その後、僕と彼女は暗い部屋の中で仮初のティータイムを楽しんでいた。そこから彼女は、彼女自身の事を話し始めたのだ。
西八王子の近くに住んでいる事や、親が海外旅行中で一人暮らしをしている事。出身中学まで彼女は明かしてしまった。
「……おいおい。そんなに簡単に個人情報を明かす物じゃないよ」
「そうかな。……お兄さんになら、ボクどんな事だって知って欲しいんだけどな」
そう言うと、彼女は僕の左腕を抱くと、ゆっくりと頬擦りしてきた。
その姿が僕には、愛くるしい小動物の様な……それとも男を罠に誘う悪女の様な……その姿を愛したいながらも、内心怖かった。
「……ねえ。ボクの話、聞いてくれる?」
僕は彼女に身を任せる。しばらくすると、彼女が口を開いた。
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「西馬琴葉のこれまで」
「胎児よ
胎児よ
何故踊る
母親の心がわかって
おそろしいのか」
ボクが初めて読んだ夢野久作の作品、「ドグラ・マグラ」。その小説はそんな不思議な文章から始まった。その時の感情を今でも覚えている。
胎児よ何故踊る。母親の心がわかっておそろしいのか。
……お腹の中にいて、その人の心が分かって。それが恐ろしい。
そんな感情は……ボクは感じた事が無い。多分皆も。……何故この人は。
こんな感情が分かったのだろう。そんな事を考えていた。
ボクは生まれた時から運が良かった。波に乗る大企業の社長の娘に生まれて、何不自由なく過ごしていた。あれが欲しいと駄々を捏ねてみれば、パパが渋々革の財布を出してくれる。
ピアノやバレエも習わされていた。やっていて楽しかったけど……今役立っている様には思えない。精々合唱の時に伴奏が出来たくらい。
昔からよく色々な所に連れていってもらった。ファミリーレストランなんて行った事もない。外食するなら、基本パパやママが知っている豪華なフランス料理のお店に連れていってもらうから。……パパやママは、ボクが変に馬鹿らしいミニチュアみたいな料理で、喜ぶと思っていたのかな。……正直フランス料理のどこが良いのかなんて分からない。……でもボクがにかっと口の端を上げると、二人共にっこり笑ってくれるから。……ボクは笑う。
でも人っていうのは、違う物を恐れて……無くしたくなる物。人は均一なのが大好き。
確か始まりは、ボクの靴が無くなっていた事。いつも通り帰ろうと思っていたら、ボクの下駄箱に靴が無かった。
それを理解して直ぐに、ボクは焦った。あの靴はパパがボクに買ってくれた……確か何万はする靴だ。無くしたなんて言ったら怒られる。
そう思って、ボクは必死で周りを探した。……後ろから聞こえるくすくすと笑う嫌な声を無視しながら。
結局靴はゴミ箱から見つかった。
ボクは靴を拾い上げ、急いで帰り道を走った。ピアノのレッスンに遅れる。
あれから結局ギリギリで間に合った。息を切らしているボクに、ママは心配そうに尋ねた。
「琴葉ちゃん、どうしたの? そんなに慌てて……」
ボクは爽やかな家の空気を大きく吸い込んで、こう答えた。
「……何でもないよ。ちょっと時間勘違いしてただけ」
……今思えば、ここで素直に言っておけば良かったのかもしれない。……そうすればママは怒って、学校に連絡してくれて。……全てが普通に戻ったのかもしれない。……でもそれを悔やんでももう遅い。
それからどんどんいじめはエスカレートしていった。
黒板消しを頭から落とされて。
ノートに落書きをされて。
教科書を捨てられて。
制服をカッターで切られて。
お弁当を捨てられて。
教室に閉じ込められて。
箒で叩かれて。
バケツで水をかけられて。
ゴキブリを食べさせられて。
リンチされて。
ある日ボクは、屋上に呼び出された。この学校は珍しく屋上を開放している。
いつもボクに意地悪をしてくる女子五人組。その一人がボクに言う。
「……あんたってさあ、なんで生きてるの?」
「……うーん。そうだなあ。強いて言うなら……ボクが生まれるべくして生まれたから、かなあ」
ボクは吹く風と戯れる様に言う。……大丈夫、ボクは強いと暗示しながら。
「……そういうのがイラつくんだよ。……頼むからさ、死んでよ。あんた」
彼女はボクに言った。その声があまりにも冷めきっていて、少し驚いた。……人間って、こんなにも人に対して冷徹になれるんだ、って。
そして、その女子がボクを蹴って、屋上の端へと追いやっていく。途端に、それに合わせる様に応援が始まった。
「死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね!」
ボクに死ねとその声は急かす。運命のイタズラか、ついにボクは屋上の端に乗ってしまった。手すりは無い。
下を見ると、コンクリートの壁が見えた。……ここから落ちたら……現実的な死が訪れる。あの子達が言っているのとは訳が違う。……死。
ひゅうと風が鳴る。その声はボクが死ぬのを望んでいる。
はあはあと息が上がる。……死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
ボクは、死ぬ。ここから落ちたら全てが終わってしまう。
今までの幸せな生活も、綺麗な服も、全部無くなってしまう。
ははは。……死ぬ。
その言葉の意味が、本当に理解出来る。辞書なんかより、よっぽど。
……その時にボクは、恐怖以外の……他の感情を覚えた。
……何だこれ……? これは……何?
……ボクは死ぬのを怖がってる。……その恐怖が……楽しい?
楽しい? ……この一歩を踏み出せば、本当に全てが終わってしまう。
そんな……悪魔的な……スリルが……楽しい。
楽しい! 楽しい!
あーあ!! パパ! ママ! 見てる!?
ボク、死んじゃうよ! パパとママがだーい好きな琴葉ちゃんが、死んじゃうよ!
いいの!? ボクが一歩前進したら、どうなるかな!!
パパとママの名声はぐちゃぐちゃ!! 全部終わっちゃう!!
……ボクが運命を握ってる!! パパとママの運命を握ってる!!
……ああ。ありがとう! ……前はとっても悲しかったけど……おかげで。おかげで!
ボクは……とてつもない快感を見つけたんだ。
……死ぬ事……それは、生への希望だ。
死ぬ事で……生きれるんだ。
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散々その少女は身勝手に話すと、疲れたのかくたりと横たわってしまった。
「……お、おい! 大丈夫かい!」
「……んん、ああ、大丈夫……。ちょっと興奮しちゃった……」
そう言うと、彼女はすっくり起き上がった。窓の方を見ると、日が傾き始めていた。
「……僕、そろそろ帰るよ」
僕はそう言って、部屋から出ようとした。その時だ。彼女が僕の腕をぎゅっと掴んできた。
「待って。……これ」
少女が渡してきたのは、紙だった。そこには住所が書いてある。……見た所、丁度この辺りの様だ。
「これ、ボクの家の住所。……来週、またここに来て」
彼女は上目遣いで訴える。
「……来れなかったら?」
「……ここまでボクが自分の事話したんだよ? ……絶対ここで終わりにはさせないから」
その少女は……低く鈍い声でそう言った。……彼女の本性が……一瞬見えた気がする。
彼女は社長令嬢の美少女なんかではない。……自殺による快感を知っている……サイコパスだ。
「……分かった? 絶対来てね」
「……ああ」
僕はそう小さく言って、腕を解いた。
部屋を出て、西八王子駅に戻る。
……僕はこれからどうすれば良いのだろう。……彼女をどうすれば。
そんな事をベンチで考えていた。
……それでも、今日も通過列車は風を切りながら走っていくのだった。
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