ジャニータ:カイトレス:トゥ・ドリーム・オブ・ラヴ

チュニジアの夜(第15話)

ポン_a_k_a_dm

小説

4,345文字

作品集『チュニジアの夜』第15話

会社を辞め、あてのない日々を過ごす男、カワサキ。
援助交際を行う女子高生、吉井早苗。
二人は出会い、援助交際デリバリーヘルスを始める。
次第に怪しい気配が漂い、暴力により血と涙が流され、謎に翻弄される。

――空にはたくさんの星が瞬いているが、チュニジアの夜に輝く星こそ、砂漠で導いてくれることを賢者しか理解していない――

ジョン・ヘンドリックス チュニジアの夜

週に一回、彼らのマンションにみかじめ料と帳簿を届け続けた。知能指数が低い律儀な働き蟻のように。

僕の手元には、ろくでもない会社勤めで得られる、わずかな給料程度の金額しか残らなくなった。

 

右の頬骨と左のあばらに入ったひびが完治した。アリマさんの四十九日法要が終わり、遺骨が埋葬されたとヨシイさんから聞いた。アリマさんが眠る墓所の場所と一緒に。

そのとき初めて知ったが、アリマさんの母親はすでに亡くなっていた。アリマさんの母親は生まれ故郷の京都府宇治市の墓所に眠っていて、同じ場所にアリマさんも埋葬されたということだった。

 

一日だけ仕事を休みにし、アリマさんが眠る墓所に行くことにした。名古屋駅から東海道新幹線に乗り、京都駅を目指した。

新幹線の座席に座り、シートを倒した。ホットコーヒーを飲みながら、サンドウィッチを食べた。ホットコーヒーの苦みは薄く、サンドウィッチは冷たくべたついていた。

食事を終えて窓の外の景色を眺めていると、すぐに京都駅に着いた。京都駅でJR奈良線に乗り換えた。陽光に照らされた草木の緑が車窓から、遠くに見えて艶やかだった。二十分ほど電車に乗って宇治駅に到着した。

 

ヨシイさんから聞いた墓所まではタクシーで十五分くらいの距離だった。歩けば四十分以上かかり、地図を見る限り山道のようだ。少し悩んだが、時間をかけて歩いて行くことにした。

その日は十月の下旬とは思えないくらいに暑かった。羽織っていたエンジニアド・ガーメンツのベッドフォードジャケットを脱いで、半袖のヘインズ・ビーフィー一枚になった。色が褪せたアー・ペー・セーのテーパードデニムに汗が滲むのを感じ、背負った黒いブリーフィング・アタックパックで背中が蒸れた。

アンダーワールドの『ジャニータ:カイトレス:トゥ・ドリーム・オブ・ラヴ』をイヤフォンで聴きながら歩いた。無機質な動力炉のようなビートと陶酔感に身を委ね、無心で左右の足を交互に前へ前へと繰り出し続けた。

街中を通り抜け、山道に入った。宇治川沿いの登り坂を南東に向かってひたすら歩いた。歩き始めて十五分ほど経過したころ、額から汗がしたたり落ちた。

左手に見える宇治川はエメラルドグリーンに輝き、山間から差し込む強い日差しを浴びて川面が煌めいていた。右手に林立する紅葉前の樹木はいかにもぱっとしなかった。

歩道がみるみる狭くなり、その幅はわずか数センチメートルとなった。何台もの車が、迷惑そうに僕を避けて追い越していった。結局五十分近く歩き、小高い丘の上にある墓所にようやく辿り着いた。ヘインズ・ビーフィーは身体に張り付くくらい汗で湿った。

 

深い緑色の草原がどこまでも広がる、開放的で明るい霊園だった。濃い染みのように青く晴れ渡った空が突き抜けて高く感じられた。一陣の心地よい風が身体をかすかに撫でた。
管理事務所でアリマさんが眠る区画を教えてもらった。アリマさんが入っている区画は霊園の中腹にあった。芝生の上に小ぶりで平たいプレートが敷き詰められ、そのプレートが墓碑《ぼひ》となっていた。

アリマさんと、アリマさんの母親が眠る墓碑を見つけた。僕はひさまづくようにしてかがみ込んだ。墓碑にはアリマさんの名前――有馬真奈美――と、有馬さんの母親らしき名前が刻み込まれていた。管理事務所で購入した生花を供えた。

あたりには僕以外誰もいなかった。ときおり吹き抜ける柔らかな風の音以外はまったくの無音だった。静謐な空気に満ちていた。僕はゆっくりと目を閉じ、静かに手を合わせた。

 

有馬さんはその十五年の短い人生の最期になにを思ったのだろうか? 身体を売ることが良いことなのか、それとも悪いことなのか、こと切れる前にその答えは見つかったのだろうか? 最期のときに、身体を売って自分を育ててくれた母親のことを思ったのだろうか? あるいは恐怖と痛みに支配され、なにかに思いを馳せることも叶わずに果てたのだろうか?

マンションのダイニングで有馬さんと向き合い、サンドウィッチを食べたことがずいぶん前のことに思えた。サンドウィッチを食べた後に、タルトをとても美味しそうに頬張っていた有馬さんの姿がまぶたの裏に浮かび、滲んで消えた。

 

タクシーを呼んで宇治駅に引き返し、在来線で大阪市に向かった。僕の父親がひと月半ほど前に亡くなったのだ。四十九日法要が終わってから、兄から連絡があった。

父親はある日突然、なんの前触れもなく亡くなったということだった。死因は訊かなかった。実家に寄る気にはならなかったが、墓くらいならついでに寄ってもいいような気がした。

 

JR奈良線に乗り込み、四十分ほどで奈良駅に着いた。さらに二回電車を乗り換え、もう三十分ほどかけて玉造たまつくり駅に到着した。食欲がわかなかったので昼食はとらなかった。

玉造駅で降り、狭い商店街の路地を通り抜けた。雑多な人々が行き交い、平日のわりに賑わっていた。地元に帰ってきた感慨はなかったが、自分の生活圏と異なる場所で生活を営む人々の姿は、どこか安心した気持ちにしてくれた。

宰相山西さいしょうやまにし公園の北側を西に向かって進んだ。寺院が多く建ち並ぶ通りに折れて、坂道をのぼった。右手に学校が見えてきて、学生たちの楽し気な気配が漂いチャイムの音が鳴り響いた。

 

先祖代々の墓がある寺の門前に立った。幼少期に家族で来たときのことを思い出そうとしたが、どんな光景も浮かばなかった。誰の顔も浮かばなかった。
外から寺の中を眺めるように立ち尽くしたまま、父親のことを思い出そうとした。かろうじてたぐり寄せられた思い出は、愉快ではない類のものしかなかった。

結局僕は寺の中に足を踏み入れることなく、墓に手を合わせることもなく、その場を立ち去った。父親が眠る墓に手を合わせたところで、どんな言葉も浮かばないことはわかりきっていた。そもそも手を合わせるべき理由も浮かばなかった。

 

予約していた、なんばオリエンタルホテルにチェックインした。ホテルの廊下から見える中庭は南国風で、身を寄せ合うように並んだターコイズブルーのパラソルが眩しかった。噴水から飛びあがった水が、黄色がかった陽光に照らされて輝いた。チープ・カシオのデジタルウォッチに目をやると、時刻はちょうど十六時半だった。

六三七号室に入り、ハンドソープで丁寧に手を洗ってから顔を洗った。備えつけの椅子に座り、少しだけ仮眠をとった。椅子は、効率よりも大切なことがあった時代につくられたもので、その堅固さはすわりがよかった。

 

長めの午睡から覚めたとき、崖から突き落とされたような空腹を覚えた。ホテルを出て、あたりを見回した。日が暮れた難波の商店街は、玉造駅前の商店街とは比べものにならないくらいに騒々しかった。怖いものなどないという顔をした、血気盛んそうな多くの若者が行き交っていた。

ホテルと同じ建物の一階にある、鉄板焼きレストランに入った。カウンター席に腰掛け、まずはビールを流し込んで喉を潤した。一日中歩き回って、淀んだ疲労でいっぱいになった身体が透き通っていくように感じた。
「この辺の方ですか?」カウンターの向こうからシェフが言った。

僕は首を横に振り、違うと答えた。「仕事で来たんです」
「大阪にはよく来られるんですか?」
「初めて来ました」僕は手に持ったビールのグラスを置いた。「この辺の景気はどうですか?」
「ぼちぼちですね」シェフは目の前の鉄板でリズミカルな音を鳴らしながら言った。「インバウンドで儲けさせてもらってますわ」

カベルネ・ソービニヨンの赤ワインを飲みながら、時間をかけて神戸牛を中心としたコースを食べた。サーロインを頬張り、牛肉の炙り寿司を口に放り込み、ビーフシチューを飲みくだし、タンを片付け、赤身と霜降りとホルモンを平らげた。追加で海鮮焼きまで頼んだが、どれだけ食べても飢餓感が満たされることはなかった。

 

部屋に戻り、シャワーを浴びた。頭から熱い湯をかぶったそのとき、猫が吐き出した毛玉くらいの大きさの、ひとかたまりの髪の毛が右手に絡みついた。僕の髪の毛だった。

壁にかけたシャワーヘッドから出しっぱなしになっている湯を一身に浴び、抜け落ちた髪の毛を右手で握りしめて僕は静止した。身体と床を湯がうつ音が変な風に反響し、立ち昇る熱気が鬱陶しかった。歯ぎしりの音が浴室に響いた。

抜け落ちた髪の毛を握りしめた右拳を壁に叩きつけた。何度も、何度も、何度も繰り返し壁に右拳を叩きつけた。手の甲の皮が裂け、滲んだ血がしたたり落ちた。壁は拳と衝突するたびに号砲のような音をうち鳴らした。

握りこぶしをほどくと、手の甲から流れ出た血と、みじめな髪の毛が絡み合うようにして床に落ち、排水溝へと吸い込まれて消えた。

 

それから、ひどく太った女と一晩を共にした。会社を辞めてから長崎で会った太った女を思い出した。なにもかもが懐かしかった。居心地はやはり、良くも悪くもなかった。女の身体の柔らかさに反してベッドのスプリングは硬かった。

 

日々は過ぎ去っていったが、相変わらず先行きは暗礁に乗り上げたままだった。明るい兆しはなにひとつとして見当たらなかった。

ある日、ドレーとスヌープに呼び出された。
「久しぶりだな」ドレーが言った。

ドレーと会うのは、この部屋で叩きのめされたとき以来だった。ドレーは今日もジョン・スメドレーらしき黒いシーアイランドコットンのニットを着て、インコテックスと思われる黒いトラウザーズを穿いていた。左腕にはリシャール・ミルの腕時計が巻かれている。
「新規事業をやってみないか?」ドレーは穏やかに言った。「今のチームを離れ、自分で新たなチームを立ち上げてほしいんだ」

通りで車がクラクションを鳴らした音が遠く聴こえた。
「なにもお前のチームを取り上げようってわけじゃないんだ」スヌープが言った。ゴールドのネックレスが揺れて鈍く光った。
「いったん新しいチームの立ち上げに注力してほしい、というだけの話だ。一時的に」ドレーは言った。
「餞別《せんべつ》代りに、条件を良くしてやるよ。俺らに払う手数料を、売上の三割から、二割五分にさげてやる」スヌープは得意気に言った。「喜べ」

身体は動いていないが、視界だけが遠ざかっていくような感覚がやってきた。それから憤激が爆ぜ、テーブルの下で両手を握りしめて抑え込んだ。

この先もずっとこいつらに搾り取られるのだと肌身で理解した。手数料率の低減など、なんの意味もない。僕の売上はゼロになるのだ。曲がりなりにも、これまでに築いてきたすべてを奪われて。心底腹が立って仕方がなかった。

身の内が燃えた。

2023年4月16日公開

作品集『チュニジアの夜』第15話 (全21話)

© 2023 ポン_a_k_a_dm

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