「お前ら、掃除の時間だ」
立ち上がったサトウは一直線にマスダとタナカの席に向かった。「サボるなよ」
「じゃあおれはサボっちゃおっと」
「おれもおれも!」
マスダとタナカはそう宣言すると椅子から立ち上がり、床に腰を下ろした。
「まあ一人ぐらいサボってても問題ないよな!」
タナカが右腕を上げながら叫んだ。隣のマスダは二度ほど頷いてから、白衣の内ポケットに収納していた蟻の巣観察容器を取り出して中の香りを嗅いだ。「ふむ。香しいかな……」
「どう見ても二人なんだけど。二人そろってサボりキメてるんだけど」
サトウが二人の顔を指さしながら怒鳴った。そのがらがらとした声はマスダの持っている蟻の巣観察容器の中の蟻たちに騒音として入り、頭蓋の中の脳を不快に揺らした。
「いや、これは一人が二つあるだけで二人とはまた違うから……」
タナカが右手でうちわを作りながら説明した。その顔には自分のいたずらが上手く運んだいたずら小僧のような笑みがあった。
「そこんとこ、よろしく!」
「よろしくぅ!」
二人はそろって右手でサムズアップをし、サトウに突き出した。
「なんだよそれ」
再現した変異の風と空気の中の雲と列を成す店先や街道の綻び……。サトウが素手を出し、ペットボトルの中を盲目の中で当てる。「これは蛇だな……」
「正解だよ! 正解だよーんっ!」
マスダが隣のタナカを殴りつけながら喋っている。しかしサトウにはその声が理想の上司のような歪曲した優しさの中の雲の声のように聞こえる……。「どうして君が喋っているんだ?」
「それは、それこそが世界だからだよ……」
殴り倒されたタナカが、血にまみれた口を開いている。唇が大きく拡張されたような見た目は、まさに道化師のそれだった。「世界だからね……」
「そうか……。おれはおれたちのために存在しているのか……」
サトウは盲目のまま素手を進め、マスダの頭を開いた。中には赤飯が詰まっており、サトウはマスダがいつの間にか持っていたしゃもじと茶碗を取って、自分の分を取り分けた。
「ありがとう。これで救われる」
サトウは呟くとマスダの頭をパタンと閉じた。両目をぱちぱちと動かしているマスダはそのまま眉毛を高速で動かした。
「ふふふ。ペンウィー先生の真似か?」
タナカが血まみれの口を開いて笑った。
「もちろん!」
マスダは笑顔を作って肯定した。すると教室の姿が歪んで移り変わり、三人はすっかり図書室に強制的に連れられた。
「どうして図書館なの? どうして?」
マスダが立ち上がって誰に言うでもなく疑問を口にした。
タナカも立ち上がり、図書室の中を見渡した。それは正真正銘、この学校にある図書館で、無数の棚の中にはぎっしりと本が詰まっていた。受付のカウンターに向かうと、図書委員会の人間がかけてもいない架空の眼鏡をクイと上に持ち上げながら、医学書のような分厚い本を読んでいた。
「どうして図書館なの?」
マスダとタナカの後ろについてきたサトウが口走った。するとカウンターの隣の出入り口ががらがらと開き、外から図書委員会の担当教師であるテンスケが入ってきた。
「テンスケ先生! どうされたんですか?」
サトウが一歩前に出てテンスケに訊ねた。
「ああ。実はここに君たちを呼び出したのはぼくでね……」テンスケはかけてもいない架空の眼鏡をクイと上に持ち上げると、図書室の中に入って一番近くの椅子に座った。「君たちも座りたまえ」
「は、はい……」
三人はいろいろ訊ねたいことを押し殺して、ひとまずテンスケの対面の席に腰を下ろした。
「よし、着席よし……。母さん、醤油を取ってくれないか?」
「え、醤油? しょうがないなぁ……」
サトウはぐったりとした手の流れで机の上の醤油をテンスケに投げた。高速で迫る醤油を見事受け取ったテンスケは、自分の席に置かれている茶碗に醤油を数滴たらしてからサトウに瓶を投げ返した。
サトウは簡単に瓶を片手で受け止めると、そのまま自分の右にコトンと置いた。するとその音に反応した蟻の大群が図書室にあふれ出し、テンスケの醤油を全て飲んで出ていった。
「あらあら、水分不足だったのかな?」
マスダが去り行く蟻たちの尻を眺めながら、自分の素手の中の空になった蟻の巣観察容器を見つめた。
「まあいいじゃないか!」テンスケが立ち上がった。「これからまた別の蟲を捕まえれば!」
「ふざけんなよ!」
マスダも勢い良く立ち上がった。そして対面のテンスケの胸倉をつかみ、自分の方に引き寄せてその顔面に大口を開いた。
「蟻はなぁ! 唯一無二なんだよ! 蟻とは良い関係を築いていたさ! それが醤油一滴で全部なかったことになったんだ! その代償が、アンタに払えるか?」
「月給は五万だよ?」
するとマスダはテンスケを投げ飛ばした。そしてひっくり返ったテンスケのポケットから財布を取り出し、予告通り十万を引っ張り出して図書室の出入り口に向かった。
「おい、どこへ行く?」
「フィギュアを買いに……」
マスダはさっさと言い捨てると、がらがらと引き戸を開けて出ていった。
「おい……。どうするよ?」サトウがひそひそとした声でタナカに問いかけた。
「アイツ、最近付き合い悪いよな……」タナカもひそひそとした声だった。
「なあ、それより先生の茶碗の中、どうすればいい?」
テンスケが図書室には似合わない大声で問いかけた。サトウとタナカは同時にテンスケの顔を見つめた。
それから二秒歩、サトウが動いた。「しょうがねぇな……」サトウはポケットから赤飯が入った茶碗を取り出し、テンスケの空になってしまった茶碗に赤飯を流し込んだ。
「わぁ! ありがとう!」
テンスケは少年のような後光が差している顔で礼を叫ぶと、それから茶碗を顔面に押し付けて中の赤飯を食べた。
「おいおい……。アイツやべぇって」
タナカがテンスケには聞こえない声でサトウに話しかけた。しかしサトウはそんな迫り来るタナカの頬を引っ叩くと、「近づくなよ」と冷たく毒づいた。
「えぇ……」
タナカは叩かれたことで腫れている頬を撫でながら顔をサトウから離した。その目にはサトウへの明らかな嫌悪があった。
「んぐっ。ぷはぁ! 旨かった!」テンスケが茶碗から顔を離した。茶碗には赤飯が一粒も残っていなかった。「ありがとうな! サトウくん!」テンスケは右手をサトウに出した。
「おい。これ握っていいと思う?」サトウはタナカにひそひそとした声で相談した。
「知らねぇよ。おれは他人と握手なんてしない。なんでかわかるか?」タナカが眉毛を高速で動かしながら訊ね返した。
「え、なんで?」
「握手は悪手、だからだ」
「あ、そう……」
サトウは冷ややかな目を二秒だけタナカに向けてから、ぱっと顔色を明るく変更して、テンスケの出された右手を握った。「ど、どうも……」
「うんうん。やっぱり人間は助け合いだね! サトウくん、ぼくに出来ることがあったら、なんでも言ってくれよな!」
「なんだか声が高くなったな……。心なしか、背も縮んだような……」
「ああっ!」
タナカが図書室には似合わない大声を出した。瞬間、隣のサトウがビクンと身体を跳ね上がらせた。
「お前っ! 急に大声を出すなっ!」
「いやそれよりも……。先生に渡した赤飯、若返りの赤飯なんじゃないか?」
「え……」サトウは脳裡の中の記憶を巡った。脳裡の映像はテンスケに赤飯を分け与えたところから始まり、急速にスキップしてマスダの脳から赤飯を取り出すところまで戻った。そしてその中でサトウはマスダの目に注目した。その瞳の色が黄緑色であれば、その中の赤飯は紛れもなく若返りの赤飯だった。
そして、記憶の中のマスダの目の色は、黄緑色だった。
「本当に若返りの赤飯じゃねぇかっ!」
サトウは勢い良く立ち上がった。
「ところでおれはハンバーガーなんだが……」
テンスケが呟いた。サトウとタナカは一斉にテンスケの方向を視た。
するとテンスケは見事なハンバーガーになっていた。彼は明快な肉の役割を果たしており、上下に焦げ茶色のパンがあった。
「おお。旨そうじゃねぇか」
立っているサトウがテンスケに歩み寄り、その角を一口食べた。ぐしゃぐしゃと咀嚼し、少しのパンの部分とテンスケを飲み込んだ。
「味は?」
「塩」
"歪曲する教室や唐突にやってくる図書室と、揺るぎない若返りの赤飯。"へのコメント 0件