帰宅

合評会2025年1月応募作品

浅谷童夏

小説

6,730文字

字数オーバーですみません。2025年1月合評会参加作品。

 どうしてよいのか、わからない。
 いつの間にか車は荒涼とした草原の中を走っている。道の脇には建物の影も形も見えない。前方を見ると、道はかなり先で左右に分かれていて、右は緩やかにカーブして山の端に消えている。しかし左手の道は、ものすごい急角度で真っ直ぐ上っていくのが薄暮の空にシルエットとなって浮かび上がっている。道路標識のようなものはない。スキーのジャンプ台のように反り返る左の道は、車一台がぎりぎり通れるほどの細い道幅で、その道の上部は垂れ込めた灰色の雲の中に消えている。急坂というよりも途中から完全にそそり立っていて、車では絶対に上れないのは一目瞭然だ。あれはもう道と言える代物ではない。幅からみてUターンも不可能だ。見ているだけで鳥肌が立ち、全身が竦む。あの道を行けば、間違いなく途中で失速し、その地点から屋根を下にして真っ逆さまに墜落することになる。
 「左に行くの?」と私。
 「うん」妻はあっさりと答える。
 「あれを?」と私。
 「うん」と妻はまた言って小さく頷く。少し微笑んでいるようにも見える。私は悟る。彼女は腹を括っている。いつも正しい判断をしてきた彼女が、ついさっき犯した決定的な誤り。それを黙って見ていた私も同罪だ。そしてその罪を2人で贖うために、彼女は自分が取るべき正しい行動をこれから選択する。彼女なら確かに、そうするだろうという気がしていた。私は彼女に従う。そうするしかない。そこに迷いは無い。私は妻を愛し、信頼しているのだから。私に他の選択肢は無い。
 胸が苦しくなった。汗ばむ手を握りしめた。死ぬ。45年間だらだらと、しかしそれなりに起伏もありながら続いてきた私の生命は断ち切られる。遠い将来ではなく、あと数分後、いや数十秒後、確実に。
 分かれ道のところに来た。妻は全く躊躇うことなく左の道に入った。草原の中を走る道幅がだんだん狭くなる。妻はアクセルを踏み込んだ。窓の外の草原が飛ぶように流れてゆく。坂に入っても更に加速してゆく。ガタガタと車体が細かく振動し、背中がシートに押し付けられる。斜度がみるみるきつくなる。エンジンが耳をつんざいて咆哮する。
 視界に入るものが前方の路面と、その両側に広がる灰色の空だけになる。
 怖い。
 妻と一緒に逝く。じたばたしないで目を閉じて、ぐっと腹に力を入れる。身体が粉々に砕ける、その瞬間を耐えて乗り越えるのだ。すぐに全てが無になる。そう、一瞬で終わる。
 ああ怖い。やはり怖い。
 あと数十秒で全てが終わる。私は息を吸った。吐いた。あと何回呼吸できるか。
 軋む鋭い音が耳に突き刺さり、前方に投げ出される感覚とともに、一瞬無重力の感覚があり、その後シートベルトで引っ張られて再び背中からシートに押し付けられた。轟音のノイズが消滅し、無音が世界を満たしている。
 自分の呼吸の音が聞こえる。
 濃い灰色の路面と、同じ色をした空が見える。墜落したのではない。妻が急ブレーキを踏んだようだ。
 車は数メートル逆行して停まった。離陸直後の飛行機よりも急な角度で停まっている。
 「戻る」と妻が言った。
 「うん」と私は答えた。口の中が渇いていて声が掠れた。
 坂道を時間をかけて真っ直ぐバックし、道幅が広くなったところでUターンした。来た道を引き返す。行きと同じように、妻は黙って硬い表情でハンドルを握っていた。
 「締め切りは?」と私は訊いた。
 「もういいわ」と妻は呟くように、どこか投げやりにも思える調子で答えた。絶望しているのか、諦めているのか、分からなかった。それ以上はやはり、ここで訊くべきではないだろうと思った。
 事故を起こした現場の交差点まで来た。動悸が昂まり再び背中に汗が流れたが、人影はなく、何の痕跡も残っていなかった。
 帰り着いたときには日が暮れていた。家は灯りがついていて、中から人の声が聞こえてくる。警察?と一瞬どきりとするが、玄関を開けて中に入ってみると、子供が叫んでいる甲高い声が聞こえる。うちの子ではない。もっと小さい子のようだ。大人が笑っているのも聞こえた。人が集まって何かお祝いをやっている様子だ。馴染みのない親戚やら、普段は挨拶程度の交流しかない近所の人やら、大勢の人が座敷の大広間で談笑している。主賓はこの家の主である私たちではない、他の誰かのようだ。うちの子供たちの姿も見えない。内弁慶な彼らは他人の群れに怖気づいて子供部屋にいるのだろう。ところで私たちの家はこんな豪邸だったか?という疑問がわく。だが、自分の家はここでしかありえないのだから、そうだったんだなと納得するしかない。改めて、で、これは何のお祝いなんだっけ?と思うが、妙に気後れして誰にもそれを訊けないのでわからない。今日はそもそも分からないことばかりだ。妻はどうなのだろう。分かっているのだろうか。その妻は、眉根に皺を寄せ、唇を噛んで、広い玄関ホールの隅に黙って立っている。近寄り難いほどに険しい表情をしている。事故のことで頭が一杯なのだろう。
 彼女と少し離れたところに立っている私も、自分のいる場所から動く気がしない。座敷の方に目を向けると、繋げられたテーブルの上には色んな料理や瓶ビールなどが並べられているが、全く食欲もわかない。
 警察は来るだろうか。事故現場で検証が行われていたような様子はなかった。ひょっとしてばれないんじゃないか、と思う。
 いや、来る。来るに違いない。現場にいて事故に遭わなかった数人は間違いなく通報しているはずだ。それに、荒野の中とはいえ交差点だからカメラがあるかもしれない。途中にNシステムもあるかもしれない。
 座敷の中から小太りで禿頭の男が満面に笑みを浮かべて手招きしている。
 「どうぞ、いらっしゃい」
 私は妻の方を見る。妻もこちらを見て微かに頷いた。
 主催者でも主賓でもないとしても、それでもこの家の主は私だから、宴席に全く顔を出さないという訳にもいかないだろう。どぞ、こちらへ、と男が上座を勧めるのを、いやいや、と手で制して、私は端の方に行き、空いていた席の座布団に腰を降ろした。妻もついてくると思いきや姿が見えない。彼女が宴会が大嫌いだということを思い出した。
 向かいに座っているのは茶髪の女だ。三十歳くらいだろうか。色白で、やけに赤い唇が目立つ。どこか見覚えのある顔だが、誰なのか思い出せない。それに、人と会話を交わす意欲が全くわかない。私は空いている右隣の席に移ろうと腰を浮かしかけたが、もう既にビール瓶の口が、どうぞ、という声と共にこちらに向けて前方から差し出されている。
 「お久しぶり」とその女は言って会釈をした。やはり知り合いのようだ。でもこちらは記憶が全く朧でばつが悪い。私は曖昧に笑顔を作って、軽く会釈を返した。
 「何だか顔色が良くないわ」
 「そう?」
 私は右手にグラスを取って、注がれたビールを受ける。女の注ぐ勢いが強すぎて泡が溢れた。私は慌ててグラスに口をつけるが、シャツとズボンにもこぼしてしまった。
 「ごめんなさい」と女は私に謝り、ハンドバッグからハンカチを取り出し、席を立ってテーブルの端からこちらに回り込んできて私の右側に身を寄せるように座り、胡座をかいている私のシャツとズボンを拭った。
 「いいよ、自分で拭くから」
 私の言葉を無視して、ごめんなさい、と囁くような声で女は再び言い、右手を伸ばして私の股間を拭いた。丸めた形の指先を竿に軽く当て、軽く擦るようにハンカチを動かす。そのために不随意の生理的反応が生じてしまい、私は腰を引いた。
 「自分で拭くから」私は小声で繰り返した。
 「拭かせて」と女は言い、硬化した私の竿をズボンの上からそっと握って、上下に手を動かした。声が出そうになる。
 「大丈夫」と彼女が囁くように言う。何が大丈夫なのか意味が分からない。私は女の手を押さえてその動きを止めた。女の手は驚くほど滑らかで柔らかかった。
 彼女からハンカチを奪うようにして、自分で拭いた後、ハンカチを女に返し、箸を手にして目の前の大皿から鰹の刺身を一切れつまんで口に入れた。それから泡が溢れたせいで飲む前から半分くらいに減ったビールを飲んだ。
 「ひと月前に亡くなったんです。夫が」
 向かいの席に戻った女が真顔で、唐突にそんなことを言う。え、それは、と言ったきり何と言葉を継いでいいのか分からず黙っていると、女は目に垂れた茶髪の前髪を手でかき上げてから、ふふっ、と笑った。
 「嘘。ちゃんと生きてます。今トイレに行ってます。そこ、彼の席なの」
 「あ、ごめん。失礼」
 私は慌てて立ちあがろうとした。女はまた笑った。
 「夫なんていません。嘘です。私、まだ独身です。その席は空いてたから大丈夫」
 女はそう言ってくすくす笑い、空になった私のグラスにビールを注いだ。今度は泡を溢れさせることはなかった。
 「何なんですか?」私は些か憮然として言った。
 「ごめんなさい。冗談が過ぎたかしら。でも、やっぱり、騙されやすいのね」
 女は両の口角を挙げ私の目を上目遣いで見つめながら、揶揄する口調で言った。挑発しているな、と思った。やっぱり、ということは、以前にも私は彼女から騙されたことがあるのだろう。
 「今、変な冗談で笑える気分じゃないんだ」
 「あら、どうしたの?やっぱり具合悪いの?」
 「別に」
 私は首を振った。ついさっき人を轢いて逃げてきたばかりだなどと、どうしてこんな女に話せるだろう。私は女のグラスにビールを注ぎ、烏賊の刺身を一切れつまんだ。
 「悩み事でもあるのなら聞きますよ」女の声が媚を含んでいる。
 「いや、いいから」私は出来るだけ素っ気なく答えた。
 女が何か言いかけたが、私は気がつかないふりをして、ちょっと失礼、と言って女に軽く会釈してから立ち上がった。
 座敷の外に出る。玄関ホールに戻ると妻が同じ場所に立っていた。こちらを一瞥もしないで、遠くを見る目で虚空を凝視している。
 ピンポン、と飛び上がるくらい大きな音で、玄関のチャイムが鳴った。
 お客さんよ、誰か出て、と後ろから誰かの声が聞こえる。
 私はのろのろと靴を履き、玄関を開ける。
 警察官が2人立っている。その後ろの暗がりに、顔を血まみれにした、黒い人影が立っていて、私を指差す。
 「病院に運ばれた方の1人は、たぶんもう助かりませんよ」
 警察官の1人が言う。
 私は警察官の前に歩いてゆき、路上に正座し、頭を地面に擦り付けた。涙が溢れてきた。
 「すみません」
 妻が私の横に靴を脱いで土下座した。私と一緒に、すみません、と何度も繰り返す彼女の声は悲鳴のようだ。あの冷静な妻が、私以上に取り乱している。
 妻と私の謝罪の言葉が妙にシンクロして頭の中に反響し、気持ちが悪くなってきた。私は謝罪よりも、言うべきことを言わねばと思った。
「私が、轢きました」
 顔を上げて私はそう言った。
「違います。私です。轢いたのは」
 横から妻の声が聞こえた。鋭い声だった。見ると、険しい顔で私を睨んでいる。その目には怒りが宿っている。ああ、やはり妻はどこまでも正しい。彼女は私にしばらく口をきかないだろう。もっともこの後、二人で会話できる機会が私たちに与えられるかどうかは分からないが。
 背後の玄関で人々が騒ついている。子供の嬌声と、それに続いて皿だかコップだかの割れる音と、母親らしき女性の怒声が聞こえた。私は顔を上げて後ろを見た。さっきの茶髪の女が、玄関からこちらを凝視している。あ、この女……と一瞬記憶を呼び覚ましかけたが、それはすぐに警官の声にかき消された。
「あんた、女のことなんか気にしている場合か」
 横で土下座していた妻が顔を上げて、私に冷たい目を向ける。
 玄関の光が闇の中に浮かび上がる。腕時計を見ると午後8時だった。
 ふと、子供たちはどうなるのか、と思った。しかし、いや、そもそも、妻と私との間に子供たちはいたのだろうか、とおぼつかない気もする。

2024年12月11日公開

© 2024 浅谷童夏

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"帰宅"へのコメント 1

  • 投稿者 | 2024-12-23 07:07

    不思議な作品でした。はたして奥さんはいったいなにがやりたかったのか……。すごく奥さんのキャラが立っていたので、もしかしてモデルになった人がいるのかなと思いました

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