女は麺を一口すすると箸を置き、カバンに手を入れた。中をまさぐって出てきた手には蜜柑が握られていた。女は蜜柑の皮を剥いて小さく千切り、ラーメンのスープに一枚一枚浮かべていった。剥き出しになった蜜柑の実は鮮やかで、壁も床もテーブルも油でくすんだ店内でそれだけが着色されたようだった。
女は蜜柑を半分に割って片方を口に入れた。頬が膨らみ口の左端から汁が流れ落ちた。女は汁を拭わず口を動かした。口はきつく閉じられている。動きが止まり一気に飲み込むと残りの半分を口に押し込んだ。頬が膨らみまた汁が零れた。
男は中学生の頃にテレビで見たフランス映画を思い出した。黄色っぽい画面の中で、美しい女がカメラを見ながら口いっぱいに果実をほうばった。口元が大写しになり唇の端から汁がひと筋流れ落ちた。女が舌を出して汁を舐めた。舐めた後の口元で金色の産毛が湿って光った。
女はまたカバンから蜜柑を取り出した。再び皮を剥いて一枚ずつラーメンに浮かべていく。実の色はさっきより濃くて生々しかった。女の中身みたいだと思った。女は蜜柑の実を半分に割り一房ずつ千切って次々と口に入れていった。頬が膨らんで口の端から汁が零れ落ちた。
男がもう食べるなと言った。女は答えず蜜柑を口に入れ続けた。もう蜜柑を食べるな。男がもう一度言った。女が口を動かしながら男を見た。何でと女の目が言っていた。何で蜜柑を食べてはいけないの。
それは。男は言葉を止め、女の目を見て言った。それは、蜜柑を食べ過ぎると顔が黄色くなるから。
口の動きが止まり、女が頬を膨らませたまま男を見た。汁が口の両端から流れ、顎で合流して滴になった。汁が流れ滴は膨らんでいく。その中で真紅に近い橙色が煙のように揺らめいていた。揺らめきは泳ぐようで、生きていると男は思った。滴は更に大きくなり、テーブルに落ちて弾けた。テーブルに透明な液体の跡が出来た。
女の頭が前後に揺れ、テーブルに倒れ込んだ。額がぶつかってゴツンと鈍い音がした。女は突っ伏したまま動かなかった。テーブルが小さく揺れ出した。揺れは次第に大きくなりテーブルがガタガタと音を立てた。ラーメンのスープに浮かぶ蜜柑の皮が揺れていた。女の肩が小刻みに震え、すすり泣くような呻き声がした。呻き声は暫くして止まり、女が顔を上げた。口をきつく締め頬が大きく膨らんでいた。口の下に汁の跡があった。女は一重の目で男を見て、ぷっと吹き出した。蜜柑の汁が飛び散って男の顔にかかった。女が声を出して笑った。
蜜柑を食べ過ぎると、顔が黄色くなる。
女は笑いながら蜜柑の皮の切れ端を摘まんで男の目の前にかざした。つぶつぶの付いた赤い色が眼前に広がった。女が皮を指で押し潰し、汁が飛んで男の目に入った。男は目を瞑った。目の奥の更に奥まで染みるようだった。
女は残りの蜜柑を口に押し込んで一気に飲み込んだ。女は真顔になって男を見た。ひっく。しゃっくりが出た。ひっく。ひっく。しゃっくりは止まらず、女は苦しそうな表情で体を前に屈めた。テーブルが揺れてラーメンの汁が零れ、滴の跡に混じった。
しゃっくりが収まり女が顔を上げた。顔は黄色く、涙と蜜柑の汁の跡があった。男は理解した。女の腹の赤い実も弾けたのだろう。そして液体になり、滴になって女の太腿を流れ落ちた。その滴の中にも血のように濃い橙色が滲んでいたに違いない。
店のテレビがニュースを映していた。イスラエルがまたガザを爆撃し、何十人もの死者が出たらしい。男は以前にテレビで見た少女を思い出した。
戦闘機が空を飛んでビラが撒かれていた。ビラは翌日の爆撃の予告で、すぐに退去しろと書かれていた。七、八歳くらいの少女がビラを拾い集めていた。特派員が何と書いてあるか分かるかと聞いた。分かると少女は言った。ではこれから逃げるのか。逃げないと少女は言った。私はこの村で生まれて育った、だから逃げない。でも逃げないと死ぬかもしれない。弟はこの村しか知らないからと少女が言った。ここしか知らないで死んだの。だから私もこの村にいる。でも逃げた方がいいと特派員が言った。いいの。ここで絵を描くから。この紙は裏が白くて絵を描けるでしょ。何の絵を描くのか。お返しの絵。お返し?あの人たち、弟がどう死んだかを知らない。だから私が絵で教えてあげるの。紙がこんなにあるから他の人たちの分も描ける。たくさん描いて、誰がどう死んだかを教えてあげる。逃げた方がいい、特派員が切羽詰った声で言った。少女がにっこりと笑った。爆弾の音を聞きながら絵を描くわ。そうしたら弟が死んだ時がよく思い出せて、きっといい絵が描ける。
翌日その村は爆撃された、取材班は村に入れず少女の安否は不明だとニュースは伝えた。取材時に少女が特派員に渡した一枚の絵がテレビに映された。無邪気な顔をしたまま手足が千切れた子供や、様々な形の生き物たちが地を這い空を飛ぶ姿が、鮮やかな色のクレヨンで描かれていた。彼女の弟だろうか。中央に書かれた子供の顔は赤色で塗りたくられていた。
男はラーメンに浮かんだ赤い蜜柑の皮を見た。鮮やかな色をして不規則に揺れていた。女たちが赤い色で抵抗していると思った。赤い色があちこちに瑕を残していく。瑕をつけられた男が笑っている。瑕だらけのくせに笑っていやがる。瑕は時限爆弾になっていつか爆発する。その時を待っていろ。
どこかで声がした気がして男は振り返った。そこにはくすんだ壁があるだけだった。揺れていた。それは蜜柑の皮の揺れではなく、男の体の震えかもしれなかった。
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