逃げ馬トーマス

合評会2024年7月応募作品、合評会優勝作品

大猫

小説

4,511文字

処女や童貞ってなんだろう?
そんなものにこだわるのは人間だけかと思っていたら、そうでもないようでした。
画像はゴールドシップ。芦毛馬は可愛い。
2024年7月合評会参加作品。

日高山脈の麓、スマートファームは遅い春を迎えていた。満開の菜の花畑の向こうに桜並木が見え、牧場では青草が萌え始めている。陽の光は温かく風は柔らかく、馬にも人にも一番気持ちの良いシーズンがやってきた。

そんな優しい春の朝、厩舎でスマートドラゴンが死んでいた。高齢馬でもなく持病もなく、昨夜は飼葉をきちんと食べていた。死因は不明だが、牧場主の鈴木克明始め、スタッフには思い当たるふしがあった。
「ストレスだろう。可哀想なことをした」

スマートドラゴンは試情馬、いわゆる当て馬であった。種付けにやってきた牝馬に近づいて発情を促し、交配可能な状態に持っていく役割の馬である。受け入れOKと判断されると引き離され、待機していた種牡馬が牝馬と交尾する。前戯をして盛り上がっていざ結ばれる、という時に強制交代させられるのだ。

ここスマートファームは小さな生産牧場だが、人気の種牡馬スマートエルビスがおり、種付けシーズンには周辺の牧場から連日のように牝馬がやってくる。ドラゴンは毎日発情した牝馬の相手をし毎日強制退場を食らっていた。

 

それはともかくどうしたらいい。もうすぐフェアルビーが来る!

花崎牧場のフェアルビーは昨シーズン引退したばかりの名牝だ。女馬ながらGⅠレースを二度も勝っている。繁殖牝馬入りした初回の交配で、スマートエルビスを選んでもらった。優れた仔馬が生まれる可能性が高い組み合わせだと言うのだ。願ってもないことだと鈴木は大喜びした。ぜひともこの交配を成立させたい。それなのに当て馬がいない。

牧場にいるもう一頭の当て馬は、昨日から帯広方面の牧場に出張中だ。牝馬の発情状況を確認してほしいと依頼があったので気軽に引き受けたのだが、この大事な日にバックアップを用意しておかなかったとは、と臍を噛んだ。
「フェアルビーは気性が荒かったよな。いきなりエルビスに会わしちゃまずい」

と、鈴木がうめく。
「トーマスは使えないかな? 大人しいから当て馬にしようって言ってたじゃないか」

誰かが言うと鈴木はそれだ! と叫んだ。温和でどんな馬とも仲良しになるスマートトーマス、あいつならやってくれるかもしれない。と相談をしている最中に、フェアルビーを乗せたトラックが到着した。

繁殖場にフェアルビーが入り、段取りをつけている間に、鈴木は自らスマートトーマスを連れてきた。小柄で芦毛の毛並みは真っ白だ。札幌競馬で八年ほど走っていたが一着は数えるほどしかない。

「いいか、トーマス、いつもの通りにニコニコ笑って近づいていけ。怖がらなくていい。お前は強い男だ。童貞だってばれないように堂々としてるんだぞ。向こうも処女だ。優しくしてやるんだぞ」

と、何度も馬の白い横顔に言い聞かせた。馬は小首をかしげて聞いており、分かったように何度も首を縦に振った。繁殖場の反対側では黒い馬体のスマートエルビスが待機している。

 

準備OKの合図があって、スマートトーマスは繁殖場へ入った。人間にも分かるほどの強烈なフェロモンの匂いに、トーマスの股間がすぐにビンビンになる。そこでゴム製のエプロンを装着させて、下腹をすっぽりと覆い隠す。万が一にも交配させないための配慮である。

近づいてくるトーマスを見て牝馬が跳ね上がる。それを巧みに躱して、鼻先をそっと近づけ、首筋をすり合わせ、ゆっくりと牝馬をなだめにかかった。次第に牝馬がおとなしくなる。
「いいぞ、トーマス!」

見守る鈴木やスタッフは祈るような思いだ。

牝馬が藁の上にジャーッと尿をする。その匂いを嗅いだトーマスは上下の歯をむき出しにして笑うように首を上下に振った。牝馬の尻尾が上がっている。申し分ない発情状態だ。
「トーマス、すごいぞ、期待以上だ」

鈴木はエルビスを連れてくるよう合図をした。

トーマスはせわしなく前脚を上げて牝馬の上に乗った。が、エプロンが邪魔で結合できない。それっとばかりにスタッフが手綱を引いて引き離そうとするが、トーマスは両前脚で牝馬にしがみついて離れない。エルビスが入ってくる。これはまずいと四人がかりで手綱を引くが離れない。ハミを食わせた口元が血の泡を吹いている。

と、牝馬フェアルビーの身体が大きくうねり、一声いななくと後ろ脚を思い切り蹴り上げた。蹄鉄を付けた両足がトーマスの下腹にクリーンヒットし、人間もろとも後ろへ吹っ飛ばされた。すかさずエルビスが牝馬の尻へ寄って来る。

後ろ向けにひっくり返ったトーマスは悲しげにいなないている。蹴られた衝撃でエプロンが外れて、局所がヒクヒクと動いて血がダラダラ流れていた。弾みで射精したようで、下腹が血と精液でべっとり濡れている。苦しむトーマスの真横でエルビスが悠々と牝馬に乗った。

トーマスは陰茎断裂と後脚骨折でその場で薬殺された。

 

二か月後、フェアルビーの受胎が確認された。花崎牧場側から種付け料三百万円に添えて、当て馬を死なせた詫び代として百万円ほどが送金された。翌春、元気な牝の仔馬が誕生したと聞いて、スマートファームの人々もホッと胸を撫でおろしたのだった。

騒ぎは更にその一年後に起こった。

仔馬を買った馬主から、この馬は芦毛だとクレームが入ったのだ。
父のスマートエルビスは青毛、母のフェアルビーは黒鹿毛。この組み合わせからは芦毛は生まれない。A型とO型の両親からB型の子供が生まれないようなものだ。芦毛は成長するにつれて馬体が白く変わるので仔馬の頃には気づきにくく、花崎牧場では黒鹿毛と思っていた。

そこで遺伝子検査をしてみたら仔馬は99.9%の確率でスマートトーマスの子だと結論が出た。

スマートファームの人々も花崎牧場の人々も混乱で頭を抱えた。あの日、確かにスマートエルビスとフェアルビーが交配をしたのをその場にいた全員が見ている。不受胎だというのなら分かるが、なぜトーマスの子を受胎することになるのか。

獣医学の専門家などに話を聞いたりして出た結論は、あの日、フェアルビーに蹴られた弾みで、トーマスが射精した精液が、ゴムのエプロンの隙間を縫って飛び散り、フェアルビーの陰部にも付着した。その直後のエルビスとの交配により、トーマスの精子も一緒に胎内に送られた。エルビスが放った数十億個の精子の大群の中を、一番先に泳ぎ切り、フェアルビーの卵子に到達した、であった。

そんなことがあるのかと呆れ果てつつ、善後策を話し合った。馬主はスマートエルビス産駒でないならば要らないと言う。あらためて競りに出すにしても、当て馬の子など欲しがる人はいない。
「うちが買い取ります」

と、鈴木が言った。
「あんな形で死んだトーマスがあんまり哀れだと思っていました。あれの忘れ形見ならうちで育ててやりたい。幸い牝馬だから将来繁殖に使っても良いし、大人しいなら乗馬クラブで使ってもらえるかもしれないし」

それならば、と話が決まりかけたところで、思いがけぬ方面からオファーが入った。元プロ野球選手の笹本幸治投手からオーナーになりたいとの申し出があったのだ。
「感動しました。完全アウェイの環境で何十億の競争を勝ち抜いて受胎したとは凄すぎます。ワシも現役時代はリリーフエースとして敵の追撃を逃げに逃げた男ですよって、他人事とも思えませんのや。一つ面倒見させてもらいます」

 

仔馬はスマートペガサスと名付けられた。母はGⅠ馬だから中央競馬で走らせるのだと笹本は主張した。父馬に似て小柄で大人しくて臆病で、大して見込みはなさそうに思われていたのだが、成長するにつれてなかなかの素質があることが分かってきた。
「牝馬で身体は小さいのに脚が長くて柔らかく、ストライドは男馬と遜色ない。その上ピッチも速い。他の馬が怖いらしく、何がなんでも前に行こうとするんです」

鈴木の言葉に喜んだ笹本は、早速一流の調教師に委託した。

二歳の新馬戦、スマートペガサスはゲートから出て馬群に紛れた瞬間、恐怖で脚が止まって最下位だった。気を取り直して挑んだ未勝利戦では大外枠で他の馬から遠かったことが幸いして、ぶっちぎりの一位。

とにかく他の馬と群れて走ることができない。先頭を突っ走るか最後尾をのろのろ着いてゆくかのどちらかで、パドックでも馬場でも他の馬から距離を取らないとパニックを起こす。
「まさか精子の頃に逃げ切った記憶が残っているわけでもあるまいに」

鈴木らが冗談を言い合っている頃、ペガサスの経歴と走りっぷりを知った有名ジョッキーの尾崎が騎乗を申し出た。
「絵にかいたような逃げ馬です。こういう馬に乗ってみたかった」

臆病で警戒心が強いペガサスも、尾崎には心を開いてよく懐いた。それからその潜在力が大いに発揮され、連戦連勝して桜花賞の出走権を得た。GⅠレースに出場とあって、スマートファームもオーナーの笹本も大喜びしたのだが、桜花賞ではコースを大きく逸脱して最下位。

 

その後の成績は極端から極端を行き来した。

三歳、ダービーに出走権を得て並みいる男馬を振り切って堂々の一着。圧倒的人気で年末の有馬記念に選出されたが最下位。
四歳 春の天皇賞でボロ負けするも秋の天皇賞を制し、有馬記念で人気ナンバーワンで選出。しかしまたまたボロ負け。
五歳で春の天皇賞一着。そしてその年の有馬記念、三年連続ナンバーワンで選出された。その頃には、
「白いきまぐれ女王」
「最強にして最弱の牝馬」
などの異名を持っていた。

 

競走馬最高の栄冠である有馬記念。過去二度とも敗れているが今度こそとペガサス陣営は満を持して臨んだ。このレースが終わったら引退して繁殖牝馬となりスマートファームへ帰る予定だ。

この日のペガサスは、いつもの神経質な様子は見せず、きりりと落ち着いていた。パドックではゆったりと首を上下に振って歩き、人間の話声がすると小首をかしげて耳を傾けるような仕草を見せた。

今回は一枠一番を引いた。馬群が怖いペガサスはスタートダッシュで一気にトップに躍り出てそのまま突っ走る。十万人の大歓声の中、白い馬体が疾駆する。一馬身、二馬身、どんどん差が開いて行く。第二コーナーの坂を駆け下りて第三コーナーを回ったが差は縮まっていない。そして第四コーナーへ。他の馬が猛追する中、ペガサスは最後の力を振り絞る……

と、突然ペガサスが失速した。尾崎がどんなにけしかけてもスピードを落とすばかりで、最後にはゴール前の柵に凭れるように立ち止まった。結果はもちろん最下位。

周囲の人々はまたいつもの気まぐれかと思ったのだが、スマートペガサスは左後脚を粉砕骨折していた。馬は足を骨折して生きて行くことはできない。一時間後、安楽死処分となった。

 

「足が痛かったのに、ジョッキーを振り落とさずに、お前、偉かったな」

スマートファームへ帰ってきたペガサスの遺骨に鈴木が掛けた言葉である。尾崎が号泣し、笹本が花を捧げる。
「お父ちゃんのそばに行くか」

牧場の奥の林の中に設けられたトーマスの小さな墓の隣に、ペガサスの立派な墓が建てられた。父娘の写真を並べて飾って見たら、顔つきも毛色も姿かたちもそっくりで、どちらがどちらかスタッフでも見分けがつかなかったという。

2024年7月14日公開

© 2024 大猫

これはの応募作品です。
他の作品ともどもレビューお願いします。

この作品のタグ

著者

この作者の他の作品

この作者の人気作

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


4.3 (4件の評価)

破滅チャートとは

"逃げ馬トーマス"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2024-07-25 20:40

    この発想はなかったです。お題にしっくり来ています……。
    昔小学生の時に北海道で馬の交尾写真のテレホンカードが売っていたのを見たのを思い出します。あの姿は当て馬で良い感じに温まった後の姿だったのかしらん。人間で考えたらなかなか非人道的、いや、非馬道的な制度ですね。
    マキバオーに出てきそうな熱いエピソードでした。父の無念を晴らしておくれ!
    ただ、読み落としていたら申し訳ないのですが、最後、なぜ骨折してしまったのか分からなかったです。

  • 投稿者 | 2024-07-26 18:18

    娘は天国でお父さんと一緒に並んで走っているのでしょうか。読んでいて涙ぐみました。素晴らしいです(自分が出したふざけた題材ですが)

  • 投稿者 | 2024-07-26 20:04

    一読して魅力的な作品だと思いました。馬の繁殖の舞台裏の描写には、リアリティと説得力を感じます。物語展開にも隙がなく、最後まで惹きつけられながら読みました。トーマスとスマートペガサスの親子が辿る数奇な運命、悲劇的な最期。今回のようなお題から、このような心打つ作品を生み出された筆力に脱帽しました。

  • 投稿者 | 2024-07-29 04:30

    泣いた。
    今回のテーマで、動物の話が読めるとは思わなかったですし、泣かされるとも思わなかったので、あれです。びっくりしました。うわあって思いました。もし競馬やってたら、競馬場に行くでしょうね。で、うおおおってなってるでしょうね。馬が走ってるのを見て。で、すかんぴんになってるでしょうね。だからよかったです。競馬やってなくて。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る