その”学校”は小高い丘の上にあって周囲を花壇や樹木
に囲まれ、麓には玉ねぎ畑が広がっていた。
玉ねぎ畑の向こうには明石海峡を境に大阪湾と播磨灘
のふたつの海が横たわり、丘の上からはそのふたつを
同時に見渡すことができた。
そして、大阪湾のふちにそって大阪─和歌山間を結ぶ南
海電鉄が走っていた。
手錠をかけられた i は、なんばを発した電車に揺られな
がらかれを挟むように立つ法務省職員二人の体の間か
ら深い青色の海をずっと眺めていた。電車が疾走するリ
ズムと不動の海の輝き。それが i には何の感動も意味も、
もたらさなかった。まるで江戸時代の罪人のように町内
引き回しのごとく剥き出しの手錠をかけられて通勤電車
に乗せられている情況がいまだに理解できず正体が掴め
ない不安がつのるばかりで疲れ果て、立ったまま眠りた
くなった。
「おまえも災難だよな」
i を護送するために私服姿になっている四十過ぎの法務
教官二人は電車に揺られながら交互にいった。
「運が悪かったんだよ、おまえは」
いったいこれからどこへ送られるのか、i はますます不安
になった。
その前夜、静まり返った少年鑑別所では宿直の教官がiの
監房の錠を外して外に呼び出し、監房を監視する廊下中
央の机の前に座らせてかれにドロップという当時流行りの
飴玉の缶を勧めた。お茶も淹れてくれる。
かれは i の身分帳と事件記録のようなものを机の上に広げ
ていた。
いったい何を聴かれるのかと思ったが三十代の法務教官は
宿直の暇つぶしに i を話し相手にしたかっただけなのかも
知れない。当時流行っていた歌詞のない、るーるるる~と
女性歌手が喉を鳴らすばかりの歌を聴きながら、
「なんか男好きにみえないかい、この歌手」と真面目な顔
をして同意を求めるのだった。
i がどう返事していいのか戸惑っていると窓の外で豚の鳴
き声がした。教官といっしょに窓下をみると、汚れた大
型トラックが鑑別所の炊事場に横付けされて、親らしき
オヤジといっしょに半裸の少年が残飯のドラム缶を引き上
げ中味をトラックに流し込んでいた。その残飯を食べる豚
もトラックの後ろに何匹か載っている。
少年はよく聞き取れない朝鮮語でオヤジらしき運転手と声
をかけ合い、日焼けした肌は黒く光っていた。
「在日の親子だよ。この鑑別所の入所者も在日の子たちが
多いが、きみのような孤児はめずらしい、ケンカをして相
手にちょっとした怪我をさせただけでも、引き取り手がい
ないとこんなところに入れられ、挙句は少年院に送られる。
理不尽だよな」といった。
「理不尽」「不条理」といった言葉は中学生の頃からフラン
ス文学をわかりもしないのに読んでいたiにとっては馴染み
のものだったけれど、今の情況はまさに「不条理」そのもの
に思えた。その法務教官がいうようにiは「おれは何も悪い
ことなんかしていない」と思っていたのだ。それなのに世間は
おれをなぜこんなところに閉じ込めているのか? それがま
ったく理不尽で理解できるものではなかった。
泉南地方の名も知らないひなびた駅に降りたi は、まるで狩
猟で生け捕りされた獣が縄で引かれるように手錠のまま山道
を歩いてizumi学園という名称の施設へ連れていかれた。
i が最初に眼にしたのは古いけれどよく整備された丘の上の校
舎と、その校舎と玉ねぎ畑の間に広がる大きなグランドだっ
た。
あとで知ったのだが、そこは法務省矯正局少年課が全国
でも異例の実験をはじめた特別な施設だった。
主に暴走族のような社会的に無秩序な行為を頻発する少年た
ちを集め、最長でも六ヶ月という短期間のあいだ、徹底的な
スポーツ鍛錬の過密スケジュールを押し付けて、
いやというほどルールや規律の大切さを教え込むという方針
のもとにつくられた、全国でも、また、歴史的にもめずらし
い、非行少年の矯正実験施設だった。
自主自立を旨とする方針から、少年院といえども、
塀も門もなかった。逃げたければ逃げられるが、それを我慢
する精神力を培わさせることが矯正方針として掲げられていた。
だから「浪速少年院」や「奈良少年院」のような名称では
なくizumiは「学園」という名称になっていた。
そこでは早朝からまずマラソン。そして剣道、サッカー、ラ
グビー、体操、バレーボールなどの授業が夕方まで休む間も
なく過密スケジュールで組み込まれていた。
なかでもizumi学園ではラグビーに力を入れており、大阪の花
園出場高校チームと定期戦を組むほどの力の入れようで(もち
ろん一点も取れず、毎年ゼロ封されていたが)自衛隊のラグビー
チームOBが交代で指導に来ていた。
読書にのめり込んでいた i はケンカはするけれどもスポーツがい
っさい苦手だった。
身体を動かして疲労することが苦手なiは、泉南の山林を抜けて
最初に眼にした、よく整備されたグランドをみてイヤな予感を
覚えたものだった。
まあ、実際のところ少年院のようなところへスポーツを教えに
くる教師つまり法務省の技官ということにはなってはいたが、
当時は、ほとんど狂気のような人物ばかりだった。剣道の教師
は「キチガイ」というあだ名がつけられていた。ほとんど剣道
を教えないで授業といえば一時間素振りばかりだった。疲労困
憊した少年が手をゆるめると「チェストー!」と奇声を発して
竹刀で頭を叩くのである。そして昼どきになると、真っ先に炊
事場にとんでいって、炊きあがったばかりのカマドに手を突っ
込んで、よくもまあ火傷をしないものだ、麦入のご飯を手で掬
って試食するのだった。髪を振り乱したその三十代の剣道教師
はだれも怖がってそばに近寄らなかった。
サッカーの教官もまだ二十四、五の若者で、そこらにいるガキの
ようにすぐにカッとなった。口答えをすると本気になってやり返
してくる。冗談のつもりでポンと教官の脚を蹴ると、倍の勢いで
笑いながら蹴り返してきて、iも笑いながら蹴り返す。最初は笑い
合って冗談のつもりでやっていたのが、最後には本気で首を締め
て殴られるハメになったりするのだった。iは少年ながらそんな教
官をみて「こいつはガキか」と思ったものだった。
つまりこの学園ではどちらが子どもかわからない教官による鉄拳
制裁というのがあたりまえだった。だが不思議にからっとしてい
て、少年たちもだれもそのことを気にする風もなかったし、次の
瞬間にはみな忘れていた。
あるとき、まだ二十歳そこそこにしかみえない若い教官がなにか
ミスったのを少年たちが嗤ったことがある。すると全員が横一列
に並べられて次々とピンタをくらった。しかしピンタを受けたあ
と、みなそれを恨むわけでもなく、晴れ晴れとした笑顔をしてい
るのだった。制裁をした技官もそれで終わりだった。あとはもう
ケロッとして少年たちと冗談を言い合っている。
i がこの学園で暮らしたのは4月から9月までの半年だったが、な
にか、印象としては「ケダモノたちと暮らした六ヶ月」といった
記憶として残っている。少年たちだけでなくスポーツを教える
鍛錬係の教官のほうも(事務方は別として)少年たちとほとんど
変わらない凶暴単純さをそなえていた。
まだ18歳で刺青をして女房も子どももいる暴力団構成員の少年
もいたが、そういう大人びた少年はまれで、多くが剥き出しの欲
望を隠そうともしないでそのまま発情するケダモノの仔そのもの
のようだった。
スポーツだけでなく、ときどき教室を出て廊下に小机を並べ、正座
して(そのほうが全教室の全員を見渡せるから)作文のようなも
のを i たちは書かされたことがある。izumiでは少年同士のケンカ
に厳しかった。ケンカを見つけると担当教官は青筋を立てて怒り
狂い、ケンカをとめなかった同室の者たちだけでなく収容者全員
が厳しく叱責され、処罰を受けた。その上こうやって反省文を書
かせるのだった。しかし、真面目に書くような者はなく、ある者
は昼間から皆がみているまえでペニスを出して机の下でこれみよ
がしにマスタベーションを始める。みな、うつぶしてけらけら笑
っている。なにも真っ昼間、作文の時間にそなんことをしなくと
もいいものをと思うのだが、i は注意できなかった。
それというのも i も不覚にもときどき夢精をして朝早くから布団
を抜け出して洗面所でパンツを洗っていたことがあり、それを教
官にみつかってみなから嗤われた経緯がある。それ以来、性にま
つわるなにかがあるとiがやり玉にあがって囃し立てられるのだっ
た。
月に数度、キリスト教会からよく肥った白人の尼さんが倫理道徳
を教えにやってきたときは、こんな連中を相手に手がつけられず、
きっかけはなんだったか忘れたが、教室の壇上で、ああ、神様、
このケダモノたちをどうかお救い下さいとカタコトの日本語で
少年たちに聞こえよがしに十字を切っていたのをi は思い出す。
izumi学園で施設の担当者に引き渡されたiは、しかし、すぐに
このようなケダモノたちの群れに放り込まれたのではなかった。
その前に苛酷な孤独の時間が待ち受けていた。
(つづく)
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