唐突に神田栞はつぶやいた。
「帰思方に悠なる哉」
「何だそれ?」
気になって答えた。
「三島由紀夫の小説の一節だよ。元は漢詩の一節なんだけどね。『中世』という短編に引用されてるんだよ。望郷の念はおさえ難い、という意味の」
僕は文学に疎いので聞き流したが栞は続けて言った。
「抜粋するとこう。『死すべき時は選びえずともどうして死所を選びえぬことがあろう。帰思方に悠なる哉。目指すところは福州の故地である』。最高じゃないかこのフレーズ。意味は何となくしか分からないけどさ、決意とか悲願とか、そういったものをありありと感じ取れる。この小説について、三島由紀夫は最後の一節を最初に書いたんだそうな。私はこの小説とその逸話を知ってから、小説は必ず最後から書くようになった」
栞は確かに文学や小説の話をするし、何かしらの話を書いている様子はあった。しかし彼女の熱意は疑うべくもないが、実際は一度として小説を書き終えたことがない。満足する最後の一節を決め切ったことがないのだ。最後の文章を決めていざ書き始めても、最後がしっくりこなくなり、やがて書くのを止める。そんなことをずっと繰り返していた。栞はしょっちゅう独りごちている。「最後のフレーズが印象的になるってなんなんだろうね」と。
彼女が範としている三島由紀夫について、僕のような門外漢でも最後の事件とその概要は知っている。そんな色んな意味で物凄い作家を基準にしたから、いつまでたっても納得のいく最後の行が書き出せないのだろうという気がした。
栞に癌が見つかった。それを知らされた時、僕はあまり驚かなかった。彼女の生活を知っていたら寧ろ納得感がある。僕自身、規則正しい生活を送っているとは言い難いところもあるが、栞に比べたら説教できる程度にはマシだった。酒とかジャンクフード、生活時間とか、指摘できるもの全て十往復はしている。
「癌治療をしないといけないんだけどね、一つ残念なことに味覚が無くなるんだそうな。それだと辛いから美味いものの食い納めがしたい」
栞がそんなわがままを言ってきた。
「美味いものなんて大体食ってきただろうが」
「東京の飯なんて似たようなものさ。それ以外の何か美味いものを教えてくれよ」と引き下がらない。
「カレーが食いたい」と栞は呟いた。今までで最もか細く、だが切実さがこもった呟きだった。
「カレーかラーメンが食いたい。今まで食った中で一番美味い奴をもう一度だけさ。でもラーメンは何やかんや手間がかかるだろうから、ちょっと君だと無理そうだからカレーが食いたい。君の手で作ってくれよ。後生だからさ」
「後生だから」という言葉、唐突に実家の記憶が蘇った。確か家を出る直前の母親の言葉だった。「分かったよ」とだけ答えた。
栞と最初に会ったのは小学生の時である。僕は八王子の商店街にある洋食屋の倅で、栞は当時駅から少し歩いたところに住んでいた。僕の実家が栞の家族にも気に入られる店だったということもあり、当時から僕も手伝いに出ていたこともあって、すぐに顔見知りになった。
それから栞の家族は東横線沿線沿いに引っ越し、中学高校の間は疎遠になったが大学で再び再会した。学部もサークルも違うが、必修科目が同じだった時にお互い気づいた。
再会した時には既に栞は本の虫になっており、文芸系のサークルにも入っていた。変なこだわりと関心の対象に極端な温度差があるので、非常にとっつきにくい人間になっていた。要領だけは最低限良かったので必修の単位はあんまり落としてなかったようだ。その甲斐があったといえるかどうかは厳しいが、卒業年度は一つしか違わなかった。その後、お互い別の進路を辿ったが付き合いは継続している。
栞が親の脛を齧って勤労や納税の義務の履行を延期し、完成しない小説のような物を量産している間、僕は会社員として勤めを果たしていた。しかし、不穏な噂が社内に流れ始めた。そろそろ大規模な人員整理が始まる、と。その噂の最初の出所はむしろ社内よりもSNSや社外のニュースだった。僕の仕事はそろそろAIにとって代わられるようだった。具体的にいつかは不明だが、そろそろ転職先を考えておく必要がありそうだ。
一日中家にいてネットニュースも当然把握している栞は、寧ろ僕より世情に聡いので「私のヒモになるかい?」みたいなことを言うが、当然真に受けてはいない。僕もそろそろ次の生き方を考えなければならない時期だが、実家に帰るという選択肢は全くなかった。
「帰思方に悠なる哉」
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