何しろ狭いのだ。テーブルを置き過ぎなのだ。おかげで知らない人間の体温が感じられるほど近い距離に座らねばならない。相席のような感覚だ。
隣の若者はこの状況をどう思っているのか知らないが、優雅にコーヒーを啜りながら本のページをめくっている。西日を吸い込んだように変色した古い文庫本は、この紫煙で満たされた空間に似合いすぎていた。
どのテーブルにも、ラーメン屋にあるような簡素な銀色の灰皿が置かれている。水もお絞りも来ないから、目の前にあるのはその灰皿だけだった。これと両隣の二つは空で、スチールが鈍く輝いている。しかしずらりと並ぶ他のテーブルでは、各灰皿が満腹だと言っているのにもかかわらず、容赦なく灰を落とされ吸殻を押し込まれていた。
灰皿かえたほうがいいですよ、と心で呟いていると、「うんこらせ」という声がしてテーブルが揺れた。
腹の突き出た老人がテーブル間の二十センチを何とか抜けようとしている。腹の肉が自分のテーブルに乗り、クロスを引きずるようにしてよじれている。自分はクロスを両手で押さえつけた。テーブルと腹はなかなか譲り合わず、老人はしばらくそこに挟まったままになるのか、と思った。
しかし老人はじりじりと腹でクロスを引っ張りながら、隙間を抜けている。やがて、スポンという音はしなかったが、転がるように隣の席に座った。
ふおう、と大きな息をつく老人は、突き出た腹のせいでシャツのボタンが一つ外れていることに気付いていないのだろうか。汗の匂いがする。大きな腹を抱えて店まで歩いてきた老人の苦労を思うと、少し笑えた。
顔を向けないように横目で見ていると、ものすごい早業で胸ポケットからショートホープを取り出し、口にくわえ火をつける。一連の動きは一流マジシャンのような熟練の技だった。
ショートホープ老人が灰皿を引き寄せ、人差し指で最初の灰を落としたとき、店員がやってきた。先ほどとは別の店員だった。店員二号である。
店員は何号までいるのか。
ここの店員はどこから現われるのかわからない。どちらの女も猫のように気配が感じられなかった。
二号も一号とおなじく四十代ほどで、やはり黒いワンピースにひらひらエプロン。髪も同じようにまとめているから、一号と似ているといえば似ている。しかしよくよく観察しなくても明らかに別人。一号に比べ二号の背中は伸びておらず、下腹部もエプロンの下でたるんでいる。あからさまに見上げるわけにはいかず、さりげなく見やった表情も一号より若干柔和だった。垂れた下瞼に乗る目が丸い。
店員二号は背中を丸めて、ショートホープ老人の言葉を待っている。それはどこか服従を思わせる謙虚な姿勢だった。
「クリームソーダ」
ショートホープ老人が堂々と注文すると、二号は真剣な顔で頷き、一号より切れの悪い動きで回れ右をして、未知の領域に去っていく。わずかにひるがえった長いワンピースの裾からのぞく足首は、くびれがなく、アキレス腱もやんわりとした肉に覆われていた。
それにしてもクリームソーダ。そんな選択肢があったとは。
自分より優遇されている気がして、ショートホープ老人がうらめしくなる。老人の口と灰皿を行き来する指先を観察していると、目が合ってしまった。
うかつだった。
その皺に埋もれた目は、なにか想像も出来ない経験をした人間の目だった。白目は黄色く濁っているのに、瞳孔が鋭い。
蠅を箸でつかむ技。役に立つのかは別として、只者ではないということを威厳と共に伝えるあの技。あれを披露する武士が連想される。
きさまは例の気違いめいた嫌煙活動家か。
ショートホープ老人の目はそう尋問している。
いえ嫌煙どころか禁煙すらしておりません。
そそくさとバッグの中からキャメルと紫色の百円ライターを取り出し、言い訳のように一本口にくわえて火をつけた。しかし吸い込んでいるのは自分の煙草なのか、周囲に漂う、所謂「副流煙」、なのかわからない。皮肉なことに煙草は空気の綺麗なところで吸うほど、旨いのだ。
それでよし。と言うようにショートホープ老人はフィルター間際までになった煙草をもみ消し、またたく間にもう一本吸い始めた。
煙草の匂いには馴れ始めていたが、今度は老人のシャツの隙間から流れ出てくる汗の匂いが気になった。お絞りくらい出せば良いのにと思う。中年男や老人は、お絞りで顔や腋など色々拭くのが好きなのではないか。
とにかく指摘したい点の多い店である。コーヒーもまだ出てこない。仕方なく煙草をふかすが吸った気になれない。もう身体は十分ニコチンに満たされているような気もするし。
煙草を消すか迷っていると、店員一号がまたもや気配なく現われ、目の前にコーヒーを置いた。
ソーサーの上に乗ったカップの縁は完全に金色が剥げ落ちていて、ただの白いコーヒーカップに成り下がっている。何やら得意げな面持ちで去ろうとする店員一号。しかし今度はひるまない自信があった。砂糖もミルクもないのだ。
「すみません」
声をかけると、立ち止まった店員一号は、振り返り、少しうんざりしたように、なんですか? という顔をする。
「砂糖とミルク、それとできればお水が欲しいのですが」
そう言うと、店員一号は一瞬驚いたように目を見開いた。
怒っているのだろうか。しかしなぜ?
緊張しながら返答を待つ。店員一号は気持ちを落ち着かせるように大きく息をついて、ゆっくりと言った。
「お砂糖と、ミルクは、ご要望ならお持ちします。が、出来ればブラックでお楽しみいただくことをお勧めします。当店のコーヒーはそのように、作られております」
どう反応していいか迷う。実のところを言えばもともとブラック党だった。
「そうなんですか」
「どうされますか」
WTV ゲスト | 2009-09-30 23:31
でるかな、でるかな、と思っていたら最後にでましたね、店員3号。
次回も楽しみです。