僕はふっと目を覚ました。上を見ると、無機質なオフィスの天井が見えたので、僕は慌てて前を向き、腕のデジタル時計を見た。
……もうそろそろ定時だが、皆残っている。……仕方無い。こういう時一人で帰る様な度胸は僕には無いのだ。
無意識に手をポケットに突っ込む。するとがさりとした感覚があった。中身を取りだしてみると、そこには西八王子駅近くの家の住所があった。
「……これ」
……そうだ。先週会った少女の住所。
彼女は来週ここに来てと言っていた。そして今日は土曜日。……明日がその日。
……どうしようか。彼女の姿をふと思い浮かべてみる。
紺色のセーラーを着て、片手にはティーセットを持ち、僕に優しく微笑みかける彼女。
……ああ。顔もタイプだ。彼女が成人していたら、どれだけ僕は夢中になっていた事だろう。
……だが今僕が彼女に手を出せば、捕まるのは間違いなく僕だ。
彼女とこれ以上関係を深める事は、僕のちっぽけな社会的地位を失う事に等しい。
僕は残っていた冷めた缶珈琲を飲み干し、心に決めた。
……この際彼女にはっきりと「これ以上は付き合えない」と言ってやろう。僕が迷っているならこう言おう。
「犯罪者になるか一人の少女を傷付けるかどちらがいい?」と。
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翌日、いつも通りスーツを着て、西八王子駅に向かった。ここのホームに立つ人々は、皆どこか悲しい目をしている。
先祖の勝手な人間達が作り出した社会というディストピアなシステムに支配されているのだ。
……でも結局そんな事を言ったって、僕も彼らと同じ種類の人間なのだ。
僕もそうして、悲しい目をして西八王子駅を降りた。
彼女の家を、スマホと睨めっこしながら探している。……女子中学生の家を訪問しようとしているという事実が怖くて、僕は周りの人々に目を合わせずにいた。
やがて、彼女の家を見つけた。門に「西馬」と書かれている。
僕は思わずその家の豪勢ぶりを眺めた。僕にとってその家はまるでフランスの宮殿の様に見えた。
そういえば彼女は大企業の一人娘だとか言っていたか。それならこの家も納得出来る。
…….何だか寂しい家だ。人の営みが感じられない。そう、それはまるで古代の遺跡の様な……そんな雰囲気だ。あの中に西馬琴葉というただの女子中学生が一人で住んでいる。まるで孤独な女王の様に。
僕はそっと門の近くのインターホンを押した。 かんこんと優雅な音が鳴る。するとすぐに インターホンのライトが光った。……彼女が僕を見ている。 やがてその光は消えて、僕が見つめる茶色のドアがゆっくりと開いた。そこには、いたいけで夢見がちで自殺志願者の少女……琴葉がいた。
彼女はドアの影にそっと立っている。 そしてこう言った。
「……おにいさん、来てくれたんだ。嬉しいな」
「……ああ」
彼女は私服を着ていた。少し洒落ている。セーラー以外を着ている彼女は、何だか新鮮だった。僕は彼女を注意深く見つめる。
「中、入って。色々と見てもらいたいんだ」
そう言うと、彼女は薄暗い宮殿の中へと入っていく。僕もその後を追った。こうして僕は孤独な宮殿のパーティーへと招かれたのだった。
彼女の家の感想を一言で言うならば、薄暗い。それだけ。
なんと言うか、やはり彼女の家はどこか不気味だ。訪問客を騙す為に作られた高度な罠としか、僕には感じられない。
本当は誰もここで生活していないのではないかという、不気味さ。
やがて彼女がとあるドアの前で立ち止まった。ドアが開かれると、途端光が走り込んで来た。
彼女は部屋の中に颯爽と入っていく。どうやら彼女の自室の様だ。
彼女の部屋を見た時、僕は呼吸が乱れた。その部屋の残酷さに。
彼女の部屋はロココ風の家具で彩られていた。まるで中世の王女の部屋の様。そして本棚には脳科学やら経営学の本やらがずらりと並んでいる。中学生が読む様な漫画等は一つも置いていなかった。
この部屋は彼女の親のエゴで舗装されている。彼女は歳並みに何か好きな本やらゲームやらをする事も許されず、ただ親が求める理想像に近付ける為だけに彼女は自らの個性を削られ続ける。
彼女の親が言う「立派な大人」にさせる為に。
だがどうだろう。そんな部屋の豪勢な椅子に座る彼女は……笑っている。
ただ無邪気に笑っている。この部屋が残酷な牢だという事も知らずに。
……いつになれば、彼女はその事に気付くのだろうか。それが恐ろしくて堪らない。
彼女は僕に話しかけてくる。
「ね、素敵な部屋でしょ?」
純粋な笑顔でそう言ってくる。僕は息を整えて、こう言った。
「……ああ。そうだね」
僕は彼女の部屋に入った。芳香剤の香りがする。僕は大人しく近くにあった椅子に座った。随分座り心地がいい。
僕はジャケットを脱いで、その辺に置いておいた。すると、僕の視界に一つの小さな水槽が目に入った。
僕は思わず立ち上がって、その水槽の中を見た。
中には何か小さな魚が居た。真っ白で、尾の辺りが大きく、まるで布みたいにふわふわと揺れている。何だか着物を着ているみたいだった。
すると、背後から彼女が声をかけてきた。
「……可愛いでしょ、その魚」
「……綺麗だね」
「これね、フルムーンベタだよ。私がペットショップで見て欲しかったから買ってるの。……飼育するの大変なんだよ。いつも水温には気を使わないといけないし……」
彼女の口ぶりは面倒臭そうに聞こえるが、対照的に彼女の顔は笑っていた。
「……でもそんな所が可愛いんだけどね」
僕はしばらくそのベタを眺めていた。
「……満月みたいで、綺麗だ」
「……そう? ボクにはね、天使。天使に見えるよ。ひらひら羽を羽ばたかせて、いつか天国に連れていってくれるんだよ」
僕はふと彼女の方を見た。それを見て、何ともまあ救われたと感じた。彼女はまるで夢見る少女の様にそのベタを見ていた。この部屋における救い。いつか天国へと連れていってくれる存在。それがこのベタなのだろう。
彼女が自殺に走る理由も、なんとなく分かる気がした。彼女は死んで、このベタに連れていってもらうつもりなのだ。彼女の言う天国に。見た事もない天国に、彼女は救いを求めている。その儚さに思わず辟易した。
しばらく二人でベタを眺めていたが、僕の心の中には「天使みたい」という言葉がずっと響いていた。
やがて彼女は家具と同じ様な雰囲気のティーカップに、ダージリンを入れて持ってきた。僕は丁重にそれを飲む。やはり美味かった。
彼女のその動作一つ一つが、まるでどこかのイギリスの女王を想像させた。彼女のそれと、この部屋の雰囲気が悔しい程似合っているのだ。どうせなら、下手くそで下品な動作をして、笑わせて欲しかったのに。
僕はある程度紅茶を飲み終えると、彼女に聞いた。
「……何だか、見事な家だね」
すると彼女は微笑んで言った。
「そうかな? ボクは至って普通の家だと思うけどなあ。……でも良い家だとは思うよ。 特にボクの部屋とか。何だかここにいると……ボクが一国のお嬢様みたいになれるんだよね」
彼女は、自分が既にお嬢様(この場合は社長令嬢だが)である事を知らないのだろう。……そんな令嬢と接している僕……これが彼女の両親にバレたらどうなるのだろう。 いや、やめよう。 何せ彼女の両親は海外旅行中だ。 ない事は考えないようにしよう。
しばらくして、彼女が声をかける。
「……ねえおにいさん。溺れた事ある?」
「いやあ。……無いなあ」
彼女は頬杖をつくと、ゆっくりと話し始める。
「……ボクはね、あるよ。確か小四くらいだったかな。プールに行った時にちょっと足を滑らせちゃってね。それ以来プールには連れていかれなくなっちゃった」
彼女は机を指でなぞりながらそう言う。どこか遠くを見ている様だ。
「……そうなんだね」
「……でも、悲しくなんかないよ。ボク、あの時で最初で最後だったんだけど、溺れる感覚って……凄く気持ち良いんだよ。……なんと言うかね、自分が水と一体になって、消えちゃいそうな感じで……」
僕が一番恐ろしかったのは、彼女が自殺について語る時と、何か夢について語る時、全く同じ表情をしているという事だ。……仮に彼女が自殺と夢を一緒くたにしているとしたら。……そんな事は即刻やめて欲しい。夢を語る事はいい事で。自殺するのは異常なんだと。そう分かって欲しかった。
だが僕は表情を崩さない努力をして、返事をした。
「……そうなんだね」
そして彼女は僕の方をその愛らしい目で真っ直ぐ見つめた。
「……だから、今日はおにいさんにもその感覚、教えてあげようと思って」
その瞬間に、時が止まった感覚がした。それと同時に、猛烈な眠気が襲ってきて、上手く座れなくなってきた。
彼女に何か言おうとするが、上手く声が出せない。
「……睡眠薬、効いてきたかな? ……ごめんね、おにいさん。……でも大丈夫。ボクに委ねて。……大好きだよ、おにいさん」
僕は結局何も言えずに、意識が飛んでしまった。
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