見知らぬ少年にクマのマスコットを引っ張られてよろめいた。危うく車道に飛び出してしまうところだった。仕方ない、と彼は思った。少年がマスコットを興味深そうにじろじろと見ていることに気付いていた。仮に車に轢かれて死んだとしても、マスコットをエコバッグの内側に入れずに外側にぶら下げている自分が悪いのだ。むしろせめて昏睡状態になれば良かったと思う。
「すみません」
少年の手を引いていた父親らしき男が怯えた様子で恐る恐る謝罪の言葉を伝えた。
「いえ、こちらが不注意だったので。子供がしたことですから」
当たり障りのない言葉をかける。幸い彼は少しよろけただけで転ぶこともなかった。びくびくしてる男の隣で少年は悪びれる様子もなく、早く行こうとつまらなさそうに手を引いている。男は少年に連れられるようにして去っていった。こういう時は少年にしっかり謝罪させるべきではないか、とも彼は思ったが、すぐに忘れることにした。そもそも子供がしたことですから、と言ったのは自分だ。嫌ならその場で少年を怒鳴れば良いのだ。そうしなかったのだから、大して嫌ではなかった。何なら彼は死んでも良かったのだから。
帰宅後、買い物が詰まったエコバッグを床に置く。クマのマスコットがだらしなく床に垂れる。このマスコットは背中にエコバッグが収納できるようになっている。彼の趣味ではない。まだ明るいので電気は点けない。薄暗い部屋の中で彼は牛乳や野菜や肉を冷蔵庫に詰める。冷蔵庫の明かりが彼の手元を照らす。最初のうちは一人でも「ただいま」と呼び掛けていたが、意味がないと理解してからは言わなくなった。休日、誰とも話さないと声の出し方を忘れる。月曜日に出勤した時、上手く声が出ない。二日間は短いようで長い。大量に料理をして作り置きをしても、結局は後々の料理する時間を失う。彼は時間を持て余している。定額サービスの映画を見たり、本を読んだりしても飽きてしまう。趣味と呼ばれそうな物を順に一人で試してみたが、どれもつまらなく、時を忘れられるようなものは何一つとしてなかった。平日も帰宅後の時間は苦痛だった。なので、彼は必要最低限の食事を摂る以外は眠っていた。夢も見ないほどに彼はぐっすりと眠る。たまに夢を見たという感覚が残っていることもあるが、内容は思い出せない。それは彼をますますつまらなくさせていた。眠りすぎると今度は眠れなくなってくるので、仕方なく不定期に溜まった家事をする。もともとあまり長時間睡眠は必要な体質ではない。休みの日でも仕事と同じ時間に目が覚めてしまう。損している、ということはない。
薄暗い部屋のままテレビを点けた。ニュースが流れる。戦争、無差別殺人、児童虐待、高齢ドライバーの死亡事故、と暗いニュースが次々とひけらかされては消える。今日も人が死んでいる。人が死ぬのは当たり前のことなのだ。何もかもに終わりがある。この暇にも。SNSを開く。SNSもつまらなかった。彼は指を滑らせていく。先程のニュースが話題になっていた。皆悲しんだり怒ったりと見本のような反応をしていた。見知らぬアカウントが「これは神の試練だ」と書いていた。神。彼は神を信じることなどとうに諦めていた。神やらあの世やら天国やらというのは所詮は人間が考えたまやかしに過ぎない。死んでも死んだ人間には会えない。夢も走馬灯も人間の脳が記憶から生み出した幻覚だ。夢すら見ることができない、ひょっとすると見ているのかもしれないが覚えることすらできない彼からすると、それが真っ当な感覚だった。子供の頃、オカルト話に周囲が花を咲かせていた時も彼は下らないと思っていた。彼はほとんどの超常現象とは無縁だった。
しかし、彼は小学生の時に一度だけ臨死体験をしたことがあった。海で溺れた時に、色が飛びそうなほどに白く明るい空間で祖母と話した記憶があった。祖母は前の年に交通事故で死んでいた。死んだ祖母は目の前で微笑んで彼の手を握った。臨死体験に出てきた祖母の手は温かく、大きくなったと頭を撫でてくれたり、ちゃんと帰りなさいだとか、そういういかにも臨死体験らしい台詞を述べた。それが当時の記憶から生み出せる臨死体験の限界だったのだろう、と彼は考えていた。臨死体験は幻覚の一種である。しかし、あの臨死体験は夢と異なり、はっきりと彼の記憶に残っていた。次があればもう少しひねりのある臨死体験ができるかもしれない。しかし、彼は薄っぺらい人生を歩むくだらない人間だ。小学生に比べれは幾分か出来が良くなるかもしれないが、ろくなものが生まれないことなど分かり切っていった。それでも、彼は二回目の臨死体験を望んでいた。
彼にはかつて妻がいた。あまり良い伴侶ではなかった。共働きだが家賃だけ折半で何となく生活費を出し合うという生活スタイルで合意したものの、給料も労働時間も変わらないのに明らかに彼の方が多く出していた。電気代も水道代もガス代も妻は一文たりとも出さない。トイレットペーパーやシャンプーなどの日用品が切れかけていることに気付いて買いに行くのも、金を払うのも彼だった。たまに料理を作っても、食器や調理器具を洗って片付けるのはいつも彼の仕事だった。その上、妻はそそっかしく、物をよく紛失するので、腕時計やらアクセサリーをその辺りに放置しているのを定位置に戻して、ないないとパニックになっている彼女に教えてやるのも彼の仕事だった。妻といるといつも忙しかった。たまに不満をぶつけると、一緒に出掛けた時に食事を奢ったり、費用を多めに出してくれることはあったが、次の日には元通りだった。妻は交際時から多趣味で何にでも興味を持つ人だったので、趣味に出費が多かった。動画や音楽の定額サービスも妻の希望で入ったものだ。彼は妻の趣味に合わせていたので、休日はいつも二人での予定があった。食品サンプルを作ったり、ダイビングをしたり、陶芸をしたり、登山をしたり、家でドラマや映画を見たり、小説や漫画を回し読みしたり。妻の趣味に付き合うのは悪くなかった。興味のないことでも実際に取り組んでいくうちに楽しめたり、技術が身についたりするものなのだと知った。妻はとても饒舌に話しながら、犬や幼児のように彼についてまわった。彼がトイレに行く時もトイレの前までついてきてとりとめのない話をしていた。
テレビを見ながら彼はドアノブにバンダナを巻いて首をひっかけてみた。いつも上手くいかない。バンダナがずれたりほどけたりしてしまう。死に方など調べればいくらでも出てくる。調べなくても分かる。死にたいわけではない。彼はあの世ががあると思っていない。彼は死にかけたいだけなのだ。垂れ流されたテレビでスタジオのタレントが話している。
「そんなことで人を殺そうと思ってしまうんですかね」
「いやいや、そんなことって言うけどね、彼にとってはおおごとだったんだよ」
そんなこと。他人から見れば小さな理由でも当事者からすれば大きな理由なのだ、と言う人がいる。しかし、そもそも大それた意味が必要なのだろうか。人を殺すのに、人が死ぬのに、おおごとが必要なのだろうか。彼の祖父母も、両親も、妻も、死んだ。彼の周りには当然のように死が溢れている。身近な家族は皆死んでいなくなった。皆死因は違う。しかし、結果的に彼らは誰一人としていない。死因など些末なことにすぎない。死はおおごとではない。そもそも大きな理由があれば人を殺しても良いのだろうか。ひどく虐げられて恨みの末に殺したとしても、誰でも良いから何となく殺したとしても、結果は同じ死だ。人を殺した、その人は死んだ、その事実には変わりない。皆死ぬのには理由を求めるのに、生きるのには理由を求めない。それが昔は不思議だった。死に意味を求めるのなら、生にも意味を見出すべきだ。皆こんなにも平気な顔をしているのは、きっと既に見出しているからだ、とかつて彼は早合点していた。彼は自分だけが取り残されているような心地で生きていた。それが彼には不可解で苦痛だった。
「生きるのに意味が必要?」
と、かつて妻が言った。
「意味なんてなくって良いじゃん。別にさ。皆そんな考えてないって」
彼は苦痛から解放された。皆考えていなかったのだ。大それた意味もなく生きていても良いのなら、死もまた同じなのだ。人の生き死に大それた意味などない。仮に彼が死にかけようとしてうっかり死んでしまったとしても、それは大したことではない。
日が傾いてきた。そろそろ洗濯物を取り込む時間だ。彼は二階のベランダに上がって洗濯物を取り込む。一人分の洗濯物を抱えて階段を下りる。当たり前だが妻がいた頃は二人分あった。二人分以上あったかもしれない。妻は朝も夜もシャワーを浴びて毎回新しいバスタオルを使う綺麗好きだったので、洗濯物を溜めると干すのが大変だった。洗濯をするのも妻よりも彼の方が多かった。それに妻はだらしがないので、長袖シャツの腕の部分を伸ばさずに干して、取り込んだ時にまだ湿っていることが頻繁にあった。靴下も干し忘れて洗濯機の底に取り残されていた。妻はおおざっぱなので、干し忘れた洗濯物を洗っているから大丈夫だ、とそのまま収納しようとするので毎回彼が止めなければならなかった。
不意に彼の視界が横転した。浮遊感と共に階段が目の前に迫ってくる。足を踏み外したのだ。ああ、死ぬかもしれないな、と彼は思った。死にかけたかった。別に死んでも良かった。目の前が白くなっていく。徐々にあの異様に眩しすぎる世界が見えてきた。念願の光景。彼は白飛びした空間にぽつん、と立っていた。超音波と重低音が入り混じったような奇妙な音がする。死んだのか。遠くで笑い声が反響している。誰の声だろう。妻の声ではないような気がした。妻の声。どんな声だったろうか。遠くの方に人影が見える。目を凝らしてみても誰だか分からない。人影ですらないのかもしれない。蜃気楼のようなそれは、うねうねと蠢いていた。妻はどこにも見当たらなかった。
気が付くと彼は無様に横たわっていた。体のあちこちが痛むが、抱えた洗濯物の束が彼の下敷きとなってクッションの役割を果たしていた。間抜けだ。彼は思わず笑ってしまった。所詮臨死体験というのは脳が記憶から生み出した幻覚に過ぎないのだ。分かっていたことではないか。もう妻が死んで四年経つ。嫌でも記憶は風化していく。
「そんなに早起きしたら損だよ」
はっとして起き上がった。体はちゃんと動くようだった。ひょこっと妻が顔を出して彼に言っている気がした。気がしただけだった。いつもやたらと早起きしてしまう彼に、妻は眠気眼をこすりながら言っていった。もう少しゆっくり臨死体験をしていたら、妻に辿り着けていたのだろうか。家の中には彼以外誰もいない。扉を一枚隔てただけなのに、テレビの音が遠く感じた。
彼は幻を見ることも夢を見ることも許されなかった。
彼にはかつて妻がいた。あまり良い伴侶ではなかった。悲しい映画を見ている時も、ペットのハムスターが死んだ時も、いつも隣で妻が先に号泣しているので、彼は冷静にならざるを得なかった。そうやって泣かれると、こみあげてきた涙が喉元で、すん、と止まってしまうのだ。妻があんまりにも泣くものだから彼は妻のためにティッシュとハンカチを用意しやらなければならなかった。
今、妻がいなくて本当に良かったと思った。
鹿嶌安路 投稿者 | 2024-03-19 16:37
ツイッターフォローありがとうございました!5分で読めると思ったらテーマ全然軽くなくてかなり時間かけて読みました。
――神。彼は神を信じることなどとうに諦めていた。神やらあの世やら天国やらというのは所詮は人間が考えたまやかしに過ぎない。死んでも死んだ人間には会えない。
やっぱり「臨死体験」っていうテーマ観が与えられていると宗教観が湧き上がってきますよね。私自身はクリスチャニティなので「たとえ死んだ人間に会えなくても、蘇った人間なら会える」と信じています!
私たちが「復活」を信じる代わりなのかは分かりませんが、主人公は「死にかける」ことを希求します。でも、死にかけようとしてうっかり死んでしまったら、それは「大したこと」だと思います。虚構次元の出来事は現実次元と相互作用をしていて、それがどういった形で影響し合うかは、まだまだ明らかになっていませんが、やっぱり命のテーマは現実次元の影響を受けてしまうのではないかと思いました。
大猫 投稿者 | 2024-03-23 18:44
「愛」などと一言も語らずに、愛を語っていますね。死に意味はなく生にも意味などなく、それでも失った人への思いだけは続く。臨死体験を望むのは、死にたいからではなく死んだ人との繋がりを見たいから、腹落ちする文章でした。締めの一文がとても良いです。
松尾模糊 編集者 | 2024-03-24 13:38
冒頭から自分の感情を抑えつつ、自分の責任にして無理やり納得させている彼の性格が描かれ、後半で妻との生活で自分がずっと我慢していたと語りつつ、実はそれもなければ寂しいものだと臨死をもって体感する、よく完成された掌編だと思います。
深山 投稿者 | 2024-03-24 14:50
テーマに最も直球で挑んだ作品だったと思います。大きなテーマに「クマのマスコット」の視点から入る冒頭が面白いです。
あの世があるとは思っていない彼が、臨死体験でなら死んでしまった妻に会えると望む。希死観念の強い冷めた男一人の話なのも、妻のダメっぷりがリアルなのも、だからこそ最後が良かったです。直接言及せずに愛を感じさせてうまいです。
小林TKG 投稿者 | 2024-03-25 12:46
今回二回目の臨死体験というテーマだったので、自分の話を書いた後にヒアアフターを見たんですけども、それっぽかった。面白かったです。これで中盤に誰か手を差し伸べてくれた人が出てきてたとしてたら、もう完全にヒアアフターかもしれない。ヒアアフターの登場人物の一人としてDVDのジャケットにのるなり、エンドクレジットで早めに名前が出るかもしれない。
それからあと、涙活した方がいいと思いました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-03-25 14:32
リードに書いてあった「愛ある作品」には騙されないぞと読みましたが、本当に愛のある作品で、私もこんな話が書ければなと思いました。男も女も少しだらしないところに惹かれることってありますよね。度を超すと憎しみに変わったりするけど笑
退会したユーザー ゲスト | 2024-03-25 18:33
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Juan.B 編集者 | 2024-03-25 19:04
突然シリアルキラーが出たりするんじゃないかと思ってたが、愛のある作品でした、ありがとうございました
主人公の行動も、あるいはテレビのタレントの言動でも、臨死というのは当人だけでなく周囲も死に臨むということなのだと再確認。