務的な目だった。
「あんた、障害年金ちゃんと入れてなかったら出て行ってもらってた」
それだけ言って、出ていった。
ヒールの音が廊下を抜けた。玄関のドアが閉まった。音が消えた。
台所に立ったまま、私はしばらく動かなかった。妹が立っていた場所に、魚の匂いはなかった。口紅の匂いもしなかった。何もなかった。妹がいた場所だけが、少し乾いていた。
*
父は居間にいた。テレビを見ていた。母は縁側にいた。今日は今日の話をしている日だった。
私は流し台の前に立った。水を出した。飲まなかった。蛇口を閉めた。
声が来た。ヤスさんに似た声も来た。老人たちの声も来た。全部来た。
流し台は洗い物がなかった。妹が全部片付けてから出ていっていた。
第五章 三本足のカラスと銃の引き継ぎ
その朝、父が撃ち落としたカラスは三本足だった。
私が庭へ出ると、父がしゃがんでそれを見ていた。改造銃を脇に置いて、落ちたカラスを覗き込んでいた。父がそういう顔をするのを見たことがなかった。
「三本しかない」と父が言った。
私はカラスを見た。確かに三本だった。羽の付け根のあたりで、一本分の痕がある。もぎ取られたのか、生まれつきなのか。
「かわいそうやろ」と父が言った。
私は何も言わなかった。
「それなりに偉いやつがな」と父は続けた。「こいつの足をもぎ取って、恵まれない誰かにやったんや。そういうことやろ」
カラスは死んでいた。三本足だった。
「やたがらすか」と私は言った。
父が私を見た。
「やたがらすって可哀想やないか」と父は言った。
*
これまで何羽撃ち落としたか、と私は聞いた。
父は少し考えた。「覚えてない」と言った。
「だったら三本足でも四本足でも関係ない」と私は言った。
父は黙った。カラスを見ていた。しばらくして、「やめようかな」と言った。撃つのをやめようか、という意味だった。「でも完全にやめるのはスカッとしない」と続けた。「だからお前にパスしようと思って」
「そういうことか」と私は言った。
「そういうことや」と父は言った。
*
父が改造銃を差し出してきた。
私は笑った。なぜ笑ったのかわからなかった。笑いながら、受け取った。左手で受け取った。小指の欠けた手で、銃の重さを受けた。
父はその手を見なかった。
父が三十年魚を捌いた手で磨いていたものだ。父が毎朝縁側に出て撃っていたものだ。
父は縁側に上がった。
*
その夜、庭に出た。
月がなかった。懐中電灯を持っていなかった。目が慣れるまで、庭の端の輪郭が見えなかった。カラスの小山がある場所はわかった。匂いでわかった。
財布を持っていた。彼の財布だ。三年間、鞄の底に入れていた。東京から持ち帰って、ずっとそこにあった。捨てる手続きがわからなかった。今日まで。
鍬で土を掘った。柔らかかった。財布を入れた。
縁側から母の声がした。
「また成績の悪い答案用紙、埋めたんでしょう」
私は何も言わなかった。土を踏んだまま、庭に立っていた。
声が来た。老人たちの声が来た。彼の声は来なかった。財布は土の中にあった。それでも来なかった。
第六章 雅子さんと私
妹に呼ばれたのは、火事の前の夜だった。
雅子さんが話があると言っている、と妹は言った。妹の言い方は平坦だった。何かを知っているのか、知らないのか、わからなかった。
スナックは駅から少し外れた路地にあった。表に看板が出ていた。夜だった。ドアを開けると、煙草の匂いがした。客はいなかった。カウンターに妹がいた。グラスを拭いていた。私が入ると、妹は一度だけこちらを見た。それから雅子さんを見た。
雅子さんが顎で奥を示した。妹はグラスを置いて、カウンターの奥へ消えた。妹が置いたグラスに、濡れた跡が残っていた。カウンターの上には空のボトルが並んでいた。ラベルの色が褪せていた。端の棚に小さなぬいぐるみが一つ置いてあった。誰かが置いていったのか、最初からそこにあったのか、わからなかった。客がいないのに、煙草の匂いが染みついていた。
「来てくれたね」と雅子さんは言った。
私は返事をしなかった。カウンターの椅子に座った。
*
雅子さんはグラスを二つ出した。水割りを作った。私のグラスを先に置いた。自分のグラスを持った。飲まなかった。
「出ようと思ってる」と雅子さんは言った。「この土地を」
私は何も言わなかった。
「男がいる」と雅子さんは続けた。「ここに出入りしてた人や。一緒に行く」
グラスの氷が溶けていた。雅子さんは灰皿を引き寄せた。煙草に火をつけた。煙が上に行った。換気扇が回っていた。
「あの子には世話になった」と雅子さんは言った。煙草を灰皿に置いた。「よく働いてくれた」
私はグラスを持った。飲んだ。水割りは薄かった。
「いつ出るんですか」と私は言った。
「明日」と雅子さんは言った。
煙草の煙が換気扇に吸われた。カウンターの端に小さな傷があった。古い傷だった。誰かがつけたのか、長年の使用でできたのか、わからなかった。
*
「頼みがある」と雅子さんは言った。
私はグラスを置いた。
「私がいなくなったあと、何も言わないでほしい」と雅子さんは言った。「どこへ行ったか、誰と行ったか、何も」
私は雅子さんを見た。
雅子さんは煙草を灰皿に押しつけた。消した。私を見た。
侮辱がなかった。彼の目とは違った。値踏みでもなかった。ただ、頼んでいた。この土地にいた人間が、いなくなる前に、ただ頼んでいた。
「わかりました」とは言わなかった。頷きもしなかった。ただ聞いた。
雅子さんはそれで十分だったのか、新しい煙草を出した。今度は火をつけなかった。指の間で持ったまま、カウンターの傷を見ていた。
「あんたの妹、強い子やね」と雅子さんは言った。
私は何も言わなかった。
「私には無理やったわ」と雅子さんは言った。「ここで続けるのは」
少し間があった。
「朝方の片づけがね」と雅子さんは言った。独り言みたいな声だった。「ずっと嫌やった。誰も覚えてへん話を、また聞く朝が」
少し間があった。換気扇が回っていた。
「匂いが取れへんのよ」と雅子さんは言った。「何年やっても。煙草と酒の匂いが、朝になっても残ってる」
煙草がカウンターに置かれた。火はついていなかった。グラスの氷がまた少し溶けた。
*
店を出たのは十時過ぎだった。
路地の空気は冷たかった。スナックの看板の灯りが足元を照らしていた。少し歩いて、振り返った。看板はまだついていた。
母のことを思った。母は言葉を残さずに戻った。荷物も持たずに、夜遅くタクシーで帰って、台所に入って、味噌汁を作り始めた。何も言わなかった。
雅子さんは言葉を残して消えようとしていた。
何が違うのか、うまく言えなかった。どちらも夜だった。どちらも男がいた。どちらも何かを置いて、別の場所へ行こうとしていた。
それでも違った。何かが違った。
家が近づいた。庭の匂いがした。土と、灰と、少しだけ魚の匂いがした。
玄関の前で止まった。鍵を出した。ポケットに手を入れて、鍵を探した。
声が来ていなかった。
気づいたのはそのときだった。玄関の前で鍵を探しながら、そこで初めて気づいた。その夜だけ、来なかった。
第七章 火事の夜と翌朝
妹が戻ってきたのは夜の十一時過ぎだった。
ドアの開き方が違った。いつもより速かった。廊下を走る音がした。妹が走るのを聞いたことがなかった。
「火事や」と妹は言った。「雅子さんのとこが燃えてる」
息が切れていた。走ってきたのか、別の何かで息が切れていたのか。父が居間から出てきた。顔が変わっていた。「消防団呼べ」と父は叫んだ。「早よ呼べ」と言いながら、自分で電話を取った。母が縁側から顔を出した。笑っていた。今日は今日の話をしている日だった。
妹が何かを言っていた。父が何かを怒鳴っていた。電話口で父が怒鳴っていた。母が縁側から何かを言っていた。笑いながら言っていた。
テレビがまだついていた。誰も消していなかった。画面の中で誰かが笑っていた。音量が大きかった。
声が重なった。妹の声、父の声、母の声、テレビの声、幻聴の声。全部が同じ音量になった。どれがどれかわからなかった。
私は庭へ出た。
*
土が柔らかかった。
一歩踏み出すたびに、少し沈んだ。財布を埋めた場所はわかった。そこだけ特別に柔らかいわけじゃなかった。庭全体が柔らかかった。この庭はいつもそうだった。
振り返ると、母が縁側に座っていた。こちらを見ていた。笑っていた。
「今度は何を埋めたの」と母が言った。
私は何も言わなかった。
空が赤かった。スナックの方角だった。遠くで何かが燃えていた。この場所からは見えなかった。赤い色だけが空に滲んでいた。雲の端が赤く染まっていた。染まり方が均一じゃなかった。滲んで、濃くなって、また薄くなっていた。
足の裏に土の湿りが伝わってきた。昼間は乾いていた土だった。夜になると湿る。この庭はいつもそうだった。
母がまた何かを言った。聞こえなかった。声が来ていた。老人たちの声が来ていた。赤い空の下で、声が来ていた。いつもと同じ声だった。でも今夜は少し違った。もっと近かった。耳の外からじゃなく、土の下から来るような声だった。知らない声も混じっていた。今夜初めて来る声だった。火事の中にいた人間の声かもしれなかった。
私は財布を埋めた場所に立っていた。踏んでいた。土は柔らかかった。
雅子さんのことを考えた。もう遠くにいるはずだった。男と一緒に、この土地を出ているはずだった。
私は何も言わなかった。昨夜も言わなかった。今夜も言わない。
*
翌朝、テレビをつけると報道が流れていた。
スナックの火災。死者二名、重傷者三名。出火原因は調査中。雅子さんの名前は出なかった。代わりに、女性の服を着た男性の焼死体が発見された、とアナウンサーが言った。淡々とした声だった。雅子さんの行方はわからない、と言った。
明日、と雅子さんは言っていた。
妹が台所にいた。魚を捌いていた。包丁の音だけがした。
父はまだ寝ていた。母は縁側にいた。
私はテレビを消した。
客の老人が二人死んだ。私は知らない人間だった。それでも声が来るかもしれない、と思った。昨夜から新しい声が混じっていた。言葉にならない、低く湿ったものが、また増えていた。
妹の包丁の音が続いていた。
妹は何も聞かなかった。私も何も言わなかった。雅子さんがどこへ行ったか、男が誰だったか、妹は何も聞かなかった。
妹の包丁が魚の骨を外した。正確だった。一度で外した。やり直さなかった。
店の前を誰かが通る気配がした。立ち止まる気配がした。また歩く気配がした。
妹は包丁を洗った。水が流れた。水が止まった。また包丁を持った。
包丁の音だけが続いた。
第八章 火事の余波
雅子さんの名前が出たのは、三日後だった。
行方不明者として、地元の新聞に小さく載った。妹が読んでいた。私が台所に入ると、妹は新聞を畳んだ。テーブルに置いた。何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
湯を沸かした。お茶を入れた。妹の分も入れた。妹は受け取った。飲んだ。それだけだった。
*
町の空気が少し変わった。
飲み屋のマスターが火事のことを話した。常連の客が二人死んだ。惜しい店だった、と言った。雅子さんのことは、どこへ行ったんやろな、と言った。私は酒を飲んだ。そうですね、と言った。
スーパーで顔見知りの女が声をかけてきた。雅子さんのスナック、知ってた? と聞いた。私は知っていた。知ってました、と言った。怖かったねえ、と女は言った。私はそうですね、と言った。
何も言わなかった。
誰に対しても何も言わなかった。雅子さんがどこへ行ったか。男が誰だったか。何も。
詐欺グループに報告したとき、私は彼のことを言った。言葉にした。処理に回した。あのときは言えた。でも今は言えなかった。言えないというより、言う場所がなかった。言葉にしたとたんに、何かが壊れる気がした。壊れるのが怖いのか、壊れてほしいのか、わからなかった。
*
声が増えた。
老人の声が増えた。火事で死んだ客かもしれなかった。知らない人間だった。それでも来た。ヤスさんのときと同じだった。関係なく来た。
夜中に目が覚めることがあった。声が来ていた。老人の声だった。火事の客かもしれなかった。でも声に顔はなかった。顔のない声が、天井の方から来た。言葉にならなかった。言葉にならないまま、重さだけがあった。詐欺で追い詰めたとき、相手の顔は見ていなかった。電話だった。書類だった。数字だった。顔を見ずに終わった。だから声にも顔がない、と思った。思いながら、起き上がれなかった。そのまま朝になることがあった。朝になると、銃を磨いた。父がやっていたように、タオルで端から端まで磨いた。磨いている間だけ、声が少し遠くなった。
妹は何も言わなかった。
妹は毎朝魚を捌いた。店を開けた。夜になると閉めた。派手なワンピースは見なくなった。口紅の赤も見なくなった。
ただ、たまに妹が私を見る目が変わっていた。
何かを確認するような目だった。値踏みでもなく、怒りでもなかった。もっと静かな、別の種類の目だった。
*
ある朝、父が縁側に出てこなかった。
その日だけじゃなかった。次の日も出てこなかった。その次の日も。父は居間にいた。テレビを見ていた。庭を見なかった。改造銃のことは何も言わなかった。
一度だけ、廊下ですれ違った。父は私の手元を見た。銃を持っていなかった。それでも見た。それから目を逸らした。何も言わなかった。
銃は私の部屋にあった。
第九章 銃を持つ日々
父が庭に出てこなくなってから、私が撃ち始めた。
朝、縁側に出る。改造銃を持って、庭に下りる。カラスを探す。いる。構える。引き金を引く。落ちる。
撃った瞬間だけ、声が止んだ。一瞬だけ。それだけだった。止んだと思ったら戻ってきた。だから次を撃った。また止んだ。また戻った。それを繰り返した。三羽目を撃ったとき、妹が店の奥で何かを落とした音がした。その音で止んだ。撃ったからじゃなかった。妹の音で止んだ。すぐ戻った。でも止んだ理由が違った。
父はこれをずっとやっていたのか、と思った。
*
父は縁側から庭を見ることがあった。
私が銃を構えているのを見ていた。何も言わなかった。小指を見なかった。銃の持ち方を直さなかった。ただ見ていた。しばらくすると居間に戻った。
母は縁側で笑っていた。
「上手になったわね」と母が言った。
私は何も言わなかった。次のカラスを探した。
第十章 妹の看破
その夜、妹は帳簿をつけていた。
台所のテーブルに帳簿を広げて、電卓を打っていた。私が水を飲みに入ると、妹は顔を上げなかった。電卓の音だけがした。
私は水を飲んだ。流し台の前に立ったまま、飲んだ。
妹が電卓を置いた。帳簿を閉じた。
「座れや」と妹は言った。
私は椅子に座った。妹はまだこちらを見なかった。帳簿の表紙に手を置いていた。
しばらく何も言わなかった。
台所の時計が鳴った。十一時だった。
*
「最近、何羽撃った」と妹は言った。
「覚えてない」と私は言った。
「そうやろな」と妹は言った。
また黙った。妹は帳簿の表紙を指で叩いた。一度だけ叩いて、止めた。
「あんたさ」と妹は言った。
私は水のグラスを持ったままだった。
「暴発を待ってるんとちゃうやろ」と妹は言った。「誰かを撃てる理由ができるのを待っとるだけや」
グラスを置かなかった。置けなかった。
妹はこちらを見ていた。怒っていなかった。
私は何も言わなかった。
*
妹が立ち上がった。帳簿を棚に戻した。電卓をしまった。流し台で手を洗った。水が流れた。水が止まった。
「寝る」と妹は言った。
台所を出ていった。
廊下の電気が消えた。
私はテーブルに座ったままだった。グラスの中の水が少し揺れていた。揺れて、止まった。
明日の朝、また撃つ。カラスが落ちる。声が一瞬止む。また戻る。そういう朝のことを考えた。
妹の言葉がまだそこにあった。
抜けなかった。
第十一章 待っている日々
父は縁側から見ていた。
何も言わなかった。小指を見なかった。しばらく見ていた。居間に戻った。
母は笑っていた。
「今日も撃ってるの」と母が言った。
私は構えたまま、次のカラスを探した。
照準が動いた。庭の端を横切る影があった。隣の家の老人だった。毎朝散歩をする人間だった。名前は知らなかった。
照準が止まった。
一瞬だけ止まった。
それから外した。カラスに戻した。引き金を引いた。
*
羽をむしった。焼いた。灰にした。
声が来た。止まなかった。
石の前にしゃがんで、灰が冷えるのを待った。待ちながら、妹の言葉のことを考えた。暴発を待ってるんとちゃうやろ。誰かを撃てる理由ができるのを待っとるだけや。
灰を見ていると、来た。
でも、照準が老人の影で一瞬止まったのは本当だった。止まって、それから外した。
外したことが、引っかかった。
*
夕方、飲み屋へ行った。
マスターがカウンターを拭いていた。私が入ると、顔を上げた。「いらっしゃい」と言った。いつもと同じ声だった。グラスを出した。氷を入れた。酒を注いだ。私の前に置いた。
私は酒を飲んだ。
マスターはまたカウンターを拭き始めた。横顔だった。タオルを動かすたびに、肩が少し揺れた。
銃があったら、と思った。今ここに銃があったら。このカウンター越しに。マスターの横顔に照準を合わせたら。引き金を引いたら。声が止むだろうか。
マスターが振り返った。「今日は顔色悪いな」と言った。
「そうですか」と私は言った。
酒を飲んだ。グラスを置いた。
マスターはまたカウンターを拭いた。私は酒を飲んだ。声が来ていた。マスターの横顔が見えていた。銃は家にあった。ここにはなかった。マスターの肩が動いた。タオルが動いた。
店を出た。
*
夜、妹が帰ってきた。
台所で何かを片付けていた。私は居間にいた。声が来ていた。妹の気配がした。片付ける音がした。水が流れた。止まった。
妹が居間の前を通った。止まらなかった。部屋へ行った。
廊下の電気が消えた。
妹の言葉だけが残った。
第十二章 照準のずれ
ある朝、町へ出た。
用事があったわけじゃなかった。スーツを着て、外へ出た。駅の方へ歩いた。
商店街を歩いた。朝の時間だった。店が開き始めていた。魚屋が店先に氷を並べていた。豆腐屋が台車を押していた。顔見知りの人間が何人かいた。会釈した。会釈が返ってきた。
飲み屋のマスターが店の前を掃いていた。「早いな」と言った。「ちょっと歩いてた」と私は言った。マスターは箒を動かした。「最近どうや」と言った。「まあまあです」と私は言った。
歩きながら、銃のことを考えていた。部屋に置いてきた銃のことを。
*
郵便局の前に老人が立っていた。
開くのを待っていた。白いシャツを着ていた。背が低かった。手に封筒を持っていた。私が近づくと、老人は振り返った。知らない顔だった。目が合った。老人は前を向いた。
私は歩くのを止めた。
老人の背中が見えていた。封筒を持った手が見えていた。白いシャツが朝の光の中にあった。
照準を合わせたら、と思った。
マスターのときは、理由を探していた。この老人には何もなかった。名前も知らない。顔も知らない。
老人は郵便局のドアを開けた。
一歩、踏み出していた。
老人が中に入った。姿が消えた。
私は歩いた。
理由はなかった。恨みもなかった。ただ、止むかどうか知りたかった。
角を曲がった。商店街の声が遠くなった。
*
帰り道、橋を渡った。
川があった。水が流れていた。欄干に手をついて、川を見た。
声が来ていた。老人たちの声が来ていた。川の音と混じって来ていた。川の音の方が大きかった。声が少し遠くなった。
欄干の冷たさが手のひらに伝わってきた。
銃を持っていなかった。
銃を持っていない手で欄干を触っていた。
引っかかったまま、橋を渡り切った。
*
家に戻ると、母が縁側にいた。
「おかえり」と母が言った。誰に言っているのか、わからなかった。私かもしれなかった。別の誰かかもしれなかった。
「ただいま」と私は言った。
縁側を上がった。部屋へ行った。銃があった。手に取った。タオルで端から端まで磨いた。
磨きながら、郵便局の前の老人のことを考えた。封筒を持った手のことを。あの背中に照準を合わせたとしたら、と考えた。
考えた。
小指の欠けた手で、端から端まで磨いた。
その思考が来て、消えなかった。消えないまま、磨き続けた。小指の欠けた手で、端から端まで。
第十三章 暴発を待ちながら
夏だった。
朝、縁側に出た。改造銃を持って、庭に下りた。カラスを探した。いた。木の枝にいた。
構えた。
照準を合わせた。銃口を少しだけ動かした。カラスから外れた。自分の方へ向いた。こめかみの少し手前で止まった。
一秒か二秒、そのままだった。
台所から音がした。
包丁の音だった。妹が魚を捌いていた。規則正しい音だった。止まらなかった。
銃口をカラスへ戻した。
引き金を引いた。
*
カラスが落ちた。
拾い上げた。まだ温かかった。羽をむしった。左手の小指の欠けたところに羽が引っかかった。引っかかるたびに、少し意識が行く。行って、戻ってくる。
腹を割いた。庭の奥へ運んだ。木片と一緒に積んで、火をつけた。
燃えた。羽の焦げる匂いがした。もっと軽い匂いだった。もっと早く消えた。灰になると、匂いも消えた。
声も止んだ。
ただ止んだ。
*
灰が冷えるのを待った。
声が戻ってきた。老人たちの声が。火事のあとから来た声が。ヤスさんに似た声が。
縁側で母が笑っていた。
父は出てこなかった。
羽をむしった。焼いた。灰にした。彼の声だけが、来なかった。縁側に戻った。銃を構えた。また撃った。
カラスが落ちた。
焼いた。灰になった。軽かった。
台所から音がしなかった。
声が戻ってきた。
老人たちの声が来た。
火事のあとから来た声が来た。
ヤスさんに似た声が来た。全部来た。
耳を澄ました。 彼の声だけが、来なかった。
*
妹が出て行ったのは、その翌朝だった。
荷物は少なかった。鞄一つだった。台所を片付けてから出た。私が縁側にいると、妹は玄関の前で一度だけ立ち止まった。こちらを見なかった。ドアが閉まった。
ヒールの音はしなかった。
台所から、何も聞こえなかった。
*
翌朝、縁側に出た。
改造銃を持って、庭に下りた。カラスを探した。いた。構えた。引き金を引いた。
声が止んだ。一瞬だけ止んだ。戻った。
カラスが落ちた。羽をむしった。焼いた。灰にした。
台所から音がしなかった。
声が戻ってきた。老人たちの声が来た。火事のあとから来た声が来た。ヤスさんに似た声が来た。全部来た。
耳を澄ました。
彼の声だけが、来なかった。
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