「江戸川サイクリング」其の壱

消雲堂

小説

2,056文字

昨年亡くなった義父のことを書いたものです。この頃は心も身体もまだ元気でした。

1.

稔は痛む膝をかばいながらゆっくりと歩いた。稔が住むマンションの部屋は11階にあり、室外の共有の廊下からはビルの間に富士山が見えた。「ふう…」稔は、その日本一の山をいまいましく一瞥しながらため息をついた。稔は75歳になったばかりだ。

稔の膝が痛むのは軟骨が磨り減って神経に触るからだ。最近は膝が痛いだけではない。自分では気づいていないが最近では軽い認知症のような症状があった。随分前のことは良く覚えているのだが、最近のことはすぐに忘れてしまう。さっき食べたものが何だったのかさえ忘れてしまうほどだ。それを一緒に住んでいる娘の佐知子に指摘され始めていた。佐知子は元来がさつで自分本位な性格で、自分の父親が認知症の初期症状であることなど気づかないし、そうだと知っても父親の世話をつきっきりで看なくてはならない面倒な認知症であることなど、彼女は受け入れなかっただろう。佐知子は今年で50歳を越えるが結婚したこともなかった。孤独感が佐知子の心を既に壊していた。

少し足を引きずりながらエレベーターに乗ってマンションの階下にある駐輪場に向かった、エレベーターを降りると同じマンションの住民が無愛想な表情で数人乗り込んで行った。「ちっ」稔は満足に挨拶もできないこのマンションの住民が嫌いだった。

「満足に挨拶もできないくせに気取りやがって…」と呟きながら駐輪場の重い金属製のドアを押し開けた。駐輪場は暗く、目も見えなくなってきた最近は自分の自転車を見分けることも難しくなっていた。やはり少し迷ってからようやく自分の自転車を見つけるとポケットから小さな鍵を取り出して鍵を外した。

稔は娘と二人暮らしだ。娘は夜遅く帰ってくるので父親の世話ができない。休日には父に構わず外出した。稔はずうっと一人暮らしのような生活だった。娘が仕事に行っている昼間は暇をもてあましていたが、元来人付き合いの下手な彼は誰に会うでもなく、半日を室内でテレビを見て過ごし、夕方にはマンションの前にある大型スーパーに行って、夕飯にするための値引きされて安くなった弁当を買ってくる。それが日課になっていた。稔は数年前に死んだ妻の代わりはできなかった。整理好きな彼にとって掃除洗濯はお手のものだが、料理だけは作れなかった。

娘の分の弁当を用意していても、彼女が日をまたいでから帰宅するときには、「外で食べてきたから」という一言だけで、娘のための弁当は、稔のその日の昼食になった。最近では「そんな余りものの弁当なんて食べないよ」と娘にはっきりと言われるようになってしまった。稔は孤独だった。

稔は自転車を駐輪場から押し出すと少しよろめきながら、マンション横を通る広い産業道路を渡る横断歩道で信号が青になるのを待った。産業道路を山積の荷を運ぶ大型トラックが休む間もないほどに行き交っていた。「車か…」稔は10年前に妻に死なれてから体のあちこちが痛み出して車の運転ができなくなってしまった。稔は定年を迎え、当時K市の市会議員を勤めていた妻の送り迎えに車を運転していたし、運転にはそれなりの自信があった。運転できなくなったことが、さらに稔の孤独感を増幅させた。

結婚して千葉に暮らす長女の祥子の亭主が、その車を売り払って新車を購入する頭金として、月々の支払いも稔が貸してやった。家族の中に車を持っている者がいれば、残った家族全員で仲良くドライブするのも夢ではなかった。しかし、その小さな夢さえも叶うことはなかった。義理の息子は稔の期待に応えてはくれなかった。車の購入費用は完納してくれたものの、祥子夫婦は自分たちの楽しみだけに車を使い、稔を省みることがなかったのだった。叶わぬ夢を抱いた自分が惨めだった。自分の中には、車に対する愛着が眠っているのだった。「金の問題ではなく車を運転できないのが辛いのだ」と稔は落胆した。

産業道路の信号が青に変わった。稔はまたよろめきながら自転車を押して横断歩道を渡った。振り返ると住んでいるマンションが巨大な岸壁のように聳えていた。

ここに移り住んで来た頃はまだ幸福だった。妻も生きていたし、車もあった。娘たちも身近に感じた。マンションの近くには妻の腹違いの母や半分同じ血が通った兄妹も暮らしていて、互いに仲良く行き来していた。マンションの購入に当たって兄弟たちは喜んで大金まで貸してくれた。

ところが妻の病気が不治の病で余命いくばくもないと判明すると、その幸福は脆くも崩れた。腹違いの兄弟たちは手の平を返して「自分たちが貸した金を返してほしい」と病床まで詰め寄って妻を、自分たちの姉を責めた。妻はそれからしばらくして死んだ。後に残ったものに幸福という2文字は見当たらなかった。

稔はひとりぼっちだった。娘さえも自分の気持ちを理解してくれなかった。「なんでお前は死んでしまったんだ…」稔は妻の写真を胸に抱えて泣く日が多くなった。

自転車に腰掛けるとマンションを背にして北に向かってハンドルを向けてペダルを踏み出した。稔は自転車で妻の墓まで行くつもりだった。

2015年2月10日公開

© 2015 消雲堂

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