我が名は回人三十一面相。「怪人」ではない。「回人」である。
逆さ言葉の回文にハマってしまい、回文作りにうつつを抜かし、人生の時間をほぼ回文三昧に生きた結果、「回人」という妖怪に変化してしまった者である。
「三十一面相」を名乗るに至った経緯については以下を参照されたい。
今宵はあの日、天の啓示により回文の道に踏み込んだ学生時代のことを語ろうと思う。
あの春の日、なぜか私の耳には、
「たい焼きやいた」
「なんだ、可愛い若旦那!」
「爺さん、四歳児!」
「痛い! また頭痛い!」
「茄子味噌よ! よそ見すな!」
「うどん、どう?」
「うどん? めんどう!」
などのミニ回文がやたらと飛び込んできた。街の人の会話が聞こえただけなのだが、今から思えばあれが天啓の始まりだったのだろう。
新学期。春爛漫のキャンパスは賑やかだった。私は授業の選択をしようとシラバスを教務課に取りに行った。
「素晴らしいシラバス!」
と、思わず叫ばずにはいられないほど、内容充実の講義がいっぱいだった。中でも目を引いたのが、
「写実的理論の進行路線」講師:有馬マリア
「ありままりあ」という先生の名前も素敵だが、何といってもこの講義タイトル。むむっと視線を左から右へ、そして右から左へ。こっ、これは!
「写実的理論の進行路線/線路行進の論理的実写」
なんと見事なシンメトリー。漢字の美しさをこれほど堪能できる文字列をいまだかつて見たことがない。どっちから読んでも何の講義だかよく分からないところがまたいい。早速受講を申し込んだ。
教務棟を一歩出ると大きな立て看板が目に入った。
「本日権利実現!」
学生寮にエアコンを付けろという要求が叶えられたようだ。これから暑くなるし良いことではないか、と思っていると……ややっ!
「本日権利実現/現実利権日本」
ああっ、なんてことだ。きっと表面的には要求が通ったように見せかけて、裏では学校と業者が癒着して甘い汁を吸ったに違いない。後で聞いたら案の定、学生寮に到着したトラックに満載されていたのは扇風機だったという。
それにしても、漢字で回文が成立するとはなかなか面白いものだ。
「会社中心の心中社会」とかどうだろう。「演出途中で中途出演」とか。
でも、漢字は字面は良いけど固い気がする。音律の良さは和文回文の方がいいかなあ、などと考えていたら、どうしたことか、次々とちび回文が頭に湧いてくる。
「漢文して新文化」
「新回文全部位漢詩」
「漢文テロ、露天文化」
「魯迅信じ、詩人信じろ」
「うそぶく孫文、即武装」
「作りの戦、戦乱乱世、作為の理屈」
「怒りを生かせ、革命めくか、世界を理解」
うう、これじゃ絶滅危惧種の左翼学生みたいだ。陽気の中を歩き回って疲れてしまったのかもしれない。少々早いが今日は帰って休むことにしよう。
帰宅して、湯船にお湯を張って入浴剤を入れる。今日の入浴剤は「有馬温泉」か。いいね、炭酸泉だから疲れがよく取れるだろう。そう言えばさっきの先生の名前は有馬マリアだったなあ。
ザブン! と風呂に入る。じゅわー、と炭酸が弾ける音。ああ、至福。堪らない。思わず叫ぶ。
「有馬炭酸温泉泉音、サンタマリア!」
風呂から出てテレビを点けると、古い映画を放映している。タイトルは『夜の薔薇が咲いた』。
将校姿の軍人とカクテルドレスの美しい女性が抱擁している。切迫した音楽。涙に暮れる女性の顔。敵の襲撃が迫っているようだ。
軍人は女性を馬に乗せてやって先に逃がしてやり、武器弾薬を確かめてから、一頭だけ残った騾馬に乗ろうとしている。フッと皮肉な笑みを浮かべて一言。
「大佐が騾馬乗るよ」
大佐なのに弱い者に馬を譲り、自分は騾馬とはさすがは軍人だ、と感心していたら、おや?
「大佐が騾馬乗るよ/夜の薔薇が咲いた」
おっと、テレビまでが回文を叫び出したではないか。
慌ててチャンネルを変えると大相撲中継だった。行司が力士の四股名を告げている。
「なはのかわにわかのはな~!」
ややっ、またまた回文か! と思ったら、四股名を間違えて呼んでいる。力士の魂とも言うべき四股名を間違えるとはなんと間抜けな行司だろう。実況中継のアナウンサーも間違いを指摘する。
「今、『那覇の川』に『若乃花』と呼びましたが、正しくは『若の川』に『那覇乃花』ですね」
そう、二人とも私の贔屓の力士だ。場内の声援がすごい。「わかのかわ!」「なはのはな!」「わかのかわ!」「なはのはな!」よりによって推し同士が対戦とは。どっちにも勝ってほしい、と思っているうちに時間いっぱいで、勝負が始まった。鋭い立合い、頭と頭がぶつかるガーンという音がして、二人はがっぷり四つに組み合った。引きつけ合い、投げを打ち合っての大熱戦だ。次の瞬間、鮮やかな上手出し投げが決まり、那覇乃花が勝った。
と、若の川が土俵にうずくまったまま動かない。どこか怪我をしたようだ。可哀想に若の川は車椅子で運ばれていった。大事にならなければ良いのだが。那覇乃花は凛々しい顔付きで勝ち名乗りを受け花道を去って行った。呼び出しが土俵に一掴みの塩を撒く。怪我人が出るとこうして塩で土俵を清めるのである。
自然と回文が口から出てくる。
力士のけがで塩清め 見目好き推し出がけの仕切り
(りきしのけがでしおきよめみめよきおしでがけのしきり)
これはいかん、酒でも飲んで早く寝よう。貰い物の吟醸酒を冷蔵庫から取り出して小さな猪口でちびちびと飲む。隣の家の桜が満開で、花びらがひらひら、ひらひらと私の部屋にまで舞い落ちてくる。良い夜だ。テレビは消して、ラジオを聴くことにした。三味線のつま弾く音色。細く甲高い声。清元だろうか。たまにはこういうのも良い。桜散る春の夕暮れ、しみじみと聴く清元。なんとも風雅ではないか。
よき謡 酒の友にと 今宵酔い 夜毎に元の 今朝いた浮世
(よきうたいさけのともにとこよいよいよことにもとのけさいたうきよ)
……なんだか回文だったような気がする。いや、きっと気のせいだろう。さて、次の曲が始まる。ゆったり聴くとしよう。
大和川
夜弾きし琵琶 寝盃
酒飲みし仲 佳き月夜
悲しみの今朝 傷重ね
侘しき昼よ 我が苫屋
やまとがわ
よるひきしびわねさかずき
さけのみしなかよきつきよ
かなしみのけさきずかさね
わびしきひるよわがとまや
これはいったいどうしたことか。世界中で回文が回っている。ぐるぐる、ぐるぐる、私の頭も回っている。きっと酒のせいだ。酒を飲み過ぎたのだろう。いや、こういう時こそ酒だ。酒を飲んで何もかも忘れてしまおう。
翌朝、二日酔いと胃痛に苦しむこととなった。痛みの薬すぐ飲みたい。
たまに飲む酒が旨くて、結局一升瓶を空けてしまった。胃潰瘍の気があるのになんというバカ者か。それもこれも世界に溢れる回文のせいなのだ。
相変わらず桜の花びらが飛んできて、まぶたや鼻の穴にくっついてうっとおしいことこの上ない。昨夜はあんなに美しかったのに、今は邪魔者でしかない。
すると頭についっと浮かんできたのは、
胃潰瘍 つい飲み越しさ たまさかさ また差し込みの 胃痛よいかい?
(いかいようついのみこしさたまさかさまたさしこみのいつうよいかい)
そして回文短歌に続いて、俳句まで勝手にひねり出てきたのである。
酒無体 桜の落差 痛む今朝
(さけむたいさくらのらくさいたむけさ)
私は観念した。
残念だが仕方がない。どうやら回文の神、いや魔神に憑りつかれてしまったようだ。
残念観念年間捻挫
いや、別に捻挫なんかしていないし。
新年捻挫、残念年始
ああもう、どうでもいい、回文が止まらない。
いかんかい?
いかん? 回文全部、いかんかい?
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 12:40
読むうちに脳内がひたすらぐるぐる回ってしまいました……。回文は奥が深い( ‘ω’)
曾根崎十三 投稿者 | 2024-05-24 22:38
またもや技術賞ですね!
回文だらけでくるくる回されました。技巧の凝らされたのより一周回ってシンプルなのが落ち着きます。良い流れでした。漢字の回文も私は好きです! 意味不明だけどすんなり入ってきます。いかんかい?
何だかんだ言っていかんかい?が一番好きですね。形がシンメトリーなってる文章とか、ダジャレしかない文章も見てみたいです。いかんかい?
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-05-25 09:50
漢字の回文もおつなものですね。後半に出てきた「大和川」の回文、情景が思い浮かんで来て雅で素敵でした。桜の季節は私も毎日「酒無体 桜の落差 痛む今朝」です笑
今野和人 投稿者 | 2024-05-25 10:09
回文とは、かくも狂気に隣接する世界なんですね!
回人は一種の強迫症を患ってると思うのですが、特異な才能なので治すのが大変そうです。
すさまじい技術に目眩がしました。
深山 投稿者 | 2024-05-26 21:17
わあネットでたまに出会う才能を無駄遣いしてる人だ!と思いました。いやもちろん無駄ではないのですが、ここまでの言語センスと教養を用いて笑わせてくるなんて…
回文をやる人って(回文をやる人?)常に耳に入る言葉全ての反対を考えていそうで生活に支障をきたさないのだろうかと心配になります。
今回読んで、個人的には文字列のシンメトリーに興味が湧いてしまって…生活に支障をきたさないように気をつけたいです。
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-05-26 22:45
技能賞は千秋楽を待たずして確実ですね…!
毎度の感心してしまいます。自分には「ミニ回文」すらずいぶん長い回文思いつくなレベルなので。
那覇乃花、そのうちホントにそんな力士生まれそうですよね、湘南乃海関もいるし、沖縄なら美ノ海関が頑張ってますし。
河野沢雉 投稿者 | 2024-05-27 10:33
いつもながらよくもこれだけの回文を思いつくものだなと感心します。
気付かないだけで、世の中には案外回文が溢れているのではないかと錯覚してしまいます。
退会したユーザー ゲスト | 2024-05-27 18:13
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Juan.B 編集者 | 2024-05-27 20:10
回文。回文。回文。
回る、往復する、ということは中心なりあるということ。上手い……。
小林TKG 投稿者 | 2024-07-22 01:23
一作目を読んだ時、本当に震えたんです。マジかと思って。こんな事が出来る人がいるんだと思って。震えました。もらしました。その時の事を思い出しました。泡とか吹きました。