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ボールケースとトイプードル

合評会2025年9月応募作品

河野沢雉

2025年9月合評会参加作品。やめちくり。

タグ: #純文学 #合評会2025年9月

小説

4,317文字

少年は得物をゴトリと取り落とした。

黒い粘性の液体を全身に浴びた少年の躰を、恍惚とした光がすべるように通り抜けた。あんなにも切望した自分の解放が、少年の身動きを封じるおもりを断ち切る渇望の成就が、あまりにも現実感のない、ふわふわとしたつかみどころのない光の中で形をとったために、全部両手の指の間からこぼれ落ちていったような、そんな気分だった。

 

ユキヤがばかでかいリュックとボールケースを背負ってぼくの目の前を横切った。汗臭い風がぼくの鼻面を撫でた。思わず顔をしかめる。

「よっ、トモヒロ」

ユキヤはまた背が伸びたみたいだ。ぼくよりも十センチくらい高いところに目がある。まっ、六年生のときにこのくらい差があったって、中学、高校でどう変わるか分からない。よしんばこの差が大人になるまでキープされたとしても、だから何だ。ちょっとばかり上背があるからって、人生が激変するわけじゃない。

「今日も塾か。じゃあな」

そうだよ。今日も塾さ。でもさ、身長と違って、テストの点は、偏差値は、その後の人生に直結する。ぼくには一ミリの身長より、一点の点数の方が大事だ。ユキヤたちが玉っころを追いかけている間に、ぼくは将来のために学力という欠くべからざる能力を身に付けるんだ。

火曜日の放課後、ぼくは一度誰もいない家に帰って塾のバッグを引っつかみ、駅前の黒っぽいビルに向かっていた。駅の反対側に住むユキヤがバレーボールチームの練習場所である体育館へ行く途中によくこの道ですれ違う。駅の方では道路工事をやっているのか、機械の騒音が聞こえてくる。

ユキヤが所属しているチームは先月、東京都大会で優勝した。夏には全国大会の大舞台が待っている。ユキヤはセッターでレギュラー。

そんなユキヤがなんでぼくなんかに親しく話しかけるのだろう。たぶん幼稚園の頃からずっと一緒だったからだ。ユキヤはいつも人に囲まれている。男子にも、ミサキを含む女子にも、みんなに人気だ。そんなユキヤと幼馴染みであることで、ぼくまで人気者になった気分になれる。

ユキヤと別れて一ブロック歩いたところで、犬を連れた人影を十メートルほど先に発見した。後ろ姿なので人の判別は自信がないが、リードの先に繋がっている黒いトイプードルは見紛えようもない。

ミサキだ。

いつも、ユキヤと話すときには目をキラキラさせて身体を斜め四十五度に構えるミサキ。夕方の散歩コースは塾へ向かうぼくの道のりと一部重なる。

ぼくは早足になり、ミサキの脇をすり抜けるように追い越した。

「ミ……」

ぼくは振り返りざまにミサキの顔をチラ見した。ミサキは驚いたように目を見ひらいた。ミサキの名前を呼ぼうとしたぼくの口は、何かに押さえつけられたように閉じてしまった。

「あっ」

ミサキはぼくの顔を認識したようだが、名前を口にすることはなかった。名前を覚えてもらえないのはいい。ユキヤと違ってぼくは人気者でもなんでもないのだから。

ぼくはそれきり何も言わず、手を振って先を急いだ。逃げるように駆け出すぼくを、ミサキはどんな目で見ていただろう。振り返りもしないで走り去ったので、それは永久にわからない。トイプードルの足音が消えていく代わりに、駅前の工事の音が近づいてくる。

これじゃ、ただの変な奴なんじゃ? 束の間、冷静に客観的に状況を分析する自分がいる。背中にミサキの視線を感じる。「ミ……」「あっ」それが会話のすべてだ。こんなの、会話にもなっていない。

もしぼくがバレーボールを続けていて、ユキヤと一緒に全国大会へ行くことになっていたら、ミサキの見る目は違っていただろうか。

いや、そんなの無理だ。ユキヤがバレーを始めると知ってぼくがどうしてもとお母さんにせがんで始めたんだ。模試の成績をキープできなくなったら辞める、という約束だったんだから、仕方がない。

それに、もしぼくが続けていたとしてもユキヤと一緒に全国へ行ける、なんてのは妄想に過ぎない。ぼくは身体が小さいしユキヤのような運動神経もない。一年生のときにチームに入ったメンバーはみんなすぐに直上トスやレシーブができるようになり、二年生になる頃にはフローターサーブも入るようになった。ユキヤに至っては、ジャンピングサーブまで出来た。

ぼくは二年生の終わりになってもまだまともにレシーブができず、サーブもアンダーサーブがたまに入ればいい、という有様だった。球技に必要な「球勘」ってやつを、ぼくはまったく欠いていたんだ。

ぼくがバレーを辞めるとき、お母さんが心底ホッとしたような顔をしたのは、これで成績が回復するというよりも、向いていないバレーを続けなくて済むという安心感のせいだったに違いない。お母さんは

「トモヒロには勉強がいちばん向いているのよ」

と言って励ましてくれた。今ではお母さんが正しかったのだとわかる。あのままバレーボールを続けたって、時間の無駄だったろう。それよりも勉強をやって、少しでも成績を上げた方が、ぼくの将来にとってはずっといい。

ミサキの足音が遠ざかる。トイプードルの爪がアスファルトを引っ掻く音が、薄らいでいく。

さようなら、ミサキ。きみはまだユキヤみたいな男の子が好きなのだろうが、大人になったとき理解するだろう。お母さんだって、お医者さんのお父さんを選んだんだ。お父さんは別にスポーツ万能というタイプでも背が高くもないけれど、勉強ができたから医者になれた。だからお母さんとも結婚できた。

ピコン。

ケータイの通知が鳴った。歩くスピードを落としながら通知を開く。昨日の模試のオンライン成績閲覧ができるようになった、というお知らせだった。

すぐに結果を開く。ぼくは思わず足を止めた。そのまま十秒か二十秒か、いやもっと長かったかも知れない。ぼくは全く動けなかった。画面を見つめたまま、蝶の標本のようにその場にピン留めされた。

「大丈夫?」

いつの間にかぼくに追い付いて、追い越したミサキが話しかけてきた。ぼくが蒼い顔をしていたからに違いない。自分でも、血の気の引いた顔をしているという感触があった。ケータイを片手に、歩道に立ち尽くしているぼくを、ミサキは振り返りざま怪訝そうに見ている。ちょうど斜め四十五度の角度だ。ミサキがユキヤと話すときにとる角度。ユキヤはいつも、こうやってミサキを見ているのか。トイプードルがアスファルトを引っ掻いている。

「うん」と返事するだけで精いっぱいだった。喉はカラカラで、ケータイを持つ手が細かく震えている。ミサキの顔をまともに見返す余裕もなかった。

追い付かれたときと同じくらい、いつの間にかミサキはいなくなっていた。プードルの爪の音ももう聞こえない。ぼくの左前方にある黒いビルディングがのしかかってくる。重く、低い唸り声を出しながら覆いかぶさってくるような、悪意に満ちた建物だ。

模試成績の通知は同じものがお母さんのスマホにも届いているはずだ。結果を見たお母さんの顔を想像すると、その顔が土気色に膨れてビルと一緒に倒れかかってくるように感じる。

行きたくない。

塾から逃げるように回れ右をしたぼくは、しかし戻れば家に帰り着くことに気づき、再び踵を返した。進んでも地獄だし、引き返しても地獄だ。

まいったな。

どうしてこんなことになっちゃったんだろう。

理由はわかっていた。前回の模試の直前、ぼくはユキヤに借りたマンガを読んでいた。お母さんに見つかると怒られるので、マンガは本棚の参考書の奥に隠していた。木を隠すなら森へ。本棚なら本があっても違和感がない。

実際には隠す必要さえなかった。ぼくは借りたその日に、一気に全巻を読んだ。読み終わったらすぐに返すつもりだったが、翌日もう一度最初から読み直した。頭の中はそのマンガでいっぱいになり、模試なんかどうでもよくなっていた。

短くいえば、親殺しをする子供の話だった。親を殺す子供の側に納得できる動機がなく、まったく感情移入できないけど、殺すときの描写がエグいから読んでみろ、というのがユキヤの受け売りの宣伝文句だった。マンガは、ユキヤが誰かから借りたものの又貸しだったのだ。

ともかく主人公の少年が両親をエンジンカッターで切り刻む描写を、ぼくはエグいと感じなかった。ありきたりな表現というわけでもなかったが、強いて言えば「ただエグいだけ」だった。その点ではユキヤは嘘をついていなかった。

でも、それだけだった。

にもかかわらず、どうしてこのマンガがぼくの心を抉るのだろう。じつに不思議だった。

ピコン。

再びケータイの通知が鳴った。反射的に通知を開いてスマホを目の前にかざしたぼくは後悔した。お母さんからのメッセージに既読がつく。

「わかっていると思うけど、帰ったら話があります。本棚に隠していた本は、捨てました」

耳の中で虫が鳴いているように、ツーンという高い音がした。引いた血の気はさらに薄くなり、ぼくは倒れそうになった。近くにあったガードレールの支柱をなんとかつかみ、体を支えると、異様な手汗をかいてすべるスマホを落とさないように、返信した。

「あれは借りた本なので捨てられると困ります」

一瞬で既読が付いたが、返事がくるまでは少し間があった。

「あなたのせいで、そうなったのですよ」

目の前が真っ暗になる。お母さんのとった行動は、間違ってはいないだろう。だから責任がぼくにあるというのもわかる。だけどユキヤに何と伝えればいいだろう。ただでさえ又借りのマンガなのに。

塾のある黒いビルが目の前に現れた。工事は、その隣のビルの外壁で行われているようだった。作業員がエンジンカッターで鉄パイプを切断している。マンガで少年が両親を切り刻むために使っていたのと同じようなやつだ。

ぼくは想像した。鉄パイプではなく、お母さんやお父さんの骨をあのカッターで切断するとどうなるのだろう。その情景があまりにも違和感なく自然にぼくの中へと入り込んでくるので、ぼくは頭を振ってその想念を追い払った。

追い払ったと思ったのはぼくだけで、そいつはぼくの頭の後ろあたりにへばりついて離れない。

ぼくのことを真剣に考えてくれるのはユキヤでも学校の先生でも塾の先生でもミサキでもない。

だからこんな想像は、してはいけないんだ。だからといって、今のこのまずい状況を脱するいい方法を思いつかない。

気付けば、エンジンカッターを操る作業員の背後にぼくは立っている。手を伸ばせば届くくらいの距離で、カッターは爆音と火花を立てて鉄パイプに食い込んでいる。

ぼくのことを本気で心配するのならば、お母さんは今ここでぼくを止めてくれるだろうか。

いや、もう誰でもいい。誰か助けてください。

ぼくをあのマンガみたいに、しないでください。

© 2025 河野沢雉 ( 2025年8月31日公開

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"ボールケースとトイプードル"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2025-09-08 06:12

    冒頭は文学的な硬い表現でしたが、後半は軽快に畳み込むようなスピード感で面白く読めました。「お知らせ」という言葉遣いなどを通じて、主人公の幼さというか従順さがにじみ出ていると感じました。それゆえに最悪のifへとつながる道も皆無ではないという余韻が生まれます。

    • 投稿者 | 2025-09-24 17:37

      コメントありがとうございます。
      ほぼワンシーンにするというのは最初から決めていたことで、そのお陰でスピード感を出せたのではないかと思います。

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-19 12:43

    勉強で追い詰められ男子の心理をとても上手く表現できていてよかったです。こんな感受性豊かな子が親の命令に従うしかない状況なら、いつか本当に親殺し(もしくは今回のように無関係の人間を殺す)をするかもしれないなと。

    • 投稿者 | 2025-09-24 17:39

      主人公の感受性に思いを致していただき、ありがとうございます。
      無垢な子供を道具にするのは本当に罪深いと思います。

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-20 12:54

    「トモヒロ」の繊細さと従順さが語り手として魅力的だなと思いました。「トモヒロ」がお母さんの考え方を内在化していて、自分の本心がわからなくなっているのがうまいです。特に「でもさ、身長と違って、テストの点は、偏差値は、その後の人生に直結する。ぼくには一ミリの身長より、一点の点数の方が大事だ。ユキヤたちが玉っころを追いかけている間に、ぼくは将来のために学力という欠くべからざる能力を身に付けるんだ」という序盤の部分ではお母さんの思考をトレースしているだけなのか、本心からの開き直りなのか、あいまいなところがいいです。その後も「今ではお母さんが正しかったのだとわかる」「お母さんのとった行動は、間違ってはいないだろう」など母親を批判しない(できない?)トモヒロ君の人物造形が読んでいて新鮮でした。教育熱心な親からの重圧に苦しむ子どもという設定自体はよくあるものですが、トモヒロ君の気の弱さと真面目さ、「トイプードルの爪がアスファルトを引っ掻く音」などの細かい描写が作品にリアリティと深みを与えてくれていると感じました。お題をストレートに生かしながら不穏な未来を想像させる終わり方も見事で、とても感動しました。

    • 投稿者 | 2025-09-24 17:41

      感想ありがとうございます。
      すごく言いたかったことが伝わっていて、嬉しかったです。

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-21 15:43

    日常の生活を送っているだけなのにどんどん追い詰められてゆく主人公の心理が語り口にうまく表現されていました。
    『ボールケースとトイプードル』というタイトルは、主人香の劣等感の象徴なのでしょうか。ユキヤには叶わない、ミサキには眼中に入れてもらえない。勉強に打ち込むことは良いことなんだけど、実は劣等感は少しも克服できていないことが語り口から透けて見えるよううまく工夫されています。
    冒頭のちょっと意味を取りにくい描写が最後に生きてきて、お題の回収も上手いなと思いました。

    語りが見事だったので、納得して読み終えたのですが、母殺し(工事現場員殺し?)に行きつくまで追い詰められていたのか、怨念の方向は本当にそこだったのか、という点でちょっと疑問が残りました。

    • 投稿者 | 2025-09-24 17:46

      大猫様ありがとうございます。
      サスペンス的な追い詰められ方に注力したので背景の描写があまり重層的でなかった部分が、動機の面で唐突な感じをもたらしたのではないかと反省しています。

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-22 23:28

    とてもうまい!
    最初の4行の三人称と、以降の一人称の対比がよかったです。
    一人称パートですが、小学六年生にしては(いくら優秀でも)文章が大人びているなと感じてしましました。

    • 投稿者 | 2025-09-24 17:50

      浅野様。そうなんです、本当はもう一段推敲して歳相応の表現にしようかとも思ったのですが、それはまた違う作品になるのではないかと思ってやめました。
      それと、自分が小六だったのははるか昔なので今の小六はもっと大人びているんじゃないかという勘ぐりもありました。

      著者
  • 投稿者 | 2025-09-24 15:30

    素直な少年の描写、がちょっと大人っぽくも感じました。母親と同化するように母親の考えをなぞっていたからなのか…。これは中学受験のお話なのですね!
    こじらせにこじらせを重ねているわけでもなく突発的にこうなる、ことを考えるとR指定って大事なんだろうなぁなど思いました。誰か助けてって思いながらしてしまうこどもの凶悪事件って胸が締め付けられました。

    • 投稿者 | 2025-09-24 17:57

      非常に重要な指摘をありがとうございます。
      私は表現規制反対派なので、創作が現実の事件を誘発するという描写はものすごく慎重に扱わないといけないと思っているのですが、同時にR指定の必要性はそれはそれで真剣に考えなきゃいけなくて、一筋縄じゃいかないなぁと。

      著者
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