帰宅

合評会2025年1月応募作品

浅谷童夏

小説

6,730文字

字数オーバーですみません。2025年1月合評会参加作品。

 ハンドルを握る妻の表情が硬い。生真面目ではあるが、いつもは穏やかな彼女だから、余計に何かただならぬ緊張感が伝わってくる。

 車は直線の道路を走っている。午後の朧な日差しが傾いてきている。道の両側は雑木林や畑、田んぼばかり。平屋か二階建ての建物もぽつりぽつりあるが、どれも無個性で、何だか倉庫のように見える。建物や小屋の壁に貼られたブリキ看板が、薄暗い景色のなか白く、あるいは黄色く浮き上がりながら通り過ぎる。広告の文字は燻み、どれも古びている。
 舗装道路の路面は荒れていて、断続的に小さな振動が伝わってくる。妙に気を張りつめらせての単調なドライブをずっと続けてきて、妻も疲れているかも、と思った。
「ちょっと休むところはないのかな、車を停めて休憩しようよ」と私は言う。
 「急がなきゃ」と妻は答える。
「休んでいたら間に合わなくなるから」
 何に?と思う。それを訊くと妻の機嫌を損ねるのではないかという気がして、私は黙っている。
 私はとにかく忘れっぽいのだ。些細なことから大切な事までしょっちゅう忘れて、妻を怒らせることが多い。そんな時、妻はむやみに叱責の言葉を投げつけてきたりはしない。ただ、しばらく私に口をきいてくれなくなる。軽くて数日、ひどい時は一週間ほど。私たち夫婦は元々どちらもさほど喋る方ではない。だからこそたまに交わされる夫婦の会話は、私にとって空気中の酸素のようなもので、これが途絶えると、私は酸欠で身動きが出来なくなり思考が麻痺し、やがて窒息する。妻に口をきいてもらえなくなること以上の拷問はない。
 前方の信号の無い交差点のところに黒い人影が幾つか見える。四人か五人。いや、ひょっとしたらそれ以上いるようだ。道の脇に立っている彼らは黒っぽい服を着ているのか、文字通り影のようにみえる。そこにただぼんやり佇んでいたいのか、交差点を横断するのかしないのか、彼らの動きは各々ばらばらで目的が感じられず、まるで野生の猿の群れのようだ。
 「危ないな」と私が言い、妻も少しスピードを落とした。ゆらゆら揺れる複数の人影が交差点の中に入りこもうとしている。私たちの車を阻止しようと企んでいるようでもある。
 車を止めたら連中に囲まれて、何かされそうな、そんな嫌な気がした。
 妻も同じことを考えたのだろう。ややスピードを落としながら、彼らの横をすり抜けようと妻がハンドルを切った。
 タイヤが軋む音とともに、軽い衝撃があった。
 車の後方、リアウィンドウ越しに、路上に2人の黒い影が横たわっているのが見える。全身から汗が噴き出してくる。路上の影がどんどん遠ざかる。
 前を見たまま黙っている妻の額にも汗の粒が浮いているが、彼女はそれを拭おうとしない。
 このままだと轢き逃げになる。まずい。止まらないと、という言葉を、しかし私は飲み込む。いつだって妻は正しい判断をする。私より聡明で、意志が強く、絵空事は信じないし、ネット詐欺にも引っかからない。その妻がここで敢えて止まらないという選択をした。ならばその選択に異議を差し挟む前によく考え、理解するべきなのだ。納得できる理由がある筈だ。
 そもそも衝撃はそう大きくはなかった。正面から撥ねたのでもない。車の側面に掠っただけだろう。数分後には彼らは立ち上がり、ぶつぶつ文句を言いながらあそこから歩き去るはずだ。物乞いをしようとしたのかもしれないし、集団当たり屋なのかもしれない。いずれにせよ彼らはしくじったのだ。
 ともかく一刻も早く現場から遠ざかりたい。そう思っているのは私も妻も同じだろう。しかし妻は殊更にスピードを上げるわけでもなく、黙って車を運転し続けている。硬い表情は変わらないが、冷静さは失ってはいないようだ。
 妻の横顔を見て、少し躊躇してから、私は言葉を口にする。
 「さっきは止まらなかったけど、それでよかったのかな」
 妻はふう、と小さく溜息をついたが黙っている。
 「あいつら、わざと車に飛び込んできたよね」と私は付け加えた。
 妻はもう一度溜息をついてから、「だめ」と言う。
 「あれは止まらなくちゃだめだった」
 「……じゃ、戻らないと」
 「もう今戻ったとしてと立派に轢き逃げよ。現場にはもう警察が来ているわ」
 「でも、このまま逃げても駄目でしょ」
 「いや、でも間に合わなくなるから。仕方ないけど、このままいく」
 「間に合わないって、何に?」と私はとうとう訊いてしまい、しまった、と思う。
 「締め切りに決まってるでしょ。あと3時間しかないのに」と彼女は苛立たしげに答える。反射的に私は腕時計を見た。午後5時だった。
 「普通の道はもう間に合わないから、近道を行く」と彼女は決然とした調子で言う。
 一体何の締め切りなのか、我々はどこに行くのか、家にいる子供たちはどうするのか。それに、轢き逃げ事故の通報がなされていたら、目的地に着く前に検問が張られているかもしれない。

2024年12月11日公開

© 2024 浅谷童夏

これはの応募作品です。
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"帰宅"へのコメント 1

  • 投稿者 | 2024-12-23 07:07

    不思議な作品でした。はたして奥さんはいったいなにがやりたかったのか……。すごく奥さんのキャラが立っていたので、もしかしてモデルになった人がいるのかなと思いました

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