神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。
(日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 マタイによる福音書3章16節〜20節より引用)
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例えば、こう思った事はないだろうか。
急ぎの用事。電車に乗ろうと思ったら、人身事故で遅延している。
恐らく君はこう思うだろう。ああ、全く迷惑だな、と。
そして、誰にも言わないだろうが心の奥で君はこう思うだろう。
「どうせ死ぬなら迷惑かけずに死んでくれ」
これは非道で醜い言葉だ。だが人間というのはそういう物で、こんな言葉が出るのも仕方ない事だ。
……だが君は、その自殺する者については何も考えないだろう。所詮これは、日常的に起こる単純化された情報に過ぎない。
電車の運行に邪魔になる事が発生したから、電車を止めました。だからダイヤグラムの組み直しで遅延が生じています。お客様にはご迷惑をおかけして、申し訳ありません。
それだけの事。そうとしか映されない。
だがどうだろう? 何故その人は時速数十キロで走ってくる数百トンの鉄の塊にぶつかろうと思ったのだろうか。
……それは、彼……。牛坂楠雄も分からなかった。だが彼は後に、その故を知る事になる。
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電車の発車を知らせるベルが鳴る。
「間も無く発車します! 中までお詰めください。電車発車します!」
若い男の駅員が、マイク越しに声をあげる。その声はあからさまに苛立っていた。
僕は、オレンジ色のホームのベンチに座り、ブラック珈琲の缶を開けた。カリンと子気味いい音を鳴らし、良い匂いもへったくれも無い苦い匂いが鼻を刺激する。
僕の目の前には、人の群れが押し寄せる急行電車があった。
今回は一本電車を見送ったが、いずれ僕もあの人の群れの一部とならなくてはいけない。それを思うと憂鬱だ。
あの人波が、社会の歯車で組み立てられる機械なのだとすれば、あの中に入れば僕もその歯車となり、身体がボロボロになるまで役目を果たさなくてはならない。
僕はいつからこうなったのだろうか。……小学校入学辺りからだろうか。
既にその時には僕の将来は決まっていたのだ。
急行電車に乗り、暑苦しいサウナ状態の車内。僕は隙間から見える景色を見ながら、空虚を考えている。
ここで痴漢を疑われたら、大変だ。僕はそっと両手をあげた。
……ああ、いっそここでテロでも起きてしまえば、僕達は解放されるのに。
この電車は爆弾により吹き飛ぶ。ドッカーン!!
助けてくれ! 苦しい!!
そんな人達の中で、僕は大笑いしてやるのだ。
解放された! と。
「・・・・・・君これで何回目だね? いい加減にしたらどうなんだ」
上司の枯れた声が聞こえる。僕はそれに対し無心で頭を下げた。
「本当に君は使えないな。教育した親の顔が見てみたい」
その言葉に腹を立てる程の気力は僕に無い。その言葉は、ただの音の羅列にしか僕にはならないのだ。
説教が終わると、僕はデスクに戻る。会社の自動販売機の珈琲を飲み干した。
パソコンに表示される数字の列。その意味すら今は分からない。
休憩時間になり、僕は外へと逃げる様に飛び出した。
職場に居ると、自分の存在意義が分からなくなる。
確かに仕事は大変だが、周りの人達は僕を気遣ってくれる。それでも僕はそれに答えられない。
木のベンチの上で、無意識にスマホを開く。そして僕はブックマークから掲示板を開いた。
昔からよくネット掲示板は使っていた。たまに世迷言をほざくと、暴言やら優しい言葉やら、何かしら反応が来る。それを読むのが好きだった。
トップページを開く。相変わらず人を馬鹿にするようなタイトルのスレッドが並んでいた。
「今の子って本当に出世欲ない人多いね
だんじり祭に参加してるやつって馬鹿だよね😅」
匿名掲示板は、人の本性が出る。自分の正体が分からない。だからどんな事を言ってもいい。
有名人に対して「タヒね」と言ってみたり、ちょっとでもイラついた相手に向かって暴言を吐いてみたり。
ここでは人は何もかも自由なのだ。
僕は画面をスクロールして、面白そうなスレッドを探す。昔はよく自分でスレッドを立てていたが、今は仕事が忙しく立てられていない。
すると、ある一件のスレッドが僕の目に飛び込んだ。
「自殺同好会入会募集」
目を疑った。そのあまりにも馬鹿馬鹿しい文字列に、僕は心惹かれた。
世の中では、自殺は悪だとされている。そんな自殺を、このスレッドは肯定している。
その背徳感、絶望感、そして希望に僕は飲み込まれそうだ。
そのスレッドを反射的に開く。スレッドを立てた本人のレスで始まる。
「0001 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/24(金) 12:22:34.907
自殺同好会の会員募集をします。
死ぬ事は生への希望です。生きる事は絶望なのです。
自殺同好会は、希望ある死を望む者達が集まる会です。生への絶望を感じた方、是非会にお越しください。共に美しい希望ある死を目指しましょう。」
スレッドのタイトルも然る事ながら、内容も衝撃的だった。
自殺という物騒な言葉と、まるで何か宗教の様に思われる言葉。
希望ある死。死に希望があるというのだろうか。
「0002 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/24(金) 12:22:38.108
中学生かな?お遊びもほどほどにしときな」
「0003 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/24(金) 12:22:39.204
>>2 会長は中学生です。」
「0004 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/24(金) 12:22:40.809
別に自殺ならいくらでもしたらいいけどさ、人様に迷惑かけんなよ」
「0005 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/24(金) 12:23:32.556
>>4善処します(*^^*)」
まともな者ではないとは分かっていた。スレッドを立てた者が中学生かどうかも怪しい。
だけど僕にも、この現実から逃げ出したい、という欲があったのかもしれない。スレッドに書き込む。
「0006 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/24(金) 12:24:23.444
どこで活動していますか?」
「0007 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2024/05/24(金) 12:25:20.518
東京の自殺志願者の名スポットの駅近くで活動しています。青色のセーラーを着ていて、前髪をピンで止めている女子中学生を見つけてください。合言葉は死は希望、です。今週日曜にお待ちしています。」
その言葉を見た後、すぐにサイトを閉じた。
そして、天を仰いでみる。皮肉な程の清々しい青空。
ふうっと息を吸い込むと、青い空気が僕の肺を満たす。ああ、なんて良い日なのだろう。
そして僕はなんて愚かなのだろうか。こんな非現実に、現実を持ち込み、救われようとしているのだ。
何か面白い事が起きて欲しい。そんな馬鹿げた欲望に僕は忠実になってしまった。
あのスレッドの主……自殺同好会はあんな事を言っていたが、僕の経験上、ああいうのは大体の場合、釣りだ。
……まあ、嘘を楽しむのもネットだ。日曜日も、僕には趣味が無いからやる事も無い。
折角だ、行ってやろう。そして、なあんだ釣りか、と笑ってやろう。
あはは。楽しい休日を久々に過ごせそうな気がする。実に愉快。なんて最高な日だ。もう死んでもいい。
僕のクローゼットの中に私服が無い事に気が付いた。いつの間にか捨てていたのだろうか。
それも納得出来る。学生の時まで好きだった事が、急に出来なくなった。外に出なくなった。する事が無くなった。
じゃあ、もう私服も要らないか。と思って、服を捨てたのはいつだっただろう。
僕はいつの間にか、服と一緒に人間の大切な部分すらも捨てていたのだ。
軽くスーツを着崩して、僕は西八王子駅にいた。
スレッドで言っていた、東京の自殺志願者の名スポット。僕はそれを聞いた時にすぐにこの駅の名前が浮かんだ。
それには理由がある。この駅は周りの駅と比べても圧倒的に人身事故が多い。
通過する列車は高速で通る。また発車メロディーは不安定で落ち着きがない。
そんなこんなで、ここと八王子駅は鉄道飛び込み自殺の名所として知られているのだ。
僕はその八王子方面の一番線のホームを歩く。恐らくいるとしたらこの辺りだろう。
この時間帯は人が少ない。目的も何も分からない人達が、構内を歩いている。僕もそれの一部だ。
そんな中で不審に見られない様に、あくまで自然を装いながら僕は例のセーラー服の少女を探す。
仮に僕が女子中学生を探しているとバレれば、いつ警察に突き出されるか分からない。
世間体はあっという間に崩れる。人の積み上げた物なんて、案外脆い物だ。
ある程度探したが、やはりこの時間帯にセーラー服を着た女子なんて居ない。先頭まで行くしかないのか。
ああ、こんな用事の為に先頭まで歩く羽目になるとは。やめて欲しい。
ホームの端はかなり狭い。……すると、その向こうに人が見えた。
「……あれ」
青いセーラー服を着た女の子。
得体の知れない興味につられ、その女の子に近付く。大丈夫だ。不自然じゃない。
前髪を無骨なピンで止めていて、髪はボブくらい。どこか遠くを見つめている。
自殺志願者だという前情報からか、その化粧も何もせず、セーラーも着崩さず、突っ立っている様子は、まるで死化粧を終えた遺体の様な印象だった。
だがその女の子に僕は魅了されてしまったらしい。それはこの歳くらいの女の子にはない落ち着きからか、それとも僕のタイプからか、それは分からない。
すぐ近くに並び、あくまでも電車を待っているだけだと装い、僕は小声で独り言を呟く様に言った。
「死は希望」
……何も反応が無い。……ああ、やはり人違いか。このままでは不味い。急いで逃げるとしよう。
そう思った時。
その女の子が急に僕の腕を掴んだ。力が強い。
「……お、おい」
そして、そのまま駅の出口の方に引っ張られていく。周りの人達が何が起きたという、半ば他人事の様にこちらを見る。
駅を抜け、外に出る。相変わらず少女は何も言わずに僕の手を引く。
その力がやけに強く、手が痺れそうだった。前を向いていて、こちらからその表情は確認出来ない。
やがて、人気の無いビルが見えてきた。全体的に廃れていて鬱蒼としている。人通りも少ない。
その少女は鍵も開けず、そのビルの一室に僕を連れて来た。やがて部屋に辿り着くと、手を離された。急に手を離され、転けそうになった。
ふと手首を見ると、その少女の小さな手の形に跡が出来ていた。
そして僕はその少女を見る。風が入ってくると、彼女のセーラーのスカートが揺れた。
「……君は」
僕はその少女に話しかける。日差しが差し込み、彼女の暗い髪が光り輝く。
「……ようこそ、自殺同好会へ。おにいさん」
振り返ると、その少女はにっこりと微笑んだ。彼女が自殺志願者?
僕にはそうは思えなかった。何故ならその少女はあまりにも幸せそうだったからだ。彼女の動作一つ一つに、僕はたじろぐ。
「一目見て、ボクとおんなじだって思ったよ。ね、おにいさん。ボクとおにいさんって、おんなじでしょ?」
彼女は僕の服を掴み、下から目を輝かせて言ってくる。僕はそれに呻き声しか出ずにいた。
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