今日は京都です
タイトルは日本、という事です
この地、京都というのは平安京ですね
平安京というのは、ヘブライ語ではエルサレムと言います
私どもは、このエルサレムの地でニッポンについて改めて研究してみたいんですが
今日私が展開する話の中で
2つの大きなトピックが出てきます。
そして、その2つの大きな仮説に対して、猛烈に反発する人達がいます
それは、もー、わかっています。
そこには利害関係があるんです。
おそらくその人達は、頭ごなしで、頭ごなしに、総論否定をしてくると思います。
つまり、具体的な反論をするのではなくて、総論的に否定をする
つまり、それしか否定の方法がないような話が今日出てくると思います
ただし私の立場から言わせて頂ければ、今日の話はあくまで仮説です
これが真実かどうかは私にも分かりません。
しかしながら
真実に近い仮説というのは、物事を合理的に説明するんです
今日は私の話が、どれほど皆さんを納得させるか
それ次第によって、この話が真実であるかどうかを、ご自分で判断なさって下さい
それでは始めます。
ニッポンの話をする時に、46億年前にさかのぼる必要があるかどうか
地球が出来たところから話を始めると、たぶん最初の1%ぐらいで終わっちゃいそうだから
そこはちょっとはしおります
で、一応ですね、ニッポン列島が出来て、人間らしきものが住み始めたぐらいから話を始めましょう
という事で、
話の流れから言うと
旧石器時代というのがあるわけですね
旧石器時代は、一応人間らしき人達がニッポン列島に住んでいました
その人達は一体どこから来たのか?
日本で生まれたわけじゃない
どこか、大陸にいて、そこから海を渡って
ないしは凍った海を歩いて、ニッポン列島に渡ってきた。
おそらく、こんな人達であったろうと
なんか、毛むくじゃらで、髭が濃くて
目が大きくってと
いう事を、なんかこの絵を描いた人はイメージしたみたいです
実際おそらくそうだったでしょう
北の寒い所から来た人達なんですが
何故か、北には順応しないような大きな目をしていて
毛が濃くて、鼻が高くてと、いうのがどうやら本当だったようです
さて、そのあと、旧石器時代のあとに来たのが
縄文時代です
旧石器時代と縄文時代の大きな違いは、定住したかどうかです
縄文時代において、ニッポンに住んでいた旧石器時代の人達は
ある程度、定住をして、そこでもって狩猟生活をしたり、一部は栽培もやっています
農業とはいかないけども、例えば、非常に大きくて中身の濃い栗ばっかりを選んで、その栗を植えて
そこから栗の実を得ていたと、いうなことが、ある意味の栽培ですね、といった事もやってました
それが縄文時代という事で
それまでの所謂狩猟生活とはあきらかに違う生活形態です
じゃそれまでの狩猟生活、なにを狩猟していたのか?
これです
マンモスだの、大鹿だの、そういったものが、
この大陸から、凍った海峡を経由して、北海道のほうに象が渡って来た
で、こちらのほう。
対馬海峡の所は、まだまだ海が残っていたけども、
実は凍っていたんで渡れちゃったと。いう時代があったわけですね
その時代に、南からはナウマン象が、北からマンモスが。
日本列島に入ってきた、
で、その象や鹿を追いかけた猟師達が一緒に日本列島に入ってきたんです
これが旧石器時代の人間なんです。
じゃーね、えー、まー、そういった事で。
彼らの主食は象、
象ってのは食べた事ないんで分かんないんだけど、ウマイどうか分からんけど
まー、あの当時は、たぶんウマイもの選んで食ってる場合じゃなかったんだと思う
とにかく、取れるもの取らないともうホントで餓死してしまうような時代だったと思います
で、その当時、石を砕いて、それを武器にしたと
これを槍の先にくっつけたりしたりして、象と戦ったり
落とし穴に象を追い込んで捕まえたり、
もしくは、崖に追い詰めて、崖から落ちる事によって、その動物を狩る
動物の狩りをしたとか、色んな方法があったようです
で、その当時は、移動生活ですので、
定住するための家はなかった
どんな所に住んでいたのかというのを
学者の方が想像して、たぶんこんな所に住んでいたであろうと
いう風に想像されています
僕はこの形をみて、ありゃ、どっかで見たな
これはモンゴルのパオです
なにも変わらない
おそらくモンゴルのパオみたいな所に住んでいたであろうと
で、考えてみれば、モンゴルの民も定住してないんですね
要するに、放牧、羊だのラクダだのと一緒に移動しながら生活をしていた
旧石器時代の人達は象を追いかけて移動をしていた
その違いはあるにしても、なんだか非常に似かよってるなーと
元々彼らはどこから来たかというと
今のバイカル湖の南あたり、っていうとほとんどモンゴルなんですよね
要するに、この辺りにいた、民族が旧石器時代に日本に来ているんではないかと
で、今でもこの辺に似たような人達がいるわけです
こういう状況なわけです
旧石器時代は意外と日本人はあまりよく分かってないんだけども
かなりの所謂文化に近いものがあったであろうと、考えられます
これは、マンモスの子供
マンモスの子供がシベリアの凍土を掘ってみたら出てきたと
このマンモスの仲間がニッポン列島まで来ていたであろうと
どこだっけ
長野に野尻湖があって、そこではナウマン象の骨が見つかったりしてます
実際だからこういった形でニッポンにも旧石器時代があったんだと、いう事が今では定説になっています
この辺は別に知の先生も異説を唱える気は今んとこはありません、将来は分からないけど
という事で
そのあとに来るのが大事ですね縄文時代
縄文時代というのは、紀元前3世紀までの約1万年を示します
非常に長い間、が縄文時代だったんです
実はこの縄文時代っていうのを
イスラエルの歴史で見ると
紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡してるんです
その頃ニッポンは縄文時代だと
向こうはすでにねイスラエル王国があったんだ
こっちは縄文時代
そのくらい差があった
という事は、紀元前722年に滅亡した時に
流民となったイスラエルの民は、
さてどこへ行ったんでしょう?かと
いう話が必ず出てくる
そうするとイスラエルの失われた10支族
の、行方がどうのこうのと、いうとこに結びついてくるんです
確実に結びついてきます、今日のあとほうでお話します
で、縄文時代というのは1万年
そのあとに来るのが弥生時代
今度この弥生時代ってのは、縄文時代とどこが違うかっていうと
これは明白、農耕、農業、
弥生時代に入ったらば、人間は今までそれまでやっていた狩りではなくて
水田を作って、そこに稲を植えて、そこから得たお米でもって生きて行くと
いう全く違う形態に変わったんです
"2009.11.21 京都講演会「日本」(1)"へのコメント 0件