現在の日本語ネット情報では、『アンナ・カレーニナ』のドリーについての詳しい情報がないため、私がそのことを記述するのも全くの無意味ではないかと思うために、書くことにしました。(なんでもAIにネット情報から要約される時代ですが、そもそもネット上になければ、要約すらされないのですから)
とはいえ、大したことを論じる力量も私にはないので、ドリーの人物紹介だけでもできればと思います。要約されることのないドリーを要約するための材料を提供する程度の試みに過ぎません。
本作のあらすじを調べてみると、おおよそ不倫関係とそのことによる社会からの孤立、そしてアンナの自殺という風にまとめられています。
本作を読んだことのない方の印象も、こんなところではないかと思います。あらすじとして要約してしまうとこういう表現に落ち着くのでしょうが、実際のところ不倫によって『社会から孤立』したことがアンナの決定的な自殺要因とされることには、非常に違和感があります。
本作を読めば分かることですが、決定的な要因は、夫との間にできた息子への愛と不倫相手への愛が両立しないことにあると思われます。もちろん、トルストイはそれだけではない、アンナの細かい心理描写を重ねて、自殺へ至る道を描き出しますが、どこに決定的な要因があるかと問われれば、そこにあると言っても間違いないことは大方の読者の支持も得られるのではないでしょうか。
そのように読むとすれば、本作は、情熱的な不倫関係ばかり取り沙汰されるものではなく、子供というものの存在が非常に大きく取り扱われていると考えられます。
そうして、子供の存在を意識して本作を読んだとき、地味な存在に思えるドリーという人物が、途端に存在感の大きな登場人物に感じられてくるのです。
ドリーはアンナ・カレーニナの義理の姉にあたります。夫のオブロンスキーの妹がアンナにあたることになります。
ドリーに与えられた初めの役割は、夫の不倫を発見し怒り狂う妻でしかありません。家族関係を揺さぶる事件として、物語の導入とされるものです。ドリーは、アンナのように家族を捨てる女性とは対極の、夫の不貞を受忍せざるを得ない当時の典型的な女性像として描かれることしかありません。
ドリーの家には家庭教師を含めて使用人も幾人かいますが、子供が6人おり、当時の生活環境を考えると、単純な比較は難しいといえ、現代の日本で子育てをする専業主婦と同じような疲労感があるように思われます。夫の不倫を嘆く暇も彼女にはないのです。
『この間に息子をなだめ終えたドリーは、馬車の音で夫が出かけたのを知り、再び寝室へと戻った。部屋を一歩出たとたん家事に忙殺される彼女にとって、寝室は唯一の隠れ家だった。今だって子供部屋まで出かけた短い時間に、家庭教師のイギリス人女性とばあやのマトリョーナが、彼女にしか答えられない緊急の質問をいくつも浴びせたのだった。「散歩のときお子さまたちに何を着せましょうか?」「牛乳を差し上げていいですか?」「別の料理人を呼んできたほうがよくはないですか?」といった質問である。』
『こうしてドリーは一日の仕事に没頭し、そして自らの悲哀も一時そこに埋めたのであっ
た』
しかし、忙殺されながらも、子供たちを愛おしく思っている様子がトルストイ一流の比喩で表現されます。
『たしかに母親の心配の種は尽きないもので、子供が病気をしはしないかと心配したり、実際病気になって看病したり、子供によくない性向の兆しを見出して悩んだりするのはそれぞれ大変なことだったが、しかし子供たち自身がすでに今でも、ささやかな喜びをもたらすことで母親の悲哀を償ってくれるのだった。そうした喜びはごくささやかなものであって、あたかも砂の中の砂金のように目立たないので、悪くすると彼女には悲哀だけ、つまり砂粒だけしか見えなかった。しかし良い時もまためぐってきて、そんな時々は、彼女には喜びしか、金の粒しか見えなかったのである』
『アンナ・カレーニナ』のもう一人の主人公のリョーヴィン(『あらすじ』からは絶対に外されてしまうのに、もう一人の主人公であることに間違いないリョーヴィン)と同じように、ドリーは泥臭い生活者として描かれます。子育ての中での彼女の喜びも実に具体的で、アンナの生活の描写とは対照的です。それは、子供たちや家庭教師と水浴びをしているときに、近所の農婦たちと会話をする場面が分かりやすいかもしれません。
『ドリーはこの女たちと別れがたかった。それほどまでに彼女たちとの会話は面白かったし、またそれほどまでに自分と彼女たちの関心が一致していたのであった。ドリーにとっていちばん嬉しかったのは、自分にこんなにもたくさんの子供がいて、しかもみんな良い子だということに、この女たちがそろって感心していることがはっきりと見て取れたことであった。女たちはおまけにドリーを笑わせ、同時にイギリス人の家庭教師を怒らせた。本人にわけがわからないまま、彼女を笑いの種にしたからである。というのも、この家庭教師が皆に遅れていちばん最後に服を着ているところを、年の若い農婦の一人がじっと観察していたのだが、相手がペチコートを重ね着してついに三枚目まで着込むのを見ると、ついこらえきれずにこう言ったのだった。「まあ、包むわ包むわ、いくら包んでもきりがないもんだ」そうしてみんなで大笑いしたのである。』
ロシアの上流階級では当時、フランス語教育が行われていました。リョーヴィンはアンナの子供たちもフランス語教育を受けているのを見て、こう考えます。
『「それにしても、なんでこの人は子供相手に、わざわざフランス語でしゃべるんだろう?」彼は思った。「いかにも不自然で、欺瞞的じゃないか! 子供たちだってそう感じている。フランス語を覚えるかわりに素直さを失っていくんだ」』
しかしながら、その後の文章でドリーがこう考えていることが明かされます
『当のドリー自身がこうしたことをあれこれ、すでに何十回も考え抜いていたのであり、なおかつ、たとえ素直さを犠牲にしても、子供たちをこういう風に育てるしかないのだと判断したのであった』
子供たちの教育について、正解がないことの難しさを理解しつつ、しかしながら子供たちを社会に出すために行動をしなければいけないドリーの母親としてのイメージが正確に表現されています。
とはいえ、ドリーはあくまで脇役のような位置にいながら、物語は進行していきます。そんなドリーがほとんど主人公のようにして扱われるのが、本作第6部16章からの彼女の一人旅の場面です。地位や子供を捨てて不倫相手の田舎の領地で暮らすアンナを尋ねて、御者などの使用人を除けば一人で馬車に揺られて彼女は旅に出ます。
彼女は家事と子育てに忙殺されているため、久しぶりに一人の時間を過ごせる道中では、『これまでたまりにたまっていた思いの数々が不意に頭の中にひしめいて、自分の全生涯を、かつて一度もなかったような勢いで、ありとあらゆる側面から考え直す』ことになります。しかしながら、まず最初に浮かぶのはは子供たちのです。
『自分の最後の妊娠と、その最後の赤子を死なせたことを頭に浮かべながら、そんな風に彼女は思った。するとさっきの旅籠で若い農婦とした話が思い起こされた。子供はいるかという質問に対して、きれいな若い農婦は明るく答えたのだった。 「娘が一人ありましたが、神様に召されて、大斎期にお葬式をしましたよ」 「そう、さぞかし痛ましい思いをしたことでしょうね?」ドリーはたずねた。 「何が痛ましいものかね? うちの爺さんにはただでさえ孫がうじゃうじゃいますからね。気苦労ばかりですよ。もう仕事にも何にもならなくて。厄介ごとばっかりですから」 気立てのよさそうな器量よしの若い農婦の言うこととはいえ、この答えはドリーには言語道断と思えたのだったが、今彼女はなんとなくこの言葉を思い出したのだった。この恥知らずな言葉にも、一片の真実があったのだ。』
『「いちばん幸せな場合を想像してみても、もう一人も子供を亡くさないで、何とかわたしが育て上げることぐらい。せいぜい子供が不良にならないくらいで上出来だわ。それくらいがわたしに望めること。たったそれだけのために、どれほどつらい、苦しい目にあってきたことか……。一生が台無しだわ!」もう一度あの若い農婦の言ったことが思い出され、彼女は改めてその言葉にいやな思いを味わった。しかしなおかつ彼女は、その言葉に一端の野蛮な真実が含まれていることを認めずにはいられなかったのである。』
こんな描写からも、ドリーの大きな心労が感じられます。そうして、ドリーはアンナの家に着きますが、居心地の悪い思いをします。それはアンナが不倫相手とともに、領地で生活をしているという倫理的な問題を感じているからではありません。むしろ、不倫相手のヴロンスキーには好感すらさえ覚えますが、『この日の彼女はずっと、まるで自分よりも上手な役者たちを相手に芝居をしていて、自分の下手な演技ですべてを台無しにしているような気がしていた』と表現されます。この家の小間使いが自分よりも金をかけたきれいな格好をしているせいも、そんな気持ちを募らせるのでしょうが、ドリーの居心地の悪さを決定づけるのは、彼女が否応なく見ざるを得ないアンナの精神の陰でしょう。
『アンナが目を細めるのは、話題が人生の大事な秘密に触れたときだということに思い当たった。「まるで彼女は、自分の人生に対して目を細めて、全部が見えないようにしているみたいだわ」とドリーは思った。』
ドリーは、不倫相手のヴロンスキーから頼みを受けます。
『「そういうわけで、ドリーさん、ぼくはずうずうしくも最後の命綱にすがるように、あなたにおすがりする次第です。彼女が夫に手紙を書き、離婚を要求するよう、説得するのに手を貸していただけませんか」』
アンナは、離婚をすれば元夫に息子の親権を譲ることになり、息子に会えなくなるのが怖くて、それに踏み切れずにいます。しかし、離婚をしなければ今の中途半端な状態が続いてしまうことも理解しています。
ドリーとアンナは、寝る直前になって、このことについて話します。ここでは、二人きりで人生の重大な問題に関わる会話をするときの、真剣さ故の曲折した経過がリアルに描かれます。この二人の会話こそが、子供の問題を中心に据えた時、本作においてクライマックスになります。
話の中で、もう子供はできないとアンナが言いきったときのドリーの驚愕は、当時の人々の避妊に対する考え方の実情が垣間見えます。
『「わたしが望まないから、子供はできないのよ」 ドリーの顔に純朴な好奇と驚愕と恐怖の入り混じった表情を読み取ると、アンナは自らの動揺を押し隠してにっこりと笑った。 「あの病気の後でお医者さまに教わったのよ……」 …………………………………………………………… 「まさかそんなこと!」目を大きく見開いてドリーは言った。彼女にとってこれはまったくひとつの発見であり、その結果も結論もとても重大なので、最初の瞬間はただただ、すべてを考え合わせてみることはとてもできないが、これについてはこれからもよくよく考えてみなくてはならないだろうと感じるばかりであった。 これまで彼女は、たった一人か二人しか子供のいない家族をみては不思議に思っていたものだが、この発見はそうした疑問にいっぺんに答えてくれるものだった。おかげで彼女のうちにはさまざまな思いや意見や矛盾した感情が沸き起こってきて、何ひとつ言葉にすることができず、ただ大きく見開いた目でびっくりしたようにアンナを見つめるだけだった。これはまさに彼女が今日ここへ来る道中に夢見ていたことだったが、それが実際に可能だと知ると、恐ろしくなったのだ。彼女にはこれが、あまりにも複雑な問題に対する、あまりにも単純な解決だと感じられた。』
そうして、その後に続く会話は、現代の反出生主義にも関わるような考えをトルストイが先取りして警告しているようにも思えます。
『「だって、せっかくわたしにも理性が与えられているのだから、この世に不幸な子供を生み出さないためにその理性を使わなかったら、意味がないでしょう?」 彼女はしばしドリーを見つめたが、返事がなかったので先を続けた。 「不幸な子供を産めば、わたしはきっとその子たちに対して罪の意識を持ち続けるでしょう」彼女は言った。「子供たちだって、生まれてきさえしなければ、少なくとも不幸になる心配はないし、もしも不幸だったとしても、全部わたし一人の責任ですむんですからね」 これはドリーが自分のために引っ張ってきた論拠と同じものだったが、こうして聞いてみるとその意味が理解できなかった。「いもしない存在に対して、どうして責任を感じるんだろう?」彼女は思った。そして不意に彼女の頭にひとつの考えが浮かんだ──彼女のお気に入りのグリーシャがもしも存在していなかったら、そのほうがグリーシャにとってよかったというようなケースがありうるだろうか? この問いがあまりにも突飛で奇妙に思えたので、彼女は首を振って、頭の中に渦巻く狂ったような思考のもつれを解こうとした。』
二人の母親の真剣な議論。この場面こそが、本作の白眉といっても良いはずですが、情熱的な不倫を重視するあらすじからは漏れてしまいます。あらすじをついつい頭に置きがちな下手な読者(私を含めて)は、こういった場面を読み飛ばしてしまうかもしれません。
ただし、ドリーにとってもこの議論は大きな疲れを感じさせ、翌日には子供たちのもとに戻ることを決めます。子供たちのもとに戻ったドリーはこう表現されます。
『「アンナさんとヴロンスキーさんをよく知れば、二人がどれほど気持ちのいい、好感の持てる人たちかがわかるわ。わたしも今度の旅で、ヴロンスキーさんのことがずっとよくわかったの」旅先で味わった不満と気まずさの入り混じったあいまいな印象を忘れ果てて、今ドリーは心からそんな風に語るのだった。』
こうして日常に帰っていくドリーは、単なるアンナのカウンターパートとしては考えられません。当時の典型的な女性像といった枠を超え、母親として、解決できない問題を抱えつつ、そんなことを忘れ去ったとしても、自身の人生を肯定しようとする力強い主人公のように見えてきます。
本作でドリーが、これ以上大きく取り上げられることは、この場面以降はなく、再び彼女はドラマの上で脇役のような位置に戻ります。とはいえ、ここまで読んでもらえればドリーの重要さを理解してもらえたのではないかと思います。本作を読むときに、ドリーの存在を気にしながら読むと、より一層、小説を深く味わえるのではないかと思います。要約されえないドリーの存在を、各読者が直接に小説でそのまま感じて頂ければと思います。
"『アンナ・カレーニナ』のドリーについて"へのコメント 0件