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壊れた時計を拾い上げ、今その針を久遠の先へ進めると致しましょう。必要なのは、血と灰と指───。
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貴女と共に暮らしたあの日々を、私は一日たりとも忘れたことはありません。海に面した全寮制の女子校。入学前、学校から六年間同室となる相手の名前と居住地が記されたお手紙が届きました。「雪井梅衣 東京都」とだけ書かれたその文字を見た時、私はその並びの美しさに感銘を覚えました。雪と梅───寒梅。まだ小学校を卒業する直前であった私の想像力は私に、雪を冠に頂いた梅の枝の下に立つ薄幸の美少女を幻視させていました。
果たして真実はどうであったか、語るまでもないでしょう。入寮日、先に到着した私は、居室で今か今かと緊張の中で貴女のことを待っていました。コンコン、と遠慮がちに木製の扉が叩かれ、貴女は音を立てないようにそっと部屋に入ってきましたね。すらりと伸びた手足と薄い胴、雪色の澄んだ肌。さらりと長いつややかな黒髪と、眉下で切りそろえた前髪の下には大きな瞳。私は少し呼吸を忘れ、貴女の目を見つめました。貴女も私の目を見つめ返しました。やがて私たちはお互いに自己紹介をして、よろしく、と言いました。
貴女の紅を帯びた黒い眼を初めて見た瞬間から感じていた思いを、貴女もまた私のハシバミ色の眼を見つめた瞬間から感じていたと知ったのは、私たちの初邂逅の数年後でした。中学三年生になった私の最大の関心事は貴女を除けばバレーボール、そして貴女のそれは文学でした。互いの世界に接点はなくとも私たちは気の置けない友人となっていて、いつもひっついて笑いあっていましたが、時々、お互いを見るその視線の内に秘めたものがあることを感じ始めていました。
冬の終わりのある日、貴女は散歩に行かないか、星を見ないかと私を誘いましたね。夜中に抜け出すつもりが寝坊してしまって明け方少し前になってしまい、寒い中二人小走りに外へ出たことを憶えています。結果的に、その日の夜は雪が僅かに降っていたようなので、良かったのかもしれません。
学生寮の敷地の中には四季折々の植物が植えられていました。星を見るのにおあつらえ向きな小高い場所は、海が見える水仙畑でしたね。私たちはそこで空に向かって目を凝らしましたが、如何に田舎の山の中といっても、やはり寒暁の時分に星はあまり見えませんでした。寒くて足踏みをしていると、私の隣の貴女は唐突に向き直り、話がある、と言いましたね。
「あなたのことが好き」
「どの好き?ライク?ラブ?」
「ラブ」
私は貴女の顔を見ました。薄暗い中でも、勇気と決意に強張り青ざめているのがわかりました。
「私もあなたが好き。ラブ」
虹彩は見開かれ、貴女は息を飲みましたね。私たちはお互いの指を絡め顔を近づけましたが、唇が触れる前に鼻先がぶつかってしまいました。痛っ、といって蹲り、どちらともなくそのまま大笑い。水仙畑に身を投げ出し、お互いを見つめあっていると、照れくさくなってにまにま笑ってしまいます。
「なに笑ってんの」
「そっちこそなんで笑ってんの」
「いいじゃん、もう」
ひとしきり笑った後、真顔になってもう一度手を握り合い、私たちは唇を重ねました。それは薄く軽いものでしたが、私たちにとっては十分満たされるものでありました。貴女とその背後に輝く明けの明星を映す私の瞳を、貴女もきっと水仙の白く清廉な香りに包まれて、幸福の中で見つめていたことでしょう。
その日以降、私たちは狭い居室の中で、お互いの世界の全てを共有し始めました。私は勝負の焦熱を、貴女は幻想の秘密を伝えあいましたね。ベッドの中で貴女の素肌の背中をなぞりながら薄紅ちゃんと呼ぶ私の声に振り向いて、ヘーゼルナッツちゃん、と言って抱き着いてきた貴女を忘れたことはありません。貴女が教えてくれた呪い(まじない)や占いを試すのも楽しかったですね。タロットカードにホロスコープ。上手くいくものもあれば失敗するものもありましたね。あの頃読んだ本に載っていた呪術の中には、例えば溺死させた鴉を用いるものがありました。苦しそうに羽根を広げて身を捩り、救いを懇願するように口を開けたその挿絵は、子どもだった私には大変おぞましく可哀想に思えたりしたものですが、今となってはその程度の業は大したものではありませんよね。
大学進学に差しあたり、私は西に、貴女は東に向かうこととなりました。これは一時の別れであり、私たちの将来は共にあるのだと互いに確信していました。退寮の日、既に誓いの指輪を渡し合っていたので、私は貴女に腕時計を、貴女は私にピアスを贈りました。ティファニーのアトラス、それは永遠に時を刻むもの。当時はまだ物価も安く、円も強かったものですから、高校生の長期休暇のアルバイトで、ブランド物とはいえど並行輸入品なら買うことが出来た時代でした。
それから一週間後、私のスマートフォンに通知が届きました。貴女が死んでしまったと。私は冗談だと思いました。幾ら冗談でも不謹慎なことは言うべきじゃないと伝えなければと思いました。私は貴女の生まれ故郷に向かいました。白檀の棺の中、死化粧で横たわる貴女を見た瞬間も、私はまだ信じることが出来ませんでした。だって貴女の顔はとても美しかったから。初めて会ったあの日の幼い顔とも、明け方の水仙畑の中で見た面映ゆい顔とも、寮監の目を盗み同衾し気怠く迎えた寝起きの顔とも、同じ人の顔だったから。まるで生きている人の顔であったから。
葬儀が進むにつれて私は、ああ、あの子は死んでしまったのだ、と頭の中で繰り返すようになりました。それは現実感などまるでない空虚な呟きでした。私と貴女の関係は貴女の家族もご存知だったので、私は焼き場に同行させて頂きました。焼かれる貴女の棺に貴女のお母様は取りすがって泣いておられました。私にはそれは出来ませんでした。薄情でしょうか?実感がなかった、理解できなかったのもありますが、何より怖かったのです。貴女が死んだことを認めてしまえば、私の世界は……私と貴女の世界は、永遠に失われてしまうような気がしたから。
全てが終わり私に残されたのは、貴女の家族が私を哀れんで譲っていただいた貴女の髪の数本と遺灰の一部と、落下の衝撃でひび割れ動かなくなった腕時計と、貴女が付けていた日記。事務的に大学を休学したあと、しばらく何も出来ず、下宿に引きこもり、貴女がいない季節が過ぎていくのをただ眺めていましたが、少しずつ貴女の存在が薄れていく気がして怖くなり、私は貴女の日記を読み始めました。
貴女は、残してくれていましたね。私と貴女の幸せな日々を。私はその時になって初めて涙を流しました。帰ってきてよ、愛してるよ、独りにしないでよ。私は声を出して泣きました。日記を読み進めるうちに、私は何故貴女が死んでしまったのか、自ら地上に堕ちてしまったのかを理解しました。貴女が書き記してくれていたからです。愕然としました。信じられないことでしたから。私は憤り、胸を掻きむしって心臓を引摺り出してしまいたいほど苦しくなりました。そして最後のページに書いてあった言葉を受け取った時、私は自分をこの苛烈な運命に投じる決意をしました。
「転生儀式。私の愛しいヘーゼルナッツ、貴女を待っている」
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明けの明星を立会いとして、此れより私はこの海より、輪廻に還った貴女の元へ向かいます。奇しくも春雪、銀花。私たちへの祝福でしょうか?水仙の清廉な香りの中で、貴女は血濡れてしまった私の手を、もう一度握ってくれますでしょうか?
さあ、壊れた時計を拾い上げ、今その針を久遠の先へ進めると致しましょう。必要なのは、血と灰と指。貴女にもあの断末魔の叫びが聴こえましたか?貴女の苦しみに贖いを捧げるための死が齎す愉悦を、分かち合うことが出来ましたか?私はいま崖に立ち、私の血を撒き、貴女の遺灰を被ります。貴女の方向へ、この指が私を導くでしょう。
生と死が私と貴女をひと時の間分かつことがあったとしても、我らは刺青(しせい)のごとく張り合わせの存在、重ね合った肌と肌のように、決して離れることはありません。仇討の旅路も幕引きとして、そろそろ貴女の傍に参ります。耳のピアスに触れ、腕の時計に頬擦りをし、誓いの指輪に口付けて、私はこの身を宙に躍らせました。降下、着水、衝撃───儀式の完遂。
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