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明らかに、この女は妊娠している。
しかも臨月であろう。
はちきれそうに膨らんだ腹部を抱え、足をがにまたに開いて立っている。腹にたまった胎児のせいで、股関節の締りが悪くなっているのだ。その姿は、不恰好といっていい。
腹に負担のかからない、ゆったりとした紫の服は、男物のTシャツだろう。中央に大きな緑の龍がプリントされている。赤い舌を出した龍が、ちょうど突き出た腹の中央でのたくっている。ひねった長い胴体を覆う鱗まで細かく描かれた、手の込んだイラストだった。
龍の下には、黄色い文字で「decoction」と書かれている。
煎じた薬? あるいは、何を煎じるにしろ、龍とどのような関係があるというのだ。
まったくわからない。私にはこの手のイラストの意味がわからない。こういった服を選ぶセンスも、私にはわからない。
女はTシャツの下に黒いスパッツをはき、かかとの低い合皮のサンダルを履いていた。足のラインを隠す、ゆったりとしたスパッツのウエストは、おそらくゴムであろう。
私は思わず、眉間に皴を寄せてしまった。
そも私は、妊婦が嫌いである。禍々しいのである。また、このような服のセンスは、およそ女性の美を殺すものである。肩まで伸びた髪にも手入れが行き届いておらず、痛んだ髪先が茶色く変色している。枝毛も目立つ。化粧気のない、青白い顔はむくんでいるし、目の下のくまが痛々しい。代謝の悪いことは明らかだった。
身なりに気を使わず、膨らんだ腹を恥ずかしげもなくさらけ、出歩く女は、私の好まざるところの存在である。
あつかましいのである。
女に対する幻想を打ち砕かないでいただきたいのである。
しかしこの女は、重たい腹のことなど忘れてでもいるようだった。腹にもその内容物にも、まったく意識を払っていないように見える。私をまっすぐ見ながら、何を言うべきか考えあぐねている様子だった。妊婦にありがちな、押し付けがましい姿勢は感じられない。
しかし初対面の妊婦に対し、私は簡単に心を開かない。
そこで、もう一度感情を欠いた言い方で、尋ねてみることにする。
できうるかぎり、そっけない言い方で。
「誰ですか」
女は私の問いに反応しながら、やはり答えられない様子であった。
名を名乗れ。
そして自らの立場をはっきりさせろ。
私が求めているのはそういった、至極単純なことであり、またそれが初対面の人間にするべきことではないか。何をそう思い悩む必要があるのか私にはわからない。
しばらく沈黙による重圧を与えてやると、女は居場所がない様子で、手に持った布製の小さなポシェット、ハギレを縫い合わせたようなまたもや許すべからざるセンスのそれを、いじくりまわした。
床に視線を落とし散々もじもじした挙句、やっと口を開く。
「……あの、お店でコーヒーを飲んでいたのですが。いえ、……実はその前に看板と衝突して、壊してしまったのです」
そのたどたどしい言い方は、やはり妊婦の話し口調としては違和感があった。私のこれまで出会った妊婦はみな、幸福そうに頬をつやめかせ、目をらんらんと輝かせ、聞いてもいないことまで話してきたものだった。そのあつかましさは、膨らむ腹と比例して増長していく、というのが私の分析であった。
しかしどうであろう。この女は臨月にもかかわらず、頼りなげで、不安そうである。膨らんだ腹が与える根拠のない自信や、開き直り、あるいは諦めといった感情とは無縁のようであった。
この女のかもしだす雰囲気は、小さな自分に閉じこもったままの、痛々しい少女のようであるのだ。そしてどこか、何事にも不慣れな処女のようでもある。これほど膨らんだ腹を持つ女が、少女のような処女のような印象をあたえるとは、まったく不思議なことであった。
「ほう。看板を」
私は、口の上にたくわえた髭を意識しながら、余裕をもってそう言った。伸ばし放題ではなく、きちんと今朝も時間をかけて手入れした口髭は、私の威厳の源である。
女は私の威厳に気圧された様子で、ぼそぼそと話し続けた。
「レジの方に、こちらで直接相談するように言われて、あの、ノック、したんですが、勝手に入ってしまって申し訳ありません」
「いえいえ、かまいませんよ。まぁ、落ち着いてお掛けになったら」
私は優雅に答えながら、窓際に行き、置いてあった二脚の椅子を軽々と運んで部屋の中央に置いた。木枠にカラシ色のモケットが張られたこの椅子は、大変古いものである。どれくらい古いのか、私にすらわからないほど、古いのである。
女はすすめられるまま腰を下ろした。
私も座り、女と向き合う。近くであらためて見ると、つくりは悪くないが特徴のない顔つきであった。落ち着きなく部屋を見回す目は切れ長で、暗い光をかすかに放つ。薄い唇がかすかに開いた口。目も口も、申し訳なさそうに微笑んでいる。つかみどころがなく、ぼんやりと夢を見ているようだ。
「それで、何のお話でしたか」
「看板です」
「そう、看板でしたね。壊れたとか」
「すみません。自転車でぶつけてしまいました」
「壊れましたか」
「はい。もし・・・・・・必要ならば弁償させていただきますが」
あの看板も、いつ作ったものなのか忘れてしまったほど、古い。今さら弁償してもらうほどのものでもない。
しかし、あの看板が壊れたことで、例のややこしい問題が再発しないとは言い切れない。下にいる連中は、遅かれ早かれ気が付くことだろうし、そうなれば、また始まる可能性は十分にある。
さて、どうしたものか。
この女にその責任を負わせるのは、あまりに哀れな気がしてきた。
「なるほど」
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