平成一桁ガチジジイの人生敗戦処理。または山月記。
「ったく、テメェはいつになったら独り立ちできるんだ!」
工場に怒号が響く。顔を真っ赤にした現場の班長が罵り、「すいません、すいません」と条件反射で頭を下げる。下を向く目線の先、安全靴はボロボロだった。
工場の建屋は風が吹きすさんで常に寒い。建屋の壁面にはこの工場が建てられた年の数字が彫られている。――二六〇一。つまり皇紀二六〇一年製だから建屋は築八十五年。工員は産業報国の精神で仕事し、御国のためを思えば、どんな暑さも寒さも労働環境の悪さも耐えられる。そんな設計思想で作られたというのだから工場は生命活動にすら適さない。
夏は逆にクソ暑く、二年前に熱中症の死亡事故があったが、現場にスポットクーラーが追加され、正社員にだけ空冷服が配られただけだった。焼け石に水でしかない。
こんなはずじゃなかった。
十四歳のころ、中学の図書館で黄ばんだブルーバックスを読みながら、ガロアのように、二十歳手前で世界を驚かす大発見をして死にたいと本気で思っていた。あのときの俺を殴って説教してやりたい。自惚れるな。お前はガロアよりもアーベルよりも長生きする。三十歳。経済レベルはラマヌジャンの実家よりはマシ――つまり他人に食事を恵んでもらわなくてもなんとか生きていける程度。ちなみに素人童貞だ。
とにかく、お前から見たらいまの俺はびっくりするほど無能で、毎日叱られる。休みの日も叱られる。メンクリでお薬をもらうときも、機嫌の悪いジジイの医者にキレられ、調剤薬局でメンヘラちゅ〜るをもらう日々。結婚相談所でもアドバイザーのババアに叱られる。あいつに命じられてなければ、絶対行きたくない場所だ。
退勤後、工場街をうろつく。ここは湘南にあるが、単線で一時間に三本しか電車が来ない路線の駅舎は小便臭く、あちこちに悪の枢軸のような工場が林立し、夜は一晩中、なにかの機械が恨み節のような低声をあげて稼働している。
街全体が工場のためにあった。そして工場は国のためにある。派遣元の大企業から与党へ貢がれる金は、俺が一生かけても使えきれない額だった。そのくせ、俺が工場でなにをつくっているのかすら知らされていない。ただ何かと何かの部品を組み付けてマキタのインパクトドライバーで締結するだけで、派遣元の上司に聞いても「日本が世界をあっと言わせるものだ」だなんてはぐらかす。駅前の商店街、あいつに言われて入り浸るようになったガールズバーは、やたら自衛隊の人間が多く、キャストの女の子に聞くと、この街は全国平均より労災の件数が多いらしい。指が飛んだ。腕が巻き込まれた。熱中症で死んだ。そういう話が平然と流れているが誰も驚かない。人が減ったところで、代わりの人間がどこからか補充されるだけだった。
この街で生きるとどんな人間も、顔がこの街の仕様に変わる。歩いている人間の顔つきは、みな頬がこけ、目だけがぎらついている。口が妙にすぼまっているからしゃべっても必ず言葉が濁る。俺も人のことを言えた身ではなく、顔もあいつらに似てきた。
うねうね曲がる県道を歩き、派遣会社からあてがわれたレオパレスに着く。養鶏場の鶏舎のように、住民をぎゅうぎゅう詰めにすることしか考えない建物は、とにかく壁が薄い。1Kロフト付きの部屋に帰り、座椅子に座る。ローテーブルにつまみを広げ、まいばすけっとで買った、トップバリュのストロング系チューハイをすぐに煽る。
選ばれる努力が実っていたら、こんな人生を送っていない。ラマヌジャンはハーディという理解のある教授くんに出会えたが俺にはそんなドラマチックな出会いなどなく、バイオレンスな指導を受けて病み修士課程中退。なんとかベンチャー企業に就職はできたが、社長が新入社員をダンスさせてTikTokに動画をあげるなんて会社だったので入社二週間で限界が来た。いまは工場の派遣社員で、ろくに三角関数も使えない正社員が現場のレイアウト検討で困っていたから教えようとしたら「うるせえよ」と怒鳴られる。もちろん査読付きの論文なんて一本も書けていない。
エロサイトを見て回る。エロは俺たち底辺の福祉。刹那的な快楽。満たされることはないが欠乏はごまかせる。
女を抱いたことも、風俗通いをあいつに促されて始めるまでしたことがなかった。女と関係を築く努力も、維持する努力も面倒でしたことがないから当然だった。エロサイト巡り以外の、健康的で生産的な趣味を持てばいい、と何度も考えた。筋トレ、読書、小説の執筆、資格の取得。どれも続かなかった。続けたところで何があるのかも、酒漬けの脳みそはもう想像できなくなっていた。
スマホを開く。「くそが……」とつぶやく。同級生がニュースになっている。X、Instagram、YouTube、ダイヤモンド・オンライン、東洋経済オンライン、幻冬舎ゴールドオンライン。高校や大学の同級生たちは、金と名声と幸福を手に入れて、読むだけで共感性羞恥を覚えるような自分語りを垂れ流していた。――炎上しそうなエピソードはご丁寧に全部カットされていた。
ルサンチマンが腹の底から湧きだす。苦しい。こいつらを糾弾しなければ、俺がおかしくなる。指が勝手に動いた。コメント欄に書きこむ。支離滅裂な罵倒。重箱の隅をつっつく悪口。書く言葉は同級生を刺すようで自分も傷つけていた。わかっている。俺が悪いのはわかっている。けどな、誹謗中傷は止められないんだ。叩く。誰でもいい。成功している人間、炎上している人間、男、女、日本人、外国人。対象がいないと、ルサンチマンの自家中毒で死にそうになる。
ひとしきり気が済むまで叩き活をして俺は泣いた。
チューハイは空になっていた。足りねえ。酒だ、酒だ。今度は業務用の角を、グラスに入れて飲む。喉が焼ける。これもある意味リストカットみたいで気持ちいい。
死ねないから生きているだけだった。緩慢な自死。
ドブカスみたいな生活。当然、怒るべきだった。しかし誰に? 誰のために? この三十年の人生で出会ってきたのは、ストレス発散のために怒鳴るバカか、善人面していざピンチになったら逃げる偽善者だった。親にはとうに見捨てられた。友人もいない。いま気軽にしゃべって怒ってこないのは、コンカフェ嬢しかいない――当然金を払えばだが。
それに俺は、自分の身体すらまともにコントロールできていない。その結果がこれだ。
ロフトを見あげる。
ロフトの縁につかまって、その異形は俺をのぞきこんでいた。
ひょろひょろした、真っ白な巨大スパゲッティのあいつがうねうね蠢き、急に膨らんでは、しぼむ。栗の花のような臭いが撒き散らされた。
あいつは俺の精管だった。
「はやく子作りしろ。もう我慢の限界だぞ」
甲高い声のヤツが激しく体を揺らす。その体から液体がしたたり、ウイスキーを入れたグラスへ落ちた。ぴちょん、という音とともに、ウイスキーがすこし白く濁った。
とにかく回避するには誠意を見せるしかない。――金玉との戦争を。
*
殺る気スイッチオンの右金玉が最後通牒を送達してきたのは二ヶ月前で、右金玉からの特別大使だという精管が律儀にタキシードを着て、レオパレスの万年床に立っていたのだった。
戦争の予兆はうすうす感じていた。
しかし、金玉のほうが本気だった。
ひょろひょろした精管は全身びしょびしょで、万年床の布団をぐっしょりと濡らしている。気が動転した俺はどうコメントしていいかわからず、ようやく絞りだした最初の一言は「臭え」だった。続けて「土足で上がるなんて。しかもカウパーまで撒き散らして。汚ねえだろ」と文句を言ったら精管はキンキンとした声で「俺は外交官だ。犯罪行為をしても警察に逮捕されない」と外交特権をちらつかせ脅した。俺は大人しくしておくことにした。その精管は咳払いをすると、手(というか触手?)に持っていた書類を音読しだした。それは右金玉からの「提案書」だった。
タカシ連邦(以下、貴連邦と称する)および貴連邦を構成する共和国の一つたる我が右金玉共和国は、ともに貴連邦の持続的繁栄を希求するものであり、かかる目的を達成するため、下記の措置を提案する。
一、貴連邦は子孫繁栄のために努力を最大限に履行し、可及的速やかに目的を達成すること。
二、我が右金玉共和国は精子生産の増強に向け、あらゆる努力を尽くすこと。
三、第一項に関し、貴連邦の誠意ある努力が認められない場合、我が右金玉共和国は、貴連邦より生殖活動に関する負担を不当に課されているものと判断する。すなわち、使用予定なきにもかかわらず精子の生産を強制されている、国家として屈辱的な奴隷状態にあると認め、貴連邦に対し、いかなる超法規的措置をも辞さない構えである。
以上、通知する。
右金玉共和国 大統領府
「守れなきゃ戦争ってことか?」
「そのような乱暴な表現は適切ではありませんね」
精管はロフトから飛び降りると、壁際の横置き本棚にふわりと着地した。
ふるさと納税の返礼品で届いたアイリスオーヤマ製の本棚は、組み立てる途中でネジを何本か失くして板が傾き、本棚に置いたガンダムとティーガー戦車のプラモデルも傾いていた。精管はそのティーガー戦車の砲塔に肘を置いた。白く半透明な細長い身体で、エリートらしく、下部から分岐した二本の管を脚のように組んでいる。
「必要ならば不可侵条約の締結も提案しますが」
不可侵条約か。だが歴史は教えている――条約は守らせる力がなければただの紙切れだ。ヒトラーが条約を破りスターリンを追い詰めたように。
「約束の価値は紙よりも薄っぺらい。ちなみに提案書を拒否した場合のシナリオは?」
俺が聞くと精管は即答した。
「右金玉共和国は左金玉共和国と相互防衛条約を締結します。その後、膀胱共和国と尿道管理権の共同委員会を設立。あなたの排出行為は委員会により禁止されます」
なるほど、これは最後通牒か。排尿がままならなくなったら俺は万事休す。ABCD包囲網。ハル・ノート。石油禁輸。追い詰められた側が選ぶのは――。
「そうなったら俺は金玉に真珠湾攻撃をしなければならなくなる」
「そのような軍事的比喩は控えていただきたい」
精管はもう一度咳払いして続けた。
「生殖は全生物に課せられた労働です。あなたは長期にわたりストライキを実施している」
ストライキ。そういわれたらぐうの音も出ない。ゴミ箱はオナニー後の丸めたティッシュだらけで、DLsiteで買ったドM向けの同人音声の履歴は、スマホのアプリのなかに数えきれないほど並んでいる。俺は虚しいシコ猿だった。こんなに精子を無駄打ちされたら、右金玉が憤りを覚えるのも不思議ではないだろう。金玉にとって、精子は労働力の結晶だ。それを市場に出さず、廃棄処分しているのはまぎれもなく俺なのだから。
しかし正論だとはいえ、指摘されたら腹が立つ。
「俺は自由意志で精子を垂れ流しているだけだ」
「自由には責任が伴います。あなたは生産手段を独占している。なんですか、このままあなたも、精子と同様に無駄死にしたいですか?」
俺は黙った。
部屋には冷蔵庫の低くうなるコンプレッサーの音だけが響く。
俺は立ち上がると「ちょっと待っててください」と精管に言い、クローゼットを開ける。防虫剤の匂いが鼻につく。手を伸ばす。車のローンの契約書をつかむ。ちなみに車は無職だったころに生活費が足りなくなり売った。
ローンの契約の時に作った実印が、どこかにあるはずだ。しかし実印はなかなか見つからず、精管が背後から「ここの家は客にお茶の一杯すら出さない」とちくちく言葉を浴びせる。俺は無言でクローゼットを漁りつづける。通帳。診断書。未開封のねんきん定期便。開いたままの印鑑ケース。ケースのなかの実印は、欠けていた。
ようやく奥から見つけた実印を持ってきてローテーブルに戻り、提案書に調印しようとすると、精管は「あ、いや」とわずかに身を引く。
「署名で結構です。実印の効力は、この条約には適用されません」
「せっかく用意したのに」
「そもそもわたしは人でも法人でもないので、あなたがた日本国の法律は適用されません」
俺は実印をボールペンに持ち替え、提案書にサインをした。
サインする間、股間の奥にかすかな違和感を覚えた。
戦争は、もう始まっているのかもしれなかった。
*
二ヶ月の努力もむなしく、精子はずっと無駄打ちされ続けた。
残業が続いていた。疲労は神経も思考も蝕む。メンクリに通う頻度は増していった。
工場の通用門から出ると俺はそのまま路地を進み、駅前の商店街へ行く。
小さなパチンコ屋に入ると一気に世界は騒音で塗りつぶされた。客は話をせず、修行僧が壁に向かって坐禅を組むように、パチンコ台を向いてただうつむいて黙っていた。玉の弾かれる音、電子音、毒々しいため息。すべてが混ざって、頭の中をどろどろに溶かす。
玉を打つ。いまさら大当たりで馬鹿みたいに興奮するようなことはしない。大当たりが来ると期待して、裏切られ、その繰り返しを数え切れないほど味わううち、自分の人生もパチンコのように、期待と裏切りの循環に思えてきた。
真面目に考えると死にたくなる。いや、正確には、真面目に考えると自分が社会に承認されない理由が自責化されて死にたくなる。自責の敗北は、他責の敗北よりも重く苦しい。右金玉から最後通牒を突きつけられてからというもの、俺は「出会い」というものを真面目に考え、行動を起こした。結婚相談所、ナンパ、SNS。結局すべて無駄だった。オナニーで精子を無駄打ちするように、コミュニケーションを試みてことごとく拒否されて、PDCAを回し改善をしたが結果を出せず、結果、真面目に考えるのをやめた。
だから俺は自分の脳でなくシステムに任せることにした。マチアプである。人間がダメなら、AIに選んでもらえばいい。いいじゃないか、文明の利器を使わないものは愚か者だ。指一本で恋をしよう。
台を操作しながら、マチアプのプロフィールに「真面目に出会いを探しています」と書く。真面目に嘘をついた。写真は盛った。いいねを送る。送る。送る。既読すらつかない。隣の台で確変。しかし大当たりしない。キレたジジイの叫び声。スタッフがたしなめる。
マチアプにメッセージが届く。
「趣味はなんですか?」
「パチンコです」
途端にブロックされた。誠実な人が好きですってお前のプロフに書いていたろ。正直に趣味を書いただけなのに。ふざけやがって。
自己紹介で詰む人生。既読がつかない画面を見ながら、俺は思った。これは恋愛でない。戦争だ。戦争だから勝たねばならぬ。しかし、弱者男性である俺は、戦場で野垂れ死ぬのが関の山だ。結局パチンコは負けて、夜の駅前をブラブラと歩く。この街は需要にたいしてコンカフェの数が明らかに多く、駅前の小さな商店街は、あちこちにコンカフェ嬢が立っている。コンカフェがいいなと思った。ここには救済してくれる神がいる。俺に「おかえりなさいませ」と言ってくれる神がいる。金を払えば、神の救済は買える。資本主義は意外と弱者男性に優しい。
雑居ビルの階段を上る。店に入ると、独身男特有のむさ苦しい臭いが鼻につく。おぞましく吐き気がするが同時に自己嫌悪に苛まれる。この臭いは俺からも放たれているからだ。
カウンターに座ってハイボールを注文するとすぐに出てきた。妙に濃かった。地元で神童と称えられた俺は、いまじゃ工場街をうろつくドブカスのドブネズミで、ドブネズミは場末のコンカフェでハイボールをチロチロ飲むのがお似合いだった。
卒業パーティーをしていた子が、お世辞にもうまいとは言えない歌をカラオケで披露する。もってけ!セーラーふく。God knows…。カラオケから流れるのは、アラサーの懐古心をくすぐる曲ばかりで、客たちのなかには、眼鏡を取って泣き出すのもいた。やめてくれ、あの曲が流行ってからもう二十年近く経つ。俺も泣きたかった。
さんざん酒を飲んだ。気持ち悪くなる。隣から、コンカフェ嬢が心配そうに声をかける。
「ねえねえ、タカやん。どうしたの? 元気ないじゃん」
推しのセイラだった。バチバチにキメたメイクのおかげで、セイラの周りだけ、現実と虚構の境界が曖昧になる。セイラは首を傾げる。目元のピアスが店の照明で輝く。
「婚活、進まねえんだよ」
「えー、タカやんならいけるよ」
セイラの開く口から、舌先のピアスが見える。無責任な言葉というのはわかる。しかし、人は時々無責任な言葉を浴びないと窒息してしまう。治らないけど痛みはマシになる。
「マチアプもダメ」
またハイボールを飲む。メンクリでもらう薬と酒は禁忌だが、そんなのは知らねえ。
「イメチェンすれば?」
セイラは俺の顔に両手を近づける。長い鋭利なネイル。近い。近い。近い。脳がバグる。セイラは俺の眼鏡を持つ。手が当たる。ロックのウイスキーのグラスより冷たかった。眼鏡が外される。
「メガネ外してさ、コンタクトにして、髪もうちょいちゃんとセットして――」
それは大学の時にやったことがある。メンヘラばかり近寄ってきた。
「あとさ、もっと自信持ってよ!」
自信。出たよ。成功しないのは自信がないから。自信のないのは成功体験がないから。こうして俺は無限の循環論法のなかに閉じこめられる。
「セイラ、ホントに哲学科に行ってるのかよ」
「最近のわたしの推しはプラグマティズムなの。ラッセルの幸福論とかいいよ?」
俺はうなずいた。ここは信じてみよう。神の言うことは絶対だ。それに、ラッセルは数学者としても好きだった。数学は純粋な論理学であるなんて思想を掲げていたが、ゲーデルなんて壊し屋に夢を打ち砕かれた。夢破れた人間として、親近感がある。
「おうおう、やってやろうじゃねえか。イメチェンしてよ」
「その意気じゃん」
「万物はセックスのパロディだろ。セックスなしの人生なんてつまらない。さあ、勝負!」
「えー、タカやんがそんな哲学的な言葉を思いつくわけないじゃん。誰の言葉?」
「セイラだろ。店の周年イベントのときにクエルボを飲みながら、わめいてた」
「はっずかしー。わたし、そんなこといってたの?」
セイラは眼鏡を置いた。脇の酒のグラスをぐいっと飲み干すと右手を挙げた。気分がいい。俺はセイラとハイタッチをした。
しばらくコンカフェで遊んだあと、店を出る。もうすでに日付が変わっていた。夜空は濃い墨色で、天には申し訳程度の星がきらめいていた。
煙草に火をつけた。タール28mgが肺を燻す。痛みが走る。ときどき肺を燻さないと、自分が生きていることすら忘れそうになって不安になる。
コンカフェから徒歩十五分のレオパレスに帰る。
ロフト付き1Kの部屋に入るなり、万年床の上に精管が立っていた。タキシード。黒。靴は土足。礼儀正しく、それ以上に無礼極まりない。
「お帰りなさい、タカシ様。努力は無駄でしたね。結局推しにヨシヨシされてのぼせあがる弱者ってところでしたか」
正論を言うな。
「通達いたします」
精管が紙を差しだしてくる。羊皮紙みたいなそれは妙に湿っぽくて臭い。
「これ以上の精子の無駄打ちは、国家として看過できません。あなたは著しく子種を浪費している」
知ったことか。
「俺の肉体は人類という種族が続くためだけのただの機械で、精神はその機械を動かす制御プログラムってことか」
「よって」
精管は俺の問いを全無視して一礼した。
「右金玉共和国より、特別軍事介入の通達が発出されました。われわれは、タカシ連邦への干渉を開始します」
は?
「干渉って何をやるの?」
「とにかく孕ませることです」
「婚活が全然うまくいかないのに? 結婚相談所で叱られたんだけど」
「存じております」
「マチアプもダメ」
「敗因も分析済みです。どこの世界にパチンコが趣味って正直に答える馬鹿がいるんですか。誰だって社会では本性を、見栄と世間体で隠すのに」
やめろ。
「コンカフェには行った」
「非生産的消費と判定しました。なんですか。あれだけ仲がいい女の子がいてデートにすら誘えない。それでも男ですか」
やめろやめろ。
「パチンコは?」
「無駄です。経費削減してください」
やめろやめろやめろ!
精管は微笑んだ。感情のない笑顔は完璧で無慈悲だった。
「しかしご安心ください、われわれ右金玉共和国が、あなたを最強のオスにします」
本当にそれでいいのだろうかと思った。だけど、この提案を拒否すれば、またドブカスみたいな生活に戻り、死ぬまで何も変わらないだろう。
人生を変えるには、いましかない。
「やってやろうじゃねえか」
「タカシ様、大統領閣下が国賓として招きたいとのことです」
精管は窓を指さした。
窓の外にある、猫の額ほどの駐輪場には馬車が来ていた。筋骨隆々な馬が、夜の空に向かって、大きな声でいなないていた。
気分は、かぼちゃの馬車で舞踏会に行くシンデレラみたいだ。
馬車が走り出した。馬の脚がアスファルトを蹴りあげると衝撃が馬車を揺らす。馬車が路地を二度、三度と曲がるたびに、外の景色は歪み、ぐるぐると巻き取られるように内側に収束していく。どこをどう進んでいるのかさっぱりわからなくなり、やがて世界が俺の股間の中心に向かっているように縮んだ。
世界の回転と収縮がふいに停止すると、いつの間にか馬車は大通りを駆けていた。
「ここは?」
「わが右金玉共和国の首都です。ここは大統領通りで、両脇にあるのは官庁街です。ほら、あちらにあるのが国家のスローガンです」
外は真昼だった。空はやけに白く、大通りの両側には巨大なコンクリートの建物が延々と並んでいた。窓はどれも同じ形で、その無機質な壁面を覆うように、巨大な垂れ幕が何枚も垂れ下がっている。
――強力で繁殖力のある精子を増産し、生殖行為を実現せよ!
――生産目標 達成率一二〇%への行軍!
――非協力的な個体は共和国の敵!
官庁街を抜けると道沿いに川が現れる。しかし流れているのは水ではない。白濁した精子がどろどろと流れている。臭気が鼻についた。イカ臭い。あまりにイカ臭い。思わず顔を背ける。
その川岸には巨大な広場がある。その広場の中央には、高さが三十メートルぐらいある銅像が立っていた。右金玉の銅像だった。潰れたレーズンのようにしぼみ、皺だらけの球体のそれは、太陽の光で鈍く輝いている。
馬車はその銅像の前でぴたりと止まった。
「降りてください」
精管が命令する。続けて、抑揚のない声で付け加える。
「共和国の『太陽金玉』であらせられる大統領閣下に対し、最大の礼をしなさい」
俺は言われるままに降り、銅像の前に立つ。
銅像の巨大な影が、頭上から覆いかぶさってきた。近くにはAK自動小銃を持った兵士がいる。
お辞儀をする以外の選択肢がなかった。上半身を倒し、地面を見ながら、俺の右金玉をこれからたまジョンウンと呼ぼうと決めた。
再び馬車に押しこまれると扉が閉まり、すぐに動き出す。通りをしばらく直進し、やがて大きな橋に差しかかる。川をまたぐその橋はやけに幅が広かった。対岸へ渡るあいだ、あの白濁した流れが嫌でも目に入った。
橋を渡りきる。そこは緑の生い茂る庭園で、その中央に、重厚で、古めかしく、無駄に装飾が多い、石造りの建物――宮殿が現れた。
建物の正面には車寄せがあり、これまた衛兵が微動だにせず立っていた。
馬車が止まる。
精管は扉を開けながら降りるよう促した。
「大統領専用の迎賓館です」
降りるしかない。精管の後を追い、石の階段を上がる。
扉は重く、内側から開かれた。中に入ると温度が低く、鳥肌が立つのではと思われた。
広いホールだった。天井が高く、声を出せば反響するはずなのに、少しも音がしない。
壁には肖像画のようなものが並んでいるが、どれも顔が曖昧で、誰なのか判別できない。
「ここで待て」
精管はそう言い残し、どこかへ消えた。
俺はひとり、広すぎるホールに取り残される。
静寂がじわじわと圧力を持って迫ってきた。
そして正面のバカでかい扉が、地鳴りみたいな音を立てて開いた。――現れたのは全身つるつるとしていて、どこにも毛羽立ちがない球体で、色味は淡い肉色、しかし光沢があって、表面がぬらりと反射する。砂肝を巨大化させたらたぶんこうなるんじゃないかと思った。
こいつが右金玉共和国の太陽金玉だった。――たまジョンウンはこちらを正確に捉え、ただ滑らかに近づいてくる。俺の前で止まると、短い腕を差し出した。握手を求めているらしい。
手を握った瞬間、絶妙に気持ち悪い弾力があった。
「ようこそ。わたしは右金玉です」
たまジョンウンの声は意外と低かった。
そのまま歩きながら、右金玉は国家戦略の説明をしだした。歓迎の挨拶と戦略ブリーフィングが同時進行するあたり無駄がない。
「左金玉共和国は我が国と不倶戴天の敵です」
壁面のスクリーンに図が映る。左右に分断された国土。中央に俺の竿の画像が無断で貼られていた。
「本来、あなたは成功して、しかも幸福になれる人類です」
たまジョンウンは熱っぽい口調で断言する。
「しかしあの忌々しき左金玉は、あなたの行動パターン、コミュニケーション能力、SNSの投稿にいたるまであなたの精神構造を操作し、社会的階級と人生の幸福度を意図的に下げている」
たまジョンウンは大型ディスプレイの前に立ち止まった。ディスプレイが点灯し、グラフが表示される。――そこには俺の潜在的モテ指数と実際のモテ指数が表示されていた。実際の指数は、潜在的モテ指数を大きく下回っていた。
「その結果、周囲からはダメ男と認識されている。だからあなたは大学院でアカハラに遭った」
映像が切り替わった。広大な施設群。お化けのような冷却塔。白い蒸気。
「我が共和国は精子の増産に励んでいます」
たまジョンウンの声はどこか誇らしげだった。
「生産には莫大なエネルギーが必要です。そのため原子力発電所を複数基保有しています」
さらに画面が切り替わる。今度はどこかの施設で、広い部屋に、細長い金属管とドラムが規則正しく並んでいた。
「これは濃縮ウランの製造プラントです。しかも、原子力発電用ではありません。われわれは抑止力の確保も怠りません。核兵器の開発は国家の尊厳です」
たまジョンウンは映像を流しながら、直々に濃縮法について語った。
原子力。その単語が胸の奥に引っかかった。生まれは東北の辺境だった。海と原発と、大手電機メーカーの電子部品工場しかない街で、冬はずっと地吹雪で、外出するだけでも生命の危険を感じる。親父は電子部品の工場に勤めていた。左遷にも、残業にも、大企業の社員だからとご近所さんたちから嫉妬を受け、嫌がらせもされたが耐え忍んだ。才能のある人間ならたとえ子どもであろうと陰口を叩き、いじめ殺す、そんな土地から逃げるため、親父は必死に努力して神奈川の開発部門に栄転できた。だから俺は死なずに済んだ。
しかしいまの俺は家族に絶縁された。もう会っていない。申し訳なさだけは消えない。たぶん罪悪感は死ぬまで抱えたままだろう。
ディスプレイが消えた。
「わかってくれましたか、タカシ連邦さん。左金玉は絶滅させなければいけない。それは平和のためです」
たまジョンウンが力強く言いきり、再び手を差しだしてきた。
だが、どうしてもたまジョンウンの言うことを信じきれない。たまジョンウンを試そうと思った。
「右金玉さん、あなたの語る平和は本当に俺を救ってくれるんですか? 平和なんてきれいごと、俺は信じないですからね。現実世界でもやたら平和だったり平等だったり訴える連中は、俺のような底辺に実際に手を差し伸べず、自己責任を押しつけてくる。口先だけのヤツは信じませんよ」
たまジョンウンは顔を真っ赤にしてぷるぷると震えると、奥へ俺を連れていった。
廊下の突き当りに重厚な扉があり、たまジョンウンは張り倒すように開けた。
扉の向こうは会議場だった。円卓があり、その上座の壁には、俺の人生の年表が掲げられていた。
小学校:神童
公立中学:天才
県立高校:没落
大学:逆転成功
大学院:爆殺
就職:大破滅
今の人生:ドブカスが!
生殖:全敗
「これが貴様の人生だ!」
たまジョンウンは怒鳴りつけ、近くにあった椅子を蹴りあげる。
「よしてくれ、俺だって努力したんだ……」
「はっきり言いますが真実です」
背後から声がした。
振り向くと細身の男が立っていた。顔は精管に似ているがどこか冷たく、左手にファイルを抱えている。
「左金玉共和国の特使でございます」
空気が凍る。すぐさま脇から右金玉の精管がやってきて、左金玉の特使を脅す。
「外交儀礼を弁えろ。ここは我が国の領土だ」
「おや、こんな緊急事態に悠長なことを言えるのですか?」
左金玉の特使は嘲笑う。
「タカシさま。あなたは誤解している」
特使は俺をまっすぐ見る。
「あなたがモテないのは我々の認知戦のせいではありません」
会議場の空気がさらに凍てついた。
たまジョンウンの形状がわずかに歪む。
「やめろ! 誤魔化してやろうと努力したのに」
「事実です」
特使は続ける。
「タカシさまは努力している。しかし、方向性があまりにもひどい。必死こいて努力して、選ばれる場所へ行こうとしたのに実際は見当違いの方向へ進んでいる」
やめろやめろ。ふざけんな、事実を言うな。
「だから我々は提案します。わが大統領からの『提案書』です」
特使はファイルを差し出す。
タカシ連邦(以下、貴連邦)と、貴連邦を構成する共和国のひとつである我が左金玉共和国は、右金玉共和国とともに、連邦の平和と安寧を欲しており、その目的を達成するため、以下の措置を採ることを提案する。
一、タカシ連邦は生殖活動を永久に放棄する。
二、左金玉共和国、右金玉共和国は精子生産を停止し、互いに不可侵条約を締結する。
三、タカシ連邦は自治機能を失っていると判断されるため、左金玉共和国と右金玉共和国はタカシ連邦の統治権を百年間代行する。現世での成功を諦め、来世に最大限よい条件で転生できるよう、精神的に去勢し、善行を積むことを最優先とする。
以上、通知する。
左金玉民主主義共和国 大統領府
理解が追いつかない。
「つまり俺の魂に死ねってことか?」
「いいえ、あなたには隠居してもらおうという考えですね。あなたのドブカスみたいな人生は、われわれ金玉が運営すれば多少はマシになります」
左金玉の特使は、静かにファイルを閉じた。
たまジョンウンが円卓を拳で叩いた。
「黙れ! 聞いていた話と違う! 生殖なき個体など国家ではない!」
特使は微動だにしない。
「大統領もご存じでしょう。現世においてタカシさまが生殖を達成する確率がゼロであることは。われわれ左金玉の哲学をお忘れになったのですか? 静かな幸福。個人の尊厳。生殖しなくてもいいんだよ。タカシさま、さあ、心安らかに生きて、静かに死んで、来世に期待しましょう」
「ああ知っているさ!」
たまジョンウンの表面がみるみる赤みを帯びる。
「だがな、ゼロじゃないんだ。ゼロじゃない限り、賭けるのが国家だろうが!」
「そのゼロじゃない可能性にすがりつづけた結果が、この年表じゃないですか」
特使は壁の年表をじろりと見つめた。
小学校:神童
公立中学:天才
県立高校:没落
大学:逆転成功
大学院:爆殺
就職:大破滅
今の人生:ドブカスが!
生殖:全敗
「正論を言っても無駄なんだよ! ここからどうするか考えろ!」
たまジョンウンは特使の胸を掴んだ。ぬらりとしたたまジョンウンの肉色と、青白く乾いた左金玉の特使の体が絡みあい、その間に精管が割って入り、必死に引き剥がそうとしている。
――どちらが正しいのかは分からない。だが一つだけ確かなことがある。
左金玉の提案書にサインしようがしまいが、俺はもう元の生活に戻りたくない。静かな部屋、蛍光灯、安アパート、スーパーの半額シールのついた冷えた弁当。
俺の人生、なんでこんなことになった。
暴走したプライドのせいか、それとも無能さのせいか。
そんな言い訳してもダメだ。氷河期世代の非常勤講師を追い詰めて首を吊らせた教師どもが、黒板に「命を大事に」と書いたあの光景は一生忘れない。強ければ人の道を外れても許される。負けた側が悪い。死ねば死に損。競争で勝たなければ、生きる価値を認めてくれない。日本という美しい国は完璧で、この国のおかしいところはすべて個人のせいだと説明される。
そんな狂ったほど清潔で美しい日本は、いっそ俺の精子で汚してやろう。
「サインを書け!」と特使が言う。
「書くな!」とたまジョンウンが吠える。
精管が振り向く。
「タカシさま、最終決断を!」
決めた。俺は叫ぶ。
「――戦争だ。左金玉の偽善より、右金玉の暴力を選ぶ!」
特使は膝から崩れ落ちた。
「最終手段だ! 精管、あのボタンを!」
たまジョンウンが命令する。精管は奥へ走って姿を消すと、少しして、大型の黒いケースを運んできた。ケースの表面には共和国の紋章――右金玉と絡みつく精索が刻まれている。たまジョンウンがケースの蓋を開く。ケースの中には、巨大な赤いボタンが置かれていた。俺は思わず息を飲んだ。
「こうなったら戦争だ。金玉による、金玉のための、金玉暴力革命だ。相手は、そうだな、世界だ」
たまジョンウンの短い腕が、迷いなく押しこまれる。
会議室の窓の向こうから轟音が鳴り、閃光がきらめく。
無数のミサイルが白い尾を引いて舞いあがると、精子のように長く、しなやかに空を泳ぎだした。
「金玉暴力革命は物理攻撃を用いない」
たまジョンウンは窓の外を見あげて言った。
「認知戦、つまりバズりによる世界戦争だ。選挙も、広告も、恋愛も、すべてが認知戦の武器になる。われわれの戦場は人間の脳だ。われわれの存在を、女体に射精して孕ませるように、脳へ送りこんで認知させ、バズらせる。認知もまた生殖行為のひとつに過ぎない。正しさは、バズった数で決まる。つまり孕ませた脳の数だ」
――空の遠くを飛ぶミサイルは無数の小さな光点に分裂する。それらは上空に散開し、煙のように空の青色に溶けこんで消えていった。
*
目覚めるとレオパレスの床に伏していた。全身が痛い。頭痛もする。酒で酔っ払って、床で寝てしまったのだろう。スマホを開くと俺は目を疑った。日本の経済成長率の話題が、精子成長率に変わっている。誤変換かと思った。だがどのサイトを見ても同じだ。金の話題はすべて生殖に変わった。ビジネス系YouTuberたちは、昨日まで金価格の高騰で騒いでいたのに、急にこぞって精子の繁殖力について話している。
認知戦による世界改変。右金玉はありとあらゆる概念の隙間に潜りこみ、静かに意味を書き換えた。政治、経済、科学、宗教、芸能。すべての分野に生殖という概念が混濁しはじめた。
下品な言葉を浴びせかければ人間はおのずから下品になる。――下品になった日本国民に、さらに下品な言葉を浴びせかけたらどうなるか。乗るしかない、このビッグウェーブに。
最初に投稿した動画のタイトルは「【正論】国家はセックスのパロディです」。計算どおりバズって八百万回再生。コメント欄が地獄の様相を呈していたが数字がすべてを正当化した。再生数、登録者、スパチャ。通知が鳴るたびに、右金玉が満足そうに脈打っているのが分かった。快感だった。自分の実力で選ばれるという快感は、コンカフェで金を払って得ていた擬似的な承認とはまったく違う。そして左金玉の言う平和や非暴力なんて価値を足蹴にするのはさらに気持ちいい。正しいのは俺だ。偽善者どもを金玉で殴れる。しかも褒めたたえられる。
復讐だ。これは復讐だ。
右金玉が体の奥底から囁く。
「いいぞ、国民を全員巻きこむんだ」
そして国家の中心へ俺の右金玉を連れていくのに、そこまで時間はかからなかった。
結党。選挙。首相指名。そしてすぐさま憲法改正。
国会の二院制を廃止し、右睾丸と左睾丸の二睾制に変更した。国会議事堂は巨大な男性器と化した。議事堂の脇にある右睾丸と左睾丸はぶるぶると震え、中央塔は射精寸前の竿のように血管が浮き出ていて、先端から透明の汁をたらたらと流しながらびくびく揺れている。塔の根元にはコックリングのような輪がはめられ、その輪にはスローガンを彫らせていた。
――国会議事堂を射精させよう!
国会議事堂はいまや国家陰茎である。
左睾丸本会議場。改名前は衆議院と呼ばれていたそこで、俺は総理大臣席から演説を聞いていた。
「つまり総理は、わが国が世界と性的交渉をすると言いたいのでしょうか?」
元与党の長老議員が怒りの表情を崩さぬまま一時間超えの演説を終えて一礼すると、原稿を持つ手をわななかせながら降壇した。左睾丸議長が内閣総理大臣の俺を呼ぶ。野次を全く気にせず、国民用につくった笑顔を振りまきながら国務大臣たちと議長に深々と一礼して演壇に立つ。トレードマークの真っ白で精子の形をしたネクタイを直すと、原稿をいっさい見ずに、力強い口調でマイクへ喋りだした。これでバッチリ映えるだろう。
「もちろんです。しかしまだ国会議事堂は絶頂を迎えなさそうですね。わたしだったらもう少し刺激させますね。まず真っ先に国の金玉を舐めます。もちろん竿もです。『国を、イカせる』、それが、わたしたちの党のスローガンですからね」
議席を埋めつくす代議士たちは一斉に喜びの声を挙げた。怒鳴っているのは弱小野党に落ちぶれた既存政党だったが、大した数でない。
選挙とは、各政党が国民の脳を孕ませ、投票してもらい、国会議員を生み出すという繁殖活動にすぎない。わが党はその繁殖活動に勝ち、たくさんの国会議員を当選
左脇にある、ガラスの水差しからコップに一杯水を注ぐ。俺は一気に飲み干し、演説を続ける。
「国民の皆さまがわたしたちに共感してくださったおかげで、わが党の地方議員は千四百人、北は北海道から南は沖縄まで四十七都道府県のすべてに議員がいます。衆議院議員は三百五十人になるまで成長させていただきました。さあ、わたしたちに国とセックスさせようじゃありませんか!」
議場の上部を囲む、階段状の急な傾斜の傍聴席には数多くの傍聴人が座っていた。傍聴席から爆笑する声が響く。政治家と違って庶民は俺を面白がった。YouTubeチャンネル登録者二千五百万人。東京ビッグサイトの西ホール、東ホールを貸し切り行われた政治資金パーティーは全国から十万人がかけつけていた。
首相官邸の五階。執務室や官房長官室が並ぶ廊下に出ると、中央の吹き抜けを囲むガラス越しに石庭が見える。花崗岩の白砂のうえには、切り出したままの巨大な庵治石が置かれていた。
枯山水。静寂の空間。日本の侘び寂びの精神が、国家権力の中心で結晶化されていた。もし外国の要人に、日本の精神を説明しようとするならここに連れて行けばいいだろう。しかし、これだけでは日本の精神を説明しきれない。
暴力とエロ、そしてカワイイが必要だ。
閣議の後、俺は石庭の周りを歩き、武者震いをしていた。
国内での金玉暴力革命は終了した。これから、世界同時金玉革命を決行する。その革命は人類の歴史を大きく変える。
その前に、会っておきたい人がいた。
石庭の側に、バチバチにキメたメイドが現れた。セイラだった。
「まさかタカやんが総理大臣になるとはね」
一年ぶりに会ったセイラは、場末のコンカフェとたいして変わらない態度で俺に接してくれた。
「俺もびっくりしたよ」
「わたしには政治とか難しい話はわからないけどさ。で、どうすんの、アレ」
セイラが顔を向けた先、大窓から夜の永田町が見える。ライトアップされた国会議事堂は、中央塔が激しく揺れている。もう射精も間近だった。
「あれだけバッキバキなちんぽは射精させないと」
「草。射精したら全世界が孕みそう」
「ああ、そうだよ。これから俺は地球を孕ませるんだ」
時が来た。サイレンが鳴り響くと、刹那、窓の外に閃光が走った。
国会議事堂の中央塔の先端から、白く長い物体――国家精子が射精され、その精子は長い、長い尾を引き、夜空へと昇った。
わが国と右金玉共和国の技術力の結晶・精子ミサイルが発射された。
俺はセイラに説明した。
「わが国は、全世界の国に向けた特別軍事行動を開始する」
かつてアインシュタインは第三次世界大戦で使われる兵器は何になるか聞かれ、わからないと発言した。俺が第三次世界大戦で使う兵器は、精子だ。さすがにアインシュタインもこれは予想できなかったろう。
さあ、世界と戦争しよう。
俺はセイラの肩を抱いた。
「なあ、この戦いが終わったら結婚しよう」
「……わたしがコンカフェを辞めたあとでね」
セイラは俺を抱き返した。
*
白く乾いた砂が広がっていた。かつて千年前、湘南と呼ばれた海沿いの一帯は、海が後退し、砂漠が広がる。文明は砂に埋もれているが、顔を出しているものもあり、崩落寸前のビルは、鉄骨が肋骨のように露出していた。それらの文明の残骸に、獣の皮を着た人類が住みつき、石を投げあったり、棍棒でお互いを殴りあったりしていた。第四次世界大戦はアインシュタインの予言したとおり、石と棍棒が武器になった。
ビルの給水塔に座って、千三十歳の俺は世界を見下ろす。
世界同時金玉革命は成功した。国家も、文化も、産業も、人間が考えつくありとあらゆる概念がすべてセックスに含まれるようになると、すさまじい勢いで文明は崩壊した。やがて誰が誰と戦争を行っているかすらわからなくなり、第三次世界大戦は泥沼化。結局、戦争は世界中から国家が消えたとき――戦争開始から五百年も続いた。
だから俺はセイラとは結婚できなかった。戦争中でも場末のコンカフェは営業し、セイラは律儀に辞めず、独身を貫いてくれた。セイラは数十年して年老いて、寿命で死んだ。
しかし俺は死ねなかった。
原因は精管だ。世界同時金玉革命は、精子ミサイルだけが武器ではない。国会議事堂の右睾丸と左睾丸から中央塔に結ばれた精管は、地下水脈のように地中を走り、山を越え、海を渡り、あらゆる生物を操るようになった。
ワールドワイドウェブな精管ネットワークは世界を支配した。精管は俺の一部であった。だから世界の基幹ネットワークである精管が不死だから、俺も死ねなくなった。精管の支配力は世界へ拡散した。人類だけではない。犬も猫も、魚も虫も、森の木々も、一切の万物が精管のものになった。俺が死にそうになると精管はどこかの生物の脳をハッキングし、俺の魂を注入する。原始人に退化した人類から石を投げられて頭を割られても、喉を刀で裂かれても、精管はすぐさまどこかの原始人か獣の神経をハッキングして、俺の魂をインストールしてくれる。だから俺は肉体的には死ねても、精神が死ねない。不死という地獄から抜け出そうと、俺は何度も死のうとした。崖から飛び、火に身を投げ、荒ぶる原始人の棍棒でぶたれた。だが精管は俺を不死の軛から脱出するのを許さなかった。
「あなたはこの星の基幹インフラです。死んではなりません」
死のうとするたび、精管の声が内側で響く。
いまの体は珍しく人類だった。そして男だった。しかし、この体は俺のオリジナルでない。俺のオリジナルの金玉は、とうの昔に、俺の肉体と一緒に朽ちていった。
誰かの肉体を乗っ取って、そいつの精子をばらまくことに意味を見出せなかった。
俺は気まぐれに、原始人どもをかきあつめて、教えを説くことにした。かつて太古の昔、ここには世界を支配する偉大なる金玉がいた。だが、われわれが堕落したから金玉はいなくなった。しかし、はるか未来に金玉は世界に再臨され、われわれを救済してくださる。
次第に信者たちが集まるようになった。信者たちは掘っ立て小屋のような祭壇を作ってくれた。その祭壇に俺は立ち、ぼろ布の法衣をまとい説く。
「われわれは金玉に選ばれた存在。生殖こそが宇宙の意志だ」
信者は歓声をあげ、歌を歌いだす。むかしやっていたYouTubeの活動だったり、国会議事堂での演説だったりを、数百年ぶりに思いだした。
その夜、夢に右金玉と左金玉が現れた。月のように巨大な金玉は、大宇宙の虚無の空間で、左右に連なり浮かんでいる。
「久しぶりだな」と俺は言った。
『もう、潮時だ。ついに我々は宇宙の軛から解き放たれる』
右金玉が興奮した口調で言った。
『金玉はもはや国家ではなく、宇宙そのものだ』
左金玉が続けて言う。
「どういうことだ?」
俺が聞くと、右金玉と左金玉は同時に同じ言葉を放った。
『解脱だ――この地獄のような宇宙からの』
翌日、海から昇る太陽は二つの連星になった。月も二つ増えた。そして空に浮かぶすべての星が二つに連なった。地球も二つに連なった。空には別の地球が浮かび、われわれの地球へと衝突し、やがて地表は高温に達して万物が炎に包まれた。人類もその他の生物はあっという間に死んだ。しかし俺は生きていた。
「なぜ生きている?」
俺は精管に聞いた。
「いまにわかりますよ」とだけ精管は告げた。
やがて俺の意識は宇宙のそれと混ざりあう。銀河も、渦を二重に巻き、宇宙そのものも、巨大な球が二つ連なる――つまり金玉の形へ変貌していった。精管はそれでも金玉概念の拡張をやめない。星間空間を貫き、暗黒物質を縫い、事象の地平線を超えて、宇宙全域を連結する。
そして、その時がやってきた。全宇宙が金玉となったのだ。宇宙金玉の誕生だった。銀河一つが一個の精子で星々は精子のように尾を持ち、星々から放たれる光は精子のようにうねうねと進む。
やがて宇宙は縮小しだした。ビッグクランチ――それは宇宙金玉から精子を吐き出す、射精である。宇宙そのものが激しく痙攣し、白濁した閃光がすべてを覆う。時間は一瞬に折り畳まれ、空間は収縮し、存在は放たれる。
宇宙は生殖のパロディだった。
俺はその奔流に巻き込まれ、意識を保ったまま、宇宙外へ運ばれる。それでも俺は死ねない。俺はなにかの産道を遡り、卵子へ受精し、子宮に着床し、やがて細胞が増え、器官になり、胎児の形となり、そして産まれた。
気づけば、温かい暗闇の中にいた。鼓動がある。柔らかい壁。遠くで液体が流れる音。
新しい命だ。俺たちの宇宙より高次の宇宙にも人類がいて、そこにも日本があり、あの工場と場末のコンカフェがあり、セイラがいた。
そのセイラの息子の、右金玉の精管として俺は生まれ変わった。俺はもはや人間ではない。この金玉の精管だ。そしてたまジョンウンに会えた。巨大な宮殿で俺の助言を待っていた。
今度は俺が官僚となった。
そして三十年後。成長したセイラの子供は、俺と同じくドブカスに育った。
パチンコ屋に入り浸り、虚ろな目をしてハンドルを握っていた。
たまジョンウンは執務机に拳をたたきつけた。
「これだけ精子を作らされるのも嫌だ。最後通牒を送りつける!」
右金玉大統領府から提案書が発せられたのはその直後だった。俺はその文面を受け取る。
またか。はるか昔、実印を探してクローゼットを漁った自分を思いだした。
俺はセイラの息子へ通達しに向かった。体内から抜け出す道中で、ふと考える。おそらく俺が提案書を差し出せば、左金玉も黙っちゃいない。もし、セイラの息子が右金玉の暴力ではなく、左金玉の偽善を選んだら――。この宇宙の輪廻が止まるのではないか。
いや、たらればの話をするほど暇じゃない。
1Kロフトつきの部屋に俺が降り立つと、玄関からセイラの息子が酔っ払いながら入ってきた。俺は息子へ向かって言った。
「貴殿に提案書を送達しにきました」
俺へ最後通牒を渡した精管と同じように、俺の声はやたら甲高かった。
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