ポストアポカリプスの子守歌

合評会2024年5月応募作品

曾根崎十三

小説

4,024文字

世界の中心で愛を叫びます。やっぱり愛でしょ。ひよこのひよこっこはひよこのこ。みんな、お母さんから生まれてきたよ。最近は男の子もプリキュアになれるらしいですね。
アイキャッチはイラストAC(https://www.ac-illust.com/)から。

「最寄り駅が始発駅だから、最終的にどんなに混雑していても俺は座ることができた。駅が進むに連れてどんどん人が増えていく。俺はスマホも見ないでぼーっと前を見ている。そうするといつも目の前の人間のちょうど臍のあたりに目が行くわけだ。臍っていうのは人間のちょうど真ん中だろ。塊魂ってゲーム知ってる? 知ってるわけないか。あれみたいな。臍を軸に人間を回すと良い感じに回るんだよ。もちろん本当に回すわけじゃない。回すにはスペースが足りないからな。満員電車だから。頭ん中でぐるぐるぶん回してたわけ。爺さんも婆さんもリーマンもOLも。重ねればいける。子供も大人も関係なく。ぐるぐるぐるぐる。イカれた時計みたいにぐるぐる。でも時計の針って真ん中を軸にはしていないよな。というか臍ってそもそもど真ん中とは限らないもんだ。その人の背格好にもよるし。まぁでもおおおよそ真ん中だ。帰りの電車では座れないから、回せない。行きの電車だけだ。行きも帰りも乗客は皆疲れた顔をしている。何なら行きの方がげんなりとした顔をしている。帰りの方がまだどこか満たされているような、幸せそうな顔をしている。ところが行きときたら、どいつもこいつもぐったりとしている。爽やかな朝だっていうのに、日の光に顔をしかめている。そんな時だ。あの女が俺の目の前に立ったんだ。『おなかに赤ちゃんがいます』のキーホルダーが目の前で揺れた。たしかランチトートバッグに付いてたかな。俺は目の前に妊婦が立っていても席を譲るような奴じゃないよ。俺は目の前の人間たちの臍のあたりを見つめてはぶん回していたので、老人やら妊婦やらにはガン飛ばされてたかもしれないな。寝るわけでもないなら譲れよって。帰りはよくそういう目で訴えている奴を見かけた。でも俺は人間を回すのに夢中だったから気にならなかった。ただぐるぐる回した。妊婦はうまく回せない。重心を考えるとどこが中心になるのか。やはり腹だろうか。初めて見かけた時あの女の腹はあまり大きくなかったが、次に前に立った時は随分と大きくなっていた。なので、俺の隣に座っていた奴が席を譲ってしまった。目の前からあの女がいなくなっても、俺はどうやって頭の中の妊婦を回そうか考えた。どうしても頭の方が早く下がってしまう。重心が偏っている。妊婦は重い。ただのデブとは異なり歪でアンバランスな形をしている。デブは回せるが妊婦は回せない。倫理的な問題ではない。妊婦というのはミステリアスな存在だ。男は絶対に妊婦になれないからこそ思うのだろう。妊婦の腹の中には何が詰まっているのか。赤ん坊がいる。妊婦を回すには赤ん坊の中心も探さなければ。そこが重なる部分で回すのだ。そうすれば、秒針と時針のように回る。俺は赤ん坊が羨ましかった。お腹の中に還りたい。それは皆そうだろう。皆そう思っている。だってすべての生き物が母の腹の中から出てきたのだから。家にいるのに家に帰りたいと言ってしまうあの瞬間、誰しも母の腹に還りたいのだ。言語も知らず自分で何も考えなくて済む。温かい液体の中で浮遊しているだけで良い。文字通り母の肉体に包まれている。目が開いていないので何も見なくて良い。耳もまだ聞こえない。ただもがいている。温かい闇の中で存在しているだけのすなわちそれは愛。俺はその女が好きだった。愛を持っているからだ。初めて見た時からその女は妊婦だった。そう思っていたが女からしてみるとそうではなかったらしく、隣に座った時に俺の肩を突いてきた。最初は当たっただけだろうと無視を決め込んだが『無視すんなバーカ』と女が話しかけてきたので気づいた。どうやら妊婦は高校時代のクラスメイトだったらしい。あまり顔を覚えるのは得意ではなかったので確信を持てなかったが、向こうは俺の名前を知っていたので、それはそうなのだろう。初めて会った人ではなかった。女は俺が目の前にいる時から気付いていたらしいが、上から見下ろして話しかけるのは気が引けたらしい。つまり、俺が妊婦を目の前にしても席を譲らない人間であることは既に認知されていたようだったが、女はおかまいなしに、しつこくLINEを交換しようとしてきたので、俺は仕方なくそれに応じた。応じなければ女が延々と話しかけて人間を回すのが捗らないのだ。そういえば高校時代も俺は窓の外の鳥を数えるのに熱中していたのに桁数が変わる直前あたりにいつも話しかけてくる何とも間の悪いクラスメイトがいた。そいつか。こいつは。多分。顔は覚えてないけどそうなのだろう。それから女は何かと俺の前に姿を現すようになった。俺の前に立っている時は俺は女をどうやって回そうか考えることに集中していた。上手く回らない。なんせ二人いっぺんに回すわけで。風車のように乗客が一斉に回る中、女だけはぐらぐらとしていて、上手く回らなかった。皆各々の速度でぐるぐる回る中、妊婦はぐらぐらふらふらしている。妊婦なので。女は頻繁に俺にLINEをよこしてきたので、俺は挨拶かスタンプ一つの返事を送った。本来であれば無視するところだが、俺は妊婦が好きだ。宝物を入れる宝箱だ。妊婦なので好きだ、と思った。妊婦は他者を腹に秘匿する存在だから。その女が好きなのではなく妊婦が好きだ。妊婦だったら誰でも良い。しかし、この女は俺のことがおそらく好きなのだろう。しつこいので。両想いである。いつだったか、全員一通り回し終わった後に、駅のホームで女が立っているのが見えた。よたよたと歩いていて愛くるしいと思った。かわいいは可哀そうなのだ。纏足のよちよち歩きも愛くるしいとされていた。それと似ている。愛苦しい存在。腹がいっぱいで苦しいのだ。腹に愛をいっぱい詰められて、七匹の子ヤギに出てくるオオカミのように腹の重みで井戸に落ちてしまう。ぽちゃん。その姿を想像する。妊婦というのは嗜虐心が煽られる存在だ。落とした物を拾うのも一苦労だ。それは車椅子も同じだろう。しかし車椅子の障碍者は回すことができる。車椅子ごと回せば良いので。妊婦は回せない。『こんなこと言っても君は嫌いにならないんだね』と、女はよく書いた。よく言った。高校時代に似たような行動をとってきたクラスメイトの女子も同じことを言っていた。その時は興味がないので嫌いにもならないだけだった。もともと好きじゃないので。ただ、その女子は俺に粘着していた。大学進学で自然と疎遠になったような覚えだ。妊婦になって再び現れた時も女は同じことを言ってたのでやはり同一人物なのだろう。いつも『私は死んだ方が良い』だの『全部私が悪いんです。ごめんなさい』だの『妊婦なのに駄目だよね。こんなの』とかSNSのプロフ欄に推測含む病名を羅列しているメンヘラが書いてそうな肥溜めみたいなクソメッセージが俺に送られてきた。生きとし生ける者はすべて母に還りたい。母なる大地とか、母なる海とか言うのもそれだろう。人間は大体大地か海に埋葬される。最近は宇宙葬もある。宇宙も母だろうか。母だろう。俺は女を受け止めていたわけではない。俺は受け止めてほしいので。帰りたい。でも女は俺が否定しないのが良いらしい。無関心でも否定しないのが優しいと感じるのだという。死にたいと言っているメンヘラは死なない、とよく言うし、俺も思っていた。しかも妊婦だ。生命の塊だ。愛の塊だ。それが死ぬわけがない。考えてみれば妊婦はただの入れ物なのだ。餃子の皮。卵の殻。でも、考えてみれば妊婦は回せないけど赤ん坊は回せるし親子連れも回せる。ばらばらに回すか一緒に回すか。その違いだけだ。誰もが帰りたい家。それが妊婦。妊婦から皆やってきた。妊婦は世界だ。世界の縮図なのだ。そうやってずっと思っていた。いつか孵化したら。孵化したらあの女は妊婦ではなくなる。俺は妊婦が好きなので、あの女がどんなに面倒くさくても嫌いにならない。回すこともできない。女が妊婦ではなくなったら俺はあの女を回すのだろうか。ずっと疑問だった。いずれ妊婦からは赤ん坊は生まれてくる。だからいずれ答えはわかる。そう思っていた。しかし、結局わからないままだった。そうだ。あの女はあの日、なぜか俺の職場の最寄り駅に現れた。帰り道で出会ったのは初めてだった。女はいつにもましてよたよたと歩いていた。俺を探していたのかもしれない。しかし、俺を見つけられていなかった。滝のように汗をかいていた。産気づいているのだろうか、と思った。お腹は相当大きくなっていた。誰も女の異常に気付いていなかった。特急電車がホームへやってくる。この駅には止まらない電車だった。そこからはあっという間だった。声をあげる間もなかった。女はホームから落ちた。身を投げたようにも見えた。パッカーンだよ。そんな上手いこといくかよ、ってレベルで。もう地獄絵図だった。人から産まれた人太郎状態だった。阿鼻叫喚の駅構内の中、俺は赤ん坊がうねうねと動いているのに気付いた。線路に飛び降りて肉の塊から赤ん坊を抱きあげて、走った。犯罪者になった気持ちだったな。犯罪者なんだけど。それは血に塗れた愛そのものだった。本当は次は俺の番だと言って女の腹の中にもぐりこみでもしたかったが、腹は腹と呼べるような状態ではなかったし、回す価値もないものに成り下がってしまっていた。腕の中の子が蠢いたのがわかった。生きている。声をあげた。愛が泣き叫んだ。か細い声だった。世界の中心から離れたから叫ぶのか。でも、思うのだ。こうして腕の中で安心した様子で眠る子供は俺の腕を胎内と同じように思っているのかもしれない。男は妊婦になれないと思っていた。でも実際にはそれは思い込みだった」

と、男は囁いた。囁き叫んだ。囁いていたが、それは男の精一杯の叫びだった。やっと泣き止んだ目の前の小さな赤子を起こさないように。背中をとんとんと叩きながら歩き回ってやっている。真夜中に男は叫ぶ。小さな声で。

2024年5月17日公開

© 2024 曾根崎十三

これはの応募作品です。
他の作品ともどもレビューお願いします。

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


3.9 (9件の評価)

破滅チャートとは

"ポストアポカリプスの子守歌"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2024-05-24 12:47

    「臍を軸に人間を回すと良い感じに回るんだよ」の言葉があまりに意味不明で吹きましたが、クライマックスの「男の出産」の壮絶さに慄いてしまいました。ラストシーンを読んだとき、映画『羅生門』で赤ん坊を抱く志村喬の姿が脳裏をよぎりました。

  • 投稿者 | 2024-05-24 13:09

    満員電車に乗ってしまうと何考えているかわからない人が目の前にいる事実に怖くなるのですが、こんな異様なこと考えていたらと思うとおかしいやら気持ち悪いやらでなんにせよ健康によくないですね。
    腕の中に胎内を見出すくだりは感動的で、男を応援したくなりました!

    • 投稿者 | 2024-05-25 17:53

      ラストにかけてのドライブ感にうなりました。妊婦に軸がないのは、言われてみたらそうかと思いました。存在自体が過剰で、ある種の矛盾があり、とりあえず神聖視してしまうけど、ちょっとスピリチュアルな存在すぎてちょっと引いてる…という自分の本音を突かれた感じがします

  • 投稿者 | 2024-05-24 15:40

    臍にまつわる視点と話の「回し」方に脱帽しました。いや、自分も主人公サイド側の視点だから、そういう視点をなんなら神秘的にミステリアスに感じるのかもしれませんが。塊魂って、ああた。

  • 投稿者 | 2024-05-24 19:30

    「妊婦というのは嗜虐心が煽られる」あたりが個人的にすごくぞわぞわしました。普段見ないふりをしている感情なのかもしれません。
    「それは血に塗れた愛そのものだった。本当は次は俺の番だと言って女の腹の中にもぐりこみでもしたかったが」という部分にぐっときて、直後、「腹は腹と呼べるような状態ではなかったし、」でひえっとなり、「回す価値もないものに成り下がってしまっていた。」となおも回すこと考えているヤバさに慄きました。そして生と死も愛と死も、表裏一体だと思いました。

  • 投稿者 | 2024-05-24 19:48

    どんな人生を歩んできたら電車に乗ってる人間を全員回す妄想に行きつくのか気になりました。名古屋妊婦切り裂き殺人事件の犯人も母親のお腹と繋がっていたかったから電話機を入れたのかもしれませんね。それと改行なく疾走する主人公の語り口が好きです。面白かったです。

  • 投稿者 | 2024-05-24 23:45

    「人間を回す妄想をする」性癖に妙に納得感を得られました。
    回す=軸がある=中心=胎児にとっては母親の腹の中が世界=世界の中心=母親と胎児の二人まとめると軸がずれる=回せない の論理構成が素晴らしい。

  • 投稿者 | 2024-05-25 12:25

    なんで最初に鍵括弧がついているんだろう、と思ったら、最後に閉じがあったのですね。本当に長い長い叫び声でした。

    例によって、「愛を叫ぶ」と言われても額面通りには受け取らないもんね、と思いながら読みました。赤ん坊であることと母であることが等価になる世界観、「愛」には違いないのでしょうが、母あるいは家や宇宙とその中で憩う赤ん坊あるいは子供に限定されているのがたまらないです。

    そんな「俺」が赤ん坊を憩わせる「母」の存在にすり替わるラスト。
    なるほど「愛」になりきっていますね。お見事です。

  • ゲスト | 2024-05-27 18:14

    退会したユーザーのコメントは表示されません。
    ※管理者と投稿者には表示されます。

  • 編集者 | 2024-05-27 19:38

    毎度すさまじい人間改造精神。
    世界を爆発させる身がつらいかね、人間を人間ではなくする身がつらいかね。
    お題と「」の接続の活かし方に唸る。

  • 投稿者 | 2024-07-21 22:41

    間の悪いクラスメイトがいた。そいつか。こいつは。
    の所が好きです。リズム感かな。スキー。満員電車で人を回すって言うのも、何でもない感じで書いていて、とても好きです。回すのが普通の人が回せない人に出会うのも好きです。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る